その少女、黒歴史製造中につき取扱注意!1@プロローグ
浮雲双葉という少女が友達と話をしているのを日ノ下禊は見たことがなかった。
みんながわいわい騒いでいる教室でぽつんと一人で本を読んでいるようなその彼女が、日ノ下の目の前にいる。お互いを完全に認識し合い、視線をぶつけ合っていた。
図書室で探している本とそれを見つけた時刻が寸分たがわず一致してしまったのだ。
「ええと……お先にどうぞ。スマン」
男として情けないが、日ノ下の口からは謝罪が出ていた。
黒く綺麗な瞳がただまっすぐに日ノ下を射抜く。表情がなく、不機嫌、戸惑い、怒りもなにも読み取れない。彼女の端正な顔立ちは生活するうえで有利に働くだろうが、今は感情のない人形を相手にしている気分にさせてくる。日ノ下は目を反らし、彼女の右肩にさきっぽだけかかるポニーテールへと視線を移す。よく手入れが行き届いており、指を通せばすっと通るだろう。そこからさらに視線を落としていくと、華奢な肩に行きつく。もし雨の滴が彼女の肩から滑り落ちたらすっと足元まで到達してしまいそうなスレンダーな体つきだ。制服の上からでもそれがわかる。体を観察し続けるのは変質者と勘違いされかねない。結局、視線を顔の、正確には浮雲の口元に戻した。
「同じ本を取ろうとするなんて運命的ね。日ノ下は運命の人かしら――いや、それはないわね。取ろうとした本がミステリーってのがロマンスに欠けるわ。それに、川でおぼれているが人がいても音楽聞きながら寝ていそうな面をしてるわ。没になるべき物語かしら」
「確かにいつも眠そうとは言われるが酷いな!」
日ノ下の言葉に無表情だった浮雲がハッと驚いた。遅まきながら日ノ下はその意味に気づく。
浮雲はしゃべってない。
この静まり返った図書館では声を聞き逃すはずがない。彼女の唇は確かに動いて、日ノ下を侮辱するような言葉を吐いたが確実に声は出していない。寡黙さに関しては凱旋門賞の名馬級の評判がある浮雲だ。あんなに長く話すなんてありえない。
日ノ下のうなじの辺りにズーンと後悔の念がのしかかる。
声なき言葉に反応できたのは、日ノ下がさとり妖怪だから――では当然なくて、単に読唇術を使ったからだ。
日ノ下は人の唇の動きでその人がなにを話しているのか読み取れる。
小さい頃から右耳には中耳炎、外耳炎から事故による外傷と災難が多かった。そのせいで右の耳は聴力を失っている。それを補うようにして、身に付いたのが読唇術だ。今では生活するうえでかかせない特技になっている。
『日ノ下は心が読めるのかしら?』
今度も声を発さずに浮雲の声が動いた。どうやら彼女の唇は、無意識のうちに内心を吐露しているらしい。
読唇術を使ったのがばれたか?
<なぜ読唇術なんて身に付いたのか?>
この疑問から日ノ下は耳が悪いという事実に辿りつかれるのが怖かった。
日ノ下は耳が悪いことを隠している。
親にすら口止めをする徹底ぶりで、小学生の頃の同級生以外は、日ノ下の右耳のことなんて誰も知らない。その小学生の同級生はみんな遥か彼方の学校にいるので、中高の人間が知るはずがなかった。
<耳が悪い>のが知られるくらいなら<心が読める人>のレッテルを張られる方がマシだ。
浮雲との関わりは、バツの交点のように一瞬でこれから交わることはないだろう。
わずかな時間だけさとり妖怪になるのを決意した。
「ついにバレたか。僕は心が読めるんだ」
磨かれたオニキスのように綺麗な瞳が、小学生のように無垢な色を宿した。次いで現れたのは警戒心で、浮雲は日ノ下から一歩離れた。
『だとすれば、やっぱり私が考えた通り、<観察者>は居るわね。ついに証明できたわ』
観察者……?
名前から推測するに、浮雲か、もしくは人間を観察する者だろうか。
『しかしまさか日ノ下が観察者だったなんて――うかつだわ。けどこれで筋道が通るわね』
声も出さずに浮雲は思考を垂れ流し続ける。
彼女がいつも一人でいる理由を垣間見た気がした。
なるほど、浮雲は少しアブナイ人なのだろう。表情に乏しいがかわいいので、ねらい目ではなかろうか――なんて男子の性で思った日もあったが、日ノ下はこれ以降関わらないと心に決めた。
追い払うために、その観察者とやらを装いつつ威嚇してみる。
「ほら、その本は譲るからどっか行ってくれ。もちろんこのことは他言無用で頼むぞ」
「聞きたいことがある」
「だめだ。これ以上踏み込んだら僕は対処せざるを得なくなる」
「……」
含みのある言い方で恐れてくれればいい。案の定、浮雲の肩がぶるりと震えた。
とんだ茶番だ。
一瞬迷った様子を見せた浮雲だったけれど、日ノ下の言葉は効果てきめんだったようで、本を取ってくるりと踵を返すと日ノ下の元を離れた。