②怪物《she》
「──お嬢様のこと、今後ともよろしくお願いいたします」
握手を求めるように無造作に差し出した右手には、ごく当前に黒い拳銃が握られている。その銃口を羽摘の眉間にぴったり合わせ、伊藤は一寸の躊躇もなく引き金を引いていた。
──響く銃声は消音器によりくぐもって、弾丸は後方の雑木林に吸い込まれ消えた。
羽摘もまた、目の前の羽虫を追い払うような無造作の右手で、発砲の瞬間に男の手を横へずらしつつ、逆方向に愛らしく小首を傾げる。そうして彼女は、確殺の意志のもと放たれた至近距離の銃撃をあっさりと躱していた。
「──ッ」
ありえない事態ではあったが、それでも伊藤は凡百の殺人鬼と一線を画す熟練の職業:殺し屋。顔には未だ笑みを貼り付けたまま、添えられた少女の繊手を押し返し、再び狙いをその眉間に合わせ発砲しようと試みる。
「ぐッ!?」
瞬間、少女の手が触れている手首の辺りに異様な激痛が走る。爪でも立てられたのか、それとも用意周到に安全ピンでも握り込んでいたか。
しかし痛みなどいくらでも耐えることができる。このまま引き金を引けば、想定外の邪魔者による抵抗もそこで終わりだ。
「え」
指に、うまく力が入らなかった。見れば手首にくっきりと赤い線が縦断していて、そこから溢れた鮮血が腕を伝ってシャツの袖口を赤く染めている。そこでようやく、彼の顔に貼り付いていた笑みが剥げ落ちた。
「何を──した?」
少女の手にあったのは、パステルピンクの卵型キーホルダー。その側面から生えた小さな銀の刃は、彼女の指がスライドさせたスイッチに従って卵の中に消える。
──文房具屋さんでも売っている、携帯用の多目的ナイフ。しかしその「多目的」の中に、手首の腱の切断などという項目は本来ふくまれていないだろう。
状況を伊藤が咀嚼するまで待つこともなく、羽摘の左手は白いレースのハンカチごしに拳銃を包み込んで、力の入らない指からするりとそれを奪い取っていた。
その左手親指を覆っていた包帯はすでになくて、白くきれいに拳銃を握りしめている。
日本の裏社会で知らぬものなき熟練の殺し屋であった『伊藤』は、ベンチに腰かけたままの愛らしい女子高生たった一人によって、ものの数秒で無力化されていた。
「……お前、いったい何者だ」
「知らないんですか? あなただって、見たことあるでしょ」
答えたのは羽摘ではなく、傍らの揺音であった。その瞳は、使用人として接した数か月の間に一度も見たことがないきらきらとした輝きを放っている。
この娘にもこんな表情ができたのかと、伊藤は軽い驚きを覚えた。
いや、そもそも今思えば、とうに生への執着を捨てているように見えた彼女が、一代で莫大な財を成した祖父の霊魂でも乗り移ったかのような権謀術策で彼を出し抜き、今日この場所で殺すしかない状況を作り出した──それを異常事態と思うべきだったのだろう。
「ああ────そうかお前、動画のバケモノか」
羽摘に促されてベンチの真ん中に腰かけながら、伊藤はなにもかも腑に落ちたというように、言葉を吐き出していた。揺音の変貌も、おそらくは彼女が原因なのだろう。
銃口はぴったりとこめかみを狙っている。少しでも「何か」しようとすれば、彼女は躊躇なく引き金を引いて彼の脳を撃ち抜くだろう。その事後処理まで見越してこいつはハンカチ越しに銃を構えているのだ。
そんな状況でも彼女を「バケモノ」呼ばわりしたのは、心を乱すことができれば糸口が見いだせるかもしれないという目算と、プロとしてのプライドから出たせめてもの反骨と、そして純粋な感想である。
「そう。バケモノに会えてうれしい?」
「私はとってもうれしいよ、来てくれて」
しかしそんな程度では僅かも少女の声から愛らしさが薄れることなく、そして反対側の耳には揺音の夢見るような声が響く。頭がおかしくなりそうだった。
「……待て、交渉しようじゃないか。俺は金で雇われただけで、あの女にはなんの義理もない。もし見逃してくれるのなら、俺があの女を始末しよう」
ならばもう、切り替えるしかない。役に立たないプライドも反骨もどぶに捨て、伊藤は冷静に自分が生き残る方法を模索する。それができるからこそ彼は熟練の殺し屋たりえて来たのだ。
「あの女って、莉々子さんのことですね。おじいちゃんが亡くなったのも……」
揺音が反応する。この糸口を離してはならない。
「ああ。だがそっちは俺がやったわけじゃない。ただそのための薬を調達しただけだ」
「ね──いま『そっち』って言ったよね。あとは?」
そこでトーンを落とした羽摘の声が冷たくするりと懐に入り込んできて、暑さのせいでない汗が背筋を落ちた。
「……今日が『こっち』って意味だ」
「私ね、バケモノだから人間の嘘が分かるの。いまあなたの口に、赤いバッテンが浮かんで見えてるよ」
ちらと横目で見た羽摘の完璧に愛らしい顔の中で、切れ長の目だけがぎらりと凶器の光を帯びている。ブラフだと思いたかったが、その光を見てしまってはもう無理だった。
「……わかった、そうだ、そいつの両親を事故に見せかけて殺したのも、俺だ。本来は三人まとめて始末するつもりだったが」
「あの日は、私が体調崩したから……」
揺音が静かに補足する。
「よしよし、正直に話せてえらいね。じゃあ私も白状すると、嘘がわかるなんて嘘、バッテンなんか見えません。だって私、ちょっと人殺しが得意なだけの普通の女の子だから」
なにが普通なものか、お前は誰がなんと言おうとバケモノだ。伊藤は、漏れそうになるその言葉を必死に飲み込む。
「さてと。それで揺音ちゃんは、どうしたい?」
羽摘は、結論を揺音に託すようにそう言った。
「…………あのひとを、殺してくれるなら」
「ああ、任せてくれ。事故でも自殺でも、完璧に偽装しよう。遺産はすべてきみたちのものだ」
揺音の言葉に、食い気味にまくしたてる伊藤。それを聞いて、羽摘は「そうかそうか」と首を縦に振る。
「じゃあ、そういうことで」
そして銃口を伊藤の顎の下に、確実に脳幹を撃ち抜く角度で押し当ててきた。この少女はなぜそんな角度を熟知しているのか、などという疑問はもう浮かばなくなっていた。
「まってくれ、話がちが……」
「だって、お金で人を殺すなんてほんと最低だから。そういうことしてきたひとには、ちゃんとバツをあげなきゃでしょ?」
ああそうだ、やはりこいつは道理の通用しないバケモノだ。伊藤は最後の足掻きとして、真横に座る揺音の首元に腕を伸ばす。
そっち側なら、その気になれば片手で頸を折ることも出来る。うまく立ち回れば人質にして発砲を停めることも、できるかも知れない。
「うん、そうだね」
しかし伊藤の腕は宙を掴む。すでにベンチから立ち上がっていた揺音の同意の言葉を最後に、殺し屋として裏社会を生きた彼の半世紀に渡る人生は──ぶつんとそこで途切れた。
「……さて、おわりおわり。おなか空いちゃったね」
ベンチでこときれた伊藤の左手に銃を握らせ、自殺に偽装し終えた羽摘は、一緒に宿題をし終えたぐらいのテンションで話しかけてくる。
その屈託ない笑顔と、微笑んだ可憐な唇──ああ、これがあの何百回見たかわからないバツ印の下に在ったものかと、揺音はただただ見惚れるのだった。
「──ちゃん! 揺音ちゃん! ちょっと、聞いてる?」
「あっ、ごめんなさい!」
「私、学校サボって会いに来たんだよ。だから、サイゼでお昼くらいおごってくれるでしょ?」
「えっと……うん、いったことないけど大丈夫だと思う」
「やった!」
羽摘は揺音の手をとって、公園の外へと歩き出した。そこから連れ出してくれる柔らかくて温かな手を、彼女はしっかりと握り返す。
「あ、食後に『おじいちゃんの奥さん』のことも、相談しようね」
「うん、楽しみ」
──デザートのことみたいに言って、二人は微笑み合った。
【つづく】……?
揺音が祖父から譲り受けた莫大な資産と権謀術策は今後、羽摘の強い味方になるかも知れませんが、そのへんはまたいつかどこかで……。
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