本国からの命令で、異世界諜報してきます。
「異世界に行き、諜報活動に従事しろ」
日本政府から言い渡されたのは、まさかのそんな命令だった。
2122年。
映像を網膜内に直接投射する事で、ディスプレイ無しでインターネットを閲覧できる時代に、日本政府は秘密裏に『転移魔術』なるものの研究開発を行なっていた。
その人体実験第一号になった俺は、持ち前の「いつでもどこでも呑気&プラス思考」を武器にして、初めての異世界へと歩き出す。
任務に基づき、現地での情報収集や人脈形成、果てには交渉事までも。
最悪、異世界支配いたします……?
これは公務員で諜報員な俺が異世界戦争の鍵を握る、無双系異世界縦断暗躍記。
ゆっくり目を開けた。すると、そこにあったのは瑞々しい緑達。先ほどまで居た現代的な庁舎の一室とはまるで似ても似つかぬ場所である。しかし俺はそんな事態に、全く驚きはしなかった。むしろ安堵に息を吐く。
「転移については、『動物実験までは綿密に行ったが、人体実験は今回は初である。渡れない可能性だってあるし、渡った先で五体満足で居られるかだって保証できない』なんて言ってたからな」
そう告げたのがもし室長ではなかったのなら、俺はすぐさま任務を投げてトンズラしていた事だろう。だって安全確保が為されていない異世界転移だなんて、異世界に憧れが微塵も無い俺からすれば、別にお呼びでも何でもなかったのだから。
「マジで上層部の連中は、心の底から室長に感謝して欲しいわ」
俺がこんな仕事を受けたのは、一重に室長に恩と信頼を感じてるからだ。
その室長がおそらく今頃、俺の所在に気を揉んでいる。そう分かってるから、俺はうーんと伸びをすると「じゃ、早速行きますか」という声と共に歩き出した。すぐさま行動開始である。
初めての場所、しかも森の中であるにも関わらず、そんな事をまるで感じさせない程に軽快に、俺は先を進んでいく。
自分で言うのも何だが、俺は結構マイペースな人間だ。だからリュックが一つに武器は太ももに仕込んだナイフと拳銃だけという軽装であっても、この状況を全く悲観していない。むしろこれだけの物を無事に転送できた事を幸運にさえ感じている。
と、ここでふと思い出した。室長が確か『もしかすると、記憶に不具合が生じる可能性もある』と言っていたな、と。
「じゃぁ一応テストだな。えーっと……俺の名は、菅野 慎二。職業は、現在進行形で公務員。ここは所謂『異世界』で、俺は政府が秘密裏に研究開発した魔法陣で飛んできた。んで、こんな所に来る羽目になったのは、日本政府から俺に諜報命令があったから……っと。うん、多分大丈夫」
そう言って、俺はうんうんと頷いた。
◇
遡ること、ほんの数分前。俺は国が運営する庁舎の内の一室でその時を待っていた。勿論、マイペースに窓の外をぼーっと眺めてだ。すると部屋の扉がガチャリと開く。
「準備は良いか? 菅野」
入ってきて早々にそう告げたのは、綺麗な女の人だった。髪をポニーテールに括った、パンツスーツがよく似合う感じの美人。彼女が俺の上司である。
「まぁ、今日の為に色々準備しましたからね」
そう答えながら肯首すると、何故か途端に彼女が嫌そうな顔になる。
「貴様、相変わらず胡散臭い笑顔だな」
「そんな事言うのは室長くらいなものですよ」
なるほど、顔がお気に召さなかったのか。しかし今言った通り、この顔は大抵の場合好評で作り物だとバレたりそれで嫌な顔をしたりするのは彼女くらいなものである。しかし要望とあらば仕方がない。そう思って普通の顔で軽口を叩いたのだが、まだ彼女の顔は晴れない。どうやらまだ別の要因があるらしい。
と、ここまで考えればすぐにその理由は察っせた。それが出来るくらいには、彼女とも付き合いが長い。
「……ま、定期報告はするんですし、お菓子やジュースや『人をダメにするソファー』なんかの必要物資も遠慮なく申請するつもりでいますから」
心配している様子の彼女にニヤリと笑って「頼る気満々だ」と告げてみれば、彼女はすぐに「なら良い」と言って頷いた。……ん?いや、ちょっと待て。必要物資の内容とかは全て冗談だったんだけど、もしかしてこれは「全部経費で落としていいよ」という事だろうか。
「まぁそれだけ、このプロジェクトに力を入れているという事だ」
「多少の『我儘』が許されるくらいに?」
「その分成果が必要だがな」
「それは重々承知してます」
そんな風に答えると、彼女はすぐさま「なら良い次だ」と口にする。
「装備の点検は済ませたか?」
「既に」
「心の準備は?」
「万端です」
「数日分の準備は?」
「出来ています」
淡々となされるその問いに、俺も端的に答えていく。実際、もう既に全ての準備は出来ていた。服だってどこの所属とも知れぬ目立ち難くて身軽でサバイバル的で、こんな庁舎内には似つかわしくない感じの物を着ているし、必要物資も詰めている。
リュックを掲げてそれを示せば、彼女は「そうか」と頷いた。
「じゃぁ始めよう」
その声に俺も頷き、部屋の中央――床に大きく描かれた魔法陣の中心へと移動する。
一応先に言っておこう。俺も彼女も、決して厨ニ的な病は持っていない。
「では、次の定期連絡でまた」
その声はひどく短くてぶっきらぼう、しかし紛れもない次の為の約束だった。
それまでは無事でいろ。そんな声が聞こた気がした。
「行ってこい」
「はい室長」
視界がパァーッと明るくなって、光が目を刺す。ひどく痛んで慌てて目を瞑ったが、それでも瞼から浸潤してくる光には敵わない。
思わず顔を顰めれば、今度は妙な浮遊感に襲われた。三半規管はそれほど弱くはない筈だったが、まるで船上に居るかのような不安定な揺らぎに晒されて、少し酔った気配がした。
◇
という経緯で俺はここに到着し、今は人っ子一人居ないこの森を進行中という訳だ。目的地は、とりあえず最寄りの町。が、ここで問題点が一つだけ。
「……テンプレ踏んだりしなけりゃ良いなぁ」
少し遠い目をしながらそう言ったのは、異世界転移で最初に森に飛ばされた場合大抵何かに襲われる、そんなテンプレがあるからだ。そんなモノとの遭遇は出来れば避けたい所だが、今の俺が出来るのは精々先を急ぐ事と天に祈る事くらいなものである。
既に先は急いでいるので、一応天に祈っておこう。
「ホント、幸運でありますように」
そう呟いた3秒後でだった、後ろでガサリと音がしたのは。
風が草を揺らしたという感じの音ではなかった。そう分かったのも、瞬時に体が動いたのも、きっと日々の訓練のお陰だろう。
伸ばした右手を腰元に。下げたホルスターから銃を抜き、流れる様な動作で安全装置を外して構える。
ターゲットは熊の形をしたモノだった。ただし図体がめちゃくちゃデカい。日本でも山に入れば熊には会えるから、ここで熊とエンカウントした事自体には別に驚きもしない。が、断言しよう。彼ほど獰猛な熊には、多分日本では出会えない。
その熊は、時空の亀裂のような場所から、丁度今し方片足をこちらに踏み出したところの様だった。目算で、立てばおそらく10メートル級。相当な巨体だが、彼に脅威を感じた理由はまさかそんな事じゃない。
ギョロリとした、赤い瞳。血走るその目は、野生にも必要な理性や恐怖心などを全てかなぐり捨てていた。その目に俺は、何やら既視感を感じた気がした。が、今は敵の排除が先決だ。
すぐさま思考を放棄して集中しつつ狙いを定め、引き金を絞り込む。
パンッという乾いた音が、俺の鼓膜を震わせた。目の前の熊が音から数秒遅れでグラリと傾き、地響きと共に横たわる。飛んでいく鳥の羽音が聞こえた後には辺りはしんと静まり返り、目の前には額に小さな穴を開けた熊が一匹、残されているだけだ。
そんな様を眺めながら、俺は不意に思い出す。
「――あっそうか、薬物依存の」
以前ソレ系の場所に内偵をした時、禁断症状に苦しむ人間に襲われかけた事がある。その時に確か、あんな目を見たのだった。
そんな事を思い出しながら、俺は「そうだそうだ」と頷いた。思い出せて、スッキリだ。
そう思っていると、ここでもう一つ思い出した。
「あれ? そういえば、さっきの亀裂もう無いな」
熊が通ってきたあの亀裂が、跡形もなく消えている。それを不思議に思って首を傾げたが、しかしすぐさま「まぁ良いや」とその思考を切り捨てる。おそらくそれが、この世界の仕組みとかなんだろう。だとしたら、今の俺に答えが分かる訳がない。考えるだけ無駄である。
ふぅと息を吐きながら、俺は銃をホルスターへと仕舞い直す。そして再び、足取り軽く『旅』をする事にした。
「しかしホント良かったよ、出てきたのがトロくて柔らかいヤツで。やっぱり俺は運が良い」
歩きながらごきげんに鼻歌まで歌う俺は、熊と出会ったこと自体には全く不運を感じない。
そして「そうだ」と声を上げる。
「移動の片手間にでも、もう一度命令を復唱でもしておくか」
命令は全て頭に入っているが、それだけじゃぁ意味がない。好機が巡ってきた時に、パッと思い至って行動出来なくてはならないのだ。これはその為に必要な作業である。
「えーっと、まずは最寄りの街に潜入して、安全地帯を確保すること」
これには安全地帯に持ってきた魔法陣を設置して、異世界と本国とのルート確保の目的がある。
「次に、異世界内で諜報活動をし報告する事」
これが目下の課題になるだろう。その為には違和感なく周りに溶け込み、周りとそれなりの交友関係を築かねばならない。
「で、異世界の権力者との接触を図る。その結果、不可侵条約の締結と物流や人事交流が出来れば良し」
しかし、何事もうまく行くことの方が少ない世の中だ。
もし出来なかったら、その時は。
「この国を――乗っ取る」
否、実際に『乗っ取れ』とは言われてない。が、どれだけ言葉を飾っても結局はそういう事だ。
そういうブラックな所まで、マルっともれなく俺の仕事。
「はー、これだから公務員は忙しくて敵わない」
そんな俺の小さなボヤきは、誰も居ない森の中に軽い音で生まれて消えた。