第五章ー4
その際、
「……彼女が抜けた穴はでかいね」
ポツリと。
黒江にだけ聞こえるような声量で、樋春はそう言った。
彼女――佳那のことだろう。
黒江はぐっと唇を引き締める。
そう。その通りなのだ。
失って、初めて知ることもある。
佳那は、一年生のバランサーだった。
もともと女子二人に対して良い印象を抱いていなかった博也も、佳那に対してだけは強く出れないところがあった。
それは佳那が持っている独特な雰囲気によるものもあったが、それ以上に、公平な視点を持っていてくれたのも大きかった。
綾乃が言い過ぎたり、強引に話を進めようとした時、いつも、綾乃を批判し、止めていたのは佳那だった。博也にどう思われているとか、そんなことは関係なく、綾乃が悪いと判断すれば、誰よりも先に、制止の声をかけてくれていた。
そんな、大切な役目を担っていた佳那がいなくなったことで、関係が悪化した。
綾乃を止める者がいなくなり、博也も、歯止めが効かなくなっている。
上級生の樋春がいるからいいようなもので、もし、樋春がいなかったら、今だって、綾乃は死んでいたかもしれないのだ。
「……」
「……」
樋春に注意されて、自分たちの非を認めて、それでも、二人は目を合わせようとしない。
「今日はもう解散。お前ら、帰れ」
樋春はそんな二人を見て、このまま続けることは危険と判断したのだろう。
解散を宣言し、鍛錬場から去ってしまう。
それに続くように、綾乃も無言で鍛錬場から出て行く。
「博也、今日は帰ろうか」
「ああ」
樋春の大仏に突き飛ばされたまま、その場で座り込んでいた博也は、不貞腐れたような態度で頷くと、黒江を追い越し、不機嫌さ全開で玄関へ向かう。
次の選定式までもう一週間を切っている。
このままでは、また、誰かを失うかもしれない。
腹の中で、不安だけが渦巻いていた。
◆
真宮家の長女、黒江の姉がどんな人物だったか。
一言で評するなら、『優等生』だ。
幼い頃からずっと一緒に生活してきた黒江にとって、姉は偉大な存在であり、尊敬に値する人物だった。
成績は常に上位で、家庭内でも積極的に家事を行い、弟の黒江の面倒見も良かった。二人の関係は良好で、近所でも有名なくらい仲良し姉弟だった。
「なにかないかな……?」
博也と綾乃がケンカをした翌日。
特訓を終えた黒江は図書棟へ訪れていた。
南校舎の玄関から、南東へ五十メートル。
寮のすぐ下側に位置するその建物は、蔵書数十万冊を超える大図書館だ。上空から見ると、トランプのダイヤのような形をしている。
「彩粒子に関する本も結構あるんだなー……」
ぼんやりと本棚を見上げる。
何故、図書棟へ出向いたのか、黒江自身もよく分からなかった。
ただ、何かしたいと思ったのだ。
黒江はいつも姉に守られてきた。
優等生で、仲の良い姉がいたことで、小、中学校と、黒江はいつも影に隠れていた。
姉は、樋春のような『完璧超人』といった人間ではなかった。どちらかと言えば、綾乃のような、人当たりも良く、誰とでも仲良くなれるような雰囲気を持っていた。
誰からも慕われていて、成績優秀な優等生。『だからこそ』、黒江の出る幕はなかった。
黒江は自然と、後ろで息をひそめるようになり、前へ立つことを避けるようになっていた。
それでいいと思っていた。
誰よりも素敵で、誰よりもカッコイイ、最高の姉がいる環境では黒江が前へ出る必要はなかったから。
それでは駄目だったのだと気付いたのは、姉を亡くしてからだ。
姉と違う高校へ進学し、姉が学校でどんな風に振る舞っていたのか、どんな生活をしていたのか、黒江も家族も、知る機会はなかった。
遺書を読み、初めて姉がいじめられていたと知った。
その原因が、自分にもあったのだと知らされたのは、姉が自殺して、さらに数日が経ってからだった。




