Canzonier du vampire 9
本中、鎮魂歌はウィキペディアより引用させて頂きました。
【9e Chapitre】
サンピエール教会は教会としての役割の他に、僧会の総本部としての役割もある。その為、周りには多くの建物が連なっている。その中でも最も高く聳え立つ礼拝堂、修道士たちが神について学ぶ修道院、僧会が発行する文書を管理する公文書館、僧会の最高機関である枢機院、さらに影の支配者である長老たちもここに居座り、また編成待ちの親衛隊の剣士もこの教会群で日々鍛錬にくれているのである。「フェンリル狩り」の解散式はサンピエール教会の礼拝堂で厳かに執り行われた。負傷でラトゥールに行けず直接サンピエール教会に来た者も出席した。招集を受けた時には六十五名いた剣士たちも、解散式には十三名しかいない。生還できた剣士は全部で十七名。十三名ほどいた剛力も八名だけになった。いま四名ほど剣士が足りないが、その四名は怪我とその付き添いでサンピエール教会にはいない。そして出席した剣士全員が五体満足という訳ではない。今回の傷が原因で親衛隊を離れる者もいる。近衛隊のシャレット候も右腕と左脚をフェンリルにもぎ取られ、一旦は腕も脚も回収はしたもののノワールの混乱で紛失してしまった。特に腕に関してはノワールに呑み込まれたのを目撃されている。彼はもう剣を振ることはできない。彼らのこの後の身の振り方はまだ決まっていない。これからは剣士とは違う人生を歩むことになるのだが、明るい道はひとつもないだろう。特に混血は公国で生きる術を失くしてしまう。シャレット候のように剣を持てなくなった混血は、その後決まって人の世界にその姿を見せなくなる。混血の社会で何か掟みたいものがあるらしいが詳しい事は何一つ知らされてはいない。
ペトラルカは今回の「フェンリル狩り」で命を落した者たちに対して祈りを捧げる時、改めて自分の指揮が正しかったのか問い直した。妖魔狩りでは死傷者がでないことの方が珍しい。いや、皆無と言った方が正しいだろう。特に今回の「フェンリル狩り」では、闘う前から多くの死者が出ると予想されていた。前回の「フェンリル狩り」では、百五十年前とは言え、当時最強の名を欲しいままにしたアリオスト隊は全滅しているのだ。そう噂されても仕方なかった。
「もっと自分がしっかりしていれば、無駄に散る命や怪我人は出なかったのでは……」後悔で唇をきつく噛みながらペトラルカは礼拝堂の祭壇に飾られたブオニンセーニャのマエスタを模した聖母子像を顎を突き出すように見上げた。その不遜な態度は悔しさで溢れ出すモノを落さない為でもあった。そんなペトラルカの意に反して、フェンリルを討ち、帰路の途中でノワールに襲われ、全滅してもおかしく状況に置かれながらも多くの隊員を森から生還させたとして、その手腕は高く評価されたのだった。
「Requiem æternam dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis.~
鎮魂歌が流れはじめた。ペトラルカはただ口を動かすだけで、声を出すことはできなかった。
「フェンリル狩り」部隊の解散式の後、長子のペトラルカと近衛隊に所属する中で最も爵位の高いラウラには、今回の「フェンリル狩り」の報告書を作成するという仕事が残っていた。報告書といっても所定の用紙に決められたことを書くだけで、公文書への清書は専門の筆師たちがやってくれるのである。
ペトラルカとラウラには専用の部屋が与えたれた。彼らに用意された部屋は、四方三トーワズ足らずの大きさがあり、二人分の机を置いても十二分に余裕のある広さがあった。机は対面するように置かれ、互いが話易すいように設置されていた。ペトラルカは喜んだ半面戸惑ってもいた。そしてラウラと一緒にいられる時間もあとわずか数日しかないことを実感した。ペトラルカが席についた。まだラウラはこの部屋には来ていないようだ。
「まあ慌てることもないか……」ペトラルカは報告用の用紙をながめた。隊が結成された目的をはじめに、編成された日、解散した日、隊員の名簿、そして行動日程と記入していく。やはりフェンリルとの闘いの記録は詳細に書かないといけないようだ。取り敢えず書き方は凡例に合わせて書けば良いらしいが、それでも、それなりに時間はかかりそうだ。
「Francesco Pétrarque」とペトラルカはまず自分の名を「Capitaine」の欄に署名した。ペトラルカは近衛隊と親衛隊と所属する組織が違うとはいえ、同じ内容の報告書をそれぞれ作成しなければならないのは不合理だと以前は考えていた。公国の権力が公王、僧会、貴族院と三つに分かれているのは、この社会の暗黙の了解である。ペトラルカも社会の暗黙の常識として、それは知っている。いくら僧会の部隊に公王直轄の剣士が従事しているとはいえ、そんな無駄なことをさせるのはどうかと思うのだが……しかし今は個人的な理由からそれも悪くはないと思っていた。
「コン、コン、コン」
ノックする音がして、バタンとドアが開いた。
「あっ、長子さま。お、おはようございます。遅くなってすいません」
ラウラが部屋に入ってくるなり、ペトラルカにすまなそうに頭を下げる。ペトラルカは慌てて席を立ち、
「ノヴィス公。おはようございます」
ラウラより深く頭を下げる。妖魔狩りの隊は解散した。もうラウラは親衛隊とは無関係である。ラウラは公爵の爵位を持つ貴族であり、子爵であるペトラルカとは爵位の格が違う。ラウラが席についた。ペトラルカは起立したまま席につく様子を見せない。ラウラは不思議そうに、
「どうしたのですか」
「着席しても、よろしいですか」
「えっ」
ラウラは爵位による上下関係や官職に疎い。今まで上官だったペトラルカを隊が解散したからといって、すぐに頭が切り替わらない。事実ラウラはペトラルカのことを長子と呼んでいた。
「あっ、私、先に座って……」
ペトラルカより先に座ることがいけないことと思ったラウラは慌てて立ち上がった。
「いえ。ノヴィス公爵の許可なく着席するのはどうかと思いましたので」
ペトラルカは「公爵」を強調するように言った。「あっ!」ラウラはペトラルカに公爵と言われて、宮廷序列に疎いラウラでも事情が呑み込めた。「フェンリル狩り」の隊の解散式は終わったことを。
「そ、そうね。座りましょうか」
ラウラはペトラルカが、
「失礼します」
と一礼をして座るのが妙でたまらなかった。同時に心が温かくなるのを感じた。早速二人は報告書を作成にとりかかった。ペトラルカは目の前で報告書を作成するラウラを盗み見るようにチラッと視線を向けた。字を書くことに不慣れなのか、体中に力が入っているのが見てとれる。
「もう少し肩の力を抜くといいのに……」ペトラルカは書き上がったラウラの報告書を見て驚いた。文字を書き始めた頃の子供のように何とご丁寧にブロック体で文字を書いていたのだ。それも一文字一文字丁寧に。公文書に記するのは専門に書写する筆師がいるので、人に読める程度の文字を書けばいいのだが、ラウラはラフな筆記体レベルで書けば良い事知らないようだ。「それであんなに力を入れて字を書くのか……」ペトラルカは納得した。
「ノヴィス公、もう少し力を抜かれて字をお書きになっては如何ですか」
「えっ。力を抜いてですか……」
ラウラはどうしたら良いのか解らないといった顔をした。
「まだまだ多く書かなければなりません。こう言っては失礼ではありますが、あまり力まなくとも、字は書写する者に読める程度で構わないのです」
「そうなんですか……」
ラウラはまるで叱られている子供のように俯いて答えた。
「あっ、いや。非難しているのでありません」
ペトラルカは自分の言葉をラウラがすまなそうに聞くのを見てあせった。言い過ぎたと思ったのだ。そしてペトラルカは慌てて、
「ほら。私の字なんて、ノヴィス公に比べれば殴り書きです」
自分の書いた報告書を手にとってラウラに見せた。ラウラはほっとしたように、口に手を当て微笑んだ。二人を穏やかで和んだ空気が覆った。ペトラルカはこういう雰囲気も悪くはないと思いながらラウラを見た。それから報告書を仕上げる期日まで、二人の間には何の進展もなかった。
その間一度だけ、ペトラルカは自分の気持ちをラウラに伝えようと試みたことがあった。しかし最後の最後で踏み出せなかった。死んでいった仲間に申し訳なく思えたのだ。恋愛ごとはフェンリルの件の区切りがついた後の方が自分に対しても納得いくし、死んでいった仲間にも言い訳が立つように思えた。報告書を書き始めてから三日後、二人は期日通りに報告書を書き終えた。今後フェンリルのような妖魔を狩る時には、何らかの参考資料にはなるだろう。ノワールに関しては、森の人の言うように逃げる以外手立てはなかった。今回は助かったが、その理由は全く解らないままだ。だが、ひとつだけ参考になる点はある。ノワールは同時に二箇所を襲うことはないということだ。何も知らなかった今までに比べれば十分有益な情報だろう。こうして情報を蓄えていけば、いずれノワールも討つ手立てが見つかるはずだ。後は枢機院剣術科の仕事となる。ペトラルカは報告書を紐で綴じた。ラウラも同じように報告書を綴じている。これで報告書は完成である。後は公文書官に提出するだけだ。
報告書が完成したその日、ペトラルカがラウラと一緒にいられる最後の日でもあった。ペトラルカは親衛隊、ラウラは近衛隊と全く違う機関に所属している。さらに言えば、ラウラはボマルツォの森の交易が本来の仕事である。二人の接点は今日で終わることになる。ペトラルカはこの時はじめて自分の気持ちを伝える決心がつき、心に引かっていたわだかまりのすべてに整理がついた。これでラウラと会えるのも最期かもしれないという気持ちも大きかった。ラウラが立ち上がり、
「ペトラルカ卿、ありがとうございました」
とペコリと頭を下げた。ペトラルカはラウラの処まで行き、
「ノヴィス公。こちらこそ、お手数ばかりおかけしまして申し訳ありませんでした」
ラウラに深く礼をした。そして顔を上げると、ラウラをじっと見つめた。今なら言葉にできる。今まで何度も伝えようとしてできなかったことが……
ペトラルカの真直ぐな視線に、ラウラは少し照れたように視線を足許に落す。
「ノヴィス公。無礼を覚悟で申し上げます」
ラウラは顔を上げ、不思議そうにペトラルカを眺めた。ペトラルカは握り拳をつくった。緊張しているのだろう、その手は汗ばんでいる。息を止め下腹に力を入れる。
「私はノヴィス公を愛しています」
一気に息を吐くように言葉にした。思った以上にうまくしゃべれたようだ。ノヴィス公の反応は……
ラウラは何が起こったのか解らないような表情をしていた。ただ呆然としているようだ。ペトラルカは次に何を言えばいいのか解らなかった。再びぎゅと手を握り締める。ラウラの手元に目がいった。自分の意思とは思えないほど自然に自分の手がラウラの手に伸びた。柔らかくて小さな手。ペトラルカがラウラの手を少し強く握ると、ラウラはぺトラルカを見つめ返した。鳶色の瞳がペトラルカを捉える。
ペトラルカは言葉を不要だと感じた。ぐっとラウラの肩を抱き寄せる。剣を持つ者とは思えないほど、細く弱々しい肩。それら全てが愛おしい。
ラウラがゆっくりと目を閉じる。どちらともなく唇は互いを求めた。
「あたたかい……」ラウラは自分の肩に触れるペトラルカの掌の感触と唇から伝わる吐息に男を感じていた。安らぎ、満足感、優しさ、そんな感情が体中に染み渡ってくる。優しさに包まれ、この身をそのまま男の腕に委ねてしまいたくなる。女の性とも言えるよろめきだった。そのよろめきの中から「ひとりじゃない」ラウラはその言葉を手にし、孤独という恐怖から逃れることができる悦びと安堵を感じた。そして、この男は自分を求めている。自分を一人の女として求めている。こんな自分を求めてくれている。それが無性に嬉しかった。ラウラは目を強く瞑った。肌に触れる感触をもっと感じるために。
その時、肉体の奥底である感情が沸き立ち広がりはじめた。今までペトラルカに感じていいた女の性とも言える悦びとは異質な本能、性と表現してふさわしいか判らない感情が一気に沸き立ちラウラの心を支配ししはじめた。「血が欲しい……」そして「この男の血では満たさない……それでも構わない、少しは飢えが満たされるはず……血が欲しい……」と。
ラウラに突然沸きあがった黒い感情は、女の悦びを一気に浸食し破壊した。そして粉々に砕け散ったそれらの破片はラウラの心に深く突き刺さった。ラウラは咄嗟に顔を見られないようにペトラルカの首を抱いた。ラウラは自分の中にある闇の中へ堕ちていくことに恐怖した。
「吸血鬼……、あの女とは違う、私は吸血鬼じゃない」ラウラは心の中で叫んだ。忌まわしく、どうにもならない欲望。知らず知らずのうちに、涙が溢れでてきた。
ペトラルカはラウラの変化に気付いた。「涙……、どうしたのだろうか……」ペトラルカはラウラの急変する態度についていけなかった。ペトラルカが不器用に、だけど優しくラウラの頬に手を当てる。フェンリルの闘いで受けた傷はすっかり消えていた。あんな傷ついた姿は見たくない。ペトラルカは再び優しくラウラを抱きしめた。ラウラはペトラルカを見やった。優しく自分を包もうとしてくれている。同時に赤い血を求める衝動が止まらなくなりそうだ。
ラウラが顔を背けると、ラウラの背中にあるペトラルカの手に少し力が入った。
「ごめんなさい」
ラウラはペトラルカの胸を両手でつき離した。自分の闇を見せるわけにはいかない。
「ごめんなさい」
ラウラは言い終わらないうちに、大きな音を立て部屋を出た。ペトラルカの顔を見ることはできなかった。自分の衝動が抑えきれず、満たされないと解っていたも、赤い血を求めてしまいそうだった。ラウラは自分の部屋に駆け込みベッドの中に潜り込んだ。そして自分の手首を噛み切って流れ出る血を舐めた。涙が止まらなかった。
「どうして、こんなに悲しいのだろう……、どうして、血を求めるのだろう……、涙が流せるというのに……
「あの女のせいだ……、すべてあの女のせいだ……、あの女の血のせいだ……
「シモーネ……、そうだ。シモーネは……、シモーネはどこにいるのだろう……
赤い血は喉に沁みた。だけどシモーネの血ほど甘くなく、心の渇きまでは満たしてはくれなかった。
ポルト村を出て四日目、イレーヌたちはグイチャルディーニ伯領まで辿り着いた。ここまで来たら、サンピエール教会まで一日で行ける距離だ。イレーヌはシモーネを見た。かなり疲れているのか、顔色がかなり悪い。グイチャルディーニ伯邸の敷地に入り、そのまま伯爵邸に向かう。その路の周りには林檎の樹が一面植えてあった。その木々にはいくつもの赤い実を実らせている。庭園は果実園でも営んでいるのかと思わせる程の盛況であった。
イレーヌはグイチャルディーニ伯領には幾度ともなく訪れている。秋深い季節に訪れたこともある。いつ何時訪れても、グイチャルディーニ伯の庭園は赤い林檎で彩られていた。グイチャルディーニ伯はシードルの崇拝者であり、貴族の肥えた舌を唸らせるシードルの造り手でもあった。
「いつ来ても、グイチャルディーニ伯の庭は林檎だらけね」
林檎特有の甘い匂いがする。
「そうなのですか」
「そうよ」
ヴァッラ男爵の下男は林檎の樹が珍しいらしく、馬の背中から時折目を離し、赤い実のなった林檎の樹を見やっていた。それから二刻ほどでイレーヌたちは伯爵邸に着いた。伯爵に自分たちの宿泊を要請しなければならない。これは負傷をしているとはいえシモーネの仕事である。長子、次子がいない場合には、爵位の一番上位の者が申し出なければならない。シモーネは馬車を降りた。顔色は悪いが意外と足許はしっかりとしている。シモーネが伯爵邸の呼び鈴を鳴らした。心地の良い柔らかい鐘の音が響く。ゆっくりドアが開いた。執事とおぼしき人が出てきてシモーネと一言言葉を交わした後、シモーネを屋敷内に招き入れた。それから一刻ほど経ち、シモーネが出てきた。
「いつもの場所」
シモーネはイレーヌに告げると馬車に乗り込んだ。
「解ったわ」
イレーヌはシモーネに答え、自分の横に座る下男に、
「この路を百トワーズ戻ると十字路があるわ、そこ右に曲がって。その先に別館があるの。そこに行って」
と指示した。
「解りました。ダンヴェールさま」
馬車はゆっくり動き出した。
翌日、イレーヌは夜明け前に目が覚めた。朝食まで二鐘以上時間がある。もう一眠りしても良かったが、朝早く起きるのも悪くはないと思いベッドを出た。ベッドを出た勢いでグイチャルディーニ伯の別館を出た。イレーヌたちは林檎園の中にいる。本来は農奴が住む場所に別館が建てられているだから、グイチャルディーニ伯が親衛隊の剣士と混血を下賤と見なし嫌悪しているさま様は相当なものである。
そんなグイチャルディーニ伯の心持など知る由もなく、イレーヌは林檎の木々の間を歩きはじめた。まだ空は薄暗い。夜を惜しむように星たちが輝いている。イレーヌは大きく息を吸い込んだ。肺に新鮮な空気が満たされる。
「気持ちいいな」もう秋も半ばを過ぎ、暦もヴァンデミエールからブリュメールに変わり、空気はもう肌寒いが、夜明け間近の空気はまだ深く眠っているにも関わらず透明に澄み、その中に身を置くだけで身体の中にある活力を引き出してくれる。それだけでも早起きした甲斐が十二分あったというものだ。林檎の木を見上げると赤い林檎の実が薄暗い中で映えている。
「この林檎もお酒になるのだろうか……」昨日のアペリティフとディジェスティフにはやはりシードルが出た。甘くて口当たりが良く、特別な舌を持っていなくても上等の酒だと判るものだった。視線を林檎の木々の向こうに向けると、墨を溶かしたような塊が見える。それは朝陽を浴びる前の森の色だった。その森は伯爵が狩りをする為だけに造られた森だそうだが、その森に何かが潜んでいるような気配をイレーヌは感じた。森というのは、それだけでその中に得体の知れない何かいると思わせるものらしい。もしかしたら森の精霊たちがそう感じさているのかもしれない。
イレーヌは半月ほど前のこと、「フェンリル狩り」の時の事を思い出していた。あの時、夜明け前からボマルツォの森の前で待機していた。松明の火がゆらゆらと輝いていた。その柔らかい炎とは反対に、心は鋼のように固く緊張していて、今日のように星が輝いていたのか気付きもしなかった。
「ずっと昔のような気がする。たった半月前なのに……」イレーヌは再び大きく息を吸い込み、ゆっくりと息を吐き出した。フェンリルの闘いやノワールに襲われたことを考えると、イレーヌは生きて森を出られてことが奇跡のように思えた。何かひとつでも歯車が狂っていたなら、誰一人として森を生きて出られなかったかもしれないのだから。二刻ほどでイレーヌの早朝の散策は終わった。
イレーヌは館に帰る途中、馬小屋の前を通った。ポルト村からずっと使っている馬が見える。飼い主のヴァッラ卿に似てよく働く馬だ。その時シモーネの馬車のかたわら傍に人影が見えた。
「こんな朝早くに誰が……」不審に思ったイレーヌは足音を忍ばせながら馬車に近づいた。
「あれは……」その人影の主はシモーネだった。シモーネは馬車から何か荷物を取り出しているようだ。
「荷物の整理だろうか? それにしても、こんな時間に?」
イレーヌはシモーネの不可思議な行動を見やった時、秘め事を知る特権を得たように、本人に気付かれず何をしているのか知りたくなった。「好奇心は猫も殺す」という諺があるように、イレーヌはこの時シモーネと会うべきでなかった。そんな未来の後悔も知るよしもなくイレーヌは気配を悟られぬよう息を殺してシモーネに近づいた。シモーネは気付く様子もない。荷物をじっと見つめている。
イレーヌは気配を殺したままシモーネの背後まで近づくと、シモーネの背中越しにそれを覗き込んだ。それは一枚の肖像画だった。鳶色の瞳はクレール要塞の礼拝堂にある肖像画と同じものだった。だが、その瞳にはクレール要塞にあった肖像画のような挑発的なところが全くなく、自分の愛した男性に愛されています、と幸せの色が溢れていた。もし肖像画と画師の関係を知らない人が見たら、肖像画の人物と画師は恋仲だと思うだろう。イレーヌはその画に心を抉られような痛みを感じた。クレール要塞の肖像画には何も感じなかったのに、その画に心を巻き込まれたのだった。シモーネとラウラが姉弟の禁忌を犯しているなどとを考えたことがあったが、イレーヌは自分の考えを頭を振り打ち消し、そしてこの肖像画がラウラではないことを認めた。
イレーヌとシモーネの間の空気が少し震えた。シモーネが人の気配を感じて後ろを振り返った。シモーネはこの画をイレーヌに見られるが心底嫌なような顔をしながら、
「なに」
冷たく言い放った。イレーヌはシモーネの声にぐっと胸に来る不快なものがあったが、それを堪え、
「良い画ね」
と声をうわずりながらその画を褒めた。シモーネは何も答えずその画を片付けはじめた。イレーヌには無言で画を片付けるシモーネの様子が、まるで自分に対して心を閉ざしているように思えた。そこには無言の圧力のようなものが感じ取れた。シモーネの顔がまるで見知らぬ人のように見えてしまう。
イレーヌは焦った。何か言わなければいけない。このままでは、シモーネは自分との関わりをすべて絶ってしまいそうだ。でも何を言えば良いかは解らない。シモーネが画を片付ける手を休めイレーヌを見た。その時、イレーヌにはシモーネの姿が消えていくように見えた。目の前にいるはずのシモーネの姿が、まるで自分の意志で消えてしまうように思えたのだ。錯覚だったかもしれない。それともイレーヌの心の奥にある怖れがそう見せただけかもしれない。それを否定しようとする心が、シモーネに口付けした時の衝動に似た感情を沸き立たせ、その濁流のような感情がイレーヌを支配した。今彼女の心を支配しているのは、彼女に似た誰かだった。
イレーヌは息を止めてシモーネを見つめた。イレーヌ自身何をしたかったのか、何を言うつもりだったのか解らなかった。だが、それは必然の流れのように湧き起こり、取り返しのつかない結末を導き出した。胸の奥にしまいこんでいた言葉が泉に収まりきらない湧き水のように口許から溢れでたのだ。
「愛しているわ。シモーネ」
シモーネの手が止まった。胸の奥でずっとしまっていた言葉。いざ口にすると、実に呆気ないものだった。東の空では陽が昇りはじめようとしている。彼は誰時の空では、それまで輝いていた多くの星がいつの間にか消えている。晩秋、陽が昇りはじめる前の空気は、二人には少し冷たすぎたのかもしれない。シモーネとイレーヌの間には暖かい感情の流れはなかった。夜明け間近の陽も二人を温めるにはあまりに弱々しかった。再びシモーネの手が動いた。イレーヌはシモーネの言葉を待った。受け入れてくれればこんなに嬉しいことはない。もし駄目だったとしても、はっきりと言葉にして欲しかった。そうして欲しいと願った。
シモーネは画を馬車に入れ終えた。
――無言――
イレーヌはシモーネのしっかり結ばれている口許を見た。「何か言って……」イレーヌはシモーネの姿が見られなくなってきた。「嫌いでもいい、言葉を言って……」イレーヌは目を伏せた。「お願い。お願いだから……」ガサッ。シモーネが歩きはじめる気配。
「シモーネ!」少しずつ遠ざかる足音。それがシモーネの出した答えだった。イレーヌはぎゅと目を閉じた。指先が震えている。立っていられない程膝も震えている。呼吸することさえ難しいくらい胸が苦しくなった。イレーヌは胸に手を当て、頭を垂れた。
「そんなに私が……嫌いなの……」
後は声にならなかった。イレーヌは長く引きずった恋の終りを知った。それはあまりに唐突に、あまりにも呆気なく、あまりに無慈悲に終りを迎えたのだった。
ペトラルカは昨晩一睡もできなかった。ラウラの涙が頭から離れなかったのだ。あの瞬間までは、後悔することはないと思っていた。それが間違いだったと気付いた時にはすべてが遅かった。ラウラの部屋の前に立つ。もう心の整理はついた。
「コン、コン、コン、コン」
ドアを叩く音。ラウラはノックが聞こえたが返事をしなかった。それがペトラルカのものだと判ったからだ。
「ノヴィス公。昨日はとんだ無礼を働きました。どうかお許し下ださい。そして昨日の事はすべて忘れてしまうようお願いします……それと報告書は昨日のうちに公文書官に提出しておきましたので…………失礼します」
ペトラルカはそれだけ言うのがやっとだった。自分では心の整理がついたと思っていても、やはり昨日の事が頭から離れない。ノヴィス公は確かに自分の腕の中にいた。自分の事を抱きしめ返してくれた。
「幻だったのだろうか……」自分がノヴィス公に拒否されたことは理解している。それでも一目ラウラの姿を見たいと思いはある。だがそれはあまりにも未練がましく情けない話だ。心の整理ができたなんて自己欺瞞もいいところだった。
「ごめんなさい」と俯きがちに呟くラウラ。
―― 涙 ――、そして自分を置いて部屋を出るラウラの背中。ペトラルカは自分の両掌を見た。そこには何もなかった。それが現実だった。
ペトラルカは踵を返し、ラウラの部屋のドアに背を向け歩き出した。少し頼りなく話し、そして屈託なく笑顔をみせるラウラが頭に浮かんだ。それはもう手が届かなくなったもの。ペトラルカにはこれ以上ラウラに語る言葉はなかった。
ラウラはペトラルカのドア越しの言葉聞いて、
「なんて馬鹿な女なのだろう」
と自分自身に向かって呟いた。「シモーネに会いたかった……」ペトラルカに求めたかったものは、シモーネの代役だったのかもしれない。ペトラルカから向けられた愛情を自分の都合で蔑ろにした、その事実はラウラに自分の弱さを知らしめた。ペトラルカに一言でもいい謝りたかった。一時とはいえ、ペトラルカの心を利用としたのだから。でも謝罪の言葉は出てこなかった。
「嫌な女……」昨日噛んだ自分の手首を見た。もう昨日の傷は癒え、傷跡さえ残ってはいなかった。吸血の事実は消えていた。そうすべて消え去ってしまった。ラウラは何かに憑かれたように突然部屋を飛び出した。もうペトラルカの姿はどこにもなかった。ペトラルカがもうここにいないと解っていながら、ペトラルカを呼び止めようと部屋を出たようで、ラウラは自分の心のなさにさらに嫌悪をした。
「本当に嫌な女だ……」廊下の窓から陽の光が入っているのが見えた。秋が深まりはじめたとは言え、降り注ぐ陽の光は暖かそうだ。この先に冬があることなど微塵も感じさせない柔らかい光が降り注ぐ。
ラウラは窓辺まで来て、陽の光を浴びた。暖かい陽の光は人肌に触れているような穏やかな温もりがあり、陽の光の中にいると、優しく抱かれているように感じた。ラウラは窓の外を眺めた。青く澄んだ秋の空が広がっている。その青い空を突き刺すように、先日「フェンリル狩り」の解散式を執り行った礼拝堂の高い屋根が見える。そこで解散式があり、死者に対して鎮魂の祈りを捧げた。
ラウラは死んでいった者たちの魂が静まるようにと祈った。その時、自分が手をかけたエスクラヴの事がまた頭に浮かんだ。振り下ろされる白刃の剣。あの時、ラウラは確かに祈った。神という名のモノに祈った。自分が行うとする行為が正しいと信じたかった。それは祈りというよりも、自分の拠りどころを求めていただけなのかもしれない。そして、亡き人に捧げる鎮魂の祈りは、生き残った者が生き残ったことに負い目を感じさせない為にあるのだろう。生き残った者は生きていくという事が避けらないのだから。
ラウラは再び礼拝堂を見た。ペトラルカの触れた肩に彼の掌の温もりが今さらながら蘇る。もうそれは考えるべきではない、とラウラは首を振り、その温もりの残照を振り落した。しかし、ワインを零した染みのように後悔だけが振り落せずに残った。ラウラの足は自然と礼拝堂に向かった。祈りたかった。ただ祈りたかった。それで自分が癒され救われるような気がした。
サンピエール教会が見える。元々はただの教会だったのだが、権力の中心になるにつれ、それを象徴するように建造物が建ち並んだ。今はまるで権力の砦のように聳え立っている。人を見下ろすように立つ礼拝堂がまず目に付く。シモーネにはまるで自分が支配されているような気がした。自分たち混血のすべてを支配しているように。
「自分たち混血を支配するのは、神なのだろうか……それとも権力者なのだろうか……」シモーネはサンピエール教会が好きになれなかった。サンピエール教会まではたった五日間の馬車での移動だったが、シモーネにはとても長く感じられた。体が十分に癒えておらず、馬車での移動が体に堪えたのと、イレーヌのことが原因だった。イレーヌとは今朝早く会って以降顔を会わしていない。
イレーヌはシモーネたちと一緒にサンピエール教会には来なかった。あのような事があった後だ。シモーネと顔を会わせることはイレーヌにはできなかった。
「マルティニさま。ここからはどこへ行けばよろしいですか」
下男はシモーネに尋ねた。下男はサンピエール教会のことは知らないらしい。
「あの高い建物の門までしか馬車は行けない。とにかくそこまで行ってくれ」
「解りました」
ゆっくり馬車は動き出した。サンピエール教会の門の前までくると衛士に馬車を止められた。これ以上は馬車の乗り入れは禁止だと。シモーネは下男に衛士の指示に従って馬車を移動させ、そこで待つように命令した。シモーネは枢機院に行くつもりでいた。枢機院は僧会の運営を司っている処であり、様々な情報が集まってくる処でもあった。そこに行けば大概の事は解る。姉の居場所も然りである。それに解散式に出席していない者は枢機院の事務局で隊が解散になったことを告知されることが慣例となっている。自分勝手に解散という訳にはいかない。官僚機関には必ず正式な手続きがあるものなのだ。
枢機院は礼拝堂の裏手にある。門を抜け、礼拝堂を超えるとすぐに目的の場所はある。シモーネはゆっくり歩き出した。きれいに敷き詰められた石畳は足許に優しかったが、足を踏み出す度、フェンリルに負わされた傷の痛みで脇腹が抉られるようだ。だが自分ことなど問題にもならない。シモーネは姉の事で頭が一杯になった。
「姉さまはどうしているだろう……」一刻も早く姉の許に行かなくてはならない。吸血鬼の毒に犯されていく姉と共に生きていくと、そう自分に誓ったのだから。そう思いながら、シモーネは礼拝堂の前に見知った後ろ姿を見つけ足を止めた。