Canzonier du vampire 7
注意、英文はやっぱいいい加減です。
【7e Chapitre】
フェンリルとの闘いは終わった。だが、まだボマルツォの森にいることには変わりない。ボマルツォの森は妖魔の巣窟。血の臭いを嗅ぎつけた妖魔と闘うことは避けたいものだ。すぐに血の臭いを誤魔化すために、森の人からもらい受けた香を焚いた。やらないよりはやった方が良い程度の効果ではあるらしいが、何より生命に関わること、煙たいくらいの香が焚かれた。
ペトラルカは怪我人の止血が終えると、すぐにシエルから離れることを全員に伝えた。闘いが終わってもなお断末魔のような叫び声が聞こえる。あの止血薬を使っているのだ。激痛を伴うこの薬は痛みに耐えかねて暴れる負傷者を押さえつけ使用される。舌を噛み切らないように布を口に咥えさせて。
ラウラはシモーネの手を握っていた。シモーネは散らばった内臓を包帯で包みながら腹部に押し込められた。傷口というには、あまりに肉を多くを失っていた。剛力がシモーネの傷口に止血薬を塗った。意識がなくとも痛みには反応するのだろう。反射的にシモーネの体が痙攣するように暴れた。ラウラはシモーネが暴れないように、全身の体重をかけるように覆いかぶさった。せっかく塞ごうとしている傷口がまた大きく口を開けてしまう。ラウラはシモーネに激痛を伴う止血薬を何度も使わせたくはなかった。混血の治癒能力を持ってすれば、この程度の怪我では死ぬこともなく後遺症が残るようなこともない。時間はかかるものの、じゅうぶん再生可能な傷である。いくら傷が癒えるとしても、ラウラにとってシモーネが意識すらなくもがき苦しむ姿は見るに耐えないものだった。ラウラは目を伏せた。気付かぬうちに涙が流れていた。
歩けない負傷者が血抜き騾馬に載せられていく。死を免れない瀕死の重傷であっても誰一人置いていくことはない。安楽死をさせる者以外は。ボマルツォの森で息を引き取った者はボマルツォの森から出してはいけない。それがボマルツォの森での掟である。人が死ぬと肉体から魂が抜け、その魂は神の御手によって黄泉の世界に導かれる。彼らの世界では疑いのない事実である。そして魂の抜けた肉体は主のいない宿りとなり、妖魔たちの恰好の餌食となってしまう。妖魔が棲むボマルツォの森では、いつ魂のない肉体に妖魔が入りこんでしまうか判ったものではない。妖魔に憑かれた亡骸は永遠の生ける屍として、さまよい続けなければならない。それはあまりに忍びない。だから例え助からないと判っていても、せめて死は人の世界で迎えさせてあげたいという心から森の外まで運ぶのである。そして不幸にもボマルツォの森で命を落した者は、例え妖魔に魂のない肉体を乗っ取られたとしても、故人の名誉を守る事と遺族への配慮から首を刎ねるのである。
フェンリルとの闘いでは、混血の剣士五名、親衛隊の剣士二十三名と森の人一名が命を落した。混血の剣士は五名ともフェンリルに頭部を食いちぎられ、親衛隊の剣士十五名、森の人も同じように頭部を食いちぎられていた。幸か不幸か残った剣士八名には頭が胴にしっかりついていた。遺体に剣を入れるという最も嫌な仕事をするのは、この隊の責任者である長子の役目であった。ペトラルカはたまたま側にいたシモーネに仕える剛力に頸斬りの剣を持ってくるように言った。長子は頸斬りの剣を持つことはない。仲間の首を刎ねる剣を持つことは仲間の死を容認することであると、長子と次子はその剣を持たないのが慣わしであった。剛力が剣を持ってくる間、ペトラルカは自然とラウラの方に目がいった。
ラウラは弟のことが心配なのか、ずっとシモーネの傍から離れようとはしない。頬の腫れを隠すように顔に布を巻いているので、表情までは良く見えなかったが、手のひらを合わせたり握ったりと忙しく手を動かしている。その姿はまるで恋人のことを案じるような雰囲気があった。ペトラルカは何とも言えない苦い気持ちを味わった。恋した相手の弟に嫉妬をするのは、あまりに情けなく感じられたのだ。その時シモーネに仕える剛力が大きな剣を持ってペトラルカの前にあらわれた。ペトラルカの気分はさらに沈んだ。
亡骸の首が刎ねられた。血が飛び散らないようにすぐに止血される。死者の為ではない。血の臭いをできるだけ抑える為だ。ペトラルカは大きな剣を八回振り下ろした。自分の身が斬られるような痛みを頸筋に走るのを感じた。「もしかしたら自分が殺しているのではないか……」生前の顔を知っているだけに、そんな風に思えてしまう。それが事実ではないと頭では解っていても、剣を振り下ろす瞬間、まだ生きているのではないかと思えてしまう。亡くなった同志を妖魔などに辱めることはできないとはいえ、見知った人の首を刎ねるのはかなり精神的に耐え難いものである。
先日、フェンリルに殺されたラバン村の人たちの為に墓標となる石塚を建てた。故人への黙祷を捧げた後、その場所から離れようとした時、誰も最初の一歩を踏みださなかった。その場所から離れる最初の一歩を踏み出すことが罪悪のように感じたのだ。本来、罪悪とは無関係であるはずなのに、そう感じてしまった。ペトラルカはその時感じたものと本質が同じものであると思えた。誰かが最初の一歩を踏み出さないといけないのと同じように、誰かが頸を刎ねなければならない「それが自分の責務だ」とペトラルカは自分に言い聞かせた。
首のない遺体が、血の臭いを消す香を染み込ました袋に入れられた。墓穴を掘り遺体を埋めるのが一般的な埋葬の習慣であるが、墓穴を掘る時間的な余裕がない為、そのような処置がなされた。肉体が朽ち果てる前に、妖魔に亡骸が荒らされるのは目に見えている。それでも、数日、いや数時間は安かな時間が得ることができる。今はペトラルカたちにできる最大限のことをするだけだった。
シエルからの撤退の準備が整った。森の人の結界が張れるヴァリまで行き、そこでもう一度撤収の体勢を整えるのだ。
「撤収開始。ヴァリへ向かう」
ペトラルカが告げた。
イレーヌはペトラルカの指示を受けた後、すぐに森に警戒の目を向けた。イレーヌの役目は、非戦闘員の安全の確保、帰路の警備と強制解散時において発せられる別動隊の指揮である。イレーヌはシエルでラウラたちがフェンリルと闘っている間に、血の臭いを嗅ぎつけた妖魔を四体葬っていた。内二体は一つ目兎で、一体は双頭の蛇のような名も知れぬ妖魔、残り一体は小型のガーゴイルのような妖魔だった。ペトラルカはシエルがすでに危険な状態になりつつあることをイレーヌの報告で認識していた。故に、急いでシエルより安全なヴァリへと向かったのである。
ペトラルカの判断にイレーヌは何の不満も持たなかった。間違いなく自分も同じことをしている。ペトラルカは長子として、その任に値する判断を的確に下しているだろう。イレーヌはちらりとシモーネの方に視線を向けた。ラウラが寄り添っているのが見えた。ラウラに対して胸に刺さるものがあると同時に、シモーネの容態が気になってしかたなかった。
「大した怪我でなければいいのに……」イレーヌは剣を握り直した。
シエルからヴァリまでの道程は、行きと同様に順調だった。一つ目兎どころか、妖魔の姿や気配すら全くなかった。ヴァリに着くと、すぐに森の人が結界を張るべく、行きと同じように妖しげな袋を隊全体に囲うように置いた。応急処置を行った負傷者の治療がはじまった。治療といっても、シエルで行った治療に手を加える程度のものであった。主に、止血の処理である。何度も言うように、コリーヌの丘は血の臭いに敏感な一つ目兎の巣である。そこを通り抜ければならないのだ。わざわざ「餌が通ります」などと宣伝しながら歩く愚行をする気にはなれない。
ペトラルカは四名の混血の剣士を呼んだ。後二名ほど混血の剣士はいるにはいるが、一人は意識不明の重傷、もう一人は右腕と左脚を失い、さらに内臓もやられているらしく、とても剣を振ることなどできる状態ではない。ペトラルカはイレーヌに先頭を任せ、最後尾にはミラボー伯、隊の中央をラウラとカンボン伯に任せた。ラウラはフェンリルの闘いで怪我を負っている。休ませてやりたいのは山々なのだが、森を出るまではそんな余裕などありはしない。剣を振れるのであれば働いてもらわなければならない。混血の剣士は一人でも貴重なのだ。ペトラルカがすまなさそうにラウラに指示を出した。
指示を受けたラウラは、特に気にした様子もなく、腫れを隠すように布を巻いた顔でコクンと頷いた。ヴァリでの準備が整うと、ペトラルカはすぐに隊の出立と抜刀の指示した。どんなに止血処置をしても完全には血の臭いを消すことはできない。妖魔の襲撃に備えよと言っているのである。歩きはじめて一刻が過ぎ、路はコリーヌの丘を目指しはじめた。行き帰りの方向が違えども、一度通った路は覚えているものらしい。行きに感じた時より遥かに帰り路は歩き易かった。
イレーヌと一緒に先頭を歩いていた森の人が隊の後方のいるペトラルカの処まで歩を緩めた。
「Master, There are one eyes of rabbits」
「Forester, Do you know how many rabbits ?」
ペトラルカの問いに、森の人は小さな手を大きく広げて、
「Many !」
と答えた。その時突然、先頭にいるイレーヌから緊急停止を知らせる笛がなった。ペトラルカが慌てて隊の先頭に出た。目の前には、優に二百を越える一つ目兎が、ペトラルカが進むべき路を取り囲んでいる。幾つも大きな眼が自分たちを見ている。人の拳ほどある眼が……。ぞっとする光景だ。
ペトラルカは奥歯を噛み、森の中で孤立する不安を覚えた。「ここを通るか……、それとも引き返してプラトーの丘を通るか……」もう一方のルートのプラトーも一つ目兎の巣だ。
ペトラルカは長子として決断を迫られた。
イレーヌはペトラルカの判断を待った。
「進むのか……、戻るのか……」どちらにしても、今はどちらが正しいかは判らない。生き残った時、その選択が正しいとはじめて判るのだ。ペトラルカは隊に前進するように指示を出した。ここを突破する決断を下した。今からプラトーの迂回路を通ると、一鐘ほど余分にかかってしまう。コリーヌを通っても二鐘半は掛かる行程であり、日暮れまでに一鐘弱くらいしか余裕がない。プラトーを通っては、日暮れまでに森を出るのは難しいと判断したのだ。隊の前方に出たペトラルカにかわって、次子のブルーノ子爵が隊の殿についた。長子と次子が常に先頭と殿をつとめ、最悪の場合、隊を二分してでも生き残ろうという訳だ。その確率が低くても可能性がある限りそれに賭ける。それがボマルツォの森での基本戦術のひとつである。ペトラルカがコリーヌの頂上を見上げた。五十トワーズにも満たない高さの丘が遥か高くそび聳え立つ峰のように思えた。
脚を踏み出す。この森を出るには、この丘を越えるしかない。コリーヌの丘へと伸びる路をペトラルカたちは歩きはじめた。その距離を一定に保つように、一つ目兎が後退していく。いつ襲ってくるのか判らない。緊張したままの行軍となった。
「疲れることをしてくれるな……」
思わず愚痴をこぼしたペトラルカに、彼に従事する剣士が、
「でも、このまま森を出られたらいいですね」
と答えた。神経をすり減らしているものの、それで死ぬことはない。
「そうだな」
ペトラルカはもっともだと言わんばかりに呟いた。
一つ目兎の性質は臆病であり基本的に攻撃性に乏しいが、所詮は生きた肉を貪る妖魔。奴らに隙や弱みを見せたら、その途端に数に物を言わせ一斉に攻撃してくる。今はこちらの様子見の為か、おとなしくしている。だがいつ一斉に襲ってくるか判ったものではない。そうなった場合、フェンリルとの闘い同様かなり激しい闘いとなるはずだ。ただフェンリルとの闘いと異なり一つ目兎との闘い方はかなり実戦例が紹介されていた。すなわち生き残った者が多くいるのだ。
一つ目兎は生きた肉を貪るが、別にそれが人である必要性が全くない。はっきり言えば、同じ一つ目兎であろうと構わないのだ。「一つ目兎に共食いをさせる」生き残る為には、これが必須となる。これを実践するのは初撃で一つ目兎に太刀を浴びせれば解決するのである。
混血の能力を持ってすれば、そんなに難しい問題ではない。数の問題を除けばだが……。今、隊を守る混血の剣士は四名。二百以上はいよう一つ目兎と闘うには、あまりにも混血の剣士の数が少なすぎる。もしこの状態で一つ目兎と闘ったなら、隊全員をとても逃がしきることはできないだろう。まだ森を出るには二リュー以上はある。ペトラルカは一つ目兎を刺激しないように気を使いながら、隊の歩を少し速めるよう指示を出した。隊の歩みが心持ち速くなった。血抜きの騾馬に載られていた負傷者の顔が苦痛に歪んだ。騾馬の足が速くなった為、揺れがきつくなったのが体に堪えたのだ。騾馬の背中が揺れる度、シモーネの顔が意識もないまま苦悶の表情をする。ラウラはそれをまとも見る位置にいた。心が拷問にかけられているように胸が傷んだ。止血の為にシモーネの体に巻かれた布は、シモーネの心を束縛しているもののように思えた。
それは、自分という束縛を受け、苦しむ愛する者の姿だった。母親が死んでから、シモーネは自分の身を案じて片時も離れることもなく、何よりも自分を優先してくれた。初めて剣を持った頃のひ弱さはいつの間にか消え、剣を持った時に見せる表情は一人前の男になっていた。
ラウラは昨晩シモーネの腕に噛み付いた自分を思い出した。人とあまりに違う自分が惨めだった。目を伏せながら何も知らない振りをして、自分を欺いていた感情が込み上げてくる。頬の腫れを隠すように顔を布で覆っているので、誰もラウラの表情までは読み取ることはできない。それでも傍にいたエスクラヴにはその雰囲気が伝えわるのか、ラウラの気持ちが沈んでいることに気付いた。
「ノヴィスさま。どこかお体の具合が悪いのですか」
隊に不要な動揺を与えまいと、エスクラヴは周りを気遣いながらラウラに耳打ちした。エスクラヴのちょっとした心使いがラウラにはとても嬉しかった。こういう優しさは、沈んだ心によく響く。
「大丈夫よ」
ラウラは笑顔でエスクラヴに応えたつもりだったが、顔が腫れていて上手く笑顔がつくれなかった。エスクラヴは小さく会釈して、ラウラの後方、ラウラの荷を載せた血抜きの騾馬まで下がった。この後、時間にして一鐘余り一つ目兎はペトラルカたちを襲うこともなく、一定の距離を保ったままペトラルカたちの前方に居座った。その間、隊は脚を止めることもできず、歩くことを余儀なくされた。隊員たちは精神的疲労だけでなく肉体的な疲労とも闘い続けることとなった。
森を抜けるまで約一リュー半の処にペトラルカたちは来ていた。ペトラルカたちは一つ目兎から監視を受けるように歩きながらも、既に森での行程は三分の一余りを残すのみとなった。ペトラルカは疲労の色が濃くなった者に、気を抜かぬように叱咤激励の言葉をかけた。こんな処で、無駄な血を流すことになっては目も当てられない。さらにペトラルカは一つ目兎たちの行動の真意を直感で見抜いていた。
「吸血鬼やフェンリルの特別な妖魔だけに知能があるといわれている。しかし、それは間違いだ。一つ目兎は間違いなく、自分たちを観察し、狙いをつけるべき人間を選別している。奴らは他の妖魔のように人を見ると、ところ構わず襲ってこないので臆病だと思われている。確かに他の妖魔のように強くはない。その弱さ故に、確実に仕留められる獲物に狙いを定めているのだろう」と、ペトラルカはこの考えを最初の頃は深読みのし過ぎだと思っていたが、ここにきて、奴らの行動と過去の実戦例を照らし合わせ、自分の考えの正しさを確信したのだった。そして一つ目兎の様子に異変があった。ペトラルカたちを監視していた一つ目兎の数が減ったのだ。ペトラルカが突如、
「密集隊形」
と命令を下した。
一つ目兎は襲ってくる様子もない。多くの剣士がその意味を汲み取ることもできないまま戦闘状態の隊形になった。その直後ペトラルカの判断は正しかったと証明された。本人は間違っていた方が良いと思ったに違いない。突然血抜きの騾馬に載っていた重傷の剣士が襲われたのだ。
不思議なことに、妖魔は血抜きの騾馬を糧としない。森の人の薬で、赤い血が青い色の血に変わり、ふつうの騾馬が血抜きの騾馬へとつくり変えられる。どうも青い血が妖魔たちには受けが悪いらしい。森の人と同様に。この時も一つ目兎は青い血をした血抜きの騾馬には目もくれず剣士や剛力に襲いかかった。
乱戦になりつつも混乱しないように、ペトラルカたちはしっかりとフォーメーションを維持しながら一つ目兎に応戦した。特に怪我人の多い隊の中央が激戦となった。隊の中央左面はラウラが受け持ち、右面はカンボン伯が受け持った。一つ目兎は同じ仲間でも血が流れると、途端に共食いをはじめる。所詮は血に餓えた餓鬼と大差などない。敵に傷を負わせることは、ラウラの剣が最も得意とするところだ。群がる一つ目兎に一太刀浴びせては共食いを誘う。ラウラは完璧な防御をみせた。混血の剣士の手が届かない処では、剣士、剛力と構わず人壁を創り、押し寄せる妖魔の波を追い返していた。一つ目兎の群れは、高い岸壁に砕け散る波ように血の飛沫をあげ、人の壁に弾かれた。一部波の力に負け砕けた岩もあったが、岸壁を砕くまでには至らなかった。一つ目兎が共食いをはじめたのだ。後は、自滅を手助けするだけだ。無論一つ目兎の犠牲になった者も少なくはない。一刻も経たぬうちに、剣士三名と剛力一名が押し寄せる波にさらわれていた。しかし混血の剣士がた四名しかいないことを考えれば、特筆すべきものだった。もしペトラルカが密集隊形の指示を出していなければ、もっと犠牲者は増え、最悪の場合壊滅状態になっていただろう。
突然、生きた血と肉を求めていた妖魔たちが、逃げるように森の中へ走りだした。まるで津波の前に引く潮のように。
「再襲撃」誰の頭にも疑うことなくその言葉が刻み込まれた。剣を持てる者は剣を置くことはない。そしてその間隙をついて、直ちに怪我人の治療がはじまった。痛みに耐えかねて叫ぶ声が聞こえる。苦しみを吐き出すような声。それはまだ生きているという証でもあった。ペトラルカに先程の闘いでの死傷者の数が報告された。この闘いでの死傷者は、人の剣士と剛力のみ。死者四名、重傷者二名であった。
フェンリルとの闘いとは違い、今度は死者を葬ることはできなかった。もはや、その肉体は肉とも骨の一部ともつかない状態になっていたのだ。僅かに残った遺品だけが集められ、ペトラルカに渡された。ペトラルカは遺品を血の臭いを消す布で包み名前を書き込むと、同じ布で作った背嚢に入れた。遺品を持ち帰るのも長子としての大切な仕事である。
血の臭いを誤魔化す香を焚くようにペトラルカが命じた。ここで一旦、負傷者の治療の為に隊の足を止めるつもりだ。その直後、ガリガリと硝子を擦り合わせたような不協和音が森の奥から聞こえてきた。ペトラルカが命令を出す前に、隊は既に密集隊形をとり不測の事態に備えていた。
「次は何がくるのか……」誰もがそう思った時、森の人がペトラルカの袖口を引っ張った。
「Master, We must run away form here soon」
森の人の目には明らかに恐怖の色があった。
「Why ?」
「Something of black color」
「Something of black color ? What's it ?」
ペトラルカは森の人が言っている意味を解りかねたが、森の人の焦りようから見て、かなり危険な妖魔が近づいているに違いないと判断した。重傷を負った者には申し訳ないが、命あっての物種。
「即時、出立準備」
それから三十の鼓動打つ間に、
「準備完了」
の返答があった。
「ギャロップ」
ペトラルカは大きな声を張り上げた。早歩き程度で隊は進みはじめる。ペトラルカが命じた言葉は、馬術の用語で「駆け足」という意味の言葉である。駆け足というわりには、早歩き程度しかない。だが血抜きの騾馬にとって、この速度が最高速度なのである。血抜きの騾馬は三週間くらいなら不眠不休で歩くことができる底なしの持久力を有しているが、しかしその反動なのか、走る速度は信じられないくらい遅かった。世の中、そんなに都合よくできていないものらしい。
この辺りの路は比較的状態が良かった。それでも駈ける血抜きの騾馬の背中はかなり揺れるらしく、騾馬に体を固定されていない者は騾馬に振り落とされまいと必死になって騾馬にしがみついていた。あの不穏な音が森の木々つたいにペトラルカたちの側面についた。
「完全停止、三、二、一、停止」
ペトラルカは周辺の状況を見る為に、隊を止めた。子供を整列させるような号令ではあるが、隊列を乱さず脚を止めるにはこの方法が一番確実なのだ。いきなり隊を止める命令を出しても、血抜きの騾馬が息をぴったり合わせて脚は止められない。このような状況で隊を乱すのはあまりにも愚かだ。隊が脚を止めた途端、森の人がペトラルカの腕を掴んだ。
「Run, Run, Run ! Don't stop ! Something of black color will attack us」
その時、剣士のひとりが、
「あれは、何だ!」
隊の左方向を指差し叫んだ。牛くらいの大きさの黒色の霧のようなものが森の木々の間から見える。
「Don't touch it ! Run away form Something of black color」
森の人は業を煮やしたようにペトラルカの腕をとって走りだした。
「Forester, What's going here ?」
「Run away form here soon, Run fast」
森の人が恐れるモノがどれだけ人に伝わっているかは知らないが、この森で妖魔をほとんど恐れることのない森の人がこれ程慌てるモノだ。
「Something of black color ……黒色の何か……、もしかして、これはノワールといわれるモノではないか……」ペトラルカは最悪の事態を予測した。「まさか……そんなものが……」一瞬躊躇したペトラルカだが、また思い直し、最悪な事態に陥っている可能性を感じた。
「ノワール」とは、森の人からの口伝されたボマルツォの森で起こる現象のひとつで、ノワールという霧状のモノが生き物であれば何でもを呑み込でしまう現象である。その大きさも様々で、子犬のような小さなものから大木ほどの大きさまであると言い伝えられている。混血の交易者でも踏み込まないような森の深部にしか発生しないと言われ、人の世界ではその存在は伝説の域を出ていなかった。
森の人によると、この霧は妖魔ではない。霧というよりも靄の塊に近い形態をしていて、その中が魔界と人界の出入口とされている。しかし実際のところ森の人も確たる証拠はないらしい。ただあの霧に触れてはいけない。二度と霧から抜け出せなくなるからだ。
森の人は殺戮を愉しむ妖魔よりノワールを恐れていると自ら語っている。香も、剣も、結界も、太陽の光も、全く役に立たず、この霧に遭遇した場合、逃げる以外の手段がなく、一度狙われるとしつこく付き纏われ、森を出る以外助かる道にはないそうだ。
「Something of black color will attack us, Run ,Run away !」
森の人の急かす声。ペトラルカは大声で叫んだ。
「あれはノワールかもしれない。全員走れ。最悪、荷を全て捨てても良いから走れ」
ペトラルカは森の人をイレーヌに預けると、どよめく隊の後方へ向かった。
ペトラルカの命令に一瞬混乱した隊ではあったが、すぐに秩序を持って行動していた。これまでに積んだ厳しい訓練はこういう時にこそ成果があらわれる。他国の軍が、トゥッリタ公国の親衛隊を鉄の意志を持つ軍と怖れる理由のひとつだ。ここで問題がある。血抜きの騾馬だ。無限の持久力を誇る運び屋は早く走ることができない。見る々々うちに、ノワールが触手を広げ何かを掴む掌のように隊の左方から迫ってきた。その姿は霧というよりも、海に潜む軟体動物に似ていた。
ペトラルカは隊を分けることを考えていた。先行できる者とそれについていけない者とを。事実上、脚の遅い者たちを見捨てることにことになる。しかし「あともう少しで、森を抜けられる」それがペトラルカの判断を鈍らせた。突然、ノワールは触手を伸ばすようにその一部が急激に伸びた。怪我人のせた騾馬を引いていた剛力にノワールが絡まる。
「うわ、来るな」
剛力が悲鳴をあげ、ノワールから逃げようと体を捻るが、その霧は意思があるかのように剛力を捉えている。悲鳴は瞬く間に断末魔の叫びに変わった。隊の後方で状況を見ていたミラボー伯はすぐにノワールの処に向かい、目の前にあった触手のように伸びているノワールを斬った。しかしそのノワールは何事もなく、代わりにそれに触れた剣の部分が腐って崩れ落ちた。一瞬で剣が腐食してしまったのだ。
「信じられない……」ミラボー伯は使いものにならなくなった剣を見て、投げ捨てた。そしてノワールに囚われた剛力の許に駈けつけた。ノワールに包まれた剛力の体は、腐敗臭を放ち溶けていくように肉がそ削げていた。もう体の半分はノワールに飲み込まれている。意識も朦朧としているらしく、目には生きている輝きがない。
「助からない……」そう思いながらも、ミラボー伯は剛力の腕を取り、ノワールから引き吊り出そうと彼の腕を引いた。苦痛の叫び声。ミラボー伯は構わず彼の腕を引き続けたが、その甲斐もなく、彼の体は引き込まれていく。体の半分以上が呑みこまれ苦悶の叫び声もついに絶えた。
誰の目から見ても、もう彼の息はなかった。それでもなお、ミラボー伯は諦めきれず彼の腕を引き続けた。ここで手を放すことは自分自身を見捨てるように思えたのだ。正義感もあったかもしれない。ミラボー伯がここにいるのはフェンリルに剣を振る為ではない。フェンリルと闘う剣士たちの道程の安全と剣を持たぬ者を守る為にいるのだ。フェンリルと闘った剣士たちは死に物狂いで闘い勝利を掴んだ。多くの命も散った。今ここで彼の腕を握っている自分の手はフェンリルと勇敢に闘った彼らの剣と変わりない。
「しっかりしろ」
ミラボー伯は応えることもない剛力に声をかけた。もしかして、その言葉は彼自身を叱咤したものだったかもしれない。そんなミラボー伯を止めたのはペトラルカだった。ミラボー伯自身の身もかなり危険な状態になっていた。いつ黒い魔手に触れ、取り込まれてもおかしくなかった。
ペトラルカは何も言わず、息絶えてもなお剛力の腕を放さないミラボー伯の手を持った。すると、すっとミラボー伯の力が抜けた。彼が手を放すと剛力の体は腐敗が一気に進み崩れ、そのまま黒い闇に吸い込まれて消えた。為す術もなかった。
最初の犠牲者が闇に消えたとの同時に、また別の場所から叫び声が聞こえた。隊の中央にいる連中の方からだ。すぐにイレーヌが叫び声のする場所に向かった。既にノワールは剣士の体を半分以上呑みこんでいた。イレーヌは大きく剣を振り上げ黒い闇を斬り割いた。が、その結果はミラボー伯の時と同じだった。何もできないまま襲われた者は闇へ溶けていった。
「離れろ」
今度は重傷の剣士を載せた血抜きの騾馬に黒い悪魔が絡みついてきた。近くにいたミラボー伯が剣士を助ける為に、騾馬に駆け寄った。すぐさま負傷した剣士を血抜きの騾馬に固定していた紐が切られる。ミラボー伯が剣士を血抜きの騾馬から引き釣り下ろし背負った。かなり乱暴なやり方であったが、ノワールが間近まで迫っていたので悠長なことはできなかった。ノワールは血抜きの騾馬に触れることなく足許から這い上がり、そして騾馬に触れぬまま絡め取るように巻きつくと、そこから触手を伸ばすようにミラボー伯に迫った。ミラボー伯は反射的にノワールの触手が迫る反対側に跳んだ。運命というのは皮肉なもので、これが仇になった。
もう一つ黒い手がミラボー伯を待ち構えていた。それがノワールの意思なのか、偶然が成せる技なのか、誰にも判らない。判る事は死が彼らに絡みついたという事だ。ノワールがミラボー伯の体に蛇が獲物を絞め殺すように撒きついた。ノワールに必死に抵抗するミラボー伯。体の半分以上をノワールに絡められても、ノワールから逃れようともがき体を捻る。背負っていた剣士の体の半分以上がノワールの中に消えていた。苦痛を伴ったうめき声を吐き出した後、口許から大量の吐血がおこった。ミラボー伯は短剣を抜くと、肩越しに背中にいる剣士の喉に剣を突立てた。おそらく安楽死をさせたかったのだろう……何も答える間もなくミラボー伯もノワールに沈んだ。
次の瞬間、ノワールに襲われ、悲鳴を上げるのが聞こえる。ペトラルカは奥歯を噛みながら「このままでは、全滅するかもしれない……」と出口のない迷路に迷い込み、助けすら呼べない絶望的な気持ちになった。隊の前方にいる者は脚を止め、後方で起こっている状況を注視していた。状況を把握しないで行動をとるのは無用な混乱を招くからである。ペトラルカは混乱と絶望する頭を落ち着かせ、一人でも多くの者を生かすことだけを考えた。もはや迷っている暇はない。
「伝令」
ペトラルカが叫ぶと、彼に従事する剣士が二名すぐにペトラルカの前に現れた。
「隊はここで強制解散する。ダンヴェール伯に森の人と剛力、それと動かせる負傷者を連れて独断専行するように伝えろ」
一人はダンヴェール伯の元へ、もう一人は剛力たちを招集しはじめた。この間にも、ノワールは犠牲者を生み出していく。
「これまでか……」ペトラルカは覚悟を決めた。
強制解散時、独立する部隊の指揮はイレーヌにある。イレーヌは、森の人、剛力と動かせる負傷者を自分に従事する剣士と共に前方へ集め、そのまま後方の隊を見捨てるように隊をふたつに分けた。強制解散について教本に書かれた手引き通りの行動だ。冷たいようだが、隊を全滅の危機に晒すわけにはいかない。
イレーヌは振り返った。自分の背中には十四名の生命があった。予定より剛力が六名足りない。だが、その六名を待つことはできない。今は先に行くことが最優先だ。自分の意思で残った剛力はその意思が尊重されるが、その行いは決して賞賛されることも、非難されることもない。剛力たちにとって数少ない自由意志で決定できる事であった。小さくなった人影は、脚の遅い血抜きの騾馬の背中に載せていた負傷者を下ろしている最中だった。
「シモーネ……」イレーヌは顔を伏せ走った。「今は自分が背負った命を森から逃がすことだけを考えよう……」そう強く念じないと、この場に足を止めてしまいそうだった。
無限とも感じられるほどの時間を夢中で走り続けたイレーヌたちは、もうすぐ森を抜ける処まで辿り着いていた。途中、突然気を失った者がいた為、イレーヌは予備の剣と甲冑を捨て、彼を背負い走ることになった。さらに遅れそうな者の手を引いた。まるで戦火に負われ子供の手を引く母親のように。イレーヌと共に走り続ける剣士と剛力たちは疲労がピークに達してもなお走り続けた為、走るという本能がその他すべての思考を止めてしまっていた。森から抜けることが本来の目的であったはずなのに、今は走ることが目的に取替わっていた。誰もその事に気付きすらしない。
「遅れてはいけない」彼らにはイレーヌの背中について行くことが厳命になっていた。そして森を抜けた途端、彼らは夢から覚めたように現実に戻った。
「生きている……」喜びもなく、森の中に残してきた仲間への罪の意識も負い目もない、ただ「今」を語った言葉だった。森を抜けたイレーヌたちを迎えた人たちがいた。ポルト村の人たちだった。秋の収穫に追われるこの時期にも関わらず、多くの村人が森に入り妖魔を闘ってくる剣士たちの帰還を待ってくれていたのだ。
イレーヌたちは村人の集団を見て驚いた。妖魔狩りは領民から感謝をされることがあっても、手を差伸べてもらう存在ではない。それがこの社会での常識でもあった。村人の先頭に立ち、ここまで彼らを率いてきたのはヴァッラ卿だった。彼の情熱とも呼べるほどの熱意がなければ、村人もここまではついてこなかっただろう。闘いを知らぬ人たちが見ても、イレーヌたちが追われるように逃げてきたのは一目瞭然だった。そんなイレーヌたちに村人は、
「お疲れ様です」
とねぎらいの言葉と水を差し出した。体力の限界を超えてもなお走り続けた所為で体が水を欲していたのだろう、剣士や剛力たちは何日も水に唇を濡らしたことがないように水を飲み込んだ。だが、いきなり水を飲み込んでも身体がついてこない。水が喉をうまく通らずゴホゴホと咽返った。
「ゆっくりお飲み下さい」
村人の声が聞こえてないのか、咽返った剣士や剛力は再び喉の渇きの誘惑に導かれるように一気に水を口に含んだ。イレーヌが背負っていた剣士はすぐに医術師に引き渡された。ポルト村のような田舎には医術師など気の利いた職に就いている者はいない。わざわざ森から戻って来る人たちの為に、医術師を他の村から呼んでいてくれたのだ。イレーヌはそんな心遣いが嬉しかったが、感謝の言葉も忘れ、
「医術師殿、お願いします」
とそれだけ告げると、疲れ果て座り込んでいる剣士から帯剣を二本ほど奪い取り、すぐに森の中へ消えていった。
ペトラルカはノワールに襲われながらも、その性質を観察していた。ノワールは隊の左側面に付き添うように位置し、走って逃げようとするペトラルカたちと離れようとはしない。走る速度を変えてみても、まるでノワールには意思があるようにその距離を一定に保つ。ノワールの本体はペトラルカたちの側面に場所を置いたまま、その一部が触手のように伸び隊員たちを襲うのである。
だがノワールはどうやら誰かを呑み込んでいる間は他を襲わないようだ。その間、他の人間は安全である。しかしあの霧に触れるとそれで終わる。助ける手立てが全く見つけられない。森の人が言うように、助ける手立てなど全くないのかもしれない。そして、その死のくじを誰が引くかは襲われるまで判らない。血抜きの騾馬の足許にノワールが絡んだ。それに載っているのは、片腕、片足を失い、歩くこともままならないシャレット候だった。ラウラがいち早くシャレット候の許に来て、騾馬に彼の体を固定している紐も斬り、マリアローザの刻印入りがある剣を何の躊躇もなく捨て、
「はやく」
ラウラは自分の背中にのるように手招きした。かすれるようなラウラの声に、シャレット候は無言で首を振って答えた。重傷の剣士と共にミラボー伯がノワールに呑みこまれ、イレーヌも強制解散で隊を離れてしまった。混血で脚を地につけているのは彼女と補給部隊のカンボン伯しかいない。カンボン伯も補給部隊や怪我人の面倒を見ているので今、自由に手を動かせるのはラウラ、彼女しかいない。
「はやくっ!」
苛立ったラウラの声にも、シャレット候は動じる様子もなく、もう何もこの世に未練などないような顔をしながら首を振り続けた。その間に、ラウラの手伝いをすべくエスクラヴはラウラの傍にきていた。ラウラはエスクラヴを一瞥した。ラウラとシャレット候のやり取りを見ていたエスクラヴは、ラウラに目で合図を送り返し、
「シャレットさま。ご免」
と思い切り彼を引っ張った。普段ならこの程度のことで体のバランスを崩すことなどあり得ない剣士だが、不意を突かれたのと重傷の体が許してはくれなかった。騾馬から落ちそうになるのを堪えるシャレット候をラウラとエスクラヴが無理やり引き釣り下ろし、そしてラウラがシャレット候を背負った。五ピエにも届かない小柄な少女が一トワーズを超える大男を背負って駈けている姿は、何とも不思議な光景だった。
ペトラルカは血抜きの騾馬がノワールに巻かれているのを見て、一つの案が浮かんだ。うまくいけば、かなり時間稼ぎになるはずだ。
「騾馬をノワールにくれてやる。騾馬から怪我人を下ろせ」
そう叫んだ途端、剣士や剛力たちがペトラルカの指示に従い血抜きの騾馬から負傷者を下ろしだした。腕に自信のある剣士と剛力が歩けない負傷者を背負い、少しでも身を軽くしようと甲冑や武具を投げ捨てた。
もはや先の心配をしている場合ではない。今を生き延びることが厳命である。ノワールに巻かれている血抜きの騾馬は、すぐにでも闇に呑み込まれてしまいそうだ。ペトラルカと彼に従事する剣士が次の贄となる騾馬に斬りかかり、ノワールへと追いやった。先に贄となった騾馬を呑み込んでしまうと新しい贄に黒い触手が絡みついた。
ノワールが血抜きの騾馬を贄として呑み込まず、剣士や剛力を襲う可能性もあったのだが、ペトラルカの賭けは成功した。ただそれが何回通用するか……贄にする騾馬は九頭。森を抜けるまで一リューを切っている。ペトラルカは次子であるブルーノ卿に全員をつれて独断専行するように命令を出した。ブルーノ卿は自分の上長でもあり友人でもあるペトラルカの言葉、彼の最後の言葉になるかもしれない命令に黙って頷き、亡くなった隊員の遺品が入った背嚢を彼から受け取った。
「これは貸しだな、バローロで許してやる」
ぺトラルカは友人の言葉に、
「分った」
互いの右の拳をコツンと合わせた。
ペトラルカは単身、血抜き騾馬の首に剣を押し付けながら、騾馬の体をノワールの方に追いやった。ノワールはまるで二度と這い上がることのできない奈落の底に続いているようだった。そんな漆黒の闇に「赤い血を捨てたとはいえ生き物を落すとは……何と罪深いことをしているのだろうか」良心が痛む。それでもペトラルカは騾馬が闇の中へ完全に溶けてしまう前に、一頭また一頭と奈落の底に落していった。何の抵抗もなく、死を知らぬ無垢な子供のように真っ直ぐ前を見ながら闇に落ちていく騾馬。
「最後には、自分もこの闇に囚われるのだろう……」それが自分の指揮の下で命を落した仲間たちへの贖罪だとペトラルカには思えた。不思議と死の恐怖は感じなかった。長時間、死と隣り合わせの緊張状態が続いている。その緊張感の所為で、単に神経が麻痺しているだけかもしれない。また一頭血抜きの騾馬が底無しのような闇に落ちていった。既に七頭ほど騾馬が闇に落ちていた。残り二頭。まだこのくらい時間では、ラウラたちはまだ半リューの距離も進めていないはず。
ペトラルカは左の頬を左手で撫でた。ほんの少し前、ここにラウラの唇があった。ラウラは唇をペトラルカの頬に押付けた後、顔を見られたくないのか、すぐに布で顔を隠した。その奥にある鳶色の瞳が少し潤んでいた。ペトラルカはそれだけで満足した。例え、それが贄に対する憐みからくる感情と等しくても、自分の為に涙を流してくれる女性、それが自分の愛した女性だったこと。この状況でそれ以上望めるものはなかった。ラウラが自分に対して一粒でも好意があったとはとても思えないが、最期くらいは騙されたままでも良いのかもしれない……。
贄となった騾馬が溶けてしまいそうだ。ペトラルカは最後の血抜きの騾馬を暗い闇の谷底に落すべく、剣を次の贄の首に突立てた。霧の中へ贄を捧げる。しかしノワールは血抜きの騾馬を避けるように解けてしまった。
「どうしたんだ!」ペトラルカは再び血抜きの騾馬の首に剣を立て、ノワールへ押しやる。前と同じように、まるで贄を拒否しているように霧が解けてしまう。何度繰り返しても、贄は闇への供物とはならかった。ノワールはペトラルカの存在など気にもかけないようにペトラルカの目の前を音もなく通り過ぎていく。ノワールはまるで獲物を追うようにペトラルカの行くべき路を進み、見る々々うちに消えてしまった。
「先に逃げた者たちを狙う」本能がそうだと告げている。ペトラルカの焦りはすぐに絶望にかわった。「今まで自分がしてきたことが徒労に終わる。自分の命と引き換えにしようとしたものは何だったのだろうか……」
「逃げろ。逃げろ」
ペトラルカは先に進んでいるラウラたちに聞こえるようにと、大きな声で叫んだ。
「こんな処までいるの……」イレーヌは剣を握り締めた。ぎろりと一つ目兎が睨んだ。「ノワールに追われてきたのだろうか?こんな森の縁にいる妖魔ではないはずだ……」イレーヌは一つ目兎の様子を伺った。どうやら兎どもは襲ってくる気配はない。イレーヌは襲う意思のない妖魔のことを一瞬気にかけたが、すぐに森の奥にいる人たちのことの方が気になった。
「みんな生きているだろうか……、シモーネ……」押しつぶされそうな不安と戦いながら走り続けていると、今まさに黒い闇に取り囲まれようとしている一団が目に入った。残してきた部隊の連中だ。かなり人数を減らしている。イレーヌは一目で大柄の剣士に背負われているシモーネの姿を見つけた。
「よかった……」だが、今はほっと胸を撫で下ろしている時ではない。次子であるブルーノ卿が何か指示を出しているのが目に入った。本来なら隊を指揮すべき長子であるペトラルカの姿がない。血抜き騾馬も一頭もいない。彼らがここまでたどりつくまでに何があったのか、イレーヌには容易に想像がついた。ラウラが戻ってきたイレーヌをいち早く見つけた。イレーヌに向かって何か言っているが、声は聞こえなかった。まだ口を大きく開けることはできないらしい。イレーヌはラウラに言われるまでもなく、一番苦しそうに負傷者を背負っている者へ駆け寄った。ほとんど意識もなく、息も途切れがちの剣士を背負ったイレーヌは、
「この先に一つ目兎がいるわ」
と先に進もうとした者たちに告げた。その直後、後方からブルーノ卿の声が響いた、
「行ける者は先行を許す。ノワールから少しでも離れろ。もし一つ目兎に出くわした場合は戦闘をせず待機。我々の到着を待て」
しかし先行する者はいなかった。ここまできて、誰も負傷者を見捨てるようなことはできかった。何より足に余裕があるのであれば、負傷者を背負っている者の中で息があがりそうな者と交代する。「一人でも多くの仲間を森から出すのだ」でなければ、ここにいる意味はない。互いの目を見やった。考えることは誰も同じだと、互いに感じとった。
ラウラは重傷のシャレット候を背負いながら、同じように負傷者を背負い半リュー以上走り続けている剣士や剛力たちに向かって、
「がんばって」
と上手くしゃべれない口を開き励まし続けた。それ以外手を差伸べることはできない。ラウラとて、動けないシャレット候を背負い、これ以上人を担ぐことなどできない状態なのだ。彼らにがんばってもらうしか道はない。完全に参ってしまう前に交代はしているものの、彼らの疲労はピークに達していた。
突然ノワールの腕が隊の側面から伸びてきた。
「みんな、散って」
声が響かなかないラウラの変わりにイレーヌの悲鳴のような叫び声が響いた。各々が無秩序に散らばる。ノワールは確実に獲物を捉えた。ラウラに従事している剣士だ。彼は脇腹を握られるように呑み込まれはじめた。囚われの剣士は助けを求めることもせず、自分の頸に剣を向け一気に突いた。
「構わず、走って!」
イレーヌは思わず目を伏せたくなった。ノワールに囚われた剣士の頸から赤い血が噴出した。それをノワールが取り囲んで包み込んでいく。まるで血を浴びるのを喜んでいるように。ゆっくり剣士の体を黒い闇が包み込み、すべてを呑みこんだ。次に誰が死のくじを引くかは解らない。空気が恐怖に氷ついた。
「くそぉ、離れろ」
シモーネのいる方から悲痛な声があがった。イレーヌは息を呑み振り返った。シモーネの姿を認めると、すぐに誰がさらわれたのか確認した。フェンリルに脚をもがれた剣士と彼を背負っている剛力頭が捕まっていた。「もしかしたら、一人は助けられるかも……」イレーヌはすぐに闇に囚われている者たちへと足を向けた。その願いにも似た考えは一瞬で無残に散った。二人とも完全に闇に犯され、とても助けられる状態ではなかった。もう二人とも体の半分以上が解けていた。剛力頭の右腕が助けを求めるように、イレーヌに伸びてきた。指をいっぱい開いて、少しでも助けの手に届くようにと。イレーヌは思わず手を伸ばした。今さら助けることなどできないが、それでもそうせずにはいられなかった。あともう少しでイレーヌと指が触れるところで、その手は力尽きた。「あっ」イレーヌに悲しんでいる時間はない。すぐに踵を返して走りだした。
死のくじは引き続けられる。ここにいる全員がノワールに呑まれるまで、ここにいる者たちに拒否する権利は与えられていないかもしれない。次の贄が決まった。
「うっ、うあぁぁぁ」
一瞬声を詰まらせた叫び声は、ラウラにとって聞き馴れた声だった。エスクラヴの左足首を黒い手が掴んでいた。それを振り解こうと狂ったように脚をバタつかせる。絡んだ黒い影は決してその手を放すことはない。エスクラヴも頭では解ってはいても恐怖が先に立ち、その恐怖から逃れようと必死になって足を動かしていた。
「エスクラヴ、動かないで」
小さな声が響いた。エスクラヴが顔を上げると、ラウラが剣を振り上げていた。
「大丈夫。助かるわ」
かすれていてもしっかりとしたラウラの声は、エスクラヴを安心させるものがあった。恐怖で混乱していたエスクラヴはラウラの言葉で落ち着きを取り戻した。そしてラウラが行おうとする事を悟った。ラウラはエスクラヴを助けられると信じていた。「まだノワールに捕まっているのは脚だけ……」ラウラはそう思いながら白刃の剣を振り下ろした。
ラウラは大男を背負っている為、少しバランスを崩しながら、それでもエスクラヴの左大腿部を確実に捉えた。エスクラヴはラウラが剣を下ろす瞬間、痛みで舌を噛み切らぬように袖口を噛んだ。剣がブルネレスキの剣であったことと、ラウラの腕が良かったのが利き、激痛に襲われることはなかった。傷口は痛みよりもむしろ熱く感じた。
ラウラがエスクラヴの脚を黒い闇ごと斬り落とした。その途端、突然耳をつんざくような女性の悲鳴が辺り一帯に響き渡り、暗幕を吊っていた糸が切れたようにノワールが霧散した。今まで自分たちを襲っていた漆黒の闇は忽然と消えてしまった。絶望的な状況から一転、目前の危機は去ったのだ。ラウラたちはあまりの突然の出来事に何が起こったのか全く理解できなかった。ただ剣を握ったまま立ち尽くしていた。呆然とする空気が支配する中、いち早く立ち直ったイレーヌとブルーノ卿が同時に、
「密集隊形」
と叫んだ。一つ目兎の存在を忘れていなかったイレーヌたちは最も有効な危険回避を選んだ。すぐに動けないエスクラヴの処に生き残った者が集まった。エスクラヴは傷口に塗るべく止血薬を手にした。ラウラはできるだけ出血を抑えるように、骨に対して直角に剣を入れ、剣筋を寸分の狂いもなく、最速の剣速を以って真っ直ぐに落していた。その為、脚を斬り落した割に出血は少なかった。
ラウラは顔を覆っていた布を剥ぎ取ると、シャレット候を背負ったまま腰を下ろしてエスクラヴの脚を片手だけで器用にきつく縛った。
「はやく。血を止めて」
ラウラの急かす声に反応することなく、エスクラヴの手は止血薬を持ったまま止まっていた。絶望的な顔をしながら一点を見つめていた。ラウラがその視線を追うと、エスクラヴの腰のところから赤黒い血が流れていた。腐敗臭が鼻につきはじめる。エスクラヴの体はもう既に手遅れだった。ノワールの力が臓器まで達し、体の内部から解けはじめていたのだ。
「エスクラヴ。大丈夫よ」
二度目のラウラの言葉はエスクラヴに死を覚悟させた。ノワールに捕まった時、取り乱してしたエスクラヴだったが、今は妙に落ち着いていた。エスクラヴはラウラに応えるように微笑んだ後、咽るように咳き込み吐血した。息が詰まるのか、苦悶の表情をしたが、苦しげな声は全く出さなかった。それがエスクラヴの最期の抵抗だったのかもしれない。エスクラヴは絞り出すように赤黒い血と腐ったような肉を吐き出した。もはや助かる見込みはない。固く握り絞めた拳が体内で解けていく臓器の悲鳴を代弁しているようだった。
ラウラが剣を振り上げた。その剣は明きあらかにエスクラヴの頸を狙っている。エスクラヴの周りに集まった者たちは、誰もラウラを止めなかった。否、誰もラウラを止めることができなかった。
異様な雰囲気に気付いたエスクラヴが顔を上げ、剣を振り上げるラウラを見つめた。口許からは止めどもなく腐ったような血がこぼれ落ち、苦し気に咳込んでは際限なく赤黒い肉の塊を吐き出していく。鼓動一回にも満たない時間だった。ラウラにはそれが永遠に続く時間のように思われた。その永遠に続く時間の中で、エスクラヴが自分を給仕と間違えた時のことを思い出した。
「あの時……給仕などと言われた時は、何て応えて良いものかと本気で悩んでしまった……、あれはあれで楽しかったな……、もう苦しまないで……」
ラウラは剣を強く握り、そして祈った。おそらく神という者に。周りにいる者たちが、思わず目を伏せ、痛みに耐えるように唇を噛む。
「私の剛力」エスクラヴが安心したように目を閉じ、ラウラの剣が振り下ろされた。
エスクラヴの遺体は埋めることも布にくるむこともできず、そのまま放置されることになった。ラウラたちは短い鎮魂の祈りの言葉をエスクラヴに捧げ、エスクラヴの遺体から離れた。少しでも血の臭いから遠ざかる為に。目の前に一つ目兎の集団が現れたのだ。数は先に襲われた時に比べ数はかなり少なく五十匹余りである。
今闘える剣士は混血を含め七名、無傷の剛力も一名いるが、彼も剣を持ち闘いに参加する。混血と親衛隊の剣士が実力を発揮すれば、この局面は打破できる。しかし二度も妖魔と闘い、ノワールから逃げる為に負傷者を背負い走り続けた彼らはもう精神的にも肉体的にも限界にきている。森を抜けるまで四分の一リュー足らず、約五百トワーズほど。ここまできて諦めることなどできはしない。
「これで最後よ。あいつらを蹴散らして、みな皆で森を出るわよ」
イレーヌの叱咤の声に、生き残った者は剣を構えて応えたのだった。負傷者を中央に取り囲むように人の壁が作られた。さらに、その周りをエスクラヴの遺体を平らげた一つ目兎が囲んだ。もどかしいくらいゆっくりと時間をかけて一つ目兎はピョンピョン跳ねながら確実に間合いを詰めてくる。
「冷静に……、あせってはいけない……、気を抜いてはいけない……、――いつ奴らが襲ってくるのか……」剣を持ちながら剣士や剛力たちはこの緊迫した状況を疲弊しきった体と心で耐えていた。忍耐勝負の様相が色濃くなってきた。「弱み味を見せたら、やられる」誰もがそう思い途切れそうになる気持ちをつないだ。
その時、突然ラウラが短剣を投げ一つ目兎の中へ飛び込んだ。ここで陣形を崩したら一気に隊が崩壊する危険があるというのに……
イレーヌはラウラの行動を信じられないものを見る目で見ていた。いくらラウラの剣速が公国で有数であっても、取り囲まれ背後から攻撃を食らえばひとたまりもない。ラウラの鳶色の瞳がイレーヌを射た。かすかに声が響く。
「背中について」
刹那、弾かれるようにイレーヌがラウラ同様飛び出したのだ。イレーヌはラウラの口許を見て、ラウラの考えていることを瞬時に理解した。疲弊しきった剣士たちでは一つ目兎では勝てない。まだ自分たちだけで闘ったの方が勝利に近い。ラウラとイレーヌの剣は同じ師匠から受け継いでいる。その剣術は刀を相手に滑らすことに長けている。互いに背中を任せるにはこれほど最適な剣士は公国にいない。その二人の後姿をカンボン伯は悲愴な顔をしながら剣を強く握りしめ見つめていた。
ラウラとイレーヌは互いの背中を守るように一つ目兎の中へ飛び込んだ。すぐに、ラウラとイレーヌの剣を浴びた肉食兎たちは共食いをはじめた。後は自滅を助けてやるばかりだ。ラウラはシモーネを森から出したい一心だったのだ。その気持ちがなければ、この賭けをしなかっただろう。最後の一匹の首を刎ねた時、全く被害は出ていなかった。完全な勝利だった。一つ目兎は普通なら数百の単位で襲ってくるのだが、今回は数が少なすぎた。さらに、あと一つ目兎が五十匹ほど多ければ、ラウラの剣は間違いなく力尽きていただろう。細い刃の剣は持久力に劣る。二度も骨を断ち、さらに長時間の戦闘では剣の疲労が大きく、確実に剣の寿命を奪っていく。運命はラウラを冥界に誘う気はなかったようだ。
「さあ行くわよ。がんばって」
イレーヌは自分に言ったのか、疲れている者を励ましたのか判らないような口調で森の出口の方へ掛け声をあげた。それを合図に負傷者を背負い、再び彼らは走り出した。森を出たのは、それから一刻ほど過ぎての出来事だった。
森の出入り口、アントレでは、まだ森に残っている者たちをポルトの村人が待ち構えていた。第一陣の帰還は誰の目で見ても死にもの狂いで逃げてきたことは明らかだった。そう考えると、この後に森を出てくる者たちが無傷でいられるとはとても思えない。森を出たダンヴェール伯が怪我人を置いて、すぐに森に引き返した様子を見ても、まだ森の中では妖魔との闘いが続いていると考えてもおかしくない。
実際、彼らはまだ闘っていたのだ。村人たちがヴァッラ卿の呼びかけに応え、日暮れぎりぎりまで待つことを決めた直後、ラウラたちが森から出て来た。まるで敵に追われる敗残兵のように必死な顔をしながら。急いで村人がラウラたちに駆け寄ると、
「医術師」
と一斉に声をあげた。背負われた怪我人が村人に引き取られると、剣士と剛力は力尽きて倒れ込んだ。中には長い緊張状態から解放された安堵感からか、意識まで失う者までいた。ラウラもかなり疲れていたが、立っていらないほどでもなかった。それでも顔を上げているのは辛そうだ。肩が大きく上下している。ポルト村の領主代行であるヴァッラ卿が萎えた足を引きずりながらラウラの前にやってきた。言うことを利かない足を手で押さえながら跪き、
「ノヴィス公。お疲れ様でした」
ラウラをねぎらいながらゆっくり顔を上げると、ラウラに向かって微笑んだ。ラウラも左頬を押さえながら微笑み返した。それに満足したようにヴァッラ卿は何度も頷いた後、ふと何かに気付いたように軽く周りを見た。
「長子殿は?」
ヴァッラ卿の問いに、ラウラは黙って首を左右に振り、
「森に残られました」
とかすれた声で答えた。
「……そうですか」
ヴァッラ卿はそれだけ言うと、
「今夜はゆっくりお休みになって下さい。それでは失礼します」
ゆっくり立ち上がり深々と頭を下げた。脚が悪いので、何とも不恰好な礼であった。彼も妖魔と闘い、仲間を失う辛さを知っている。ラウラはヴァッラ卿の、言葉は少なかったが、彼独特の優しさを感じ取った。言葉の端々にラウラへのいたわりを感じられたからだ。
「ありがとうございます」
ラウラはヴァッラ卿に礼を言った。その声は老人の耳にはあまりも小さなものだった。老人は振り返ることはなかった。ヴァッラ卿は倒れ込んでいる剣士や剛力の手を取って、フェンリルを討ったことと生きて森を出たことを喜んでいた。
「ノヴィスさま」
ラウラが振り返ると医術師が立っていた。その後にはイレーヌも立っている。
「森を出られた剣士さまの中に、森でお亡くなりになったのか、森を出た後お亡くなりになったのか、判別がつかないご遺体が一体ございます」
と医術師は言い難そうに不幸な遺体の現状を伝えた。
「そう……」
ラウラは一言医術師にそう答えたが、医術師にはよく聞こえてはいなかったようだ。医術師が困った顔をしながら立っているのを余所に、ラウラは思い出したように、
「イレーヌ。森の人たちは」
今回の遠征に随行した森の人は三名。一名はフェンリルに殺されている。強制解散時に残り二名はイレーヌに連れられて先行して森を出たはずだ。
「森の人はお二方とも、先程森に戻られたとのことです。ヴァッラ男爵から報告がありました」
森の人であってもまだ森の中は危険だと思えたが、森の人が帰ると判断したのならラウラには何も言うことはなかった。
「お礼は渡せている」
「はい」
森の人に礼を渡せているのなら非礼はないだろう。ここで森の人についての会話は終わった。
「森に戻す遺体は」
その時、二人の傍を村人に抱えられながらシモーネが通り過ぎた。ラウラはシモーネに目をやった。イレーヌも吊られてシモーネを目で追う。二人とも会話より気になったようだ。それを悟られないようにラウラが、
「すぐに準備をして」
イレーヌに指示を出した。
「はい」
イレーヌもシモーネのことを無視するかのように応えた。その横で医術師は聞き取りにくい二人の会話を困った顔をしながら立ち尽くしていた。
森に戻される不幸な遺体はすぐに首を刎ねられることになった。長子がいないので、その役目は次子であるブルーノ卿にまわされた。彼も負傷者を背負い一リューもの距離を走り続け疲労しきっているものの拒否権はない。ブルーノ卿は自分のかけられた呪いを恨むかのように遺体の首を刎ねた。すぐに村人たちが止血を行い、血の臭いを消す香を染み込ました袋に遺体が詰められた。
イレーヌがその袋を背負った。背中に当たる感触が何とも言えないほど気持ち悪かったが、布の中に押し込められた者のことを思うと不満を漏らす気すらなれなかった。歩き出したイレーヌの後にラウラが続いた。ラウラは自分の剣の寿命が近い為、その剣を使わずに親衛隊の剣士からまっさらな剣を二本ほど借りた。その一本の剣を鞘から抜き取ると、二、三度感触を確かめるように軽く振った。「違和感はない」いつも使う軽く薄い刃の剣ではないが、通常の剣であっても使いこなせるくらいの技量はある。自分に剣を合わせるのではなく、剣に自分が合わせれば良いのだ。ラウラは剣を鞘に収めることなくイレーヌと共に森に再び入った。
森に入ってから、ラウラとイレーヌは一言の言葉を交わすこともなく黙々と歩き続けた。互いに話す言葉がなかったわけではないが、ラウラの母親、モントルイユ候が吸血鬼の牙に倒れて以来、二人の関係はぎこちないものになっていた。一方的にラウラがイレーヌを避けていたのが原因だった。
イレーヌにしてみれば、本当の姉のように慕ってきたラウラが、突然人が変わったように自分を避け出したのだ。母親の死が原因だったと最初はそう思っていた。しかし、どうもそういう理由ではなそうだ……。 イレーヌの感覚では、自分は恐れられているように感じていた。全く身に覚えがない。その理由を聞こうにも、ラウラたちが会ってくれないのだからどうしようもなかった。さらにモントルイユ候亡き後、ラウラとシモーネは剣を置き、ボマルツォの森との交易を生活の糧とした。一方イレーヌは近衛隊の剣士として、妖魔狩りや戦場を渡り歩き続けてきた。その生活圏の違いから偶然の悪戯でもない限り、お互いの顔を見る機会など皆無だった。
それが、十年、二十年と続くうち、イレーヌはラウラたちが自分のことを避けているならそれでもいいと思いだした。理由を問い詰めたかった気持ちも、年を追うにつれ少しずつ希薄になり、やがてラウラたちの存在は思い出の中だけに生きるようになった。ただシモーネに抱いていた感情が取り残されたままだった。そんな気持ちのまま、シモーネに会わなければならない。イレーヌは自分だけが苦しい思いをしているようで腹立たしかった。
十数年ぶりに会うシモーネはイレーヌの知っているシモーネと変わっていなかった。物静かな雰囲気とはにかみながら笑う癖。画を描いている時の一点を見つめる真剣なまなざ眼差し。すべてが自分の知っているシモーネそのままだった。自分が恋していた頃と変わらないシモーネを見て、イレーヌは嬉しかった。その反面、自分の求めるものを手に入れているラウラに嫉妬を感じていた。
百トーワズほど森に入った処で、突然イレーヌが足を止めた。イレーヌの後ろにいるラウラからは路が左に曲がっていて前が見えない。ラウラが慌てて剣を中段に構え、妖魔の襲撃に備えた。
「Fencer ! It's me, It's me!!」
一瞬走った緊張を解くように聞きなれた声が響いた。イレーヌの先に、自分の背丈より大きな荷物を背負った森の人が二人並んでいた。ラウラがイレーヌに並ぶと、目の前に一頭の血抜きの騾馬があらわれ、その横には森に残ったペトラルカがいた。
「I met Master, I bring him」
「Thank you a million, Forester」
ラウラとイレーヌが膝を着いて頭を下げた。それに遅れてペトラルカがラウラたちと同じように膝を着き、
「Forester, I am grateful for your kind. We go away form Forest and I will remunerate you later. My important friends」
と森の人に意向を伝えた。
「I see. God be with you」
そっけない森の人の返事に、ペトラルカたちは再び深く頭を下げ、森の人を見送った。
ペトラルカはラウラたちを見て、その行動が自分を捜してきたのではないことを一目で理解した。イレーヌが背負っている袋を見て、森で亡くなった者を森に置きにきたのだと。ペトラルカは自分を捜しにこないことを責めたりはしなかった。あの時、自分が下した判断は死を意味していた。ノワールの中へ血抜きの騾馬を落す役目は、騾馬と共に贄になることと同じ意味であった。今回は偶然が悪戯して生き残ることができたが、それを知るすべ術など誰にもないのだ。ペトラルカは生きていること、再びラウラに会えたことを神に感謝した。ラウラたちも、自分たちが森に入っている事情をペトラルカに説明はしなかった。この状況を見れば、何も言わなくても察しがつくと思ったのだ。
「ノヴィス公。どこまで、入るつもりでおられる」
ペトラルカはラウラに尋ねた。
「ここで、いいかな……」
ラウラが自信なさそう答えると、イレーヌは黙ったまま背中の荷を下ろした。その荷を三人が囲んだ。鼓動五つにも満たない短い黙祷の後、
「御霊が迷うことなく、神の許に導かれることを」
ペトラルカが祈りの言葉を捧げた。ラウラとイレーヌが路から少し森の奥に入った処に布の棺を置き、すぐに踵を返すと振り返ることなくその場を離れた。ペトラルカは彼女たちが来ると何も言わず歩きはじめた。ラウラとイレーヌの間の空気は相変わらず悪かった。第三者、ペトラルカの存在があっても変化の足しにはならなかった。ペトラルカも詳しい理由までは知らないものの、ラウラとイレーヌの関係が決して良好ではないことを知っていた。隊を纏めるペトラルカは、少しでも隊の中での人間関係の摩擦を極力抑えなければならない。そういった情報は隊が編成された時に耳に入っていたのである。この場の雰囲気がどことなく悪いことに、ペトラルカは特に気にかけなかった。逆に二人が寄り添いながら話に夢中になって盛り上がっている方が怪訝に思ったに違いない。
ペトラルカはイレーヌを先頭にラウラを殿にして、二人に挟まれるように歩いていた。三人の能力を考えれば至極当たり前な並びである。ペトラルカは無意識にイレーヌの背中を見ながら、後ろにいる女性と見比べていた。イレーヌは女性の中でもかなり背が高く、男性で中背のペトラルカとほとんど肩の位置が変わらない。表情を引き締めた時の近寄りがたい雰囲気はラウラの正反対のものだった。大人びた容姿は、幼い頃、ラウラを姉として慕っていたとはとても思えなかった。
剣についても同じ事が言えた。イレーヌとラウラは剣の師匠が同じであるが、剣捌きは見た目には全く異なっていた。イレーヌの剣を振る姿は、ラウラのように舞いを踊る少女のような可憐さは微塵もなく、全く無駄のない動きで他を圧倒する力強さがあった。そんなイレーヌの剣がラウラに対して全く刃が立たないと言うのだから、勝負ごとというのは解らないものである。
突然イレーヌが振り返った。ペトラルカはイレーヌがラウラに剣では勝てないとまさに思っていたところだったので、それをイレーヌに咎められているような錯覚に囚われた。
「森を出ます」
イレーヌの表情が少し緩んだ。シモーネは「笑うと意外と子供っぽいな」とイレーヌに自分の考えを咎められなかったことにほっと小さな溜息をつきながら、そんなことを考えたのだった。