13 下賜
私はジャール一世。ジーマ帝国を統べる漫画家…… 皇帝である。
故あって今日は王都最大の書店であるサンヨー堂書店マーバス店四階にあるレクリエーションルームのパイプ椅子に座している。無論、玉座に比べれば貧相貧弱この上ないが、私はこの場にいる栄誉にいささかの興奮を感じている。
「せんせーい。そろそろはじまりまーす」
「ああ、い、いつでもよいぞ」
漫画家人生初のサイン会。戴冠式を遥かに超える緊張がペンを持つ右手を震えさせる。このファンを待つ一瞬一瞬がスローモーションで流れ、心臓の音が酷く大きく聞こえる。
“ガヤガヤガヤ”
ああ、私の為に古今東西から臣民が集う。いや、それだけではない。はるばる異国から訪れる客人も話によるといるらしい。
ああ、大丈夫だろうか? サインは上手く書けるだろうか? 間違って“皇帝ジャール一世”と書いてしまわないだろうか?
“ガヤガヤガヤ”
私を待ちわびる人々の声が私を焦らせる。
「ふぅー、ひっ、ふぅー」
緊張を解くために漫画家じゃん☆こうたは手汗を布でふき取り、大げさに呼吸してサイン会に臨む。
「それではみなさん。一列になってお入りくださーい」
漫画家男一代。じゃん☆こうたの戦いの始まりが書店スタッフの声と共に始まる。大事そうに『姫と宰相 できちゃった婚からの恋愛もあるよね!』の単行本を手にしたファンたちが目を輝かせ、ロープパーテーションによって作られた待機列に詰められていく。その様子に社交の場に慣れているはずのじゃん☆こうたの額から汗が浮かぶ。それを涼しい顔でふき取るが、顔を隠す為のサングラスの付近はそうする事も出来ず、サングラスと顔面の間の湿度が急激に上昇する。
「…………」
(だが、せっかく集ったファンたちを邪険にするのは良くない)
そう考えたじゃん☆こうたは慣れない作り笑いを浮かべて、ファンの皆様の方に顔を向けると、老若男女の眩しい者達がキラキラと星を浮かべながら手を振り返してくれる。
だが、その温かい群衆の中に冷たい気配、敵意に近い何かを感じ、中年漫画家は戦慄した。
「それではサイン会を始めまーす。係りの者に従って進んでくださーい」
行儀よく進むファンの隊列の動きに冷たい気配は彼らの熱情にかき消され、じゃん☆は戦慄の束縛から解放された。そして最初のサイン相手である女性がテーブル越しに対峙した。じゃん☆はこの女性に初めてを捧げるのだ。
「じゃん☆こうた先生!! 素晴らしい作品をありがとうございます!!」
顔を赤くした女性は興奮気味に笑顔を浮かべ、震える手を目前の男に差し出した。十以上も年の離れた家族以外の女性の肌に触れる事に緊張しながら、右手をゆっくりと前に出してその白い手と指を絡めた。
「キャー!! ありがとうございますぅ」
喜びの叫びを上げる女性の笑顔にじゃん☆も思わず笑顔になる。そして掌が解放された彼女は抱えた『姫と宰相 できちゃった婚からの恋愛もあるよね!』一巻の見返しを開いてテーブルの上に乗せる。その何もないページこそじゃん☆が挑むキャンパスなのである。
「おねがいしまーす」
息を飲んで筆をとり、頭で自分の名前を連呼しながら、こっそり練習したサインという芸術を自分の著した漫画に加える。それはまるで画家が完成した作品に自分の名を刻むような感覚だ。
「ありがとうございましたー」
サインを終えて筆を置くと、また握手を求められ、それに応じる。そして、静かに「ありがとうございました」と返すと、じゃん☆の“初めて”は終わった。
「それでは次の方どうぞ」
だがこれで終わりではない。目前に並ぶファンの隊列がじゃん☆を待っているのである。
―20人
―30人
―50人
いくら初めての経験であっても、短時間に連続すると流石に慣れてくる。一々の動作にも余裕が生まれ、ファンとの言葉を介した触れあいの時間も取れる。
じゃん☆はファンとの交流、自分の作品を楽しんでくれる者達との出会いが楽しかった。酒を帯びたように心も高揚していった。
だが……
「じゃん先生に会いたくてトキオから来ました」
自分とおそろいのドデカサングラスをかけた長身金髪の青年の番が回ってきた時、凍るような感覚を覚え、思わず背筋を伸ばした。この青年ではない。その背後にある何かからのプレッシャーにさらされたのだ。
「あ、ああ。トキオ、はるばる遠くからありがとう」
何とか冷静を取り戻し、筆を厚い見返しに押し立てるが、そのペン先は微かに震えている。その震えを抑えようと、圧を加えながら力強く掘るように名を刻む。
「――のシーンの伏線の張り方が巧妙で、まさか大臣と対峙した時アレが活きるなんて、もう目から鱗で感動で。それと第30章の友人との再会が涙涙で!! もうティッシュ三箱いけちゃいましたよ!!」
青年が早口で何か言っているが、全く耳に入らない。なんなんだこのプレッシャーは……
「はい。どうぞ」
なんとか一筆書き終えると、じゃん☆は漫画を開いたまま早口で何かを言っている青年に手渡した。サインは曲線かかくつき、かたいものとなっていたが、青年はそれを気にすることなく、感動に震えながら受け取った。
そして固い握手の後――
“アイツ”がやってきた……
冷徹な殺気のオーラを纏った20代、30代程の青年。この男も先の男と同様に顔の半分を覆う巨大サングラスを装備している。
“バァン!!”
青年は乱暴に漫画をテーブルに叩きつけると一言「お願いします。せ・ん・せ・い」と言葉を放った。
漫画はついさっき開封された様な新品の『姫と宰相の娘はお爺ちゃんっ子 王様困っちゃった(汗)』4巻。じゃん☆が世に出した作品の中で最も新しいものだ。
(こいつは。何か違う!! 他のファンの方たちと根本的に何か違う!!)
畏怖の感情に震えながらも、他のファンと扱いを変えるわけにもいかず、閉じられたページを開き、見返しを折ってサインの準備を整える。
「よろしくお願いしますね」
言葉は丁寧だが、侮蔑の様なものがひしひしと感じられる。そして、その言葉を発端にじゃん☆は筆ではなく傍にあった水入りのグラスを手に取ると、底の部分を見返しに押し当てた。見返し部分にはくっきりとコップの底の輪の文様が水分によって刻印された。
「おや先生。まさか判子とお間違えになったのですか?」
青年はいやらしい笑みを浮かべじゃん☆を嘲笑った。だが、そんな冷たい言葉などどうでもいいほどじゃん☆は自分の不思議な行動に驚いていた。
何が原因で自分がこのような行動をしたのか。それはある種の条件反射のようなものだ。この青年の声を聞くと、判を押すのが仕事なのだと思い込まされてしまうのだ。
「いや、失礼。私のしたことが……」
コップを少し遠ざけると、筆を手にしてしばしそれが“本当に筆であるか”を確認したうえで湿ったキャンバスにその先を置いた。
「よろしくお願いします」
先も聞いた言葉だ。この冷たい声で変なスイッチが入る。
そしてじゃん☆が考える通り、漫画家から皇帝に変換されるスイッチが入り、彼の筆先はこの国の君主の名を刻みかける所だった。最初の曲線あたりでジャール一世はガッツでスイッチを変更すると、じゃん☆に戻って曲線の途中から有名漫画家の名を記した。
「で、出来ました……」
「ご苦労様です」
(一難終わった…… 早く次の人にぃ)
じゃん☆はそう願ったが、青年はその場を離れない。青年は受け取った本をパラパラと捲るとじゃん☆に微笑んだ。悪魔の微笑みだ。
「俺はこの漫画に登場する国王クシャールが好きなんです。自分の責務に一心で取り組む姿に心洗われますねぇ。そう思いませんか?」
「え? あ、はい……」
このあたりで気付き始めた。いや、だがこやつがここにいるはずが…… だが、だが、やつもこの漫画を好んでいた……ような感じだった。だから私に会いに来た!! そう、一ファンとして!! そうなのだろう!? マレードよ!!
じゃん☆の考えは正しかった。目の前にいる青年こそ彼の忠臣にしてジーマ帝国宰相マレード・フォン・ガランドであった。
君主と宰相が顔を合わせるとは…… ここは謁見の間か。だが、気付かれてはいない筈だ。今の私は皇帝ジャール一世ではない。売れっ子漫画家じゃん☆こうたである。
「俺は責任を放棄して別の事ばかりしているのはやはり問題だと思うんですよねぇ。社会人はちゃんと自分の仕事をしなくちゃーいけない。このクシャール王みたいにねぇ」
マレードはねっとりとじゃん☆を言葉責めする。そのピンポイントに攻撃する様に自分がジャール一世であると露見しているのではないかという恐怖が冷汗となって流れる。
「すみません。もう時間ですので」
だが、恐怖の時間は書店スタッフの青年によって終わりが見えた。じゃん☆の目には青年が救世主のように思えたのだ。
「これは失礼。先生とお会いできた感動で時間を忘れていました」
感動の「か」の字も感じさせない平坦ヴォイスでそう言うと、マレードは右手をじゃん☆に差し出した。幾度も顔を合わせた間柄であったが、手を交わすのはこれが初めてであった。
「ありがとうございました」
マレードがやっと去り、じゃん☆に平和が戻った。一、二分程度の時間であったが、数十年の獄中生活から解放されたかのような徒労感があった。
―約三時間前、スイーツ食べ放題レストラン『スイーツ☆楽園』にて少女の泣き声が響いた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!! 酷いですぅぅぅぅうう!!!」
泣き叫ぶは獣人の少女。おめかしした衣服は涙で濡れる。
「この本は青少年に有害です。没収ですね」
「返してぇぇぇぇぇ!! 返してくださいよ!! 私少女だしぃぃい!!」
獣人の少女―ケルベロスから『姫と宰相 できちゃった婚からの恋愛もあるよね!』一巻とサイン券を無情にも奪い、サングラスをかけたマレードは面倒臭いタイプの教育ママみたいな事を言い出した。
傍にいたジレットは自分に火が降りかからないように「まぁまぁ」と適当な事を言いながらズルいポジションを維持する。もはや少女を助ける者はいなかった。
「うーん、まぁ、俺も新しいの買ったし、これはお返ししますね。それじゃあ、ケルベロスさん。そこで待っていてね」
勝手に有害図書認定した漫画本を返したが、マレードが残酷にも無垢な少女から権利を奪い、じゃん☆こうたに会う機会を得たのだ。第三者から見ればその姿は突然みかじめ料を徴収に来たヤクザの様だっただろう。
「待って下さいよ!! 鬼!! 悪魔!! 魔王の手下!!」
少女の叫びは空しく空気を揺らしただけであった。彼女に残されたのはテーブルに乗ったスイーツのみ。朝からウキウキ気分で準備してきたものがばらばらと崩れ去ったのだ。
そして、仕方なく目の前のケーキを口にするが、しょっぱい涙の味が更なる涙を誘った。
「あれぇ? お嬢さん。一人でどうしたの?」
一人で嗚咽の声を漏らしながらケーキを頬張るケルベロスに怪しい男たちが声をかける。ケルベロスはプイっと顔を横に向けたが、男たちはテーブルを囲うアーチ状のソファに無礼にも侵入してきた。
「泣いてちゃ分かんないっしょ。僕たちが相談に乗るよぉ それと名前を教えて欲しいなぁ」
ケルベロスを囲うと男たちがねっとりとした声で語りかけ、身体を近づける。男たちの目的は明らかであった。彼らはいたいけな少女とのスキンシップを望んでいたのである。
置き去りにした少女に危険が迫っていた事などつゆ知らず。サイン会を終えた二人は上機嫌だった。ジレットは憧れの漫画家と会えたことに感激し、マレードは職務にだらしのない上司に喝を入れる事が出来た事に満足していた。
「ただいまぁー 待たせてごめんね」
マレードは家に帰ったかのような能天気な挨拶をして、レストラン店内の角席に待つケルベロスの元に向かった。
「ホント酷いやつっすね~ なんなんすか!!」
だが、そこには数人の若い男を侍るケルベロスの逆ハーレムが誕生していた。それは、席の形状も相まってホストクラブに迷い込んだようであった。
「あのー、君たちは?」
ジレットがガラの悪い男たちに声をかけると、彼らは同時に鋭い目つきでこちらを睨んだ。
「ケルベロスちゃん。もしかしてこいつらっすか? パワハラ上司ってのは?」
「え? パワハラ上司? どういう事でしょう?」
マレードがケルベロスに声をかけると、少女は不機嫌な顔でプイっと顔を背けた。
「やっぱりこいつなんすね? 確かに怪しいサングラスなんかしちゃって、堅気じゃない雰囲気っすわ~」
ケルベロス親衛隊と化した男たちはマレードとジレットに明確な敵意を向け、今にも飛び掛かってきそうな態勢を取り始めた。彼らの当初の目的は言うまでも無く獣人少女の魅力的な体であったが、彼女の涙の訴えに同情の念を抑える事が出来ず、一人、また一人と彼女の騎士になる事を宣言したのだ。
「まぁ、まぁ、皆さん落ち着いてください。あ、これこれ。じゃじゃーん。サイン入りの漫画だよ~」
何がいけなかったのかいまいち分かっていないマレードは鞄から『姫と宰相の娘はお爺ちゃんっ子 王様困っちゃった(汗)』を取り出し、親衛隊を介してケルベロスに渡した。
ケルベロスは最初ぱぁっと笑顔になり、ページを捲ってサインを確認したが、見返し部分を見た瞬間、またしても大粒の涙を落としながら泣き出した。
「うわぁぁぁぁぁん!! 酷い…… 酷いよぉおお!!」
「どうしたんすか? うわ…… これは……」
漫画に刻まれたじゃん☆こうたのサインを見てケルベロスサイドに動揺が走る。砦に立てこもる兵士たちに、敵から捕虜の首が送られたかのような動揺だ。
「え? どうしたの?」
マレードが袖で涙をふく獣人少女に近づいて事情を聞こうとすると、それを遮るように親衛隊の一人が漫画の見返し部分を開いてマレードとジレットに見せた。そこには、コップの水滴で出来た染みによって滲んだ「歪な文様」が刻まれていたのだ。
「あーこれは酷い……」
ミミズが這った跡の様な文様を見せられ、マレードも状況を把握したがサインの価値を理解していない彼は「で? それがどうしたの」程度にしか思っていなかった。
「バアルさん。彼女に謝った方が良いですよ」
ここまで傍観者だったジレットがマレードに謝罪を提案した。だが、マレードは自分が何をしでかしたか分からない様子で首を傾げた。
「はぁ、では、お聞きします」
その様子に心底呆れたジレットはマレードの理解を促す為に問いをかけることにした。
「例えば、ジーマ帝国皇帝から下賜を受ける事となって、その当日、いきなり他人にその権利を奪われたらどう思いますか?」
「どうって……別に……」
マレードは皇帝から下賜を受けた事など無かった。故に、自分と皇帝との関係は見返りを求めるものでは無いとの考えがあったのだ。
「うーん。では、質問を変えましょう。もし、長く離れている貴方の家族が会いに来てくれるという時に、他の誰かによってその希少な機会を奪われたらどう思いますか?」
「そりゃ許せないですよ。その者の地位を破壊しに行きますね…… あっ!」
マレードの頭に浮かんだのは父母ではなく寮暮らしの愛妹の事だった。ついこの間も彼女との時間を奪われてイラついたところであった。そして、この例によってやっとケルベロスがここまで悲しんでいるのかを理解した。
「なるほど。そういう事か……
ケルベロスさん。俺は酷い事をした。申し訳ありません」
じゃん☆こうたの魔書は有害であるという価値観を人に押し付け彼女を傷つけていた事を理解したマレードは頭を下げて獣人の少女に謝罪した。
だが、彼女はそっぽを向いて謝罪を受け入れない。その様な彼女の態度は当然であるとマレードは分かっていた。こういった事はより大きな何かによって返償しないと納得は得られないだろう。
「ケルベロスさん。今日お時間ありますか??」
マレードが言葉をかけてもケルベロスは顔を見せない。だが、ふさふさの耳がこちらを向いている事から、話を聞いている事は分かった。
「貴方に会わせたい人がいます。どうか俺に時間をください」
顔を視ずともマレードが真剣なのはケルベロスにも分かった。だから言葉ではなく、頷く事で回答した。
ケルベロスの声なき返答を見たマレードは邸宅の鍵をジレットに渡すと、すぐさまメモ帳に自宅住所を書き込んで、それを破ると続けて渡した。
「ケルベロスさんとここで待っていてください。あと、俺以外の訪問者が来ても開けなくていいですから」
早口で言いたい事だけジレットに伝えると、マレードは駆け足で店を出て行った。残った者達は呆気にとられ、黙って彼を見送った。
マレードは走った。目的地は王城。ここからならそう遠くない距離にあった。そして、道中マレードは常に横を走る車を観察していた。
(もう終わったのか? それともまだなのか?)
彼が気にしていたのはじゃん☆こうたのサイン会の経過であった。道路を走る車を見ていたのはサイン会を終えたジャール一世が通る可能性があったからだった。
「はぁ…… はぁ……」
城には三つの出入り口がある。一つは正門。二つ目は迎賓門。もう一つは物資の搬入や、職員の出入りに供される門だ。俺は第三の門の前に向かい、スータマの女学校の時と同様にこっそりと観察する。
門には二人の衛兵が立っているのが確認できる。彼らはただの衛兵ではない。ジャール一世の裏の姿を守るスペシャルアーミーなのである。それがそこにあるというのは未だ彼が帰還していないという証なのである。
「良し間に合った。あとは…… いや、考えても仕方がない」
ケルベロスさんに対してあのような事を言ったが、正直それが出来る確証は無い。だが、これは俺が蒔いた種。何としてもやらなきゃいけない。
それから数分の後、辺りをきょろきょろと見回しながら歩いてくる怪しい男がマレードの視界に現れた。男は衛兵に手を振ると、衛兵も敬礼で答え、彼の背後を守るように城内へと入っていく。それは間違いなく皇帝の帰還であるとマレードは確信した。
「さて行くか。優雅に。堂々と」
皇帝の後を追うようにマレードも城内の裏口へ近づく。そして「この顔が目にはいらぬか!!」といわんばかりにサングラスを外して奥から現れた別のスペシャル衛兵に顔を見せる。
「宰相閣下! 今宰相府にいらっしゃる筈では?」
「宰相府には我が秘書を残してある。それより皇帝陛下に謁見願いたい。早急の用事だ。陛下は何処に?」
などとマレードは言ったが、皇帝が城内に帰還したばかりだという事は知っているし、恐らく自室兼じゃん☆こうたの仕事場に繋がる廊下を進んでいるのだろうと予測していた。
「陛下はその……」
「分かっている。それでは通させてもらうぞ」
俺には時間がない。可能なら皇帝陛下が自室にこもる前に手を打ちたいのだ。
足は自然と早くなり、強歩と走りの間で皇帝に接近する。そして、見えた三人の人影。うち二人は先の衛兵。もう一人は隠す必要のなくなった顔を晒し、スーツの上に豪華なマントを翻すジャール一世で間違いなかった。
「陛下。お待ちを!!」
俺は安堵していた。声も疲れ混じりであるが軽やかだ。
「ん? げぇ、マレードか。なんだ? どうした騒々しい」
サイン会での嫌な経験がジャール一世の顔を歪ませる。
「陛下にどうしてもお伝えしたい事がありまして……」
マレードの接近は有能な衛兵によって遮られたが、声を届かせるのは十分な距離を確保した彼はたまった唾を飲み込むと、獣人少女の為に言葉を繰り出した。
「本日、素敵な出会いがあったのでございます!!」
マレードの迫真の言葉にジャールはピクンと反応する。
「幸運な事に、以前よりわたくしが尊敬していた『姫と宰相 できちゃった婚からの恋愛もあるよね!』の作者、じゃん☆こうた先生にお会いできたのです」
屈辱的な言葉、二度と言わんとしていた魔書のタイトルを口にしながらマレードは口を咬んで恥辱に耐える。
「おお!! そうかそうか。尊敬しとったか!! いやー、てっきり私は嫌われたものとばかり……」
ジャールはマレードの放った言葉に貪欲な魚のように食いついた。
(うわっ! チョロぉ……)
そのあまりのチョロさにマレードも思わず頭を抱える。だが、彼にとってこれは好都合。更に話を進めるチャンスだ。
「しかし、とても悲しい事があったのです。このいつまた巡り合うかもわからぬ出会いで頂いたサインが“な・ぜ・か”滲んで崩れてしまったのです」
「あー、それは何と…… いやーすまぬ。あの時はどうかしていて…… ああ、そうだ。もう一度サインを授ける機会を与えよう。今すぐでも良いぞ!! ほら!!」
歓喜で自分が揺らぎ、じゃん☆こうたはマレードが欲する言葉を次々に並べた。
「陛下!!」
「何か? 今重要な話をしているのだ」
「陛下は“今は何者”なのですか?」
その様子を危惧した衛兵の一人がジャール一世に声をかけ、揺らぎを止めようと試みる。
「え? そりゃあ勿論、じゃん☆こ…… あっぶねぇ~ 私皇帝だったわ」
皇帝も自分の危うさに気付いたが、実際の所もう手遅れであった。
「えっと、どうしよう……」
先に述べた事と自分の立場に整合性が取れず、ジャール一世は眉を斜めにして答えのない答えを探し始めた。
「つまり、こういう事でしょう。“陛下がその人望をもってじゃん☆こうた先生を召集し、わたしめに新たなるサインを授けてくれる”そうなのでしょう?」
「……ああ、そうだそうだ。えっとぉ~ あやつに話をつけるのにも準備がいるのでな。
そうだな…… 二時間後に城の一室で執り行う事にしよう」
プライベトサイン会を城で行う漫画家とか前代未聞空前絶後だ。だが、うまく話しは進んでいる。
「ありがたき幸せ!!
それとですが、私の友人もお連れしてよろしいでしょうか?」
ジャール一世が上機嫌で判断能力が鈍っている間にマレードは最後の要求を加えた。
「友人? まさか女ではないだろうな!!」
「わたくしの心は常に皇女殿下のものでございます」
ジャール一世の鷹の様な睨みと強い言葉にも怯まずに、いけしゃあしゃあとマレードは胸に拳を作ってそう回答した。
「……ふふふふふ。分かっているじゃないか!! では、二時間後に友人とやらも連れてこい。あ、でも十人とか二十人とか連れてくるなよ!! わた…… じゃん☆こうた先生とやらも疲れているだろうしな」
上機嫌のジャール一世は足を弾ませ、鼻歌を歌いながらその場を去っていった。残された二人の衛兵はマレードに小さく頭を下げると彼に続いて速足で去っていく。
三つの人影がマレードの視界から消えると、彼は突然疲れたように膝を落とした。これは疲労ではなく、安堵によるもので、自分が傷つけてしまった少女への贖罪が出来る事に微笑んだ。
「うわー、凄いですねぇ~ アスタロトさまの邸宅みたい」
「いやぁ、これは凄い。築何年何ですかね」
マレードに言われた住所に親子の様な身長差の二人が訪れると、その荘厳さに思わず二人は感嘆の声をあげる。
「入っちゃっていいんです……よね?」
「ああ、鍵も預かっていますしね」
その荘厳さは入るのを拒むほどのプレッシャーを放っていた。この先に行くと館に飲み込まれ戻れなくなるような予感、野獣の住まう古城に侵入する老人の様な感覚だ。
「ここで突っ立っていても仕方がありません。僕たちは客です。そうでしょう?」
「うん……」
まず、大門を開けると、その先は整備こそされているがあまり“人”の匂いが無い庭。夜を照らすぼんやりとした灯りの下、肝試しのカップルのように言葉なく進んでいく。
「さて、開けますよ」
「はい」
主のいない屋敷の正門、その扉を二人は息を飲んで開ける。傍から見れば不慣れな盗人のようだ。
扉を開けるとそこは闇。街灯と月に照らされ、室内の絨毯の一部が確認できる位だ。だが、そこに一歩立ち入ると、辛うじて右に証明のスイッチが見えた。
“カチッ”
電源をつける小気味のいい音と共にエントランスにつり下がるシャンデリアが辺りに光を届かせ、室内の装飾が鮮明に浮かび上がる。
「わぁ……」
魔界ではあまり見られないような装飾に獣人少女は驚いてばかりだ。共に、コンクリートカントリーと揶揄される近代国家で暮らしてきた青年も周囲を興味深く見回した。
今の二人には先の様な怯えは無く、ただ素晴らしい文化の一端に触れた事に感動していたのだ。
「さて…… どうしましょう」
だが、二人の目的は屋敷の鑑賞ではなく、ここで待機する事。慣れない雰囲気に安心できるはずもなく、屋敷の構造もどこで待っていればいいかも知らされていない。
その為、二人はどこに行くでもなく、ただエントランスで過ごすほかなく、もぞもぞとした気持ちで館の主を待った。
それから三十分ほど経ち……
“ジリリリリリ”
「マレードです。お待たせしてすみません!!」
主は意外と早く来客ベルと共に現れた。だが、二人にとっては一秒が十秒にも思えるような状況であり、特にケルベロスにとっては生理的事情から、修行の為の“時間が引き延ばされた部屋”にいた様な心境であり、扉を開けてマレードの顔を見るや否や「お手洗いはどこですか!?」と叫んだ。
それに対し、目線と指で視覚的に場所の情報を指し示しながら「一階の隅の部屋です。そこを右に行って突き当りですね」と彼女に告げた。
「ありがとうございます!!」
そう言ったケルベロスは、スイーツ☆楽園で調子に乗って飲み食いした事を後悔しながらマレードが指し示した場所に走っていった。
「お疲れ様です。それで……」
「ああ、二時間ほど時間がありますので、食事などいかがですか? それとも時間が無いですかね?」
ジレットはコートを脱ぐマレードに自分たちを待たせた目的を訊こうと声をかけたが、その前に別の質問を返した。
「ええ、構わないですが……」
食事についての提案に同意の意志を示すと、マレードはすぐさまキッチンの方に向かって行ってジレットは目的について訊く機会を逃してしまった。
「ホント、マイペースな人ですね。それに……」
ジレットは周囲を眺め、エントランスから見える扉の数を数えた。
「7部屋、いや、8部屋ですか」
それ程の規模の館にも関わらず、ここにはメイドなどのスタッフの姿は見えず、今食事を作りに行ったのは館の主であるマレードで雇われのコックではない。それがなんとも不思議であった。
――蕩けるチーズとベーコンそしてコショウの香りが館の一階に漂い始めると、馬鹿食いをしたケルベロスの腹も獰猛な呻き声を上げる。
エプロンをした宰相閣下が二人の下に現れると、レストランのウェイターのように食堂に案内した。そこには既にサラダとぶどうジュース、デザートの蒟蒻ゼリー、そして香りの元であるカルボナーラが三人分用意されていた。
「うわぁ」
ケルベロスは目を輝かせ、並べられた料理の前に駆け寄ると、犬のように息を荒くした。
「どうぞ召し上がれ」
少女はその言葉を待っていた。
椅子にお淑やかに座ると、目の前で両手を合わせてフォークを握る。
「ジレットさんもどうぞ。あまり時間は無いですので」
教育の施された獣人の少女は二人が席につくまで料理に手を付けなかった。その様子を見てジレットも彼女の対向にある席に座り、主人であるマレードが席につくのを待った。
そして、コック兼ウェイターのマレードは二人に続いて席に座り、食事の儀礼を行うと、幸福の時間が始まる。
マレードの料理の腕は高級料理店のシェフには劣るものの、人を喜ばすには十分であり、彼のもてなしを受けた者達は総じて喜びの反応を示した。今回もその例に漏れず、二人のゲストはその味に心が温まる思いであった。
「そういえば、マレードさん。この館にはメイドさんとかコックさんとかいませんよね?」
皿半分まで腹に収めたとこころでジレットは先の疑問をマレードに問うた。
「ええ、居ませんよ」
「こんなに大きい屋敷なのに何故です? お庭を見る限り庭師は雇っているみたいですのに」
ジレットの言葉でその不可解な点に気付いたケルベロスは頭を縦に振り、食事の手を休めるとジレットと共にマレードの顔を見つめた。
「…………お二人は幽霊を信じますか?」
「ゆーれい?」
その言葉にケルベロスの背筋は寒くなる。
「この館には不思議な部屋があるのです」
科学文明や魔法文明が進んだ大陸において、器無き精神体が自由に何かをするなど信じられるわけもなく、ジレットとケルベロスは冗談だと思って笑った。だが、話はここで途切れず、マレードは言葉をつなげていく。
「二階の西にある部屋の前で、ある者は不思議な声を聞き、ある者は発狂しそうなほどの不快感を覚えたそうです。そして一番恐ろしいのは、その部屋に入った勇敢な男が忽然と消えた事です」
「消えた?」
古い洋館のオカルト話に二人は息を飲んで耳を傾ける。
「ええ、公安と警察は部屋の調査を始め、男の行方を追いました。だが、国内のどこを探しても彼は見つからず、諦めかけていた時、意外な場所で彼は発見されました」
「ま、まさかそれってあの……」
ジレットはその話に心当たりがあったらしく、驚きの表情で言葉を漏らした。
「“トキオ異邦人事件”彼はトキオの駅前にてそのままの姿で発見されました」
「ええ、僕も覚えています。入国記録がないジーマ人が保護されたと…… 確か、彼は“人影に連れて行かれた”やら“無理やり扉から突き落とされた”など意味不明な事を言っていたとか」
“トキオ異邦人事件”―いつ、どうやって入国したのか分からない男がトキオ合衆国国内で発見された。彼の意志はしっかりしており、名前と国籍を覚えていた為、ジーマ大使館へと送られた。その際、彼は奇妙なものを見たと供述しており、この事件は一種の都市伝説と化してトキオの若者の間で話題になっていた。
「いやー、驚きましたよ。あの事件にそんな裏があったなんて」
ジレットは好奇心旺盛な子供のように笑い、ケルベロスは苦虫を咬んだような顔でそれを見ていた。
「それから公募しても誰も来なくなったという訳です。信じるか信じないかは貴方次第」
そう言って二人の間の空間を指差し、マレードはチラッと奥にある振り子時計の文字盤に目をやった。無駄話の間にそれなりの時間が経過していたのだ。
「ああ、もうそろそろタイムリミットですね。どうぞ二人とも食事を続けて下さい。ゆっくりと、素早く」
矛盾した注文であったが、「早く食べ終わってね」という意思は伝わり、二人は完食へラストスパートをかける。
“ジリリリリリリ”
そして、食後の一口を終えたあたりでけたたましい来客ベルが鳴った。
「さて、行きましょうか」
片付ける為に食器に手を伸ばした二人を制止させ、マレードは彼らを出入り口に急がせた。二人は意味も分からず、満腹の腹を抱えて彼の言うとおりにエントランスに向かう。
「お待ちしておりました宰相閣下とそのご友人様方」
扉を開けた先にはジーマ帝国王城を守護する衛兵。そしてその後ろにはアーチ工業国の黒いリムジン車が止められていた。
「こうて…… じゃん☆こうた様がお待ちです。さぁ、お早く」
衛兵の言葉にケルベロスの瞳は星屑の輝きを灯す。マレードが自分の為に憧れの漫画家と会う舞台を設定した事を理解したのだ。
「マレードさま…… あの、その……」
「もともとは俺の責任ですから礼はいりませんよ。さぁ、早く乗ってください」
「はい!! ありがとうございます!!」
いらないと言ったのにもかかわらず、少女は元気に感謝を述べた。その様子にマレードは後頭部を掻きながら俯き、嬉しそうな笑顔を隠しながら照明が消えた事を確認すると、正門の扉を閉めてから二人を追った。
「楽しみですぅ」
歓喜の興奮で何故一介の漫画家に会うのに衛兵の迎えが来るのかなど二人は微塵も気にしていない。
だが、到着した場所がこの国の中心たるキャッスルであると分かり、流石に二人は異変に気付き怪訝な顔でマレードを見つめた。
「ここ……お城ですよね? じゃん☆こうた先生は本当にいらっしゃるのですか?」
いやー、難しい質問だ。じゃん☆こうたは間違いなくここにいるし、あの男は文字通りここを根城にしている。だが、同時に彼はここにいない事になっている人物でもある。
「城の者が不思議な力を行使して、じゃん☆こうた先生をここに召集されたのです。
ささ、遠慮などせずどうぞこちらへ。皆さまはお客様なのですから」
疑いの目を向ける少女の言葉を衛兵が上手く返し、入城への遠慮を取り払う。そして二人は初めて地上の城へと進んでいくのであった。
「こちらです」
衛兵が示したのは入口から最も近い大部屋『迎賓の間』であった。そこは社交界や晩餐会などで使われる部屋であって、サインをする部屋としては余りに不相応な場所である。
「げぇ……」
はっきり言っていい予感はこれっぽっちも無かったが、扉が開かれ部屋の内部が露わになるとその異質さに俺も声を出さずにはいられまい。
社交ダンスなどが開かれるほどの長方形の大広間。その奥にあるは皇帝の座。君主の座るべき場所には何人もおらず、その前方に場違いな長机が置かれていた。そして、その中心にこの国の君主がサイン会の時と同じ格好で座していた。
「あ、あの方は…… じゃん☆こうた先生!!!」
興奮状態のケルベロスにとってこの空間の異質さは取るに足らないものであった。彼女は衝動のままに足を前へ、前へと進めていく。マレードとジレットも彼女の一歩後ろの距離を維持して大きい部屋を縦断した。
「やぁ、よく来たね」
緊張した様子は全くなく、じゃん☆は初対面の少女に声をかけた。三人がここに来るまでに様々な状況を想定して会話の練習をしていた事は本人にしか知らぬ事だ。
「はい!! アリーザ・ケルベロスといいます!! えっと、まか……じゃなくて、テルカ村から来ました!!」
背筋をピンと伸ばしてケルベロスは返事をした。その愛らしい姿をマレードとジレットは授業参観日の父母のように温かい目で見守っていた。
「テルカ村…… と言えば、娘のテーマパーク“わんぱくわんにゃんランド”がある場所だな」
「はい。 ……娘さん?」
「え? いやいや、娘が好きなテーマパークという意味だよガハハ」
愛らしい娘を見るのと同時に、危なっかしい上司を見ている気分だ。いや、後者は気分ではなく事実か。
「うん? そう言えば君の姿どこかで…… ああ!! “わんぱくわんにゃんランド”の銅像だ!!」
“わんぱくわんにゃんランド”において来場者たちをもてなす第二皇女フィーナ姫の銅像。その足元にケルベロスの銅像が並んでいたのをジャール一世は思い出した。無論直接見たわけではなく、遊園地に関する資料の中にこの銅像の写真があった事を思い出したのだ。
「ひやー 恥ずかしいです……」
正直な所、ジャール一世はケルベロスの銅像について複雑な心情を持っていた。当地の有力者の家系であり、フィーナ姫とも良好な関係を築いているそうだが、“姫の為”の施設に他の者が入り込むのが多少不満であった。だが……
「いやー結構結構!! やはり祭りの場は華やかでなくてはな!!」
直接見るケルベロスの愛らしさに、ジャール一世の不満は消し飛んだ。
「えっとぉ、先生!! サ、サインをお願いします!!」
鞄にしまっていた『姫と宰相 できちゃった婚からの恋愛もあるよね!』一巻を取り出すと、ケルベロスは他のファンと同様に見返し部分を開いて差し出した。これこそが彼女がここに来た最大の目的であった。
「ははは、そうだったな。貸してみるがよい」
豪快に笑うと、じゃん☆は受け取った漫画を机上に置き、慣れた手つきでペンを滑らせる。無論これも三人が来る前に練習したのだ。
「はぁーー ありがとうございます!! 先生!!」
漫画を受け取ると、ケルベロスは不満な胸にそれを沈めて抱きしめながら、ツインテールを揺らして飛び跳ねる。尻尾も感情を誤魔化すことなく右へ、左へと宙を踊る。
「ああ、それとだね。君たちはそこの男…… 宰相閣下の友人という事だそうだから特別に―」
声をかけてケルベロスを落ち着かせると、じゃん☆は足元の鞄の中に隠していた色紙を一枚取り出し、それを机に置いた。
「えっと、ケルベロスさんだったね。ケルベロスさんが好きなキャラクターは誰かな?」
じゃん☆が何をしようとしているか、ケルベロスは直ぐに理解し、今にも心臓が飛び出そうになった。
「ムード宰相さまです!!」
『姫と宰相 できちゃった婚からの恋愛もあるよね!』の主人公の片割れの男の名前を挙げるケルベロスの瞳は迎賓室のシャンデリアの光の下で宝石のように輝いていた。そして、じゃん☆はその回答を聞くと、筆を色紙に乗せつつマレードの方に顔を向けてニヤリと笑った。
(何が言いたいんだこのクソ中年は)
上司のその態度にマレードは心でそう思ったが、目の前にいる愛らしい少女を見つめる事で心の安定は直ぐに得られた。
(ワクワクワクワク)
少女は期待と尊敬の眼差しで、色紙の上を踊る黒いペンを見つめた。少女を見つめていたマレードもその舞踊に自然と目が行き釘付けになった。
白い舞台の上で線が重なり、交差し、明暗を作りながらそこに描かれたものが徐々に生命を得ていく。その、一糸の狂いも無い舞踊は漫画に関心のないマレードの心にさえ、ケルベロスと同様の期待の念を芽生えさせた。
マレードは完成した絵は見た事があっても、それが出来るまでの過程を知らない。それはじゃん☆の特殊な身の上が理由であるが、マレードはそれを知ろうともしなかった。
だが、ここで初めて彼は理解した。これは彫刻や絵画と同じ芸術。才能という武器で人々に喜びや感動を与える作品であるという事を。
「よし完成だ」
色紙にはニヤケ面の男の絵が描かれていた。黒髪の一筆一筆は力強く脈動し、輪郭は男の存在を浮き立たせる。そして瞳の明暗は作品に生命を与えていた。
「ふわぁ……」
色紙を受け取ったケルベロスは恍惚の表情で男の顔を見つめる。その様はまるで描かれた架空の男に恋をしているようだ。
「おっと、忘れる所だった。お嬢さん。少しそれを貸してくれ」
何かを思い出し、じゃん☆は色紙をケルベロスから回収すると、色紙の右下にある空きに筆で文字を刻む。
“アリーザ・ケルベロスさんへ”
最高のプレゼントだ。その一言が載せられたことによってこの作品は、他の誰でもない彼女だけのものとなった。
「あ、ありがとうございます先生!! 今日の事絶対に忘れません!!」
少女の目に輝いていた星屑は、感涙となって溢れ出した。この突然ともいえる出来事が、彼女の心を揺さぶるエッセンスとなって感動をより明瞭なものとしていたのだ。
「さて次は…… そこの君」
じゃん☆が呼んだのはマレードの横で羨ましそうな顔を浮かべていたジレットだった。じゃん☆は彼を傍に寄せると、色紙をもう一枚取り出す。
「君は今日のサイン会に来てくれた青年だね。描いてほしい人はいるかい?」
じゃん☆はジレットの事を覚えていた。というのも、彼の記憶力がひと際優れていたのではなくて、恐怖の前触れとして彼の事が心に焼き付いていたのである。
「ジレット・B・エアウェイと言います…… えっと、僕はフォリオ姫が……」
趣味に対して饒舌なジレットも場所と雰囲気の所為か大人しかった。
「よろしい、では……」
じゃん☆が作品を描いている間、誰もが静かになる。不相応に広いこの空間にただ、筆と色紙の摩擦音とほのかな心臓の鼓動が耳を触る。
「よし。出来た。流石私だな」
“ジレット・B・エアウェイ”の名も刻まれた色紙をジレットに渡す際、じゃん☆は文字通りの自画自賛をしたが、それを非難する者はいないであろう。まさに職LV30のなせる業であり、同時に彼の比類なき才能を示すものであった。
「ありがとうございます……」
ジレットは感動のあまり言葉も出ない。ただ、絵を渡されただけに過ぎないが、じゃん☆には普通以上に人の心を揺さぶる魅力があるのだ。
「次が最後だな。マレー…… 宰相閣下。どうぞこちらに」
じゃん☆のサービスはこれで終わりではない。というか、主目的はマレードに改めてサインを送る事であった。
「え、いや…… まぁ、はい」
正直、マレードは彼のサインなど欲しくはなかった。だが、サインを欲しいと懇願したのは事実であり、彼はじゃん☆の施しを受ける以外の選択は無かった。
「まずは漫画を出すがよい。丁寧に扱うのだぞ」
サイン会で自分の漫画が乱暴に扱われた事に不満だったじゃん☆はマレードに注文を加えつつ、落書きの様な文様入りの漫画を差し出す様に告げた。
「はいはい」
適当な返事をしつつ、マレードは彼の要求に答えて漫画を取り出すと、閉じたままテーブルの上にそっと乗せた。
それは、芸術家としてのじゃん☆に対する敬意と不養生な上司に対する嫌味が混ざり合った混沌の態度であった。
「今度は大丈夫だ。 私は漫画家じゃん☆こうた…… 私は漫画家じゃん☆こうた……」
ぼそぼそと自己暗示をかけながらじゃん☆は筆をとり、既に文様が刻まれた見返しと逆の見返しを開いて筆先を当てる。
複職を持つ人間にとって最も簡単な切り替え方法は“特例の立場としての自分の名”を呼びかけることであり、じゃん☆の行動は理にかなっているが、傍から見れば中二病か情緒不安定なイタい奴にしか見えない。
「はぁはぁ…… 私はやったぞ やってやったぞ」
ケルベロスに対してやった時とうってかわって、じゃん☆は息を荒くして自分のなした事を誇った。そして漫画をマレードに渡す際、優しい笑顔ではなく、にやけたしたり顔を見せた。
「さてと、ああ、お前の好みのキャラクターは分かっとる」
どうやらマレードにも色紙を渡したい様で、じゃん☆はすぐさま次の作業に移った。彼が描くのは時に厳しく、時に慈悲深い髭を蓄えた男―クシャール王。その姿をどこか嬉しそうにじゃん☆は形作っていく。
芸術が組み上がっていく過程に、マレードは目が離せず、鼓動が強く、早くなるのを感じていた。
まったく、不思議な感じだ。このような機会が無ければ、俺はこの先ずっとあの魔書を侮蔑と嫌悪の対象としていただろう。そして、なぜこの漫画が評価されているのかを知る事も無かった筈だ。
威厳深き王の姿が書きあがると、じゃん☆はそれにとどまらず、彼に加えて寄り添うような男女の姿を描き加えた。ムード宰相とフォリオ姫だ。絵の構図は睦まじい二人の様子を厳しく、そして優しい瞳で見守るクシャール王というものになり、それぞれ感情が伝わってくるかのようである。
じゃん☆の力強い筆遣いでマレードの名が記された事で、ここで絵が完成したという事が示された。
じゃん☆は中途半端だった。自己暗示をかけても身の内にあるジャール一世を隠し切れなかった。
「頼んだぞマレード……」
色紙を忠臣に贈る際に出たこの言葉が、その事を示していた。
「…………」
マレードもジャール一世の心を受け取った。だが、安易に返事をする訳にはいかなかった。この色紙はじゃん☆としてではなくジャール一世として、マレードに贈られたものであり、そこに込められたものは彼に対する“期待”であった。期待とは即ち、姫と共にこの国の未来を託すという事であるが、マレードは自分がその器では無いという事を理解していたのだ。とにもかくにも、この作品はマレードにとって初めての下賜である事には変わりなく、彼の心に熱いものがあったのは確かであった。そして、膝を折る事を我慢し、マレードは色紙を丁寧に受け取ると、忠誠を誓う君主に一礼した。
「ふふふ。
よし、これで全員だな。私はこれで失礼するよ。みなさん応援ありがとう」
優しく笑った後、じゃん☆は“秘密のサイン会+α”の終了を宣言し、衛兵を侍らせて三人の拍手の中、迎賓室を去っていった。
じゃん☆の姿が見えなくなってもしばし拍手は続き、三人はこの時間を尊く思っていた。
「さて、俺達も退散しましょう。お二人はどうします? うちに泊まりますか?」
拍手の音を小さくすると、マレードは二人にそう問いかけた。時間は戌の刻間近であり、興奮による覚醒で隠れてはいるものの、ジレットとケルベロスは疲労していた。
「いえ、お心は有難いのですが、僕とケルベロスさんはホテルをとってありますのでお構いなく」
ジレットの回答にケルベロスは強く頷いた。どうやらここに来る前にした“霊”の話に少し怯えているようだ。
「では車でお送りしましょう。ホテルは帝都ホテル『インペリアル』ですか?」
「いえ、三番街にあるマガーリです」
ホテル『マガーリ』は所謂ビジネスホテルで、トップアイドルや地主の娘が泊まるには些か不釣り合いだった。
「では、車も目立たない方が良いですね」
立場上、色々あるのだろうとマレードは察し、あえてその事に触れず、傍にいる使用人に適当な車を手配するよう要請した。
――城での特別な時間は終わり、魔法が解けたかのような普通の車に三人は乗り込んだ。マレードも二人を送った後にこの車で自宅まで連れて行ってもらうつもりであった。
因みにこの車、見た目は普通でも中は特別であり、豪華な内装と共に、運転席と客席がセパレートされており、客席の音が運転席に聞こえない仕様になっていた。主にお忍びなどで皇族が利用する車であり、最低限のものは備えられているのである。
「それにしてもマレードさん。人の心を読めるのに人の気持ちが分からない方なんですね」
ジレットがマレードの顔を見て煽るようにそう言った。それが今日一日を通して彼が得た情報であり、図星であったマレードは反論する舌を持たなかった。
「でもぉ…… 人の心が読めるのと、人の気持ちが分かるのは違うかもしれません。むしろその能力が人の気持ちを理解する足かせになっているのかも」
ジレットが放った会話のボールはケルベロスが投げ返した。そして、彼女はボールが戻って来るのを待たず、話を続ける。
「人の気持ちなんてきっと誰にも理解できないのかもしれません。だって、“愛”という感情にも様々な色があるんですもの……
きっと、私には理解できない。私のタレント《渇愛》がそれを許さない……」
「《渇愛》……
自分のタレントを明かすのは信頼の証である。マレードはこの一日でケルベロスの信頼を得ていたのだ。
「制御できない呪いなんです。私は誰からも愛され、それ以外の感情を向けられることがない」
俺には彼女の言っている事の意味が分からない。人間誰しも憎まれるより愛されたい。それは普遍的な真理ではないのか?
「愛って何なんでしょう?
愛ってあるものは“風船のように柔らかくて”あるものは“蜂蜜のように甘い”そしてあるものは“ナイフのように鋭い”……
父はナイフの人でした」
少女はこれ以上の言葉を繋げられない。悲しい過去が心を締め付けるのだ。
「ここからは僕が話しましょう。いいですね?」
割って入ったジレットがケルベロスの許可を求め、ジレットが代弁する事を彼女は首を縦に振る事で了承した。
「アリーザ・ケルベロスの父君、ウォルフガング・ケルベロス卿は家族殺しの罪で今も魔界の監獄に収監されています」
「家族殺し……」
不快な言葉に思わずマレードは息を飲み、身体を固くする。
「ええ、妻と三人の子供を殺したのです。彼女はその生き残りなのですよ」
「でも、どうしてそんな事を……」
ウォルフガングのした事は極めて非道であり、非合理的だ。それを実行させるに足る理由とは何だろうか。
「愛故に……です」
「愛って…… なんで愛で人を殺すんだ!! そんな事って……」
殺意というのは憎しみの発露、危険の反応として生じるモノというのは極めて当たり前で、一般的なものである。マレードは愛情と殺意が同期するという矛盾に感情を荒立てる。
「父はそういう人だったんです。“愛おしいからこそ、誰かの手で汚れる前に殺してしまった”あの人はそう司法官の前で言ったそうです」
目的地のホテルに到着した事で話は途切れた。車を出る二人に手を振って見送り、凄惨な過去を持つ少女の事を考えていた。
(とてもそんな風には見えない。俺が彼女に初めて会った時も彼女の表情は明るかった)
等と考える時、ジレットさんが指摘した事が心を貫く。つまり、俺は人の気持ちに無頓着なのである。人の心を読む事は人の気持ちを理解する事とイコールではなく、所詮わかるのは「何を考えているか」で「なぜそう考えているか」ではない。つまり、タレントが足かせになっているというケルベロスさんの指摘も図星だったわけである。
「はぁ……」
思いを巡らせると、最終的に出たのは自己嫌悪の溜息であった。
そして、安らぎの我が家に到着した時、愉快では無いものが門の前に立っているのが見えた。翠のサッシュをかけた若い軍服の少年。翠はオーティマ宮に属している証であり、彼がここにいる理由は一つだろう。つまり、第二皇女の親書、もとい病院送りの日程が書かれた果たし状をご丁寧に持ってきたのだ。
「ご苦労。待たせてしまったかな」
俺は彼が持っているであろう紙切れに対する畏怖の念を振り払って、気丈に声をかけた。
「いえ、とんでもないです宰相閣下。
こほん、オーティマ宮より宰相閣下あてに親書がございます。お受け取りを」
少年が差し出した書状にはデルタ皇家のレンゲツツジの印が押されており、マレードは心に重いものを抱える心境でそれを受け取った。人前でなければ爆音の溜息をついていた事だろう。
「確かにお渡しいたしました。
それと閣下……」
ダウナーなマレードに少年は妙に嬉しそうな顔で話を付け加えた。それは、この果たし状と並んで不愉快なものであった。
「閣下も隅に置けませんね。まさか、愛人をお囲いになっているなんて~ しかもあのお声からして十代前半の少女。ええ、僕にはあの人が使用人でないことくらいわかりますよ」
(何言ってんだコイツ……)
マレードには青年が放つ言葉の意味が分からない。当然ながら彼に愛人などおらず、煙をたたせる火も無いのである。
「ああ、大丈夫ですよ。この事は墓場まで僕の内に秘めておきます。ですが、女遊びもほどほどにしてくださいよ。閣下には運命のお方がいらっしゃるのですから」
意味不明状態のマレードに更に意味不明な言葉をぶつけると、少年は満足して門の前から離れていった。
「あの子。変なものでも食べたのだろうか? それとも皇女殿下に心を破壊されたのか」
オーティマ宮付きの人間の気苦労を思い浮かべながら、マレードは屋敷の敷地内へと入っていく。そして、見慣れた屋敷の姿に違和感を覚え、胸騒ぎが走った。
「あ、あれ? 照明消したよね?」
違和感の正体は直ぐに分かった。誰もいない筈の屋敷の窓から洩れる照明の光だ。それが分かると同時に、俺は少年の言葉を思い出す。
“十代前半の少女。ええ、僕にはあの人が使用人でないことくらいわかりますよ”
彼は誰とも知らぬ少女とこの屋敷で会ったのだ。いや、声から少女の年齢を判断した事を考えると、彼は少女に会っておらず、声を耳にしただけ。そして、門の外には屋敷内と繋がる通信魔道具が備えてある。加えて、彼が使用人であるかどうかを話題にしたという事は、この邸宅にいる者だったという事で……
「今この家に誰かいる……」
結論としてそれしか考えられず、マレードは憩いの場所を目前にしているにもかかわらず、館から不安の水流が流れ込んでくるのを感じていた。




