Canzonier du vampire 8
【8e Chapitre】
フェンリルの首を刎ねた日、ポンポナッツィ伯本邸は夜遅くまで灯りが消えることはなかった。重傷を負った者はすべてポンポナッツィ伯邸に集められ治療が続けられていた。シモーネもポンポナッツィ伯邸の客間の一室を宛がわれた。ラウラとイレーヌも、前日同様に伯爵邸の客間を一室ずつ部屋が割り当てられていた。しかしラウラは自分の部屋で眠ることはなかった。森での闘いを終えてからずっとシモーネの傍から離れようとしなかったのだ。シモーネはまだ意識を取り戻していない。フェンリルに内臓の半分近くを喰いちぎられたのだから致し方のないことかもしれない。人なら即死であっても不思議でない傷だったが、混血の生命力では死に至る傷ではなかった。混血は、吸血鬼同様、首を刎ねるか、銀の剣で心臓を潰すか、その他特殊な条件が整わないと死ぬことはない。しかし痛みは人と同じように感じる。また死に至る傷でなくても、今回のシモーネが受けたような大きな傷では、ある程度傷が治癒するまで意識を失っていたりする。医術師たちの中でも、その理由は諸説様々である。身体の能力が傷の治癒にすべて費やされているというのが一般的な解釈だった。その間シモーネには特に医術師たちが治療を施すことはない。せいぜい傷の様子を診ることくらいだ。下手に治療をして、混血の治癒能力を妨げるより、その能力に任せた方が治りは早いのだ。それに人の負傷者も多く、その治療に時間を割いた方が効率的でもある。
ラウラがシモーネの左手を両手で握り、ベッドの脇で座ったまま眠っている。彼女もフェンリルとの闘いで傷つき、その傷はまだ癒えてもいない。濡れた布で冷やしている左頬はまだ無残なくらい腫れ上がり、顔の原型を留めてさえいない。赤紫に内出血した肌は、見る者に痛みを感じさせるほどだ。
ラウラは森にいる時には顔の痛みをほとんど感じていなかった。フェンリルを殺すこと、シモーネと共に森を出ること、何より生きることに必死になっていたのだ。森を出て「助かった」と安堵の溜息を吐いた時から激しい痛みに襲われだした。今まで張っていた気が緩んで、急に怪我の痛みを感じだすのは特別な出来事ではない。誰にでもよくある話の一つだ。当のラウラも同じ経験を何度もしていた。
そうは言っても慣れるものではない。ラウラは浅い眠りを顔の痛みで度々起こされた。その都度シモーネの手を握りなおす。女性のように柔らかい手は、剣士の手とはとても思えない。ラウラは早くこの手が握り返してくることを願いながら目を閉じた。
「コン、コン、コン、コン」
とドアをノックする音がラウラの浅い眠りの中で響いた。
「コン、コン、コン、コン」
再びドアがノックする音。ラウラはそれが夢の中での出来事でないことを悟った。ドアを開けると下女が立っていた。
「ノヴィスさま。お休みのところ申し訳ありませんが、お食事の準備ができましたので、大広間までお越し下さい」
下女は用件を伝えると丁寧頭を下げた。そして、下女に吊られて頭を下げるラウラを不思議そうな目で見た後、
「それでは失礼します」
とすぐに踵を返した。ラウラはベッドまで戻り、静かに眠っているシモーネの顔を覗き込んだ後、自分の部屋に戻った。身支度を整え、顔に捲いてあった布を取る。まだ顔は腫れているらしく指先で触れると熱が指先に伝わってくる。
「変な顔になっているのかな……」急に自分の顔が見られることが恥ずかしくなってきた。「昨日は何も感じていなかったのに……」ラウラは新しい布を取ると、再び腫れた頬を隠すように顔に布を捲いた。
大広間では食事の準備が整えられ、剣士、剛力を問わず席が用意されていた。親衛隊の部隊では身分的なものが排除されているが、それは剣士の貴族間であって他の身分とは明確な差があった。
今朝のように剣士と剛力が同じ席について食事をするのは稀有なケースである。これを仕組んだのはヴァッラ卿だった。彼はフェンリルと闘った者たちへの感謝、生きて帰った者たちへのねぎらい、亡くなった者への弔いを妖魔狩りの者たちと共にしたかったのだ。老人は若かりし日々を取り戻そうとしたのかもしれない。そんな主賓の心内を知ることもなく、この席に招かれた者は主賓の心使いに感謝した。昨日は森を出てからは、休むこと以外何もできなかったのだ。多くの者は亡くなった者のために祈ることも、食事すらすることもなく疲れた体が求めるがまま眠りについたのだった。
ラウラが大広間に入ると、すでに席は埋まっていた。どうやらラウラが最後にここに来たらしい。空いている席を探そうと首を少し伸ばした時、給仕のひとりがラウラに声をかけた。
「ノヴィスさま。こちらへ」
給仕に言われるがままラウラが席についた時、天窓から差し込む陽から太陽の位置が高いことに気付いた。あまり眠っていないと思っていたが、実のところはかなりの時間眠っていたらしい。
「だいぶ眠っていたのね……」ラウラはそのことばかり気を取られていた。その間、ヴァッラ卿が剣士や剛力たちにねぎらいの言葉をかけていたのだが、ラウラは全く気付きもしなかった。
「尊い生命を捧げた我が同志たちの御霊に対し祈りを捧ぐ、全員黙祷」
突然響いたペトラルカの声でラウラは周りの状況を理解した。今回の闘いで亡くなった者への鎮魂の祈りを捧げるらしい。ラウラは目を閉じた。自分の許で闘ってきた剣士たちの顔が浮かんだ。初めて剣を合わせた頃、彼らはラウラの独特な体捌きや剣捌きに追いつけなくて苦労していていた。彼らにとって剣は腕や体をふたつに斬り裂くものであって、刃を立て、肉を斬るものではなかった。滑らすように刃を相手に宛がう独特の闘い方をするラウラに対して、今までの経験で得た間合いや攻防のタイミングは全く役に立たず、新たに剣の間合いや攻防の感覚を覚え込ますこととなった。何度も何度も同じ事を繰り返しては、ラウラが好む間合いやタイミングを見出していった。そんな彼らの苦労は報われることはなかった。ラウラの剣がフェンリルの牙と交えた時、彼らが出る幕もなくラウラは沈み、再びラウラが剣をフェンリルに向けた時には、剣士たちの姿は一人だけになっていた。彼もまた激しい剣の訓練の成果を見せることなくノワールの手にさらわれていった。最後にエスクラヴの顔が浮かんできた。エスクラヴが安心したように目を閉じ最期にみせた表情が……
心が傷む瞬間。
あれがエスクラヴの最期だった。ラウラは閉じた目にぎゅっと力を入れた。自分は、エスクラヴのように人として死ねない。吸血鬼の毒がやがて自分を変えてしまう。妖魔として自分の頸が狙われるのだ。
「怖い」ずっと、この恐怖につきまとわれている。だけどシモーネの事を考えている間、肌に触れている間は、何もかも忘れて幸せな気分に浸れた。ひと時の慰みだと解っていても、それにしがみついた。シモーネが愛した女に似ていることを利用してでもその温もりに触れていたかった。
「弱い女だ……」ラウラは自分自身の貶める事によって、その弱さを理由に自己を正当化しようとしていたのかも知れない。
黙祷も終り、給仕たちが食事の準備をすべくスープ皿を置こうとした時、ペトラルカはそれを目で咎めた。給仕たちは何故食事の準備をしてはいけないか解らず、食器を持っておろおろとしながら立ちつくした。しかしペトラルカの視線の先に、一人の少女が熱心に祈っている姿を見つけるとじっと祈りが終わるのを待った。ラウラは黙祷が終わってもなお目を閉じて思いに耽けり、周りの気配に気付く様子もなかった。周りの人たちはラウラに気を使って何も言わなかった。そっとしてあげようという意識が働いたのだ。
ラウラの小隊は壊滅状態でラウラ以外誰一人森を出ることはできず、最後まで生き残った剛力もノワールに捕まりその毒が内臓に達してしまい、後は苦しみながら死を待つばかりとなった。ラウラは苦しむ剛力を安楽死させる為に自ら剣を振ったのだ。彼らも多くの仲間を失っている。その心情は痛いほど理解できる。亡くなった仲間のために捧げられる祈りを妨げるなどできるはずがなかった。
ラウラが目を開けた時、もうすでに黙祷する者はおらず、ばつが悪そうに首をすくめ、
「ごめんさない」
と謝った。だけどあまりに小さな声だったので、隣にいた者が気付いただけで、誰もその言葉を聞き取ることはなかった。ラウラが祈るのを止めた。それが開始の合図であるかのように、給仕たちが皿やカップ、ナイフなどを並べはじめ、それを追うように、シチューやパン、サラダが次々と盛りつけられた。
人は現金なもので、悲しい祈りの後でも食欲には勝てないらしく、沈んだ雰囲気は少しずつほぐ解れていった。さらに食事がはじまると、昨日の惨劇を一時でも忘れるように和らいだ空気になった。その中でラウラだけは違う世界にいた。ラウラは全く食事には手をつけていなかった。シチューを掻きまわして、皿の中で揺れるクリーム色の肉や野菜を所在なく見つめていた。食欲がなかったのもあるが、物を噛むにはまだ頬が腫れていてかなり傷みを伴うのだ。それに口を大きく開けると出血し、血の味が口の中に広がる。それを今は感じたくなかった。自分が妖魔に近づいている現実を認めたくなかっただけかもしれない。
突然、給仕にラウラは声をかけられた。
「ノヴィスさま。こちらを」
給仕が差し出したのは、カップに入った白色の牛乳だった。「あまり食欲もないし、丁度いいかもしれない……」ラウラはそう思いながらペコリと頭を下げた。
「あ、ありがとう」
給仕から受け取ったカップはラウラが飲み易いように人肌ほどに暖められていた。食事に手をつけないでいるラウラを見て、慌ててヴァッラ卿が用意させたのだった。ラウラはほんの一口だけ牛乳に口をつけた。熱くもなく、冷たくもない、生温い牛乳は口中で沁みることもなく胃袋の中に納まった。思った以上に喉が渇いてらしく、自覚のないままもう一度牛乳に口をつけた。今まで食欲を感じていなかったラウラだったが、少しお腹の中にものを入れたことで、量はいらないけれど食事をとる気になった。小さくちぎったパンのかけらをシチューに入れ、あまり噛まなくても呑みこめるようにパンをふやけさせてから口に入れた。ふやけたパンは痛みを感じることもほとんどなく喉元を通り抜けていく。
「これなら……」ラウラはふたつ目のパンのかけらをシチューに浸した。
ペトラルカはラウラが食事に手をつけていないことを気にしていた。食事をとることで、隊の雰囲気も少し活気づいた。その中で、全く違う波長をラウラがしていたのだ。何か得体の知れないものに怯えているように見え、ラウラのことが心配になった。視線がラウラを捕らえて放さない。
ペトラルカがラウラを目で追っているのは周知の事実であり、同時に公然の秘密であった。ペトラルカの人柄か、誰も恋する青年をからかおうとは思わなかったようだ。それに人の恋路に関わってもロクな目に合わないと相場は決まっているもの。こういう時は静観するに限る。ラウラをじっと見つめるペトラルカを、周りの人達は「恋は盲目」だなと思いながら気付かぬ振りをしていた。
ラウラが三つ目のパンのかけらを頬張った時、人の視線に気付いて顔を上げた。ペトラルカと視線があった。途端ラウラは急に気恥ずかしくなった。ペトラルカに腫上がった顔を見られていることなのか、口にものを入れている姿を見られていることなのか、それとも他に理由があるのか、よく解らなかった。ただこの場から逃げ出したい、いや逃げなければならないという気持ちが胸の中を駆け巡った。ラウラは給仕を手招きして呼び、
「き、気分が悪いの」
と言い残し、自室に引きこもってしまった。その後は夕食にも姿を見せなかった。ペトラルカはラウラに会えなかったことで、さらにラウラへの気持ちを募らせることになった。
ラウラは昼からずっと自室に引きこもり、腫れた頬に冷たい布をあてがいながらベッドに横たわっていた。「ペトラルカの視線に、今までとは全く違うものに感じてしまった……」ラウラはそのことで頭がいっぱいになり、その気持ちをどう理解したらよいのか解らず戸惑うばかりだった。急にシモーネの声が聞きたくなった。それで何か結論が出るような気がしたからだ。
ラウラはシモーネの部屋に入った。薄暗い部屋の中で、シモーネは今朝と同じ、目を閉じたまま死んだように眠っている。
「シモーネ」
ラウラが呼びかけても何も応えがない。ベッドの傍まで行き、顔を覗きこみながら、
「シモーネ」
と再び問い掛ける。森から帰る時のような苦しそうな顔はしていない。いつもの優しい表情だった。ラウラはシモーネの手を握ると、昨日と同じ温もりがあった。シモーネの手首に一昨日つけた傷を探してみても、もう跡形もなく消えていた。忌まわしい証拠はなくなっていた。
「シモーネ……」
三度、ラウラはシモーネに声をかけた。それを不満であるかのように、何も応えないシモーネの頬に、自分の頬を押し当てた。今ラウラが求めているのは、ラウラの言葉に応えてくれる人、手を握れば握り返してくれる人だったかもしれない。
フェンリルを討った翌日から、ペトラルカたちはポルト村で骨を休めることもなく帰還の準備を整えはじめた。その慌しい中、ラウラは蚊帳の外にいるようにシモーネの部屋に篭っていた。ラウラはシモーネが目覚めるまで、ポンポナッツィ伯邸にいるつもりでいたのだ。母親が死んでから独占し続けたぬくもりを一瞬でも手放すことなど、心の片隅にさえ思ってもみなかった。
ポルト村を出立する日を告げてもなお、出発の準備をしないラウラをペトラルカは黙って見過ごすことはできなかった。親衛隊は一糸乱れぬ統率力を誇り、それが親衛隊が粘り強く闘える原動力のひとつである。自己都合の我儘など全く以って許されない。例え近衛隊の剣士であろうと、親衛隊に属する以上、この鉄則に従ってもらわなければならない。さらにラウラには公王殿下への謁見する義務がある。ペトラルカはラウラを呼びつけ、すぐに出立の準備をするように命じた。ラウラは自分のしていることが解っているらしく、上目使いにペトラルカを見た後、小さな声で、
「解りました。長子さま」
と呟いた。ラウラの左頬は一生傷が残るのではないかと思わせる程紫色に腫れ上がっていたが、この二日間で信じられない位回復していた。それでもまだ痛々しく腫れた頬は、フェンリルとの激しい闘いを色濃く残していた。プイとラウラは顔をペトラルカから背けた。ペトラルカにシモーネとは違う何かを感じていることを気付かれないように。ラウラの態度は非礼という言葉が似合っていたが、ペトラルカは注意をすることなど思いつきもせず、拗ねたように顔を背けたラウラを高鳴る鼓動を抑えながら眺めていた。
「ノヴィス公。用件は以上です」
ラウラはペトラルカと目を合わすことなく、一礼して退室した。
「ふーっ……」
ペトラルカが大きな溜息をついた。緊張が一気に解けたのだ。今までラウラに接してきた中で最も神経が過敏になっていた。彼女の動作ひとつひとつに自分の視線が惑わされている。ペトラルカは自分の恋の病が思った以上に進行していることを自覚した。
ラウラはペトラルカの指示通り出立の準備を整えながら、それでも暇をみつけるとすぐにシモーネの許に足を運んだ。ペトラルカの事で気を揉んでいる自分をシモーネに知って欲しかった。そんな思いもシモーネには届かず、シモーネは一向に目を覚ます気配すらない。
「シモーネ」
と問い掛けるラウラの声が空しく暗い部屋に響くだけだった。
トゥッリタ公国の首都は、ポルト村から馬でも優に七日はかかる距離にあるラトゥールという都市である。この都市は公王一族が住むパレ宮殿があり、公国の官僚組織が集中している都市でもあった。公王一族は、貴族院の軍事力である義勇軍と僧会の軍事力である親衛隊と双方に、権力だけでなく物理的距離を置き管理しているのであった。貴族院と僧会のどちらにも与しないことが公国を維持するうえで必須条件となる。もしどちらかの勢力に権力の天秤が傾くと、公国は国を二分する内戦に陥りかねない。微妙なさじ加減で公国は成り立っていた。
妖魔退治を終えた親衛隊は僧会の総本山であるサンピエール教会に寄らず、そのまま公国の首都であるラトゥールに向かうことになっている。まず公王殿下に謁見し、妖魔退治の報告をしなければならないのだ。公王一族が僧会より権力が上位であることを示す為である。そんな権力の匙加減とは無縁な親衛隊の剣士たちにとっては、妖魔退治を終えたことのひとつのけじめでもあった。公王殿下への報告をするのは長子であるペトラルカの役目であり、妖魔退治を終えた長子には名誉でもある。その長子に付き従うのは、次子と剣士の中で最も爵位の高い者であった。当然公爵の爵位を持つラウラがその役目を引き受けることになる。それ故にラウラがラトゥールに行くことは必須なのである。
ラトゥールへ出立する準備は何の問題もなく予定通り進んだ。そしてラトゥールへ出立する前日。
負傷して居残る者以外に、ポルト村に居残る者の名が皆にペトラルカから告げられた。本隊に同行できない負傷者がいる場合には、最低でも必ず一名の剣士を残しておくことが親衛隊の決まり事になっている。負傷者を決して見捨てはしないという親衛隊の精神と負傷で残る者たちへの疎外感をなくす為である。親衛隊の結束はこうした事の積み重ねでできているのである。
今回は親衛隊の剣士ともう一人居残る者がいた。親衛隊の剣士でない名を聞いた時、ラウラは恨みがましい目でその名を呼ばれて者を睨んだ。イレーヌはラウラの射るような視線を感じて背筋が凍るような悪寒が走った。思わずラウラの視線から逃れようと顔を背けた。それでもなお突き刺さるような視線を自分に向けるラウラの行為が、イレーヌには今の自分たちの関係を顕わしているように思えた。
イレーヌは居残りのことをペトラルカに全く口にしていなかった。自分自身、幼い頃からの、今となっては化石となった恋心にけじめをつける為にそう願わなくはないが、しかしその恋心を失うことへの未練、イレーヌは自分がまだ未練を抱いていたことに困惑し、それが原因でマルティとの新しい関係へ踏み出そうとする心をためら躊躇わせた。
意外にも、イレーヌの居残りを決めたのはペトラルカだった。ポルト村の丘から降りた時のシモーネとイレーヌの雰囲気から、その時は素知らぬ顔を決め込んだペトラルカであったが、ラウラがシモーネの許に通う姿を見て、イレーヌの居残りを決めたのだった。ラウラがシモーネのことで見せる表情は家族の絆による結びつきというより、むしろ男と女の絆で結ばれているといったほうが似合っていた。それが無意識のうちに、シモーネとイレーヌを結びつけようとしたのだった。ペトラルカにしてみれば、シモーネとイレーヌの仲を取り持とうとしていると思い、その気持ちを起こさせたきっかけを自覚していない。その為ペトラルカには嫉妬心にありがちな陰鬱な気持ち囚われることはなかった。ペトラルカはラウラに一番近い存在になり得ることを望んでいただけだった。
ラウラはシモーネの許に足を運んだ。人形のように眠り続けているシモーネは二度と目覚めないのではないかと、ラウラの不安を掻き立てた。その不安はシモーネと離れる事への不安を含み、それがラウラの小さな体を覆いつくしはじめている。
昨日までは、何度も「シモーネ」と呼びかけていた。しかし今日は「シモーネ」と呼ぶことができなかった。ペトラルカの事も思い浮かばなかった。
「自分の呼びかけに応えない……」それはラウラに対して、シモーネに捨てられること連想させたのだ。
「あの女の替わりに愛されている」という不安。
「あの女は死んだ」という事実。
ラウラはシモーネの手を握った。暖かい手、柔らかい手、自分以外の女に触れさせたくない手。この手を自分のものにする為に、身も心も魂さえ、悪魔に売ったのかもしれない。その罪を知っているかのように、無言で自分を拒絶するシモーネ。
「そんなことはないわ……」ラウラは小さく頭を振った。すべては過去という闇の中へ消えていった。今さら誰も、過去の扉を開くことなどできはしない。そう誰もできない。シモーネさえできないのだ。
「それでいい」罪を知るのが自分だけなら、誰もその罪を裁けない。ラウラは無意識のうちにそっとシモーネの小指を口に含み、ゆっくり噛んだ。赤い血が流れた。その血をラウラは口に含んだ。水では癒すことの出来ない喉の渇きが癒される……しかし、それでは満足できないモノがある……
ラウラは、はっとして血を吐き出そうとした。だけど血を吐き出すことはできなかった。自分の意思ではどうしようもないほどの強い衝動が肉体を支配したのだった。
シモーネを含めた数名の負傷者、付き添いの剣士とイレーヌを残して、朝早く「フェンリル狩り」の隊は一路ラトゥールへ出立した。
ポルト村を出るペトラルカの隊を見送りに来たのは、ヴァッラ卿は当然の事として、ポンポナッツィ伯邸の者と居残りの剣士だけだった。もちろんポンポナッツィ伯は顔を出すことはない。それどころか、遂に一度も顔を出さずじまいだった。フェンリルという凶悪で名高い妖魔を葬った割には何とも質素な見送りであった。村の者は収穫に追われる畑の方に出払い、ペトラルカたちを見送ることはしなかった。顔を合わせれば深々と礼をする、それだけだった。
妖魔狩りの隊は僧会の所属し、僧会の力の象徴でもある。質素倹約を領民たちに強制する僧会は、親衛隊に対して派手な行動を取ることを禁じていた。領民たちの反感を買わないようにする為と彼らに模範を示す為であった。他人に強要することを自らが実践しなければ人の心は掴めない。だが権力者はあくまで他人を利用することしか考えないようだ。僧会は親衛隊を利用して、領民たちと同じように質素倹約を常にして暮らしているのだと宣伝していた。ノブレス・オブリージュの形骸化の一例と捉えると解り易いだろう。
ペトラルカとラウラはラトゥールへ向かうでの七日間、公のこと以外、お互いに言葉を交わすことはなかった。話す機会がなかったわけではない。互いに相手を意識した為、その機会を逃していたのだった。ペトラルカは自分の不甲斐なさに苛立つ七日間となった。話す機会を得る度、次の機会に話せれば良いと逃げてばかりいた。そして話す機会をみすみす逃したことを後で後悔する。その繰り返しだった。おそらく周りの人たちには、この煮え切らない二人をさぞかしもどかしく思い、時には二人の尻を叩きたくなったに違いない。
イレーヌは暇を見つけてはシモーネの部屋を訪れた。ラウラを真似るように時間が許す限りシモーネの許に居続けた。呼吸をしているのかさえ判らない程、身動きしないシモーネを見守った。だがラウラがしたようにシモーネに触れることはなかった。否、できなかった。「もしシモーネに触れたなら……」イレーヌは自分の気持ちを抑える自信がなかった。行き詰まり石のような塊になった恋心が一気に砕け散り激流となって流れ出すようで不安だった。手を伸ばせば届く距離にあるシモーネとの間に見えない壁を創り、自分への戒めとした。そんなイレーヌの気持ちも知らず、眠り続けるシモーネ。
イレーヌとシモーネはヘルヴェティア王国の戦いが終わってから顔を会わせる機会がほとんどなかった。偶然が悪戯して二、三度姿を見たくらいだ。「もう三十年になるだろうか……」その頃からほとんど変わっていない。イレーヌはシモーネの頬を撫でるように、その掌をシモーネの顔に近づけた。掌に僅かにシモーネの体温が感じられる。イレーヌは自分たちが老いないことを恨めしく感じた。
「あの頃のまま、何も変わっていないのね……」混血の血は永遠に若さを閉じ込めてしまう。それは永遠の幻想の中にいることを意味する。「若く輝いた時代」本来なら一瞬に通り過ぎてしまい、振り返るまでその美しさに気付かない時代。振り返った時、その時代の輝かしい姿は美しい思い出として語られるものである。しかし思い出として語るには、シモーネはイレーヌにとってあまりに現実でありすぎた。イレーヌは目を閉じた。シモーネが過ぎ去ることなく留まっている。
「どうして、シモーネとラウラは私を避けていたのだろう……」そう思いながら問うこともできなかった。今さらと思う気持ちもある。「血の繋がった姉弟の恋……」
「コン、コン、コン、コン」
イレーヌの考えを否定するようにドアが鳴った。
「あの真面目なシモーネが、そんな間違いを犯すとは思えない……」イレーヌは自分の考えがあまりに逸脱し過ぎていると感じた。イレーヌがドアを開けると、下女が立っていた。
「ダンヴェールさま。お食事の準備が整いました」
用件だけ伝えると丁寧に頭を下げ、
「失礼します」
パタリとドアを閉めた。イレーヌはドア口に立ちながらシモーネを見た。昨日と同じ、何も変わらない。ドアを開けシモーネの部屋を出た。自分の部屋に戻る途中、ヴァッラ卿の執事から二日後にラウラとシモーネの荷馬車が到着すると連絡を受けた。どうやらラウラが呼び寄せていたらしい。イレーヌにその意味が解りかねた。しかし今さらどうすることも出来ない。そのままシモーネが目を覚ますまで、ヴァッラ卿の処で預かってもらうしかない。イレーヌは執事にその意を伝えた。
ラウラとシモーネ、この姉弟は生まれ育ったスーヴニール村に帰ることなく、荷を馬車に載せ、旅宿を転々としていることでも有名であった。放浪と言ってもおかしくないような暮らしぶりだった。ボマルツォの森へ入る準備が整うと教会や知り合いに荷を預け、そのまま一ヶ月近くボマルツォの森で過ごす。そしてボマルツォの森から帰ると、すぐにボマルツォの森で手に入れた物を公王直属の専売局に売り、またボマルツォの森に入る準備を整える。それを繰り返す日々。
「どうして剣士としての剣を置いたのだろう……」剣の腕前は公国でも最強の冠を手にする程の腕前である。彼らの剣術「モントルイユの剣」といえば公国にその名を轟かすほどだ。イレーヌの心に剣を習い始めた頃のことが思い浮かんだ。剣の師であるモントルイユ候、シモーネの母はラウラと瓜二つの顔をしていて、母というより双子の姉のようだった。やさしそうな童顔に似合わず剣の訓練は厳しかった。剣を持つ手は容赦なく打ち据えられ、今考えるとよく逃げ出さなかったものだ。
でもシモーネはよく泣いていたっけ。公国最強の剣士も初心の頃は情けなかった。
「あの頃に戻りたいな……」イレーヌは胸の中で呟いた。
「私気が付いたことがあるの。混血が吸血鬼に転化しはじめると、近い人を愛するようになるの。それは吸血鬼の純血になりたいから……、血を濃くしたくなるみたい。それを満たす為に混血は永遠の若さを得ているの。そしてシモーネ、あなたにも吸血鬼の血が混じっているわ。だから私から逃げられない。傍に居て、シモーネ」
その女性はシモーネの頬を掌で撫でた。そのまま顔を近づけたかと思うと唇を軽く合わせた。シモーネはその女性の突然の行動に驚き、思わず体ひとつ分空間をその女性との間につくった。本気で逃げたかった訳ではない。ただあまりに突然だった為、驚いただけだった。再びその女性がシモーネの頬を掌で撫で、唇に指を這わせた。この女性の口付けを拒む理由ことができなかった。混血が吸血鬼に転化をはじめると、その家族は真っ先に隔離され、転化した吸血鬼を撃つことを許さない。ずっと家族への親愛からそのような温情ある掟だとシモーネは思っていたが、真実は転化の予防策以外何物でない。知らぬが仏と言うが、世の中には真実を知らぬ方が良い場合が多々あるようだ。
二度目の口付けはお互いの鼓動が感じられるくらい体を密着させた。後は自分が望むままその女性を求めた。
禁忌を破る快感、肉体を満たす快楽、満たされる情欲、そして、……
シモーネは夢から覚めた。ゆっくり瞼を開けると、何かが目に入った。ぼうと呆けた頭ではそれが何か理解するまで少しばかりの時間を必要とした。「生きている……」どこかの寝室で眠っているようだ。
シモーネは自分の居場所を確かめるように部屋をぐるりと見渡した。目覚めたばかりで目が慣れていない。薄暗い部屋の様子はよく判らなかった。体を起こそうとする。妙に体が重い。視線を流すと、ベッドの脇で誰かが眠っていた。自分の腕を枕にして倒れるように臥せったまま。シモーネはそこにいるのは姉のラウラだろうと思った。彼女は自分の傍らにいつもいるのだから。……違う。姉の髪は肩の辺りまでしかない。腰までありそうな長く赤味を帯びた髪。一瞬、夢の中の女性とベッドサイドで眠る女性が重なって見えた。
「誰?」
その呼び掛けに驚いたように顔を上げた。その顔は自分が愛した女性とは似ても似つかない見覚えのある顔をだった。
「イレーヌ……」
「気がついたの?」
イレーヌはシモーネの言葉に応えることなくシモーネに問い掛けた。
「……あぁ」
シモーネは体を動かした。するといきなり脇腹に痛みが走った。体を突き刺すような激しい痛みだ。思わず歯をくいしばってしまう。「……そうか」シモーネはフェンリルとの闘いを思い出し、自分に何が起きていたのか理解した。
「ここに自分が眠っているということはフェンリルを倒したのだろう……」誰が倒したのかなど興味はない。まずは自分の五体が無事であるかどうかの方が大切なことだ。手足を動かして見る。一応繋がってはいるようだ。まだ死ぬわけにはいかない。
シモーネはそれを目で確認する為に上半身を起こそうと腕をついた。しかし上手く力が入らない。ぐらっと地面に引き落とされるように体が傾いていく。その時シモーネの視界が遮られた。
「無理しないで」
倒れかけたシモーネの体をイレーヌが抱かかえるように支えた。ゆっくりイレーヌが体を離すとシモーネの体を寝かそうとした。イレーヌがシモーネの背中に手を回す。イレーヌの手にシモーネの重みが伝わってくる。今までずっと眠っていた為か、女性のように細く軽い。
「あっ、触れてしまった……、シモーネに触れてしまった……」イレーヌは今自分が自分に課した戒めを破ったことに気付いた。それに気付いた途端、崩れていく自分の心。まるで波打ち際に造られ波に呑まれることが運命づけられた砂の城のよう、押し寄せる波が引き起こす小さな崩壊が呼び水となり大きな崩壊を誘い、やがて砂の城はただの砂の塊に果てる。そして崩れた砂が引波にさらわれていく。最後に残るものは愛しさのみ。シモーネがイレーヌの手に導かれるようにベッドに横たわった。
「ありが……」
イレーヌの唇がシモーネの言葉を遮った。
ペトラルカたちがラトゥールの門をくぐり、公王との謁見が執り行われるポレール離宮に入って三日が過ぎようとしていた。特にこれといった式典もなく、暇を持て余すだけの三日間だった。朝の礼拝を終えれば後は何もすることがない。退屈しのぎに剣の練習をしようにも、離宮に剣を持ち込むことは固く禁じられている。公王殿下の傍らで剣を握れるのは御親兵だけである。親衛隊、近衛隊といえ、例外ではなかった。
妖魔狩りの隊、僧会に所属する親衛隊を歓待する式典など公王一族が催すことはないが、冷遇もしていなかった。ポレール離宮に滞在するには高い身分とそれに見合った政治力と経済力が必要とされるのである。親衛隊に属する剣士たちは全員貴族で構成されている。男爵から伯爵まで様々な爵位があったが、共通しているのは経済的な敗者であり、華やか貴族社会には無縁な者ばかりだ。もし親衛隊の剣士でなかったら、決して足を踏み入れることはできない場所であった。ペトラルカは今まで三回ほど公王殿下に謁見していた。次子として長子と共に公王殿下の許に赴いたのである。これで四度目になる公王殿下の謁見は、今までとは全く様子が異なっている。自分の気持ちの持ち方でもあるが、今までは長子の付き添うという感が強かった。今回はそういう言葉は無縁である。自分の口で公王殿下に妖魔狩りの顚末を報告するのだ。名誉だと思う反面、気が重い。
「多くの同胞の死を踏み台にしているようで……」ペトラルカは朝の礼拝の後、気晴らしに離宮の庭を散歩していた。きれいに手入れされた庭園は秋の花々で彩られていた。小さな薄紅色の花が群れなし咲いているもの、四枚の花びらを赤く燃やしているもの、紫色の翅のような花をつけているもの、白く慎ましく咲いているもの。そこは庭師の技術を凝らした園であった。しかし、ペトラルカはそんな庭師の努力の結晶も気付かずに歩き続け、気がつけばいつの間にか、秋一面の庭を一周していた。
ペトラルカたちがポレール離宮に入って五日目の朝。ペトラルカが長子用の朝服(公王殿下に謁見する時の正装。暗殺防止としての役割が強く、他の儀礼でも正装として着用している)に袖を通すのは任命式以来二度目になる。浅黄色の長衣はとても剣士の出で立ちではなかった。どちらかというと、僧侶が着るような長衣のようだ。これならまだ次子の朝服の方が袖口を詰められている分、剣を扱い易い。そんな事を考えながらペトラルカは朝の祈りをする為に礼拝堂に向かっていた。朝の礼拝が終わると、すぐに公王殿下への謁見がある。その為、着慣れない朝服を着ているのである。ペトラルカの横を歩く、次子であるブルーノ卿も自分より少し長けの短い長衣を着て礼拝に来ていた。彼も着慣れていないのか、なんとなく朝服が板についていないような雰囲気がある。本人もそれが解っているらしく、ペトラルカと目が合うと苦笑いをしながら服の袖を指で引っ張った。他の親衛隊の剣士たちは普段着ている服の上から墨色の儀礼用マントを羽織っていた。彼らは公王殿下に謁見するわけではないが、謁見が行われる部屋の控え室までは足を運ぶのである。
ペトラルカは彼らの影に隠れてしまいそうな小さな人影を捜した。ラウラもペトラルカ同様、公王殿下の御前で跪くことになるのだから朝服を着ることになる。近衛隊の朝服は爵位によって多少異なるが、基本は親衛隊の朝服と同じ頭から被る長衣である。彼らの着る服も親衛隊の長子たち同様、剣士であるとはとても思えない恰好であった。やはり、そのまま外を歩けば修行僧と間違われてもおかしくないようなものだった。
ペトラルカは正装しているラウラを想像してみた。公爵といっても、そんなに変わるものではないだろう。袖の長い服、ダブダブの服、子供っぽい容姿のラウラが着ると、背伸びをしている少女ようだ。思わず口許が緩んでしまう……それを唇を固く閉じ頬に力を入れ堪えた。
「フランチェス?」
不気味で珍妙な顔をしているペトラルカに、ブルーノ卿がペトラルカのファーストネームを思わず口にした。彼にとって、ペトラルカは上官であると同時に友人でもある。隊の序列が同格であれば対等な口を利くのだが、友人とはいえ上官に軽口を叩くのは他の隊員の手前良くはないという事で気を使っていた。しかし、そんな事は忘れた。
「うぅん」自分のファーストネームを呼ばれた事に気付かないまま、ペトラルカが振り返ると友人が怪訝の顔をして自分を見ていた。急に自分の考えていることを見抜かれたような気がして、
「いや…うーん、その…」
ととぼけた事を言いながら、思わず視線を足許へ外した。ふっと口許を緩めたブルーノ卿はぽんと友人の肩を叩き、
「まあ、あまり緊張するなよ」
とペトラルカが思っていた事とは全く違ったことを口にした。
「あぁ」
ペトラルカは何事もなかったような顔をして、シラっとして応えた。
もうすぐ朝の礼拝がはじまるというのに、まだラウラの姿はなかった。
「一体、何をしているのだろう……」ペトラルカは自分の事のように気がもんだ。朝の礼拝は「神に祈りを捧げる、一日の中で最も大切な行事」なのだ。それに来ないというのは、神に忠実な人たちには考えられないことであった。「何かあったのかな……」不吉な影がペトラルカの頭を過ぎった時、ラウラがあらわれた。ペトラルカは安心してほっと一息ついた。ラウラもペトラルカが考えていた通りの正装していた。ただラウラの朝服の色は、公王一族と同じ貝紫色をしていた。それは公王家と同じ爵位である公爵のみ許された高貴な色であった。ペトラルカはラウラが自分より遥かに高い爵位を持つことに今更ながら驚くのだった。
現トゥッリタ公王であるオドアクレ・ヘルリ殿下は、三十年前のヘルヴェティア王国との戦いでラトゥール陥落の危機を救い、その危機の原因をつくった実兄、オノルフス公子から公王の継承権を実力で奪い取った人物である。公王を即位して二十余年。年齢は五十半ばであるが、その瞳の輝きはまだまだ老いを知らず、青年の若々しさを携えていた。オドアクレ公王はフェンリルという妖魔を狩った親衛隊の報告を聞くべくポレール離宮の謁見の間に足を運んだ。妖魔狩りの報告はあくまでも付属品であって、昨晩ポレール離宮で行われた貴族院上院会主催の晩餐のついでであった。あまり気乗りのしないことだったが、凶悪で名高い妖魔を倒した功績を公王として誉めぬわけにはいかない。
ボマルツォの森を出て人を襲う妖魔は森の近隣に住む領民の悩みの種である。その被害も馬鹿にはならない。領民の生活を守ることは自分の足許を守ることだと公王は知っていた。妖魔退治を報告する為に用意された部屋は「碧水の間」という部屋であった。大きな部屋ではないが離宮の中庭の眺めが最も美しいということで名が通っていた。オドアクレ公王がこの部屋を訪れるのは春の花が最も輝く時期だけであり、それ以外の時期にここを訪れる機会がなかった。秋色に染まった中庭は、碧が映える春の印象とは全く異なり、自分が知っている離宮の中庭とは思えなかった。「木々が纏う葉はまるで深紅の炎のようだ。木々はその炎で暖をとっているのだろうか……」オドアクレ公王は親衛隊の連中が来訪するまでの間、玉座から秋の中庭を観賞していた。
「殿下、連中が来ました」
耳元で側近が囁き、オドアクレ公王は秋の美しい装いを愉しむ詩人の顔から国を治める長の顔になった。開門を知らせる衛兵の声ともに「碧水の間」の扉が開けられた。儀礼通り先頭を歩くのは長子、ペトラルカ子爵。何度か会っているらしいが、その名はつい先程側近から名を聞いて覚えた。その右手には次子、その名は知らぬ。反対側には近衛隊の中で爵位の高い者……公王と同格ある公爵のみ許された色、貝紫色の朝服を着ている懐かしい顔があった。オドアクレ公王は思わず顔がほころんだ。妖魔退治をしてきた連中など興味を持ったことなどないが、今回はそういう訳にはいかなった。長子の公王への決まりきった挨拶を聞くのももどかしく感じられたオドアクレ公王は、それが終わった途端ラウラに話しかけた。
「ノヴィス公。久しいの」
驚いたように顔を上げたラウラは突然のことに頭が働いていないようだった。
「あっ、はい。お久しゅうございます」
ラウラはオドアクレ公王の三十年前、公子だった頃の顔しか覚えていなかった。目の前にいる初老の殿下が、あの時の青年だと気付いていなかったのだ。公爵でありながら、自分の主君の顔、名前すら知らないラウラの無知は常識を超えていた。困惑しているラウラなど目に入っていない公王殿下はラウラの顔を懐かしそうに眺めた。
「公は、あの頃のままだな」
「は、はい」
三十年前、隣国ヘルヴェティア王国との間で、ヘルヴェティア王国国教への聖地巡礼をめぐり、ささいな事件が起こった。その事件は両国の互いへの積もり積もった不満という火薬に火を付けるには十分な火種であった。そして当然の流れとして、両国は会戦に至るまでとなった。緒戦はトゥッリタ公国とヘルヴェティア王国の国境にあるクレート山塊で衝突した。この会戦でトゥッリタ軍は歴史に刻むには目を背けたくなるような大敗北を喫し、公国軍は壊滅状態までになった。この戦いでトゥッリタ軍を率いていたのは、オドアクレ公王の実兄、オノルフス公子だった。彼にも言い分があったかも知れないが、無責任にも敗走中に雲隠れし、そのまま身を隠した。そのオノルフス公子に代わって、オドアクレ公子がトゥッリタ軍の指揮を執ることになった。背水の陣どころか、首都の陥落寸前の瀕死状態、公国存亡の機であった。
残兵を集めての反撃の準備がはじまる。オドアクレ公子が選んだ作戦は、敵八万の軍に対して十分の一以下の兵、六千の兵での中央突破だった。他人の目から見れば、自暴自棄になり、玉砕覚悟の無謀な突撃に討ってでたようにしか見えない。だがオドアクレ公子には勝算のある戦いだった。混血のみで編成した隊を鏃に見立てて、敵の本陣へ深く突き刺し、後は雑魚には目もくれず一気に敵の頭の首を獲る。この作戦は公国存亡の危機を脱する事のみを目的とし、それ以外は敗北とみなす。そして敗北は死のみという片道切符の電撃的な強襲作戦であった。これがオドアクレ公子の秘策だった。
当時、公国最強の冠を手にしていたモントルイユ候は、この時吸血鬼を追ってボマルツォの森に入っていて連絡が取れなかった。当てがはずれた戦力をどう埋めようかと思案している時、オドアクレ公子は混血の剣士の中に、意外にもモントルイユ候の姿を見つけたのだ。
「モントルイユ候」
オドアクレ公子の呼びかけに、モントルイユ候は不思議そうな顔をしてこちらを見ただけで何も応えない。自分の背より長く細い剣を扱う女性剣士は公国の中ではモントルイユ候しかいない。
「モントルイユ候」
再びそう問い掛けた時、彼女は困った顔をしながら、
「あ、あのう、私はモントルイユではありません。ラウラ・ド・ノヴィスと言います。モントルイユの娘です」
と頭を下げた。「そう言われれば、娘がいると聞いたことがあるな……」容姿はモントルイユ侯そのものだった。確かに溢れんばかりのモントルイユの蠱惑的な妖しい色は全く感じない。落ち着いたといえば聞こえがいいが、気の弱そうな女の子にしか見えず、剣を持つより人形を抱いている方が違和感はない。
「あれは頼りになるのか。人を斬るどころか、虫さえ殺せそうにもないぞ」
オドアクレ公子は思わず側近にそう漏らした。その言葉を否定するように、側近からノヴィス伯の功績を聞かされた。しかしオドアクレ公子には壮言な修飾が含まれているとしか思えなかった。それくらいラウラは公子にとって頼りなく見えたのだった。
戦いがはじまると、オドアクレ公子は本陣で指揮杖を振ることはせず自ら前線に出て兵を率いた。不利な状況、それも圧倒的な不利な状況で、剣士たちの戦意を保つ為に。無論敵の標的となる。オドアクレ公子にはそんな危険は承知の上のことであった。その甲斐あって彼の試みは成功した。味方の剣士達は十倍以上の敵に怯むことなく勇敢に剣を交えたのだ。その時、前線に出ていたオドアクレ公子はラウラの神がかりともいえる活躍を目の辺りにした。剣を振る姿は「モントルイユの剣」そのもの、母親と見紛うまでに美しく舞う。華麗に剣を振る度、鮮血が舞う。ラウラは赤い舞台で妖艶に舞う踊り子のようだった。
それに恐れをなしたのか、敵兵の一部は闘わずして一目散に逃げ出した。突然の敵前逃亡に敵陣は混乱を極め、全滅の道を自ら進んだのだった。本当はラウラを呪術の長けた吸血鬼だと勘違いしたのが原因なのだが、そんな事は知る由もない。
「母親のモントルイユ候より強いじゃないか」オドアクレ公子はラウラをそう評した。戦いという視点から見ると、混乱する敵を敵本陣に上手く誘導し、敵の指揮系統を壊滅させたシモーネの功績が大きかったが、高く評価されることはなかった。オドアクレ公王はラウラの派手な活躍を期に、公王の継承権を獲る足掛かりを得たのだった。その意味では公王殿下にとってラウラは恩人であった。
「ノヴィス公。余は公の剣を振る姿を今でもはっきりと覚えておるぞ」
「は、はい。光栄です。殿下」
ラウラはそう相槌したが、どの戦いのことを言っているのか思い出せなかった。取り敢えず、公王殿下の言葉に合わせておくことが無難だと考えた。
「公がヘルヴェティア軍に向かって先陣を切る姿は、今思い出しても惚れ々々するのう。公に先陣を命じた余の目に狂いはなかったわけじゃな」
オドアクレ公王はラウラを初めて見た時、頼りないと言った自分の言葉など綺麗に忘れて満足げに笑いだした。ラウラはオドアクレ公王殿下のその言葉を聞いて、目の前にいる公王殿下と三十年前の公子と結びついた。老いた公王の顔には、まだ若い日の面影が残っていたように思えたのだ。おそらくラウラが今の公王の顔から公子だった頃の顔を思い出したからだろう。
「殿下の、お、お役に立てた事、公も嬉しゅうございます」
ラウラがそう答えると、オドアクレ公王は満足そうに頷き、この後は公王殿下の思い出話の独演会となった。
公王殿下に対するペトラルカの印象はもっと寡黙なものだった。過去に謁見した時には、長子の言葉に黙って頷き、一言二言ねぎらいの言葉を口にしただけであった。権力の頂点に立つ独特な空気、近寄り難い、どこか超越した雰囲気を感じていた。それはペトラルカが勝手に創りだしたイメージなのかもしれない。目の前で楽しそうに話す公王殿下の姿は、近寄り難い雰囲気などなく、とても親しみを感じるものだった。しかし公王殿下とラウラが楽しく会話する度、ペトラルカは公王殿下と同色の服を着るラウラがどんどん自分の手の届かない処へ行くように思えた。
ラウラは公爵という身分であり、救国の英雄である事実。そんな事は解りきっていたはずだ。今さらそんなことに動揺する自分が不思議でならなかった。ペトラルカにとって、ラウラは憧れの公爵嬢、公国最強の剣士や救国の英雄ではなく、手を伸ばせば触れるくらい身近にいる一人の女性でしかなかった。そして、ペトラルカは自分でも気付かないうちに、自分の知らないラウラを聞かされて、それを知る者に対して嫉妬していたのだった。
翌朝、シモーネが目を覚ますとイレーヌの姿はなかった。シモーネはイレーヌがいないことを確認するとほっと息をついた。イレーヌの唇の感触がまだ自分の口許に残っている気がしてならなかった。それがシモーネには堪らなく苦痛だった。
「昔のことなのに……」幼い頃、スーヴニールの村には、ラウラ、シモーネ、イレーヌの三人しか子供いなかった。その所為か、自然と三人でいるようになった。またラウラとシモーネ姉弟の母親、モントルイユ候は剣の使い手として妖魔狩りや戦場に赴き、家を空けることが多かった。その間、父親のいないこの姉弟はイレーヌの家に預けられていた。三人は本当の姉弟のように仲が良かった。特に女の子同士、ラウラとイレーヌはいつも二人一緒だった。二人はよく髪型や服装、装飾品のことで話し込んでいた。この頃はラウラも髪を伸ばしていて、イレーヌとお揃い髪型とプラチナの髪留めをしていた。知らない人からは本当の姉妹だと間違えられるほど仲が良かった。剣を覚える年頃になると、ラウラとシモーネの母親であるモントルイユ候が三人に剣の手解きをした。混血は成人すると近衛隊に所属するか、ボマルツォの森の交易に就かなければならない。近衛隊に所属することは剣士になることを意味し、またボマルツォの森の交易に就くにしても、ボマルツォの森では自分の身は自分で守らなければならない。そのどちらの職に就いても剣は必須となるのである。
モントルイユ候の剣の習得は三人には非常に厳しいものだった。モントルイユ候は情け容赦なく教え子たちの剣を叩き落した。混血の血が流れていなければ、大怪我をしてもおかしくない程の鍛え方であった。その頃から、シモーネはイレーヌの不思議な視線に気付きはじめた。その視線に気付き振り返るとイレーヌがいる。そしてイレーヌは怒っているような顔をして視線をそらす。特に用があるとは思えない。イレーヌに訊いても何も答えない。ふと気がつくとイレーヌはじっと自分を見つめているのである。姉にイレーヌの不可思議な行動を訊いてみたが、解らないと言う。
そんなある日、イレーヌの母親に思い切ってイレーヌがじっと自分を見つめることを訊いてみた。そうしたら、イレーヌの母親は、
「うちの娘はシモーネのことを好きなのよ」
と笑いながら答えてくれた。シモーネはイレーヌが自分のことを好きになってくれることが、妙に照れくさかったけれど嬉しかった。自分もイレーヌのことが姉や母親と同じように好きだった。イレーヌの「好き」と自分の「好き」に違いがあることを知ったのは、もう少し年齢が上がってからだった。十分に剣が使えるようになった頃になるとイレーヌが自分の傍から離れなくなった。もうイレーヌの気持ちも理解できた。
しかし、あの時自分はイレーヌではなく、あの女性を受け入れたのだ。あの女性の死。そして姉と共に生きることを固く誓った。
もう昔のこと。シモーネにとって、イレーヌが自分を好きなってくれたことは、振り返るのには遠い過去の一頁であった。自分の気持ちをぶつけてきたイレーヌに対して今さら何を言えばよいのか、シモーネには判らなかった。
「コン、コン、コン、コン」
とノックの音。シモーネは一瞬息を呑み、ためらいがちに、
「どうぞ」
と応えると、
「失礼します」
シモーネは下女が部屋に入ってきたのを見て緊張が解けた。
「マルティニさま。おはようございます。何か御用はありませんか」
シモーネは首を横に振って答えた。
「解りました。何か御用がございましたら、呼び鈴をならしてください。それでは失礼します」
パタンとドアがしまる。シモーネはそのドアを見つめた。閉ざされたドアは自分の中で開くべきものがあることを示しているようだった。その時シモーネは自分の中で何か疑問がわいた。
「忘れている。そう、何か忘れている……」胸につかえて気持ち悪い。それが何か思い出さねかればいけないという使命感みたいものを感じる。そして焦り。シモーネは唇をかんだ。
「……あっ!、フェンリルとの闘いが終わってから何日経ったんだ!、姉さまは……」シモーネはベッドから体を起こした。
イレーヌは昨晩のことを後悔していた。「どんな顔をしてシモーネに会えばいいのうだろう……」自分の気持ちが抑えきれなかった。今回の妖魔狩りでシモーネに会ってから溜め込んでいた自分の気持ちが弾けとんでしまった。一瞬で燃え尽きる流星のような衝動だった。イレーヌはベッドサイドに座りうなだれた。
「コン、コン、コン、コン」
「はい」
「おはようございます。ダンヴェールさま」
下女がドアをゆっくり開けた。
「朝食の準備が整いました。広間の方までお越しください」
「そう、すぐに行くわ」
「それでは失礼します」
そう言いながら下女がドアを閉めようとした時、ドスンと音が響いた。何かが落ちたような音だった。イレーヌは反射的に立ち上がり部屋を出た。そして何の迷いもなくシモーネの部屋に向かった。イレーヌはシモーネがベッドを出ようしたのだと確信があった。
「ドン、ドン、ドン」
イレーヌはシモーネの部屋のドアを殴るように叩き、部屋からの返事を聞くこともなくドアを開けた。今しがたまで悩んでいたことなど覚えてもいなかった。イレーヌの思った通りのことが目の前で起こっていた。シモーネがベッドの横で転がり苦しそうに体を縮こませている。
「大丈夫」
イレーヌはシモーネの肩を抱き起こした。シモーネは苦しそうに顔を歪めながら、
「姉さまはどこにいる」
イレーヌを責めるように問い掛けた。
「ちょっと落ち着いてよ。シモーネ」
イレーヌがシモーネを落ち着かせようとする。
「あれから何日たった」
シモーネはイレーヌの腕を掴み、
「落ち着いてシモーネ」
そしてゆっくり放した。
「ラ…ノヴィス公は本隊と共にここポルトを出て行かれたわ。もう半月(月は月暦で設定)前の話よ。ラトゥールでの仕事を終え、もうサンピエール教会についていると思うわ」
「半月も眠っていたのか……」
シモーネは焦燥に囚われた。姉には自分の血が必要だ。シモーネは姉の共に生きていくと心に決めていたのに、それを自分自身で汚してしまったように思えた。姉を半月もあいだ見捨てていたような罪悪感を覚えたのだ。不可抗力という言葉はシモーネにはなかった。
「すぐにサンピエールに向かう」
「えっ」
シモーネはイレーヌの肩を手で突き放し、よろよろとしながら立ち上がった。
「まだ無理よ」
イレーヌが心配そうに言う。シモーネはイレーヌの言葉に苛立った。「無理」それは姉に対して使う言葉だ。フェンリルとの闘いの前夜のことが思い出される。姉は苦しそうにしていたではないか。
「ヴァッラ卿を呼んでくれ」
イレーヌはシモーネを無言で見つめた。「なぜ、そんなにラウラを求めるの……」イレーヌはラウラに嫉妬している自分を見つけた。だがイレーヌは昨晩のように本心をシモーネにぶつけることはできなった。自分の心に迷いが…それが何の迷いか解らないが…制動の力となった。
「解ったわ」
イレーヌはそうシモーネに答えた。
イレーヌはシモーネ共にサンピエール教会へと出立する準備を整えていた。シモーネは自分の馬車があるのですぐにでも出発できる。昼過ぎにはここを発つつもりのようだ。イレーヌは妖魔狩りの特権を活かし、ヴァッラ卿に馬を借りることにした。妖魔狩りの剣士が本隊から離れた場合、本隊に合流するのに必要な物資はすべて領主から無条件で借り受けられるのである。ヴァッラ卿は快く馬を貸してくれた。
ここポルト村からだと馬車ならサンピエール教会まで五日もあれば十分だが、シモーネが馬車に揺られるのに耐えられるのだろうか。あの状態だと、いくら混血だといってもかなり身体にきついはずだ。「シモーネの体を心配している自分」イレーヌはそう思い込んだ。
衝動に任せて口付けをしてしまったこと、抑えきれなかった感情と後悔、今まで抑え込んでいた心を伝えることへのためらい、そして過去に愛した男との違い、イレーヌは激しく揺れ動く自分の心を説き伏せる理由が欲しかった。シモーネと行動を共にする為に。
ポレール離宮での役目を終えた「フェンリル刈り」の部隊は、一路サンピエール教会を目指した。僧会の枢機卿に「フェンリル刈り」についての報告と亡くなった者の弔い、そして解散式を行う為に。これで妖魔狩りの為に編成された部隊はすべての任を終える。その後は一部残作業があるものの妖魔狩りに参加した者すべてに休暇とわずかばかり報奨金が与えられる。ラウラは公王直属の剣士であったが、今は親衛隊の部隊として編入されている為、隊がお役御免となるまでは行動を共にすることになっている。ラトゥールからサンピエール教会まで約十五リューの距離、二日程で到着する。ラウラはこの時期くらいから、自分の中にある渇きを覚えはじめていた。
血への欲求。ラウラは自分の顔を鏡で見ることができなかった。「もし吸血鬼のように牙が口許から覗いていたら……」現実は見たくなかった。不安は知らないことで打ち消せる。しかし、夜、部屋のベッドに潜り込むと一気に不安が増した。夜は吸血鬼の世界でもあった。昼間はまだ人の目がある。まだ気が張っていられる。渇きも誤魔化せる。だが夜一人になると闇が自分を妖魔の世界へと包み込むようで怖かった。頼りになる温かい手はここにはない。
ラウラは孤独という恐怖を怯えた。
「フェンリル狩り」の部隊は、サンピエール教会へ行く最後の宿泊として、グイチャルディーニ伯爵の領地に立ち寄った。グイチャルディーニ伯領はサンピエール教会区の隣地であった為、妖魔狩りの隊が最初と最後の宿泊場所としてよく利用されていた。公国の制度として、グイチャルディーニ伯は妖魔狩りの隊の要求は呑まなければならない。宿を提供しろと言われれば拒否権はない。グイチャルディーニ伯は妖魔狩りの部隊が宿泊地として領地に留まる度、邸宅や離れを使用させなければならない。領地を持つような諸侯と言われる大貴族にとって妖魔狩りの隊は、公王や僧会の直属の剣士で構成された招かれざる客である。当然グイチャルディーニ伯も自分の邸宅に妖魔の血が流れる者や落ちぶれた貧乏貴族を招く気など更々ない。そういった理由でグイチャルディーニ伯は妖魔狩りの隊を宿泊させる為だけの別館を建ていたのだった。別館は本館から百トワーズほど離れにあり、伯爵の趣味を満たす為に造られた林檎園の中に建てられていた。その横には馬小屋があり、見た目には旅の宿といった雰囲気があるが、その別館の内外装は伯爵の名に恥じないものであった。館の至るところには彫刻がなされ、特に玄関にある天使の彫像は、ランス大聖堂にあるように客人を無垢なえみ微笑をもって出迎えてくれる。調度品も一目で高価だと判るものばかりだ。テーブルをひとつとってみても、親衛隊の剣士には無縁な工房の紋章が施されていた。例え、招かねざる客であっても歓待の形だけは手抜くことはない。
その夜も、主人抜きの晩餐が営まれた。妖魔狩りに就く者も馴れたもので、主人の欠席の理由など求めない。羽目を外すことを知らない親衛隊の面々は晩餐を終えると、汐が引くように自室に引き上げた。ラウラも同じように自室に戻り、ベッドにごろんと寝転んだ。ラウラの部屋にはシモーネの血を求めた時と同じように月の光が差し込んでいる。窓辺に置かれた花瓶が赤い秋桜とともにその月明かりを浴びていた。セーヴルの工房で焼かれた白磁の花瓶は月の明かりをラウラに向かって反射させ、暗闇の中からラウラの姿を浮かび上がらせていた。
その夜も、ラウラは襲い掛かってくる様々な恐怖に耐えていたが、昨日とは違い、飢えが一番耐え難い苦痛となってラウラを襲った。ラウラはシモーネと離れてから血を絶っていた。シモーネという自分を支えてくれる人がいない中で血を求めることは、自分が吸血鬼であることを認めているようでできなかった。
「でも……」ラウラは自分の指を噛んだ。赤い血は二つの筋となってベッドに流れ落ちた。ラウラはゆっくり味わうように血を舐めた。それからはもう止まらなかった。一気に血を啜る。
「満たされる…、満たされる……」慌てて口から指を離す。「私は血を求めているんじゃない!」ラウラは吸血する自分を認めたくなかった。渇きが満たされると、ほんの一瞬前の血を求めていた自分を否定していた。それは自己欺瞞以外何ものでもなかった。シモーネと離れてもう半月になる。この先、シモーネに会えるまでまだ時間がいるだろう。その間、心にある隙間も埋めるものは何もない。あの優しい手はどこにあるのだろう。シモーネの顔が浮かぶばかりか、ペトラルカの顔まで……
ラウラは独りでいることを慰めるように両腕で自分を抱いた。
シモーネは言葉通り昼過ぎには、サンピエール教会に向けてポルト村を出立した。まだ自分で馬車が操るほどシモーネの体は回復してなかっ為、馭者として、ヴァッラ卿が気を利かして下男を貸し出した。ヴァッラ卿は明らかに無理をしているシモーネを引き止めなかった。ヴァッラ卿は何も言わず、邸宅に置いてあるシモーネの荷を纏めて馬車に詰めた。シモーネにはそれがありがたかった。何か意見されると、無理矢理落ち着つかせている神経を逆撫でするようで気分が悪い。シモーネはヴァッラ卿に感謝を込めて深々と頭を下げ、ポルト村を出た。
シモーネと同行を決めたイレーヌは荷を馬に積み、その馬をシモーネの馬車に繋いだ。そして自分はシモーネの馬車に載りこんだ。同じ近衛隊として、シモーネの付き添いという理由で……他には何の感情などない、とそんな顔をしながら。シモーネは何も言わなかった。イレーヌは馬車の中には入らず、馭者台に座り込んだ。シモーネと真向かいで顔をあわせづらかった。まだ自分の心に自信がもてなかったのだ。「このままシモーネに同行することが自分にとって正しいことなのか……」イレーヌは下男が手綱を取る様子を、何をする訳でなく眺めていた。シモーネはできるだけ速く進むように下男に言っている。その言いつけを守って、下男はかなり馬に無理をさせて歩かせていた。振動は思った以上にある。下男の手が調子良く手綱を取る。イレーヌは後ろを振り返った。馬車の中はラウラとシモーネの荷がところ狭しと置かれている。その隅っこにシモーネはいた。シモーネは少しでも馬車の振動を緩和させようと体を毛布に包みこんで小さく体を縮ませている。「何もそんなに無理をしなくても……」イレーヌは腹立たし気に呟き、そして愛しそうに表情を緩めた。
「ダンヴェールさま。マルティニさまは大丈夫ですか」
下男は顔を真直ぐ向けたままイレーヌに問い掛けた。
「かなりキツそうね。もう少しゆっくりできない」
「しかしダンヴェールさま。マルティニさまはできるだけ速くとおっしゃています……いかがいたしましょうか」
下男は困ったようだ。
「構わないわ。足を緩めて。私からシモーネに言うから」
「解りました。ダンヴェールさま」
馬車の速度が落ちた。シモーネはその事に気付く様子はなかった。イレーヌはシモーネを再び見た。イレーヌはシモーネを愛しく思った。
「今まで何を考えていたのだろう? なぜ、こんな簡単なことに気付かなかったのだろう?」ラウラとシモーネの母親、モントルイユ候が死んでから何故かラウラとシモーネは自分を避けていた。その間ずっと気持ちが投げ出されていた状態だった。時には誰かに身を預けることはあったとは言え、心の片隅に残照として生き続けていた。そして、シモーネに再会した。シモーネは昔のままシモーネだった。自分の知るシモーネのままだった。それを独占する姉、ラウラに嫉妬していた。そして今回のシモーネの大怪我。自分に対して戒めをつくっても何の意味もなかった。シモーネに対する自分の気持ちは変わることはない。ずっと変わることはなかった。それまでの嫉妬したり、勘ぐったり、自分を制していた心の陰影のようなものが跡形もなく霧散し、心が秋晴れの空のように澄みわたった。答えは実に簡単だった。どんなに情熱的に男性を受け入れても、それは一時の夢であり、心から誰よりも愛しているにはシモーネだと、それに今彼女は気づいた。