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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

箱庭

海底庭園

作者: StellA

修正後連載形式に編集しました。今後はこちらで更新する予定です。


そして、君たちは世界の片隅で引きこもることを選んだ。

https://ncode.syosetu.com/n4285he/


 私は目の前に現れた巨大な要塞を見て、そのあまりの美しさに息を呑んだ。

 闇夜の海の上、まるで深海を漂うクラゲのように発光しているメガフロート群は、海底火山から地熱を取り出すエネルギー供給施設だ。24時間稼動し続けるそれは、夜の海の真ん中でまばゆいほどに発光している。

 しかし、随分と大きな施設のためか、これほどはっきりと姿が見えていても、私の乗るこの高速船があのクラゲに到着するのは明日の朝だ。


「間近で見るのは初めてだな」

「…… 亀田君?」


 不意に潮騒に紛れて聞こえてきた声に私が振り返ると、予想通りの青年が佇んでいる。


「眠れないのか?」

「まぁね、もうすぐ到着かと思うと落ち着かなくて」


 ふっと照れ笑いのように頬を掻けば、亀田君は私と同じように手すりに身を預けた。


「君も?」

「まぁ、ね」


 元来、そうおしゃべりな印象のない彼はそう呟いたっきり、黙り込んだ。モーターと水素燃料で走る高速船は酷く静かで、人々が眠りについている今、波の音だけしか聞こえない。


 亀田君と私は高校時代の同級生だ。大学では別々になったけれど、徴労の義務を果たすために、国営の海底地熱発電所システム『リュウグウ』を中心としたメガフロート施設『トコヨ』に向かうこの船で偶然再会したのだ。


 正直に言えば、彼と私は高校時代に同じクラスになったことがある程度で、そう仲が良かったわけではない。だから、今日の朝、船に乗船する時、彼が私に気が付いて声をかけてきた時、たった二年の歳月しか経っていないのにも関わらず、私は彼が誰だか解らなかった。


 勿論、そんな運命の再会とは思えない微妙な距離感を引きずり、お互い話す時間もないまま、今日の昼間を過ごしたあとだからか、微妙どころか、全く会話が弾まない。かといって、居心地の悪い沈黙に耐えきれず、私は口を開いた。


「亀田君はリュウグウでは何の仕事する予定なんだっけ?」

「燃料電池工場に勤務だよ。希望は研究助手」


 尋ねてみれば、亀田君は自分が所属されるであろう職務を教えてくれた。


「ぉぉ!花形じゃん!」


 私は目を見開く。

 というのも、メガフロートはもともと地熱発電を行い、本土にケーブルを通し、電力の供給を行うことを目的として計画されていた。しかし、当時の技術では、東海沖のこの海上から本土まで送電するには、途中の電力消費が大きく効率が悪いことが判明したため、地熱を電力に変換し、燃料電池の生産を行うよう建設された経緯がある。


 つまり、燃料電池工場は、あのクラゲの中心部にある最重要施設なのだ。

 新しい導電材料が開発され、送電ロスが随分少なくなったため、現在は本土に直接送電も行うようになったものの、今でも電力を多く消費する工場は海上メガフロート群に生産することが推奨されており、それに伴いトコヨは巨大化を続けている。


 現在、トコヨにおいて、最も重要な施設として、生産全体の七割をしめる燃料電池工場、合成樹脂のペットボトルから家電といった家庭廃棄物だけでなく、廃工場機器等も取り扱う一大リサイクル工場(中でも電気自動車のリサイクルはほぼトコヨで行われているほどだ)がある。

 しかし、亀田君は特に感慨もないのか、私の感嘆を苦笑いではぐらかし、「竹下は?」と尋ね返してきた。


「私は環境管理センターの事務に所属することになるかなぁ」


 ちなみに私が勤めることになるであろう環境管理センターは、それらの工場が海洋汚染を行っていないかを逐次調査する国家機関になる。

 また、トコヨの環境データだけでなく、移動型巡行島(船みたいに移動できる巨大なメガフロートだ)の『ウラシマ』と『オトヒメ』が逐次送信してくる列島周辺の海洋データをとりまとめている。


「へぇー、どんなことやるんだ?」

「ん~私の仕事はデータ管理になるかな~? 一応短大でその辺の資格取ったから」


 短大時代に取得したデータ管理資格は、簡単にとれるため就職には無いよりましといった程度のものだが、現場ではそれなりに重宝されるらしい。おかげで、徴労の義務、とは言っても、国の補助金が出ているだけの民間施設に派遣される場合が多い中、国家直属の機関に配置されることになったのだと思っている。


「あれ? 竹下は短大だったんだっけ?」

「そだよ。今年卒業したんだ」


 意外そうに顔をのぞき込んできた亀田君に、私は苦笑した。常に成績の上位に名前を並べていた彼と違い、私は中の中、調子が良い時は中の上、悪い時は中の下というごく普通の女子高生だったのだ。勿論、選ばなければ行ける大学もあったけれども、正直、そこまでして何かを学ぶ必要性を見いだすことはできなかった。


「亀田君は在学中なんだっけ?」


 私の記憶が正しければ、亀田君は結構難易度の高い国立大に入学していたはずだ。未だ飛び級があまり認められることのないこの国では、順調に進学していたとしても卒業までは後二年ある。とは言っても、大学に進学する者の約半数が在学中に休学し、バイト感覚でさっさと三年間の徴労の義務を果たしてしまう場合が多い。

 更に言えば、亀田君が進学したようなある程度以上の大学の生徒は、専門の研究機関の雑用や助手として雇ってもらえることになるため、現場を知るには良い機会なのだろう。


「うん、専門が燃料電池の光触媒やってるから、現場を知るのが勉強になるし、本格的に研究室に配属される前に、徴労の義務を早めに終わらせた方が良いって教授の薦めで」

「そうなんだ。まぁ、義務は早めに終わらせたほうがいいよ」


 私が同意すれば、亀田君は皮肉るよう小さく肩をすくめて見せた。


「それから教授がトコヨは男女とも若い人が集まるから、嫁を探してこいってさ。このまま俺が卒業して就職したとしても女っ気がない研究施設になるだろうからね」


 はは、と砕けたように笑う亀田君に私も苦笑した。その言葉は私が母に送り出される時に言われたこととほぼ一緒だったためだ。


 リュウグウという施設は本土から切り離された施設のためか、圧倒的に若い独身者たちが多い。そもそも国の方針として、基本的に子供が居る場合の徴労は夫婦のどちらかは免役となり、配偶者が居る者は配属先が優先的決まるからだ。そして本人に家族がいる者達の殆どは本土にある受電基地に配属されることを望む。


 ちなみに男女ともに一定以上の税金を納めさえすれば、徴労は免役できることになっているのだが、その金額が一般人にとっては膨大であり、また徴労の義務による仕事は基本的に、例え民間だったとしても直接就労するよりも待遇が良く、職歴としても残せるため従事する者は多い。


 話がそれてしまったが、まぁ、そういう事情もあり、結果的にトコヨやタカマガハラには若い独り者が集まり、徴労の義務を果たす場所であると共に、男女の出会いの場になっているのも事実だったりする。


「竹下はリュウグウを希望したのか?」


 ふっと亀田君がトコヨに視線を向けて、尋ねてきた。私は何も考えずに頷く。


「うん? そうだよ。宇宙にはあんまり興味ないからねー……正直なんか怖いし」


 どうして飛行機みたいな鉄のかたまりが飛ぶのかさえ、理解したくもない私には、正直大気圏の外の世界は神話よりも現実味がない。例え、空で造られたエネルギーを供給して生きているのだと言われようとも。


 しかし、私の答えは亀田君にとって不服だったらしい。なんだか、彼は言い辛そうに表情を歪めながらも、タカマガハラっつうか、となにやらぶつぶつ呟いたあと、やはり私と目を合わせないまま。


「…… 本土に残る手もあったんだろ?」

「それはまぁ ……」


 私は言葉を濁す。

 私の父はもう亡く、兄弟も居ない。家族と呼べるのは母親だけだ。

 この場合でも、配属先の希望は酌んでもらいやすい。もし、私が実家に最寄りの受電基地を希望していたならば、受け入れられていただろう。しかし、本土に母を一人残すのは忍びないと思ったものの、それでも私は、彼女との約束を果たしたいと思ったのだ。


 亀田君は黙り込んだ私に、確認するように、静かに尋ねる。


「…… ここに来たの古田と関係ある?」


 しかし、私ははぐらかすように笑みを浮かべただけで答えなかった。亀田君もそれ以上、追求することはなかった。ただ、二人ぼんやりと海の上を漂う光を眺める。


 淡く燐光する巨大なクラゲ。


 私はちらり、と亀田君の横顔を盗み見た。特にかっこよくも不細工でもない、ごく普通の青年だ。

 ふと、彼に悪気もなく純粋に、どうして彼がここにいるのだろう、と私は不思議になる。もし、約束が果たされていたならば、ここにいると約束したのは千代子だったはずなのに。


 古田千代子、私の幼なじみの名前だ。


 もう、この世には居ない、私の最愛の幼なじみ。 



 ☆★☆



 てかてかと滑る白いリノリウムの床は清潔さだけが取り柄で、何の暖かみもない。壁も天井も真っ白な長い廊下と、消毒薬の匂い。


 院内の雰囲気を明るく良くしようと、床に暖かな色の絨毯を敷き詰めたり、壁紙をクリーム色にすることが流行った時代もあったらしいけれど、今時そんなことをしているのは外来受付と小児科ぐらいで、大体の入院病棟はこんなものだ。


 夏だというのに、空調のせいだけでなく、ひやりとした空気が頬を掠める。個室が並ぶこの階が、酷く静かなせいかもしれない。


 私は『古田千代子』とネームプレートが出された角部屋の前に立つと、手にした小さな向日葵の花束とチョコレートの箱を持ち直した。


 この部屋に入院している古田千代子は私の幼なじみだ。

 小学校に入る前の地域会からずっと一緒だった。一ヶ月前に、彼女が入院するまでは。


 煙るような霧雨が降ってる日の朝、私はいつもの通り、家から50メートルも離れていない彼女の家へと迎えに行った。私たちは同じ高校に通っており、それは毎朝の儀式のように小中高と合わせて10年間続けられてきた日常だ。しかし、その日常は、彼女が入院したことであっさりと崩壊した。


 彼女が入院した経緯を、私はよく知らない。

 前日の夜に倒れ、そのまま入院したと聞いたのだが、その前日はやはり彼女は快活に過ごしており、少しも具合が悪いそぶりはなかった。


 その日は取りあえず一人で登校したものの、その日一日は落ち着くことがなかった。昼休みに、携帯を持って行っていないかもしれない、気が付いたとしても、返信する余裕がないかもしれないと思いながらも、彼女の携帯にメールをしてみたが、やはり返信はなかった。


 その日の夜、私は意を決して彼女の実家に電話した。

 電話にでたのは彼女の二歳年上の姉で、彼女は病院に通信機器(ケータイ)を持って行っていないこと、そして週末にお見舞いに行きたいと言えば「そんな大事じゃないから」とやんわりと断られた。

 私はそれを聞いて、彼女はすぐに戻ってくるものだと思っていたのに、それから一月後の昨日、千代子は、正しくは千代子の母親が学校に退学届を提出しに来たらしいのだ。


 出席簿からいきなり消えた彼女の名前に、私は酷く動揺し、そして、今現在、平日だというのにこんな場所にいるのだ。


 私が外界を遮断する曇りガラスがはめ込まれた白い扉を遠慮がちにノックすれば、中から「どうぞ」と高く甘い声が入室を促してきた。


 千代子の声だ。

 彼女が存在していることに、私は少なからず安堵した。


「や、調子はどう?」


 扉を開け、顔を覗かせれば、あつらえられたベッドに横たわる少女。私の幼なじみ。

 一ヶ月ぶりに見た千代子は、以前とそう変わりないように見えた。

 確かに、白い病室やベッドは、彼女の儚い雰囲気に拍車をかけていたが、彼女のその風が吹けば吹っ飛びそうな華奢な骨格と、黒髪が映える象牙色の肌は生来のもので、決して病気だからではないと思う。


 彼女は私の顔を見て、ぱっと表情をほころばせた。もともと顔の造作は大変かわいらしい彼女である。砂糖菓子のように甘い表情を浮かべられれば、見慣れたはずの、しかも同性であるはずの私でも少しだけ動悸が乱れそうになる。


「美雪、来てくれたんだ」

 あまりにもあからさまな笑みを浮かべる千代子に、なんだか私の方が恥ずかしくなる。

「ん、今までこれなくてごめんね。これ、お見舞い。花瓶ある?」

「わぁありがとう」


 近くの洋菓子店で購入してきたチョコレートの箱を差し出しながら問いかければ、千代子はこくんと頷いて、サイドテーブルの下の棚から小さなフラスコ型の花瓶を取り出した。


「ちょっと活けてくるね」


 私は花瓶を受け取り、一旦、病室を後にする。病室からでて小さく息を吐く。

 思ったよりも快活な彼女に、なぜか私は部屋に入る前までの安堵感が一切消え失せ、泣きたくなるほど不安になっていたからだ。


 なぜなのかは解らない。でも、確実に彼女が学校に戻ってくることはないだろうと直感した。


 私が花を活け花瓶を手に病室に戻ると、千代子は枕を背にして上半身を起こしていた。私はサイドテーブルに花を置き、勝手にベッド脇に置いてあったパイプ椅子に腰掛ける。


「思ったよりも元気そうで安心した」

 私の言葉に、千代子はにこっと笑う。

「心配かけてごめんねぇ」

 あまり悪びれてなさそうな笑顔。千代子はいつもそうだ。

「ううん、それより早く良くなってよ」


 私の言葉に、千代子は曖昧な表情を浮かべる。しかし、私がその表情について問いかけるよりも早く、彼女は口を開いた。


「さっき、謝ってくれたこと、美雪のせいじゃないでしょ」

「え?」


 私が彼女の言葉の意味がはかれずに、疑問のまま視線を向けると、千代子はふっと花瓶に活けられた花を眺めた。つられるように私も花を眺める。

 華やかな黄色の向日葵。私の家の庭に咲いていた時は、青空の下、燦々と太陽の光を浴び見るものを元気にしてくれそうだとさえ思えたのに、今は病院の白い部屋の中にくっきりと浮きあがり、どこか恋々と太陽を探しているかのようだ。


「来れなくてごめん、じゃなくて、来たくても私のお母さんが病院教えなかったんでしょ?」

 私が思わず弾かれたように彼女を振り返ると、彼女は花に視線を向けたまま薄く笑っている。

「今日は来てくれて嬉しい。でも、この場所は誰に訊いたの?」


「………… 十和子ちゃんだよ」


 静かに尋ねられた問いに逆らうことができず、私は素直に答えた。

 十和子ちゃんは千代子の姉だ。小さい頃はよく遊んでもらっていたけれど、十和子ちゃんは高校から看護士専門学校に入学してから、なんとなく疎遠になっていた。

 しかし、昨夜私がしつこく千代子の携帯に電話にかけていたら、どうやら携帯を保管していたらしい十和子ちゃんがでてくれたのだ。問い詰め、懇願すれば、彼女はだいぶ渋ったものの、最終的にはこの病院と、そして、午前中の彼女の両親が居ないであろう時間を教えてくれた。


「お姉ちゃんが?」

 意外そうに千代子が振り返る。私は再度頷いて肯定した。

「うん。病院に入る時も、十和子ちゃんの名前借りた」


 訪問者名簿に十和子ちゃんの名前を書くように指示したのも、十和子ちゃんだ。

 千代子は少しだけ考え込むように目を伏せ、そして、そっか、お姉ちゃんが、と小さく繰り返す。青みがかった白目を縁取る黒い睫が、彼女の頬に濃い影を落とした。


「…… 学校辞めるの?」

「…… うん」


 私が切り出せば、千代子は小さく頷いた。解っていたけれども、彼女が自ら肯定したことに、私は衝撃を受ける。


「…… そんなに悪いの?」

「それが、私にも解らないんだ」


 泣きたくなる気持ちを抑え込んで、震える声で尋ねれば、千代子は僅かに笑みさえ浮かべて見せた。その曖昧な答えに、私は「え?」と聞き返してしまう。十和子ちゃんは何も言ってなかったけれども、千代子はすごく悪くて、もしかしたら本人にも本当の症状が伝えられていないのかもしれない。


 千代子は曖昧な表情を浮かべたまま、実はそんなに身体の調子が悪いという自覚はないの、と前置きした後。


「でも転院するらしいよ……もっと遠くの病院に行くんだって」

 まるで人ごとのように彼女が告げた言葉は残酷だった。

「え?どこ?」

 反射的に聞き返すものの、頭の中で今起こっていることが上手に処理できずに、ただ、千代子を見つめる。千代子は困惑した表情を浮かべ、ゆっくりと頭を振った。


「私も教えてもらってないんだよね。でも、ここよりも田舎で静かなところだって言ってた」


 酷く嫌な予感がしている。千代子の両親は私から、否、私だけでなく、今まで千代子が築き上げてきた世界から、千代子を切り離そうとしているようにしか思えない。何か大声で叫びたくなる衝動に襲われるが、何をどういって良いのか解らなかった。だから、なんだか間の抜けた言葉しか引き出せなかった。


「………… ここも十分静かだよ」

 私の言葉に、彼女は小さく頷いた。

「うん、私もそう思う。夜になるとね、本当に静かだよ」

 千代子は微かに笑みを浮かべて、私と見上げてくる。


「小学校に忍び込んだこと、覚えてる?」


 唐突に千代子が切り出した話に、私は小さく頷いた。去年の夏祭りの時の話だ。

 お祭の帰り道、その場の勢いで、夜中の小学校の校舎に忍び込んだのだ。


 本来ならば夕方からは警備会社の警備システムが稼働するのだが、その警備システム自体が切られている。その代わり、いつもならばひっそりと静まりかえっているはずの職員室には煌々と灯りがついていた。おそらく祭りの時に羽目を外すであろう児童達の補導に出回っていた教師達が、まだ詰めているのだろう。


 私たちは裏庭を横切り、二棟ある校舎の職員室の無い棟から忍び込んだ。施錠されている窓は、ある程度勢いを付けて上下にずらせば簡単にはずれる。女の子いえども、相当やんちゃをしてきた私たちにとって、それくらいは朝飯前だ。


 ブルーライトに照らされた給食室の横をすり抜け、二階へと上がる。三年生の教室だ。夜の廊下はひっそりと静まりかえっていて、祭りの賑やかさを残した街の喧噪が、耳を澄ませば聞こえてくるほどだ。


 採光のために大きく作られた廊下の窓にカーテンはなく、夜の青い光が余すことなく差し込み、目が痛くなるほどのコントラストを浮かび上がらせていた。リノリウムの床に反射し、天井に浮かぶ水面のような揺らめき。


 まるで、世界が海の底に沈み込んでしまったようだった。耳が痛くなるくらいの静寂。空気があまりにも動かないから、少しだけ息苦しくなって、窓の外を眺めれば、遠い街の灯りは、深海魚の発光にも似ていて、今にも巨大な魚が姿を現すような。


「……あんな感じ」


 夜の青い光をリノリウムの床が反射して、天井に水面を作る。彼女は、今夜もまた、その揺らぎを眺めて過ごすのだろうか。


「千代子 …… 行かないで」

「…… 行きたくないな」


 私の懇願と彼女の祈りはしかし、叶えられなかった。

 次の日には彼女は転院してしまった、と病院の看護婦から訊いた。それに伴い、彼女の家族も引っ越していった。


 行き先は誰に訊いても解らなかった。なによりも、私は無力で、それ以上、彼女の行方を探るにはどうして良いのか解らなかった。


 そして、半年後のある日。

 まだ春の暖かさは感じないけれども、蝋梅の香りが漂い始めた頃、一通の手紙が届いた。真っ白の何の変哲もない封筒で、消印は潰れていて読めなかった。ひっくり返して差出人を確かめれば、十和子ちゃんからだ。


 はやる気持ちを抑えきれず、震える指先で封を切る。やはり素っ気ない白い便せんが二枚。

 そこには定例句のような挨拶文と、そして、千代子が闘病生活の末、亡くなったと書かれていた。葬儀はすでに密葬で済ませたとも。


 私は一瞬、それが何を伝える手紙なのか解らず、何度も読み返えすものの、視線は文字の上を滑るばかりで、ちっとも頭に入ってこない。


 まだ春が遠い、冬の日のこと。蝋梅の香りがやけに鼻に突く。

 そういえば、彼女はこの香りが好きだったな、と的はずれなことを思った。



 ☆★☆



 『トコヨ』に配属されて三ヶ月。

 メガフロートはリュウグウシステムを中心とした工場地区である内宮と、内宮を取り囲むように生活居住地区である環状の外宮からなり、内宮と外宮の行き来はリニアによって接続さている。私が所属しているのは、その内宮の水面下となる一角にある環境管理センターと言う国家機関だ。とは言っても私の仕事は事務なので、そんな専門的なことをしているわけではない。


 それでも初めての一人暮らしと相まって、覚えることが多い。

 あまり要領の良くない私にとっては結構大変だ。しかし、最初はとまどいも多かったけれど、最近では、漸く仕事にも慣れてきて、新しい生活に一息つけるようになった。

 と思っていたのは、つい、一週間ほど前までのことだ。


 今はそんな和やかさなど忘れ去ってしまったかのように、あわただしい。というのも、本日から二週間、トコヨに移動型人工島である『オトヒメ』が、充電のため停泊するからだ。


 移動型人工島は現在『ウラシマ』と『オトヒメ』の二島が稼動しており、それぞれ沿岸部の受電基地に立ち寄りながら、列島を周回している。移動中の充電は沿岸基地で適宜行っているものの、この半年に一度、帰島するトコヨではフルに充電するため、移動型人工島は約一月ほど停泊することになる。


 『ウラシマ』および『オトヒメ』は共に、約1300人ほどの乗組員からなり、うち750人は防人、50人は民間を含むライフラインを維持する職員、残り500人は、主に海洋環境、海洋生物、を主にした研究員となっている。特にオトヒメに限って言えば生物、医療系の研究員も多い。

 そして、オトヒメにて採取された各海域の海洋生物の結果をリュウグウにて再検査することになっている。そのため、オトヒメと、トコヨの人員は一定の割合で相互に入れ替えされることになるのだ。


 私の部署からも三人の研究員がオトヒメへと出向し、三人の研究員が出向を解かれて戻ってくる予定となっていた。その受け入れ態勢の準備と、引き継ぎとで、まるで盆暮れのような忙しさだ。


 そのあわただしい中、漸く昼食時間を見つけ、私はお弁当片手に海中テラスへと向かう。

 海中テラスとは、内宮の水面下にあるエリアで、一面が強化ガラスになった室内庭園だ。

 ガラスの向こうでは、水彩絵の具の青と緑を全ての比率で混じり合うように塗り重ねたグラデーション。様々な魚が姿を現してはまた去ってゆく。

 広場自体も海の中を意識したデザインらしく、高い天井から階段状に植物が配置され、まるで海藻に囲まれているような錯覚を起こす。ガラスに近寄り見上げれば水面の揺らめきが認識できる程度の深度、まるで私自身もまた魚になったかのようだ。


 こういった海中庭園は内宮外宮の随所に設置されていて、私の職場から一番近いこの庭園は、あまり立地がよろしくない。トコヨの北側に位置するため、日当たりが悪くちょっと薄暗いのだ。そのせいか、平日の昼間は割とひっそりとしているのに、今日に限っては割とにぎわいを見せているのは、この水中スクリーンからは、オトヒメの水中接岸が見ることができるからだろう。


 そろそろ、オトヒメが着岸する時間だからだろうか、オトヒメの接岸を一目見ようとして、水上にある展望台からあぶれたであろう人たちと、水面下で行われるドッキングを見たいという少々マニアックな人たちが、集まり始めていた。


 私は水中スクリーンに一番近いベンチに腰掛け、ぼんやりと空 ―― この場合は水面というのだろうか ―― を見上げた。


『ねぇ、美雪、以前さぁ、一緒にテレビで見たマリンスノーを覚えてる?』


 海の中から空を見上げる時、私はよく彼女との会話を思い出す。

 最後にあった病院での、ひそひそと、深海魚のように交わした会話。


『深夜に目が覚めるとね、何となく思い出すんだ。あの番組のこと。それでもしここが海底だったら、あのプランクトンの死骸達が降り注いでくるんじゃないかって、息を潜めて待つんだけど、降り積もる音は聞こえてこなくて ………… 深海魚になったら、見れるかなぁ?』


 少し鼻にかかる甘い声。よく響くかわいらしい声。彼女にとって、その高い声が少しだけコンプレックスだったことを知っている。

 だけど、私は砂糖菓子のような彼女の声は、やはり砂糖細工のように繊細そうな彼女の容姿と相まって、とても似つかわしいと思っていた。…… 口を開けば暴言ばかりの、性格はどちらかと言えば似つかわしく無く破天荒だったけれども。


「おお、竹下、久しぶり」


 不意に声をかけられ、私は弾かれたように振り返った。

 そこにいたのは、なんだかんだで、リュウグウに来てからさっぱり姿を見ることはなかった亀田君だ。


「亀田君?久しぶりだね」


 私が笑みを浮かべ、彼の居場所を作るために少しベンチの端に寄れば、亀田君は小さく礼を口にして腰掛けた。


「竹下もオトヒメの接岸見に来たのか?」

 私は苦笑して首を振る。どうやら彼も野次馬の一人みたいだ。

「ううん、ちがうよ。いつも昼食はここで摂ってるんだ」

 お弁当を掲げてみせると、亀田君はへぇ、と頷いた。

「この場所好きなのか?」

「うん。ちょっとした水族館みたいだし」


 たわいもない雑談を交わしているうちに、接岸の時間になったらしい。注意を促す館内放送が響く。

 ガラスの人だかりの向こうには、暗色の物体がゆっくり近づいてくるのがみえてくる。目視できるようになってからは早かった。水中スクリーンはオトヒメの一部と思われる大きな物体で覆い尽くされる。オトヒメの側面にはフジツボや藻が生え、備え付けられた赤やオレンジ、緑色の信号灯に小さな魚が寄ってはすぐに逃げていく。


 ごぅんごぅん、と、直接鼓膜を振るわせる低い音。がこん、と島全体に衝撃が走る。それは思ったよりも大きく、私はデスクの上に積み上げた書類と、部屋の中のものが倒れないことを祈った。


「意外と衝撃大きいんだな」

 一通り揺れが収まると、亀田君がふっと息を吐いた。

「そうだね。震度3くらい?部屋の中、ものが倒れてなければいいけど」


 本土でも地震が多発しているため、慣れてはいるものの、足下が揺れるというのは気分が良いものではない。私が眉をひそめてぼやけば、亀田君は苦笑する。


「場所によっちゃ4くらいあったかもね。てか、一ヶ月以上前から予定表にのってんだから、対策してきなさい」


 軽く窘められて私は小さく肩をすくめる。今度は亀田君は呆れたように笑いながら「地震もそんくらい前もって解れば対策できるんだけどな」とぼやいた。


「あ、ほら、ドッキングが始まるよ」


 亀田君が指さした方に視線を向ければ、オトヒメの側面にあるピッチが開き、奇妙に節くれ立った接続部がのびてくる。


「虫みたい」

 思わず呟けば、亀田君はぶっと吹き出した。

「まぁ、オトヒメ自体の設計がタガメみたいだからな。間違っちゃいない」


 虫の足は水草に休むように、トコヨに引っかけられ固定されていく。機械的なその作業を私はぼんやりと見つめていたものの、ふと周りを見回せばおそらくメカニックに対する深い造詣を持つ人たち(いわゆるオタクと呼ばれる人たち)がきらきらした瞳で見つめていた。


「すごいねぇ ……」

 私が感嘆すれば、例に漏れず瞳を輝かせていた亀田君が深く頷く。

「ほんと、すげーな! こういうのってやっぱわくわくするよ!」

 と小さな少年みたいにはしゃいだ声で応えてくれた。どこかすかした印象のある彼にしては、意外な一面がほほえましく、私は思わず笑ってしまった。



 ☆★☆



 オトヒメが寄島してから、目が回るような忙しさだ。処理する記録は膨大で、毎日データ処理に追われる日々だ。今夜も帰れそうにないな、と壁に掛けられた時計を見やり、私は再び目の前のディスプレイに視線を戻した。


 いくつものセルが並んだ表と数値がずらずらと並んでいる。

 私の仕事はそれをマニュアルに乗っ取って、できる限り手早く処理していくことだ。私は処理しなければならない記録媒体が、丁度半分になったところで手を休めた。

 ぐっと背伸びをすればごきっと肩の辺りで骨が鳴った。辺りを見回せば、定時を過ぎているというのに、まだ帰宅している人は少ない。


「……疲れた?」

 私の正面のデスクに座っている先輩がふと私に視線を投げてきた。私は苦笑いで応える。

「今が一番忙しい時期だからね。休憩してきたら?」

 と僅かに“帰って良いよ”という言葉を期待した私を裏切る優しいねぎらいの言葉をくれた。私は言葉に甘えて席を立つ。喫茶室で抹茶オレをテイクアウトし、いつもの海中庭園へと降りた。


 すでに夕方が過ぎて日が落ちているためか、大きな水中スクリーンの向こうに光はなく、暗い闇が広がっている。ただ、所々で接続されたオトヒメの信号灯が揺らいでいるだけだ。それは、まるで光が届かない深い海底に棲まう深海魚の発光みたいに、広い海では奇妙で頼りない。


「……オトヒメ、かぁ」


 感慨深く眺めるものの、あまりぴんとこない。そもそも、この大きなコンクリートの固まりが海に浮かんでいるのもおかしな話だ。

 巨大スクリーンの向こうでは、小さな気泡がぷくぷくと水面を目指して沸き起こっていた。


 いつものベンチに腰掛ける。両手で持った紙コップの暖かさに、我知らずほぉっと一息ついた。口を付ければ、口腔に僅かな苦みと甘い抹茶の味が広がる。気が抜けたのが、一気に疲労感と睡魔が襲ってきた。


 化粧が落ちないように気をつけながら、軽くこめかみをこすってみるものの、日頃の疲れが出てきたのか、どうもあらがいがたい。


 ぐったりとベンチに深く沈み込み、意識さえもどろどろに溶けてしまいそうだ。私は、五分だけ、いや眠る訳じゃなくて目を閉じるだけ、と自らに言い訳し、ゆっくりと瞼を降ろした。


 耳が痛くなるほどの静寂。ふと、懐かしい声がよみがえる。


『次生まれ変わる時は深海魚が良いな。できるだけグロテスクなの』


 見目の良い彼女が、どうしてそう呟いたのかは解らない。何も持たないあのころの私たちにとって、アイデンティティーを形成するに当たって、己の容姿というのは大変な地位にあったはずだ。

 だけど、その容姿からちやほやされることも多かったであろう彼女は、少しもおごるところはなかった。むしろ、彼女は自分の容姿を厭っていることをうすうす気が付いてもいたけれど、私はそのことに触れることはなかった。

 それは嫉妬からもあったし、なによりも、高校生にもなって彼氏も作ろうとせず、私とばかりつるんでいた彼女が、私をおいて恋人を作ってしまうことをおそれていたのかもしれない。

 ―― まぁ、確かに彼女のいかにも護ってあげたいと思わせるような容姿に惹かれるタイプは、大方彼女の逞しさを知って叩きのめされる羽目になるのだろうが。


 だけど、私はその疑問を最期まで口にしなかった。


『深海魚にならなくてもみれるよ』


 私の言葉に、彼女は顔を上げた。透き通る黒い瞳が、真っ直ぐに私を映す。いつもはにこにこと愛想が良い彼女が、ふとした瞬間に見せる真顔は、私を少しだけ動揺させた。


『リュウグウとかオトヒメとかに乗れば、きっと見る機会もあるんじゃない?』


 私の提案に彼女はふっと笑みを掃いた。


『ねぇ、美雪、約束しよう? 徴労の義務はトコヨにいこうよ。私は大学に行くつもりなんだけど …… 二十歳にあの大きなクラゲみたいなところで、再会しよう?』


 …… そして、私は彼女をまだ待ってる。



 ☆★☆



 ふと、蝋梅の甘い匂いが鼻先を掠めた。高校生のままの意識で、もう春が来たのかと、思いを巡らそうとして、今自分が高校生ではなく、成人式を迎えた大人で、さらにはお仕事の途中で休憩中だったことを思い出した。


 あわてて、ぱちりと目を見開けば、見慣れた海中庭園。

 沈んでいた記憶と、見ていた夢と、現実とがごっちゃになり、自分がどこにいるのか解らず困惑したのは一瞬だ。


「やばっ少し寝ちゃった!」


 ぼやきながら腕時計を見ようとして、自分に掛けられた白衣に気が付いた。ごく普通の、どこにでもある白衣。何の薬品が零れたのか解らないけれど、所々に得体の知れないシミが付いている。まじまじと見つめてみたけれど、見覚えのないものだ。しかし、何よりも白衣から香るのは蝋梅のような少し甘い植物の香り。


 通りすがりの人が、眠りこけた私に駆けてくれたのだろう。ありがたいのだが、これはどうするべきか。


 私は困惑したまま、白衣を腕に掛け、腕時計を見た。幸いなことに先ほどからあまり時間は経っておらず、意識を失っていたのはほんの十分程度。しかし、少しの睡眠でも随分と疲れが取れたのか、思った以上に思考がクリアになっていた。


 おかしな体勢でいたためか、少し痛む関節を伸ばしながら立ち上がる。

 かたん、と何かが床に落ちた。

 足元を見てみれば、銀色の紙に包まれたチョコレートが転がっている。中に砕かれたビスケットが入っている、薔薇の形に型抜きされた大手製菓会社の看板商品。あまり間食をしない私のものではない。おそらく白衣のポケットに入っていたのだろう。


 リノリウムの床に転がったそれを拾いあげる時、ふと天井を見上げる。水の青い揺らめきが、高い天井一面に映し出されていた。スクリーンを見やれば、いつのまにか月が出ていたのか、煌々と青白い光が海中までも照らし出し、更に乱反射を起こし海中テラスまでも青く染め上げていた。まるで、この箱庭すらも海に呑み込もうとしているように。


 掌の銀色の薔薇を見つめる。チョコレートの銀紙ですら青く染まり、その表面にプリズムを浮かべている。


 ふと、このお菓子が千代子の好物だったことを思い出す。

 奇妙な符号に私は眉根を寄せた。


 チョコレート、リノリウム、海の底。


 何よりも、ここは約束したクラゲの中。


 何の根拠もなくこの白衣が千代子のものだと確信する。

 先ほどからあまり時間は経ってない。もしかしたらすぐそこにいるかもしれない。私は海中庭園を走り抜け回廊へと抜ける。回廊から内宮は放射状に各エリアに繋がっているのだ。


 螺旋状の階段と中央に設置された二台のエレベーター。

 内宮の一階から、最上階まで吹き抜けになっている。私は手すりから身を乗り出し、上下の階段を見上げた。丁度、帰宅する人もいない、時間帯の狭間なのか、人影はない。ちらり、とエレベーターを見れば、一台は最上階、もう一台も上昇している。私は上を向いた三角のボタンを連打するものの、反応の鈍いそれにじれて、階段に足をかけた。階段を一番飛ばしに駆け上がる。普段運動していないことが祟って、すぐに息が切れる。


 一階、二階と駆け上がったところで「竹下?」と気の抜けた声がかけられた。振り向けば亀田君が上着のポケットに手を突っ込んで、階段の踊り場に立っている。


「亀 …… 田、君?」

 肩で息をしながら、彼を見上げ、思わず詰め寄る。


「千代子を見なかった?」


 私の言葉に、亀田君は少しだけ目を見開いて眉根を寄せた。


「ちよこ …… ? 古田千代子か?」

「そう、これ! 千代子のなの!」


 私が白衣を掲げてみせれば、亀田君は何とも言えないような複雑な表情を浮かべた。私は彼のその表情が何を意味しているか、正確に読み取り苛立ちと焦りを募らせる。


「おい、落ち着け」

「落ち着いてるよっ!」


 自分でも落ち着いているとは思えない声。わかってはいるものの埒があかず、亀田君を無視して更に階段を駆け上ろうとすれば、手を引かれた。思わずつんのめりそうになるのを、亀田君が支えてくる。しかし、私が何すんのよ、と叫ぼうとする前に酷く冷静な彼の声が私を叩きのめした。


「それは俺のだ」

「え?」


 思わず足を止めて振り返る。亀田君は居心地が悪そうに、ふっと私から視線をそらした。


「悪かったな。お前がベンチで寝てんのみて、起こすのもなんだったからさ」


 彼の言葉に私は手の中の白衣を見おろし、次に亀田君を見上げた。亀田君は私を見ていない。ただ、ふて腐れたように視線を床の上でさまよわせている。

 何を勘違いしていたのだろう。徐々に冷えていく思考で、千代子はもう四年も前に消えてしまったのだということを思い出す。


 私は、一体、何を、期待、したのだろう。


 海底庭園はおそらくリュウグウが建設された当初、それこそ私が産まれる前からリノリウムの床だし、薔薇のチョコレートは量産品で、私が子供の頃からのロングセラーだし、どこにでも手にはいる。私が今ここにいるのは、志願したからで、何も、何一つ不思議じゃない。


 ただ、呼び起こされた過去の記憶と私の願望がごちゃ混ぜになって、夢を見ただけだ。


「………… そう」


 私は掠れた声を絞り出し、身体から力を抜いた。

「そっか。ごめんね、取り乱しちゃって。これ、ありがとう」

 私は苦笑いのようなものを浮かべた。笑っていないと泣きそうだった。亀田君は私の笑顔を、何か痛ましいものを見るように見つめてきたけれど何も言わなかった。


「私、仕事に戻るね。今、一番忙しいからさ」

 そう、一気にまくし立てると私は彼に白衣を押しつけ、きびすを返す。歩き出した私に背後から「おぉ、がんばれよ」と声が飛んでくる。

 私は振り返ることができずに ―― 頬がすでに濡れていたから ―― 軽く手を振って階段を下りる。

 事務室に戻りながら私は、あの蝋梅の香水のメーカーを訊いてみれば良かったとほんの少しだけ後悔した。

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