9 脳筋皇女 Ⅲ
戦いを終えた姫騎士は突き立てたクレイモアの片づけを他の人に任せ、疲れを知らぬ笑顔で俺の元に駆け寄ってくると、そのまま飛び込んできた。
「グギャヴァ!!!」
胸部の鎧が俺の整った顔に直撃し、悲痛な声が漏れる。だが、彼女の耳に至るにはその声は小さすぎたようで、鎧の飾りを顔面に食い込ませるようにフィーナは押し付けた。
「どうでした? 私の剣技! 何でもできる君の為に頑張っちゃいました」
フィーナはそう問いながらも、俺に回答を許さない。だが、彼女は俺の額にクレーターを作っている事に気付き、咄嗟に遠ざかった。
俺は何とか物理的顔面崩壊を免れたが、致死的緊張状態から解放され、草木の上で仰向けになった。生がある事、心臓が鼓動している事に安堵し、神に感謝しているのだ。
「私ったら、鎧を付けているのを忘れていました。大丈夫ですかぁ? 何でもできる君?」
フィーナは上半身の鎧を外し、その辺に放り投げると、仰向けで横になる俺に覆いかぶさるように両手をついた。耳元でストンプされた彼女の手から地響きのようなものが聞こえ、俺は歯を食いしばる。
だが、目前に広がっているのは楽園であった。それは、死んで天の門を開くことになったという訳ではなく、たわわな二つの球体と、黄金の髪を垂らした絶世の美女がそこにあったからだ。
(女性の表見や肉体に興味のない俺をここまで惑わせるとは……)
フィーナのこのような行為が天然のものなのか、それとも目的を持ち、計算の上でのことなのか俺には分からない。
しばしの間、若い男女は見つめ合う。風と鳥の声だけが二人の遅れた青春を彩っているようだった。
「答えを聞きたいです」
艶のある唇が動き、小さな囁きが二人の間の空気を震わせる。言葉を放った彼女の目は真剣であった。
「素晴らしかった。流石は白銀の姫騎士」
「そんな事はどうでもいいです! 何でもできる君の今後についてですよ! だからその……私と……」
フィーナは顔を赤くして言葉を細めるが、「何でもできる君」という言葉が雰囲気を破壊する。
俺は凡庸な鈍感バカとは違い、彼女の気持ちは分かっている。同時に俺も天敵とはいえ、彼女の魅力に惹かれているし、姫騎士としての才覚に尊敬の念を持っている。
だが、自信が無いのだ。彼女との営みで恐らく俺の身体は使い古された雑巾の様になるだろうし、そもそも、俺の事を「何でもできる君」と呼ぶのを止める事すら出来ない男が彼女に肩を並べられるわけがないのである。
であるが、今俺は答えを出さなければいけないのかもしれない。俺の身体は圧倒的強者に包囲され、彼女はスフィンクスの如き眼光で答えを求めているのだ。
「こ、皇女殿下……」
「皆には聞こえていません。フィーナですよ」
「失礼しました。フィーナ、俺は……」
“ゴーン! ゴーン”
窮地の俺を天は見放していなかった。申の時を告げる鐘の音が、王宮の時計塔からこだましたのである。
「もうこんな時間ですか…… しょうがないですね。答えは今度聞くことにしましょう」
獲物を解放し、フィーナは自分の身体の匂いを嗅いだ。そして嫌な顔をすると、身体を洗うので夕食時に会いましょうと言い残して、メイド一人を連れて建物に入っていった。
一時的に解放された俺は、是非に行きたい場所があった。そう、調理室である。一体彼女がどのような手品を使ったのか知りたかったのだ。
「失礼します。少しよろしいでしょうか?」
オーティマ宮一階端にある調理室に、先程空間魔法を行った調理師の青年と共に、俺は帽子とマスク、そして白衣を身に着けて入っていった。
「ようこそお越しくださいました宰相閣下。このような所に何の御用でしょうか?」
料理長が俺の元に歩み出て帽子を外すと丁寧に挨拶した。だが、俺の目は調理室を見回す事で一杯だった。
室内は凶暴な獣が暴れまわった様な様子は無く、整然としていた。そこで、俺は彼女の料理の様子について目の前の料理長に聞いてみる事にした。
「料理長殿。先日皇女殿下がここでお料理をされたとお聞きしましたが」
はぐらかす様であればタレントを使う予定であったが、全てを話さなくても、料理長は何かを察したような顔をして、目線を横へ向けた。俺は、その目線の先に自らの視線も向けると、そこには重石の鉄球の乗った漬物用の樽の堂々とした姿があった。
(もしかして……)
俺は何かに気付き、樽の元に近寄ると、上に乗った鉄球を凝視した。それは罪人などの行動を制限する為の足かせであったが、これはただの足かせではない。俺の様な天才には、この黒い鉄の塊が放つ禍々しさが空気で感じられるのだ。
「いやぁ、見つかっちゃいましたか。参りましたね……」
「呪道具 貧者の鉄球……」
呪道具とはその字のごとく、魔術的な呪詛が付与された道具の事である。ただ、物に継続的に魔力効果を残すのは大変難しい事であり、凄まじい恨みの念や、加護の念などが必要とされている。そして、この貧者の鉄球はその呪道具の一つであり、装備者の筋力を極端に下げる効果がある。
因みに、我々が使っているMCなどの魔道具は呪道具の性質を模倣したものであるが、そのものに魔力素を吸収する力は無く、充魔コネクタを用いなければならない。
「俺も現物を見たのは初めてだ…… でもどうしてこれがここに?」
貧者の鉄球は国宝の一つであり、本来厳重な警備の下、王城の国庫に封じられているはずである。それがこのように漬物石にされているなど普通ではありえない事だ。
「えぇ、実は皇女殿下の料理の際使えと、皇帝陛下直々に命令を受けまして……
王妃殿下が料理を終えた後にお返ししようと、陛下に書状を送ったのですが、これが返ってきたんです」
料理長は開封済みの封筒を内ポケットから取り出し、マレードに手渡した。そして、中身を出すと、そこにはこう書かれていた。
『我が娘が料理に励もうというのは誠に素晴らしい事だ。きっと、あの子の桃色の心情がそうさせるのであろう。
一度開いた甘酸っぱい花は、意中の蜂を捕らえるまで閉じない。貴殿には分かるであろう。これで終わりでは無く、貴殿にはフィーナの思いに協力する義務があるのだ。
故に、しばし、これはそこに預けよう。いつでもフィーナが調理に励めるよう調理室に置くのが良い』
他にも飾りのような言葉や文章が並んでいたが、主たる部分はここであろう。
(あのクソ中年国宝を何だと思っているんだ…… いや、娘への溺愛が過ぎるということなのか)
「このような便利なものがあるのなら、ずっと装備していればいいではないか」という考えが出ようと思うが、そうは問屋が卸さない。呪道具は魔法効果は継続しているものの、その力が発揮されるには、空気中に存在する魔力素が必要になる。その量は効果によって異なる為、一定時間使用すると効果は消え、魔力素を充魔しなくてはならないのである。例えば、この鉄球は約5時間効果が継続するが、再充魔の為に一日以上空気に晒さなくてはならないという事だ。
ここに来た事をフィーナが知ることはあまり良くないと思い、俺は料理長らに口止めをした後、朝食と昼食をとったフィーナの自室へ向かった。
メイドたちに連れられ、室内に入ったが、まだフィーナは来ていない。体臭をかなり気にしていたみたいだから念入りに洗っているのであろう。
時間を持った俺は、椅子の上に座すと、いかなる方法で彼女の提案を断るか考えていた。一歩間違えれば、俺は謎の死を遂げる事になる。故に、言葉選びは慎重でなければならない。
(申し訳ありませんが……違う。安念ですが……いやいや。今後のご健勝をお祈り……これは違うか)
頭出しを必死に考えるが、必死になればなるほど言葉が出ない。競技カルタの如く、頭出しから一瞬で首が跳んでしまうかもしれない恐怖が俺を包む。
(そうだ!! 目の前にいるメイドに助言を乞おう。口ではなく心で聞くのだ)
意識を集中し、俺は目を瞑り静かに待機している清純そうな若い女性の心を読み取る。
(ムード宰相様とフォリオ姫様が×××されたように、フィーナ姫様とマレード宰相様も×××されるのかしら。あぁ、きっと濃厚な×××で〇〇〇になって、きっと△△△なのでしょうね)
この能力の最大の問題はいらぬ事が耳に入ってしまう事である。清楚そうに澄ましている女性のヤバイ心内を読んで俺は後悔した。無論彼女に責められる所以は無く、心で何を思おうがそれは個人の自由だ。だが、この時だけは、さすがの俺も彼女を恨んだ。
言い訳を繕うマレードの努力は無意味に終わり、複数のメイドと共にフィーナが服を変えて現れた。着替えの際に破れたのである。
「お待たせしました。宰相。それでは……」
フィーナが目配せをすると、よく訓練されたメイドたちは自然に部屋を後にする。そして、二人きりとなったタイミングで、24歳のゆるふわ姫は俺の元にスキップしながら急接近した。
「ふふふ、それでは答えをお聞かせ頂けますか?」
もはや、言い訳できるカードは手元に無く、俺は正直な気持ちを言葉にして、彼女に手渡すことにした。
「フィーナ。俺は貴方を尊敬しているし、好ましいと思っている。だけど、俺は国を統べる自信は無いし、君と釣り合う程の人間じゃない。だから……」
フィーナは俺の話を真剣に聞いてくれていた。そして、俺が言葉を詰まらせると、彼女は豊満な胸部を揺らし、俺の元にゆっくりと歩み寄る。
もはやここまでと俺は覚悟した。折角夢を叶えたが、ここで死ぬなら、それを回避する手段はきっとなかったと思った。
「私は待ちます。ずっと、貴方が私を選ぶその時まで。
…………
覚えていますか? 学園で初めて生徒会室でお会いした時、私は何をやっても駄目で、きっと君にも迷惑をかけていたよね?
でも、君は何も言わなかった。言葉を介す事無く、私をフォローし続けていた。最初は“何なのこの人”って思ったけど、分かったんです。君は待っていたんですよね?」
(そう、待っていた。俺は彼女が助けを求めるのを。 だって、彼女があまりに一生懸命だったから、下手に手を出したら彼女の頑張りを汚してしまう。そう思ったんだ)
「だからこそ、私が助けを求めた時。君は全力で助けてくれた。
皇家に媚を売って、私を利用しようとしている方々や、皇女としての私しか見ていない方々と違い、君は私をフィーナ・フォン・デルタとして扱ってくれた。だから、君には私を名前で呼んで欲しいのです。
……次は私が待つ番ですね」
(全く、このお方は…… 俺は天才だから、フィーナがいなくても全部一人で出来る。そう思っていただけだ。ほんと、参った。彼女には適わない。俺の心を狂わせる天敵だよ)
「あぁ、そうしてくれると嬉しい」
俺はそう答えた。それ以外の言葉が見つからなかった。フィーナは、俺が必ず自分を求める自身があるようだ。
フィーナはマレードの回答に満足し、彼に触れる事無く自分の席に戻って微笑んだ。
そして、計ったようにメイドたちが夕食をキッチンワゴンに乗せて運び入れ、テーブルに移した。それを見て、俺は調理室の香りを思い出した。
皿の上に乗るのは、蒟蒻……ではなく、ローストビーフ。そこに白パンが添えられる。
「蒟蒻ではないですよ。これは私が作ったものでは無いですしね。そうそう、料理長から聞きましたよ。そんなに私が料理するの変ですか?」
「え?」
突然の問いに俺は、突発的小テストで慌てる子供の様に口を開け、呆気にとられる。
(料理長には口止めしたはず……)
皇帝からの書簡を俺に見せた時点で気付くべきだった。本来そのようなものはみだりに人に見せるものでは無い。つまり、料理長は口がザルなのである。
「え、いやー、フィー、皇女殿下の料理の御様子が気になりまして。きっとたくさん練習されたのでしょう……」
汗を吹き出しながら俺は頭に浮かんだ返答の言葉を取っては繋げ、彼女に返す。
「ふーん。そうですか」
フィーナはジト目で十秒ほど俺を見つめ、心の内を探る。それに対し、俺は心の引き出しを開け閉めされる不快感にじっと耐え、彼女が満足するのを待った。
「まぁ、いいでしょう。折角のお料理が冷めてしまいますし」
俺は許された。そして、自分のタレントを無暗に使わぬと改めて決心した。自分がやられて嫌な事は人にやらない。社会を上手く渡るコツだ。
「あぁ、いただきます。それと、今度また皇女殿下のお料理を頂きたいです」
これは保険の一言だ。彼女の機嫌を損なわないための。
「あら、嬉しいですわ。それなら毎日いらしてもいいんですのよ。それとも一層ここで暮らしますか? 私と一緒に」
「素晴らしいお考えですわ姫様。それがよろしいでしょう。……色々と」
純潔の御姫様が目に星を浮かべながらとんでもない事を口にし、それを脳内じゃん☆こうたのメイドが持ち上げる。
「い、いや。遠慮させて頂きます。私にも家がございますので」
「ですが、お聞きしたところ、宰相閣下はお一人であの家に住まわれているのですよね? でしたら姫様のご提案に」
(え? このメイド怖い…… 確かに調べればわかる事だけどさ。ところで、誰にお聞きしたの?)
「ニオ。そこまでにしておきましょう。宰相様にも事情があるのです
ごめんなさい宰相様。妹さんがいつでも帰れるようにしておかないといけませんよね。」
フィーナが頭じゃん☆こうたを制止し、俺に微笑む。彼女が何を考えているか分からない。だが、進退を繰り返しながら、徐々に俺との心の距離を詰めているのは分かった。
「出過ぎた真似を。姫様、宰相閣下、御無礼をお許しください」
頭じゃん☆は頭を下げ謝意を示したが、何を考えているか分からないし、知りたくもない。
「ところで、マリナさんはお元気ですか?」
「はい。フィオ姫様のおかげさまで楽しく学園生活を送っております」
マリナは俺のキュートでデリシャス、且つ、アルティメットスイーツな美の女神も嫉妬するほどの愛くるしさを持つ年の離れた妹だ。フィオ姫はフィーナの妹にあたる第三皇女で、妹と同じ皇立学園で学ばれている。彼女の事はそれ以上言わない。とりあえず、クセのある姫様だ。
「今度は妹さんも連れていらしてくださいね」
「はい。妹も喜びます」
正直言うと俺は妹をフィーナに会わせたくない。愛する妹がゆるふわ姫の手中に落ちてしまうからだ。そして、妹姫フィオの手によって、その過程は徐々に進行している。俺は四面楚歌になる前に手を打たねばならないと思いつつも、仕事が忙しく、手を出せないでいた。
そして、二人の晩餐は進み、ついに凶獣の檻から解放される時が来た。
実の所、拍子抜けだった。覚悟してきたものの、今日のフィーナはおとなしく、肉体へのダメージが軽微で済んだからだ。精神への負荷は酷いものであったが、それは主としてニャムによるものであり、直接フィーナに原因があるものではなかった。
「本日はお招き有難うございました」
心の中でスキップしながら、俺は帰宅の準備をする。
「ニオ。車の準備を願いしますね」
フィーナはそう言って、頭☆を部屋から出ていかせた。そして、二人きりになると、目を光らせ、獣の如きスピードで俺の背後に回ると、被さるように力強いハグをした。
「ぐぎゃぁぁぁぁぁあ!」
骨が砕けた様な音と共に、俺は悲痛の叫びをあげる。だが、その声は姫のプライバシーを守る防音壁に阻まれ、空しく室内で反響した。
そして、上半身に激痛が拡散し、俺の二本の脚は震えながら痛みに屈し、膝を床に付けた。
「待っていますとは言いましたけど、何もしないとは言っていませんからね。私、待つの嫌いですし…… 君が私の気持ちを受け取らないのでしたら、力ずくで君の心のポケットに押し込みます。……気付いていますか? 今日、私下着付けていないんですよ? 押し倒しちゃってもいいんですよ?」
この世に彼女を押し倒せる男なんていない。それより、今の俺には彼女の言葉が「命を取りに来る」としか聞こえなかった。
「姫様、お車の準備が整いました」
扉が開くと共に部屋に頭☆の声が走り、フィーナは舌打ちすると、何もなかったかのように、俺を解放して立ち上がった。その異様な光景に頭☆は顔色を一切変えず、何事も無かったかのように振舞った。
「はぁ…… 時が経つのは早いものですね。では、また今度話の続きをいたしましょう。その時にはお答えを頂けたら、嬉しいです」
膝を折る俺にフィーナは背後から言った。狩人と獲物、その構図がここにある。俺は強靭な狩人に所有権を示す傷をつけられたような気持だった。