⑥懇願《too late》
「……お願いでず……」
この部屋の支配者であったはずの殺人鬼クルセイダーは、今や少女の足元に這いつくばり、傷の痛みをものともせずブルーシートに額をこすりつけている。
「何でもじます、金ならいくらでも出すし、警察にも絶対言いまぜん!」
頬と鼻を裂かれたせいで、言葉も思ったように出せない。
頼みの大型ナイフはとっくに手の届かない位置へと放り出され、土下座する向きも明後日の方角。目が見えないのだから、もうどうしようもない。
「だがら助げでぐらざい、お願いだがら……」
そもそも彼が顔に受けた二度の傷は、少し位置をずらせばいくらでも喉元、そこに脈打つ頸動脈を断ち切れるものだったはず。
それをあえてせず、狙って顔にバツを刻みつけた彼女は、きっと本人の言葉通りに人殺し──人間の体を害することの天才なのだろう。そんな彼女の前で、平凡な人殺しに過ぎない彼は子供のようにもて遊ばれたのだ。
「クルセイダーくんさあ、ほんとに二人殺したの?」
「あえ?」
血にまみれた顔を上げた彼の口から、間の抜けた疑問符がこぼれる。
「わかんないの? 助けてって言われて、ほんとに助ける殺人鬼がいるかどうか」
「……あ……」
彼は呆然とする。自分が二人の女性を手にかけたときも、その命乞いがただ嗜虐心を掻き立てるだけだったことを、いまさら思い出したのだろう。
被害者たちの絶望に共感できた彼は、もしかしたらこの時はじめて、彼女たちへの罪悪感を抱けたかも知れない。
「──もう遅い、ってことだよ」
最期通告。
泣き叫んで助けを求めたところで、絶対に誰にも届きはしない。彼自身がそういう場を選びしつらえたのだから当然のことだ。あとは、もう。
「……してくれ……」
上体を起こし、天を仰ぐような体勢で彼は言った。
「殺して、くれ」
それを聞いた少女は、きち、きち、きち、とカッターナイフの刃を最大限まで押し出しながら、彼の正面に立つ。
「もちろん、最初っからそのつもり」
そして少しだけ前に屈み、無造作に彼の左胸にそれを突き刺した。肋骨で守られているはずのそこに、刃は魔法のようにスムーズに吸い込まれていく。──深く、深く。
パキン。
小気味良い音を響かせて、体内に埋もれた刃をへし折った彼女は、足元でのたうち回る男をもう気にも留めず、両腕をいっぱいに広げて伸びをした。
そこでふと何かに気付いたように、ゆっくりと部屋の奥の天井の角──こちらのほうに顔を向ける。
ようやく正面から見ることができた彼女の顔の前には、漫画じみた赤く大きなバツ印がひとつふわふわ浮かんで、その目鼻を隠している。
「見たなあ」
悪戯っぽくそう言うと、バツの下から覗いた唇が、桜の花弁みたいに可憐に微笑んだ。
──映像は、ぶつんとそこで途切れた。