Canzonier du vampire 6
<尺単位>
一リューは約三.九キロメートル
一トワーズは約一.九メートル
一ピエは約三十センチメートル
<刻単位>
一鐘を約九〇分と設定
一刻は約十五分
注意、英文はとってもいい加減です。
【6e Chapitre】
「シエル」……この場所は、ボマルツォの森でもかなり特異な場所である。森が開けているのは森の路といわれている森の繋ぎ目ぐらいしかないと思われていたが、三年前にシエルという場所が発見されてからは、その認識は覆された。シエルは一辺が約半リューほどの正方形をし、踝より高い草木は一本も生えていない。その代わり綺麗に整備されたような芝生が一面広がり、ボマルツォの森にこんな場所があるのかと思わせるほどの太陽が降り注ぎ、緑の芝に反射している。ごろんと寝転んだら気持ち良くお昼寝ができそうだ。
ペトラルカは妖魔退治に幾度もボマルツォの森に入っている。鬱蒼として、どこか得体の知れない森に、こんな場所があるなんてとても信じられなかった。この目で見るまでは……
シエルに最初に入ったのは、先頭で入ったペトラルカではなく混血の剣士たちだった。肉体的な能力から考えると当然の結果だった。遅れてペトラルカが緑の芝に足を踏み入れた時には、既にシモーネとラウラは隊の先に立ち、残りの混血の剣士たちはその後ろに並んでいた。予定された通りのフォーメーションに整列している。シモーネがペトラルカを見た。剣先をフェンリルに向けて攻撃の意思をペトラルカに示している。混血だけで闘うつもりのようだ。
倒すべき妖魔は、彼らの約百トワーズ先でごろりと寝転んでいる。何とも人を食った態度である。
「不意をつけるのでは……」そんな考えがペトラルカの頭を過ぎる。しかし、もし森の人が監視しているのを勘付いているなら、フェンリルは妖魔狩りが来るのは解っているはず。
「もしかして自分たちのことを勘付いていないのか……、それとも余裕なのか……」ペトラルカは首を横に振って、シモーネに答えた。予定通りの行動を選んだのだ。こういう時には性格が出る。ペトラルカは予定外の行動を「良し」としなかった。シモーネは剣先を落とし、ペトラルカの指示に従った。
ペトラルカは手順通りに残りの部隊をシエルに呼び寄せた。あっと言う間に全員が所定の位置についた。クレール要塞での訓練での成果が活きている。何度も飽きることなく積んだ訓練の賜物であった。
混血の剣士の後方に、人の剣士、四人が一列に並んだ。混血の剣士より前に出ても全く意味がない。前に出ても囮になるどころか、剣を振る時に邪魔になるくらいで、後方にいるほうが混血の剣士が闘っている時妖魔を取り囲み易い。包囲戦の闘い方は妖魔と闘う時の基本戦術であった。
ペトラルカは、フェンリルに対して基本中の基本の闘い方、包囲戦を用いるように指示していた。フェンリルと闘った時の文献は存在していない。前任の隊は全滅したのだから致し方のないことだった。「どういう手で出てくるか判らない相手には、基本戦術を用いるべし」ペトラルカの性格上、先の時と同様に奇抜な戦術を用いた闘い方は選ばなかった。
全体のフォーメーションは、前衛の左手にラウラの隊、右手にはシモーネの隊、その斜め後方左側面にフットボールのウィングのようにブリッソー伯、右翼に展開するのはルー伯、そして補給部隊と指揮官の前面に四部隊が一列を成している。左からバルナーヴ男爵、剣豪で名高いシャレット候、力押しの剣のカリエ伯、デムーラン子爵と並ぶ、この戦闘部隊の最後尾を務めるのがミラボー伯となり彼は可能な限り初期戦闘には参加せず予備戦力となる。補給部隊はピエール・ジョゼフ・カンボン伯の隊が守り、そして隊の殿はダンベール伯が務め、彼女は次子のブルーノ卿と共にフェンリル以外の妖魔に対して剣を振るうことに専任する。
再びシモーネがペトラルカを見た。引き止めるものは、もう何もない。ペトラルカはすべての迷いを引き払って、シモーネに向かって無言で頷いた。
ペトラルカから攻撃の許可を得たシモーネは、姉に小さく手を振って、自分より後方にいるように指示した。シモーネの隊は単独で先行するつもりのようだ。ラウラは「気をつけて」と唇だけ動かしてこたえた。シモーネに従事する剣士たちの並びが縦横二列の密集隊形になった。シモーネの剣は、相手の攻撃、妖魔の牙や爪を受け流すことを得意としている為、後方で左右に広がることは得策ではない。シモーネが妖魔の攻撃を後方に受け流した時、正面でぶつかる可能性が高くなってしまうからだ。妖魔と相対するのは生身の人間にはあまりにも荷が重過ぎるのである。万が一妖魔と相対しても、密集していれば生き残れる可能性が高くなる。薄く構えるとその可能性はさらに落ちてしまうのだ。これはラウラに従事する剣士にも同じことが言える。彼らも同じように縦横二列の密集隊形になってラウラの後方で剣を構えている。
シモーネの隊がラウラの隊の前に完全に出た。さらにシモーネがフェンリルに近づこうと歩を進めた時、突然フェンリルが立ち上がった。一度シモーネたちを睨んだかと思うと足許にあった物を口に咥え、そのまま首を振り、咥えていた物をシモーネたちに投げつけた。
シモーネからフェンリルまで優に五十トワーズはある。そんな距離など関係ないかのようにフェンリルが投げた物は、放たれた矢のように緩やかな放物線を描がいてシモーネの前方に落ちた。その物は投げられた勢いで二度程回転して止まった。シモーネの後方で剣士たちが不快な声をあげた。シモーネにも不快感が込み上げた。
フェンリルが投げつけたのは、下半身と首を噛み千切られた森の人の上半身だった。その直後、
「Get lost, Humble birth!!」
という声が聞こえた。いや違う。声が聞こえたのではない。直接頭の中に言葉が響いたのである。隊員達が互いの顔を見合わせた。その表情は「今、聞こえたよな」とその声が幻聴でないことを確かめ合っていた。それは異様な声のようなモノだった。
「Listen, Lowly people. Out of my sight!! You are an eyesore」
再びその声が響いた時、今度は誰も幻聴の類だと思わなかった。誰もがその声の主を百トワーズ先にいる妖魔のものだと理解した。それ以外この状況を説明する答えがない。ペトラルカは意外と冷静にその声を聞いていた。
「Woooooh……」
フェンリルの気持ち悪い咆哮が聞こえ、その後すぐに笑い声が聞こえた。薄気味悪い笑い声が。それが頭の中で直接響いて増幅され、思わず耳を塞ぎたくなる。その不快さに耐えかねて、剣士の何人かは耳を塞いでいた。その隙を狙ったかのようにフェンリルは走り出した。細く弓のようにしなる胴に長い脚。妖魔とは思えないほど美しく躍動的な走り方だ。その速度は美しいフォルムを比例するように異常なまでに速い。シモーネの右側へフェンリルが突っ込んでくる。矢などと形容するのでは遅すぎる。空から落ちる星のような凄まじい速さだ。
シモーネがフェンリルの捕らえようと走り出したが、もう既に先頭にいたシモーネの横を通り過ぎていた後だった。「フェンリルは隊の右端にいるデムーラン卿を狙っている!」シモーネがそう思い振り返った時、カミーユ・デムーラン子爵に迫るフェンリルの姿があった。
デムーラン卿はシモーネやシャレット候のような超一流の剣の腕ではないものの、混血の剣士の中でも腕はかなり立つ方だ。三十年前のヘルヴェティア王国との戦役では、シモーネにその腕を見込まれてシモーネの背中を任かされたこともあったのだ。デムーラン卿は自分が一番得意とする剣、手首を返しながら下方からすくい上げる剣で対抗した。しかしフェンリルは軽々とデムーラン卿の剣をかわし、兜を食い破り彼の頸に牙をたてた。骨が砕ける音がしたかと思うと、フェンリルはデムーラン卿の頸を咥えたまま彼の体を中心に弧を描いた。そのまま後ろ足を着地させ、その反動を利用してデムーラン卿の体を放り投げた。再び鈍い骨が砕ける音がした。結果、首をもがれたデムーラン卿の体が血を撒き散らしながら森の中へ消えていった。
頭部のない遺体は血に餓えた妖魔の餌食になることは火を見るより明らかだが、ペトラルカたちに遺体を回収する時間などない。フェンリルを狩ることが自分たちの使命であり最優先事項なのだ。全ての剣士たちがフェンリルに剣を向け構える。その中でも殺気立った、デムーラン卿に従事する剣士たちがデムーラン卿の仇討ちをするかのように剣を振り上げた。フェンリルはあっと言う間に剣を振り上げた剣士たちを血祭りにあげ、口許から血をしたたり落した。その背後からジャク・ルー伯が剣を薙ぐようにフェンリルに剣を振るった。隙をついた攻撃は確実にフェンリルの身体を捉えたように見えたが、その瞬間、フェンリルの体が宙に舞いバック転の要領で一瞬のうちにルー伯の背後を取り、その胴体部に牙を立てた。金属が擦れる耳障りな音がしたかと思うと、ルー伯は前方に倒れた。金属片を口から吐き出すと、デムーラン卿の敵討ちを果たせなかった事を引き継ぐようにルー伯に従事する剣士たちがフェンリルに襲い掛かった。残念ながら彼らは敵討ちを果たすことも出来ず、あえなくフェンリルの牙の餌食になった。そして、フェンリルの鋭い目が次の獲物に定めた。それに反応してラウラの剣先が少し揺れた。
次の獲物として、フェンリルがラウラを狙う。ラウラは自分の剣の腕ではフェンリルに勝てないことを悟った。デムーラン卿の剣は正確にフェンリルの頸を捉えていた、ルー伯も同様だった。フェンリルの動きを的確に先読みし、その剣筋は正鵠を射ていた。ラウラはデムーラン卿の剣もルー伯の剣もフェンリルに浴びせられるものだと思った、が現実は違った。彼らはフェンリルに一太刀も浴びせることはできなかった。フェンリルはデムーラン卿、ルー伯の剣を完璧に見切っていた。フェンリルはデムーラン卿に飛び掛る寸前、真正面から飛び掛ると見せ、瞬時に体を右側にずらし飛び込む方向を変えていたのだ。そしてルー伯に至っては後ろに目があるとしか思えないほどだ。
「あのスピードでフェイントを交え剣を見切られ攻撃されたら、とても避けることはできない。シモーネでも勝てないかもしれない……」それは今まで闘いの中で勝ち続けることが出来た、その基礎となったモントルイユの剣、その独特な軽い体裁きが通用しない事を意味していた。ラウラは今自分が死の危険があるというのに、シモーネのことが気になった。
「このまま私が死ねば、長子さまは隊を引き上げてくれるだろうか。今から死にもの狂いで逃げれば、今回の遠征で出た人数の半数くらいは逃げ切れるかもしれない……いやイレーヌならもっと上手く逃げ切ってくれるはず……」ラウラは自分を贄にするという自己犠牲の精神からではなく、自分の「血」から死を願った。昨晩の出来事。シモーネの血の味が口許に蘇ったのだ。
「忌まわしい自分の血……、消せない罪……」しかし闇に囚われた気持ちも一瞬で掻き消された。ラウラはシモーネの握った手の温もり、愛しさに満ち溢れた温もりを思い出したのだ。それが現実に目を向けさせた。
フェンリルが低く身構えた。
ラウラはシャレット候との模擬戦で負けを悟ったことがあった。その時は何故か急に相手の動きが鈍り、自分の剣が相手の剣より早く振れたが、今回はそんな幸運な偶然はなさそうだ。ラウラは自分の敗北が避けられないものだと腹を括った。
「フェンリルに勝てないのなら、せめてゲヘナまで道連れに」と覚悟を決めた。子供ような容姿には似つかない強く激しい衝動に駆られた瞬間だった。
ラウラとシモーネは極薄の刃の剣を使う。公国に於いて最高の刀鍛冶工房として名高いブルネレスキの工房で造られた剣を使用する。それ以外の工房の剣では、剣を振る時、あまりの刃の薄さに剣自身の重さで刃がたわんでしまうのだ。素晴らしい精度で鍛えられた剣はラウラたちの腕を余すことなく発揮させた。そのお蔭でラウラたちは何度も命拾いをしている。名刀が名刀といわれるには、きちんとした理由があるものである。言い換えると、名刀を生かすには剣士に要求される技量は最高の腕でなければならず、そして名刀は剣士の技量を最大限に引き出してくれる。最高水準の両者が出逢い、剣士、名刀の最高の誉れが生まれるのである。
剣の仕様は極薄の刃と同じ剣術を使う姉弟であっても、それぞれ異なっていた。ラウラは片刃であるのに対し、シモーネは両刃の剣を使っているのだ。この差は二人の腕の差でもあった。ラウラの剣に比べシモーネの剣の刃はさらに薄かった。薄い刃の剣を使いこなすには相応の技術を必要とする。ブルネレスキの剣で最も薄い刃の剣を操れるのは、シモーネしかいなかった。無論、刀匠であるブルネレスキも、シモーネ以外その剣の使用を認めていない。
彼らは剣を肉に押し当てて斬ることのみに使用し、腕や首を斬り落すことも、相手の剣や妖魔の牙を受け止めることを良しとしない。その為、敵の防御のスキを狙い易いように女性の腕のように細くできている。乱暴に扱うと、簡単に剣は折れ、すぐに刃は傷んでしまう。反面利点もある。軽い。非常に軽い剣である。左右に転回しながら軽い体裁きを重要視する「モントルイユの剣」では重い剣では不利になってしまう。ラウラも、シモーネもブルネレスキの剣を好んで使っているのは、自分たちの腕を十二分に活かす剣はそこでしか造る事ができない、という理由からだった。しかし今、それが奪われてしまった。
ラウラは剣を振ることは考えていなかった。「剣をフェンリルの体にどうやって滑らすか」それが命題であった。剣を大きく振るのでは、デムーラン卿やルー伯と同じ轍を踏むことになりかねない。剣筋を見切られてから攻撃されては受身が取れないのだ。「あの凄まじいスピードで駆るフェンリルに自分の剣がついていけるのか……」残念ながら、ここでラウラに与えられた思考の時間は費えた。フェンリルがラウラに向かって突進しはじめたのだ。
ラウラは反射的に剣先をフェンリルに向けた。その瞬間、シモーネの優しく微笑んだ顔が思い浮かんだ。
フェンリルが白い弾丸となってラウラに向かっていく。ラウラは剣先をフェンリルに向けたまま動こうとしない。突然ラウラの前に、黒い影があらわれた。フェンリルの行く手を阻むように。一瞬何が起こったのか解らなかった。彼女がそれを理解したのは、その直後鈍い音が響いた後だった。ラウラは目の前でシャレット候がもんどりうって倒れたのを認めた。
シャレット候の行動は自殺行為そのものだった。いくら腕節に自信があるといっても、弓から放たれた矢より加速のついたフェンリルを受け止めることは不可能に近い。当然の結果として、骨の砕けた音とともに、シャレット候はフェンリルの白い弾丸に弾き飛ばされたのだ。だがシャレット候のおかげでフェンリルの頭部に疵をつけ、その速度が鈍った。
「いける!」ラウラがそう思った刹那、フェンリルは小さく左右に跳ねた。ラウラの剣を惑わそうと、フェイントを入れる。フェイントは失った速度を取り戻すための時間と距離を稼ぎだしてもいた。ラウラはそれでも剣を動かさない。フェンリルの体が今までのフェイントと違う動きを見せたかと思うと、ラウラに飛びかかった。
ラウラは右手を軸にして左手で、フェンリルが飛び込んでくる方へ剣先を少しだけ動かし、体を後ろに反らせた。フェンリルがラウラの剣をかわしながら、ラウラの頸元へ牙をつきたてる。ラウラの体がさらに後方に流れ、足許がすくわれたように倒れはじめた。その為、ラウラは寸前のところでフェンリルの牙から逃れることができた。さらに体を倒すことによって、フェンリルにかわされたはずの剣をフェンリルの横腹につけることに成功した。この間ラウラは全く剣を振っていない。相手の動きに合わせて剣を構えているだけだ。
ラウラを仕留め損ねたフェンリルが、そのままラウラの背後に廻ろうと体を捻った時、ラウラの長い剣がフェンリルの後脚の付け根を捕らえた。フェンリルは剣を跨ぐような格好になったのだ。ラウラの両手に物凄い力が加わった。予想上回る力だ。
「死んでも放さないっ!」ラウラは力の限り剣を握り締め踏ん張ろうとした。しかしその意に反して、今のラウラは踏ん張りの利かない状態になっている。フェンリルの牙をかわす為に、故意に体のバランスを崩し倒れかけているところだ。フェンリルの太腿とラウラが交差した。フェンリルが体を捻りながら前脚を地面についた。
この時、ラウラの剣、ブルネレスキの名刀は噂通りの素晴らしい斬れ味をみせてくれた。フェンリルの右後脚の付け根に深く斬り込んだのだ。並の刃では斬りつけることはできても、深く斬り込むことはできなかっただろう。さらにラウラが剣を放さなかったことが、フェンリルに深手を負わせることとなった。さらに、何を思ったのか、無謀にもフェンリルは体に食い込んだ剣を、後脚を投げ出す勢いで振り払おうとしたのだ。その結果、剣にラウラの重みがかかり、鋭い刃で体をえぐられることとなった。一方、ラウラはフェンリルが体を捻って着地した時の反動をもろにうけた。剣は信じられないくらいの弾力でしなった。金属ではなく若木がしなっているとしか思えないほどに。その驚異的なしなりも三日月に反ったところで物理限界がきた。弾けるように剣は折れた。当然の帰結として、ラウラは投げ飛ばされる形になった。
ペトラルカは一瞬息を呑んだが、すぐに思い直した。混血の能力を考えると、この程度なら難なく受身がとれるだろう……だが何かラウラの様子が変だ。受身を取ろうとする意思が全く感じられない。
「あっ!」ペトラルカが感じた違和感は的中した。思わず顔をしかめる。
ラウラは受身を取るどころか、放り投げられた人形ように地面を転がった。ラウラはフェンリルと接触した時、したたか頭部に打撃を喰らい、その衝撃で意識を失っていた。それでもラウラは剣を最後まで放さなかったのは剣士としての意地なのか、それとも自分の血に対する嫌悪だったのか。おそらく両者が混然一体となった為であろう。
思わず駆け出しそうになるペトラルカ。その場所へ駈けていきたい衝動にかられた。しかし「長子」という肩書きが彼の足を止めさせた。自分の責務を放り投げることなど、ペトラルカには出来ない相談だった。
エスクラヴも医療品入った大きな背嚢を背負い、ラウラの処へ向かおうとした。その時、肩を物凄い力で抑えられた。その手の主は剛力頭だった。頭は無言で首を横に振る。
「混戦になりつつある。こんな時に、剣を持たぬ者が行っても邪魔になるだけだ」エスクラヴも頭ではそのことを理解していたが、何よりまず体が先に動いたのだ。さらに頭の手に力が入る。すると、自然とエスクラヴに冷静さが戻ってきた。
「剛力、失格だ」エスクラヴは考えなしに行動しようとした自分の軽率さを戒めた。
「自分の能力を考えろ。あの化け犬と闘えるのは、ノヴィスさまのような混血の剣士さまと訓練を受けた親衛隊の剣士さまだけだ。それも生死を賭けて闘っているのだ。自分の仕事はノヴィスさまたちを助け支えることである。ノヴィスさまたちの邪魔をするなど言語道断。自分に為すべきことがなければ、何もしない。しかし自分に為すべきことがある時は命を張る。それが剛力だ!」ラウラが微笑みながら「私の剛力」と言ってくれた時のことが、エスクラヴの中で浮かんだ。そして拳を握りラウラが無事であることを祈った。
ラウラの剣はフェンリルに後脚に大きなダメージを与えた。フェンリルの右後脚は付け根から取れかかっている。数本の神経がかろうじて脚が離れるのを防いでいる状態だ。この状況を見たバルナーヴ卿はチャンスとばかりにフェンリルに攻撃をしかけた。その他の剣士たちは負傷した剣士たちのところへ駆け寄った。ラウラに従事する剣士たちが、ラウラを守るようにラウラの前に立った。
通常、人の剣士は妖魔とできるだけ対峙しないように配置されるが、負傷者が出た場合にはその考えは除外される。剣を持てなくなった者を見捨てることは、親衛隊の剣士としての誇りが許さない。その姿はまるで滅びゆく王朝の君主に忠実に仕える家臣のようだ。人の能力では妖魔は倒せない、と解っていても妖魔に剣を向けるのだから……
シモーネは姉の許に向かった。姉ことが心配なのと、人が無駄に死ぬことは好まなかった。フェンリルに体当たりしたシャレット候には、カリエ伯がついていた。また小隊の要である混血の剣士が命を落した場合、従事していた人の剣士は混乱を避ける為、他隊の邪魔にならないように引き上げることになっている。その後はアンヴェール伯の指揮下に入り、非戦闘員である剛力や森の人を妖魔から守るのである。一見混乱しているように見えても、隊は秩序を持った行動をとっていた。
アントワーヌ・バルナーヴ男爵が剣をフェンリルに突き立てる。ラウラの剣捌きを見て、剣を突くことがフェンリルには有効だと感じたのだろう。その判断は、前回は正しかった。しかし前回の正しい判断が今回も正しいとは限らない。フェンリルには人に劣らぬ思考能力があるといわれている。それが他の妖魔と違う点であり脅威なのである。直線的な剣の動きはフェンリルには見切りやすかったらしく、あっさり剣をかわし、バルナーヴ卿の足首に喰らいついた。骨の砕ける鈍い音を残し、そのまま背後に廻ったかと思うと、もう後頭部にその牙をたてていた。バルナーヴ卿の体が前のめりになり、力尽きるように倒れ込んだ。フェンリルがバルナーヴ卿の頭にかぶりつく。骨の砕ける音が響いた。フェンリルは三本脚で立ちながら、ララウが倒れている方を睨みつけた。赤い血が口許から流れ落ちる。怒りに満ちた表情に、さらに怒色が加わる。闘う気力がなければ、その怒気に呑み込まれてしまいそうだ。
シモーネとカリエ伯はフェンリルに剣を向けた。そしてフェンリルの後方を取ろうとするジャック・ピエール・ブリッソー伯。フェンリルと闘う為に展開した混血の剣士は八名、だが今三名しかいない。フェンリルと闘いはじめて、まだ心臓の鼓動は二十くらいしか鼓っていなかった。ペトラルカは奥歯を噛みながら、アリオスト隊がそうだったように「全滅」の文字が頭をよ過ぎった。
「Bloodsucker!!」
耳ではなく、頭の中で直接言葉が響いた。フェンリルの声が聞こえる。低くぞっとするような冷たい声だ。
「Bloodsucker, I'll kill you!!」
フェンリルがゆっくりラウラに向かって歩き出した。バルナーヴ卿の頭を砕いた時、切れかかって右脚は落ちてしまっていた。後脚が一本になったフェンリルは、前脚だけ這うように歩き、後脚を引きずっている。
「Bloodsucker, I'll……I'll kill you!!」
何度も吠えるフェンリルの前にシモーネが立ちはだかった。フェンリルがシモーネを睨みつける。怒りが頂点まで達したように血走った目を剥いた。
「Get out of my way, Mixed blood!!」
フェンリルが跳ねた。後脚一本を失ったにも関わらず、そのスピードは劣れてはいない。シモーネは姉がしたように剣先をフェンリルに向けて相手の出方を待った。フェンリルはラウラと闘った時とは戦術を変えていた。シモーネに飛び掛ると見せて、シモーネを飛び越し、背後を取って一気に仕留めることを狙ったのだ。
シモーネは完全に虚をつかれた。正面か、側面から攻撃をしかけてくると思っていたのだ。自分を跳びこし背後に廻ることは全く想定していなかった。だがこの時運はシモーネに味方していた。フェンリルのスピードは踏ん張る後脚が一本になっていた為、若干ではあるが跳ねるスピードが遅くなっていた。その幸運により、シモーネは剣を背中に向けるだけの時間が持つことができた。さらにもう一つ幸運。シモーネの剣が両刃であったことだ。
フェンリルの牙がシモーネの頸を狙った。シモーネもすかさず反撃を試みる。フェンリルの鼻先にシモーネの剣が迫った。剣は両刃である為、片刃のように剣を返す必要などない。そのまま剣を突き出せば斬れるのである。フェンリルは首を振って顔面への直撃を避けた。刀の背に体を滑らせ剣をかわし、牙を剥くフェンリル。しかし完全にフェンリルの思惑は外れた。
シモーネは剣をフェンリルの胸へ向けて押し込んだ。ラウラの剣より薄い鋭利な刃は、フェンリルの白い毛並みを掻き分けて体の中に入っていく。シモーネは全体重を剣に預けた。それでもフェンリルの勢いに剣を持っていれそうだ。ラウラの時と同様に、ブルネレスキの剣は常識では考えられない程たわんでいる。強靭な粘りをみせていた名刀も、フェンリルの腹を三分の二ほど割いたところで力尽きた。
シモーネは勢い余って転がりながらも、すぐに体勢を立て直した。右手に持っていた剣の亡骸を捨て、素早く腰から帯剣を抜きフェンリルの反撃に備えた。予想に反してフェンリルの反撃はなかった。
フェンリルは腹這いになった状態で止まっていたのだ。剣で割かれた腹から腸が飛び出していた。一気に撒き散らした毛糸のように絡まっている。その中にはおそらく他の臓器もあるだろう。肉の塊もいくつかある。フェンリルの全身を覆う白い毛は半分が赤い血に染まっていた。
フェンリルに大きな打撃を与えたことは疑う余地もない。しかし全く戦意は喪失していない。それどころか、益々怒気が増しているようだ。悪魔が唱える呪文のようなフェンリルのうめき声が頭に響く。
「Half bloodsucker, I'm gonna kill you!!」
シモーネの剣をフェンリルに向けたまま動かなかった。相手が相手だけに不用意な攻撃はできない。
「マルティニ候」
シモーネの横から声が聞こえた。シモーネに従事する剣士が予備の長剣を持ってきたのだ。シモーネはフェンリルに向けている帯剣から片手だけ放して長剣を受け取り、持っていた帯剣を後方に投げ捨てた。帯剣を使わないわけでもないが、やはり使い慣れた剣がいい。フェンリルが立ち上がった。再びシモーネに向かって走りはじめる。割かれた腹からでた腸を引きずり、おびただしい血が辺りに流しながら。
この世界に滅びないものはない。あの吸血鬼でさえ滅びるのだ。だがフェンリルは不死でないのかと思えるほどの生命力を持っていた。シモーネはフェンリルが本当に不死ではないのかと疑いたくなった。フェンリルは腹を割かれたと思えない程のスピードでシモーネに突進しはじめたのだ。内臓が引きちぎれても、全く足を緩めることはない。
シモーネは剣先をフェンリルに向けた。フェンリルの鼻先に剣を向けて置かないと、フェンリルが飛び掛ってきた時に対応できそうにない。そんな心理が働いたのだ。それ程までにフェンリルの怒気は凄まじくシモーネを襲い吞み込んだ。完全にシモーネはフェンリルに呑まれ、追い詰められた状態に陥っていた。
フェンリルはそのままシモーネに突進する。シモーネの剣を握る手に力が入る。
「来る!」しかし、突然フェンリルはシモーネに飛び掛る手前で反転した。その瞬間、フェンリルの血がシモーネの目に向かって飛んできたのだ。シモーネの視界に一瞬隙ができてしまった。「後手を引いた」と知った時は既に遅かった。
フェンリルは自分が大量の血を流していることを利用して、シモーネの目をくらましたのだ。シモーネのとった待ちの姿勢が裏目に出た結果となった。シモーネはフェンリルに二度も裏をかかれた。「一度目は幸運と奇跡が味方したが、二度もそんな幸運はないだろう。よほどの強運の持ち主でない限り、最初の幸運で全ての運を使っているはずだ」シモーネは自分を強運の持ち主だと思っていなかった。
「フェンリルはどこからくる……」シモーネは五感のすべてを集中させた。シモーネの呼吸の間隙を縫うように、赤いカーテンの陰からフェンリルはシモーネに襲いかかった。
フェンリルの姿を認めた時には、その牙はシモーネの脇腹を捕らえようとしていた。長い剣はこうなると完全に不利になってしまう。刃をフェンリルに宛がうには、一度剣を持ちかえないといけなくなる。この状態ではそんな余裕などない。シモーネの脇腹に激痛が走った。体の半分が引き千切られる痛みが全身を貫く。一応タイタンという希少価値のある鉱石から作った甲冑を身につけてはいる。鋼と同じ強度を持つ軽金属であるが、そんなものは全く役に立たなかった。シモーネは咄嗟に剣の柄をフェンリルの眼球にめがけて下ろした。両手には確かな手ごたえがあった。シモーネはそれを感じながら、激痛に意識を奪われそうになった。
「ここで気を失ったら確実に死ぬ……今度は…守る…」それがシモーネの意識をなんとか支えた。
片目を潰されたフェンリルは、シモーネの背後で体を反転させようとしてよろけ再び腹這いになった。地面を震わすような低い咆哮が響く。
フェンリルはゆっくり立ち上がり、シモーネに再び牙を向けるべく低く屈んだと思う間もなくシモーネに飛び掛った。シモーネは痛みを堪えながら素早く短剣をフェンリルに投げつけた。フェンリルがよろけていた分、短剣を手にする余裕があったのだ。
フェンリルはシモーネの投げた短剣を事もなげにかわした。間髪入れず、シモーネは長い剣を片手に持ち半身になりながらフェンリルを襲う。これを寸前のところで見切ったフェンリルはシモーネの懐にとびこんだ。今度はフェンリルがシモーネの罠にかかった。短剣は一本とは限らないのだ。フェンリルの鼻先に短剣がせまる。フェンリルは体を捻りながら頭部への直撃を避けた。牙はシモーネに触れることなく空を斬った。フェンリルは頭部への直撃を避けるのが精一杯だった。シモーネが渾身の力を込めた短剣が再びフェンリルを引き裂いた。フェンリルに襲いかかった短剣は、フェンリルの肩口から脇腹を通り後脚まで達した。
フェンリルはシモーネを背後に抜ける時、反撃とばかりに、犬には似合わない長い尾をシモーネにぶつけた。フェンリルとシモーネが重なり赤い血が舞う。肉のぶつかる鈍く低い音が生まれた。
シモーネはすべての力を使い果たしたように倒れ、その拍子にいくつかの臓器がシモーネの腹部から赤い塊となって飛びだした。もはやシモーネには指一本動かす力も残ってはいなかった。
フェンリルも血みどろになりながら転がり、すぐによろよろとしながら上体を起こそうとしたが、上手くいかず崩れ落ちた。それを三度繰り返した後、ようやくフェンリルは立ち上がった。フェンリルの白い毛はほとんどが赤く染まり、二度も剣も受けた脇腹の皮は完全に剥がれ、骨が剥き出しになっている。内臓もほとんど失っているのだろう、異常なくらい腹部が薄くなっている。もう下半身は機能していない。前脚でずるずると体を引っ張り、シモーネの方に動きだしたのだ。フェンリルの前に、カリエ伯が立ちはだかった。
ペトラルカはシモーネが倒れた時、血の気が引くのを感じた。公国内において、最強に名を連ねることに誰も異議を唱えることのない三剣士の姿はない。一人は脇腹を引き割かれ瀕死の重傷を負い、残りの二人はフェンリルと激突した衝撃でノックアウト状態だ。
カリエ伯の剣は、シモーネ、ラウラ、シャレット候には及ばないものの、決して見劣りのするものではない。フェンリルも見た目にも弱っている。この有利と思える状況でも、ペトラルカはフェンリルを勝てるとは思えなかった。カリエ伯の腕を信用していない訳ではないが、フェンリルは彼の手に負える相手ではないと感じ取ったのだ。
フェンリルのあの生命力はどこからくるのだろうか……。人間であったなら、いや、ほとんどの動物は腹部の内臓を投げ捨てた状態では動くどころか、死んでいるに違いない。吸血鬼でさえ、死にはしないものの、あれだけ傷を負えばほとんど動くことはできないだろう。
ペトラルカは背中に薄ら寒いものを感じながら奥歯を噛んだ。「もしここでカリエ伯がフェンリルに倒されたら……、撤収……」ペトラルカに課せられた最優先の責務はフェンリルを討つことであるが、同時に、剛力や森の人の安全を守る義務がある。無論、剣士たちも。
ミラボー伯がペトラルカを見た。指示を待っている顔だ。すぐにでも撤収の準備を整えなければならない状況になっている。後手にまわってはこの世界では命がいくつあっても足りはしない。まして強制解散になっては目も当てられない。
「頼む」
ペトラルカの言葉はミラボー伯まで届くことはなかったが、ミラボー伯はペトラルカの唇でその言葉を理解した。ミラボー伯が自分に従事する剣士の一人に目をやった。彼もこの状況を理解していた。一度ミラボー伯に頷いて見せた後、素早く走り出し、
「即時、撤収準備」
と剛力たちに命令を伝えた。
「撤収準備……」エスクラヴは動かなくなった女性剣士を見た。彼女に従事する剣士はまだ彼女の傍を離れてはいない。彼らが闘いの場から離れた時、混血の剣士の死を意味している。
剛力はもし仕える剣士が亡くなった場合、血抜きの騾馬からその剣士の荷物をすべて降ろさなければならない。生きている者の為に、その場所を空けておくのだ。
エスクラヴはラウラの荷を見やった。「この荷を騾馬から下ろすことは決してない」エスクラヴは何の疑いもなく、その言葉を信じていた。
エスクラヴは隣の血抜きの騾馬から剣士の荷物を降ろす手伝いをはじめた。フェンリルの牙に最初に倒れたデムーラン卿の荷だ。剣の入った箱が下ろされる。ノヴィス公のものに比べるとかなりの重さだ。とても一人では運べない。デムーラン卿に仕えていた剛力と二人がかりで箱を下ろしている時、まわりの剛力や剣士の視線がかわった。つられてエスクラヴはその視線を追った。シャレット候が頭を振りながら立ち上がろうとしていた。だけど意思とは反対によろよろとして足許はおぼつかない。彼は従事する剣士に体を支えてもらいながら耳元で何かを言っている。従事の剣士が腕を大きく広げた。大剣を要求している。「今ここで、その剣が必要なのか」と疑問を持つかも知れないが、剣士の指示は絶対である。彼に仕える剛力は剣箱を中から、シャレット候の代名詞ともなっている鉄の塊のような剣を取り出した。そして重い剣に足許をふらつかせながらシャレット候の許へ走り出した。
シャレット候が立ち上がった後、すぐに何人かのほっとした溜息が聞こえた。エスクラヴはシャレット候の背中の向こうで、自分の仕える女性剣士が起き上がろうとしている姿を認めた。
「良かった……」エスクラヴは思わずほっと胸を撫で下ろした。ラウラが要求する剣を見越して、剣箱から長剣と頸斬りの剣を持ち出した。
ラウラ、シモーネの姉弟でも、唯一鉄の塊のような剣がある。頸斬りの剣といわれる剣だ。この剣はその名の通り妖魔や吸血鬼が復活しないように首を刎ねる為に造られた剣である。そして、もう一つ、あまり愉快でない使用用途も持った剣でもあった。
エスクラヴはその剣を手に取った。ラウラに仕えてから線の細い剣ばかり扱っていたので、肉の厚い刃を持つ剣が厳つく無骨に見えた。この世界には万能な剣は存在しない。いくら剣術に長けていても、剣が闘いの状況に適合していなければ、どんな名刀も剣士の腕を活かすことはできない。
エスクラヴは最後にはラウラがこの剣を求めるだろうと信じながら長剣と合わせて二本を腕に抱えた。
カリエ伯は剣先をフェンリルに向けたまま微動だにしない。フェンリルも今にも飛掛かりそうな鋭い眼で彼を睨みつけている。その間に、カリエ伯に従事する剣士たちがフェンリルを取り囲むように展開していた。フェンリルを包囲して一気に勝負に出るようだ。カリエ伯は剣士たちの動きを見ることもなく、剣士たちの配置が完了した瞬間、フェンリルに斬りかかった。訓練に訓練を重ねた結果、互いの呼吸が読めるようになっている。もちろん混血の鋭い五感が役立っていることには言うまでもない。
カリエ伯は剣を振るのでなく、剣を突くでなく、その中間くらいの剣捌きを見せた。フェンリルの牙に倒れた同胞の闘い方を見て、剣を振りまわすことを得意としている彼ではあったが、これが一番良い方法だと考えたのだ。フェンリルが前脚を踏み鳴らすように地面に叩きつけると、ふわりと体が宙に舞った。その軌跡を先読みするかのように、カリエ伯の剣は確実にフェンリルの眉間を捕らえようとしている。
「いける!」カリエ伯がさらに剣をフェンリルに突きつけた時、フェンリルの体が横に捻れた。この体勢の変化により、フェンリルの下半身に剣を滑らせることになってしまった。この一瞬の出来事で、カリエ伯が「いける」と感じた感触は「まずい」に変化してしまった。
フェンリルは使い物にならなくなった自分の下半身に刀を宛がいながら、カリエ伯に牙を食らわすつもりなのだ。カリエ伯が慌てて剣先をフェンリルの鼻先に向けようとした。しかし既に手遅れだった。剣はフェンリルの大腿部を切り裂いてしまった。カリエ伯は剣をその勢いに持っていかれそうになったのを堪え、左半身には痛みとはとても思えない痛みに襲われた。
カリエ伯の体が引き裂かれていく。彼の意識は、流れ出した血と共に流れ出すように途絶えた。脇腹から骨盤のあたりをフェンリルの牙に持っていかれ、彼の体は音を立てて倒れた。傷口からは血が激しく噴出し、全身が痙攣した後、動かなくなった。
フェンリルの後脚のどちらかが生きていれば、恐らくカリエ伯の体は二つになっていただろう。
フェンリルがカリエ伯の体を食い千切った後、はやりバランスが悪いのか、投げ出されたように地面に転がった。フェンリルもさすがに壊れてきているようだ。通常、親衛隊の心得として、負傷をした剣士を守ることが優先される。しかし勝負を極めようとしている時には、冷たいかも知れないが負傷者を構っている暇などない。フェンリルを倒すことが全てに於いて優先される。それが妖魔狩りの剣士として使命であり、非情なところでもある。
フェンリルが血塗れになって転がっているのを狙い、人の剣士たちが一斉に剣を振った。カリエ伯に従事する剣士たちだ。人の力では混血のように妖魔に対して正面から闘うことは不可能であっても、フェンリルが弱りきっている今なら、一撃で仕留めることはできずとも束になって掛かれば討ち取ることも可能だと考えたのだろう。しかしその考えは甘かった。気合の入った掛け声が瞬く間に断末魔の悲鳴にかわった。
下半身の機能と内臓の多くを失ってもなお、フェンリルの力はまだ人には届かないものだった。
鈍い骨が砕ける音。カリエ伯の頭にフェンリルが喰らいついた。
そこへ間髪入れずジャック・ピエール・ブリッソー伯の部隊が伯を先頭になだれ込んできた。フェンリルは意表を突かれたのか、ブリッソー伯の剣をフェンリルはかわし損ねた。フェンリルの右耳を切り裂いた。しかし、それ以上フェンリルに対して傷を負わせることは出来なかった。そこへまた人の剣士たちが剣を振るう。流れような連続攻撃を見せた。並みの妖魔であれば、狩ることも可能だったろう。しかし今回は相手が悪すぎた。フェンリルが左右に体を転回する度に剣士たちの血が舞った。最後にブリッソー伯が無念さをその顔、眼に残しながら逝ってしまった。
「Bloodsucker, Beat to death!!」
フェンリルはブリッソー伯の頭を噛み砕いた後、前脚で体を引きずりはじめた。明らかにラウラを狙っている。ラウラを守るように彼女に従事する剣士たちが剣を構えた。
意識を取り戻したラウラはすぐに立ち上がろうとした。が、ふらっとよろめく。体を支えてもらわないと立つことさえ怪しそうだ。少しでもフェンリルから遠ざけようと一人の剣士に抱かかえられた。ラウラはまだ体が言う事を利かないらしく、両手両足が力なく垂れた。
シャレット候が咆えた。呼吸をするのが苦しく、肩が上下するたび苦悶の表情をする。肋骨が何本も折れ、内臓もおそらく傷ついているのだろう。致命傷ではないものの、骨が軋む激しい痛みからは逃れられない。混血の肉体は人と創りが根本的に異なる。人が致死する衝撃を受けても軽い怪我程度ですむが、フェンリルの体当たりをまともに受けたのはさすがに堪えたらしい。一撃で意識を失うほどの衝撃だ。シャレット候は彼に仕える剛力から鉄塊のような剣を受け取ると、全身の力を絞り出すように大声を出し、剣を振りかざしながらフェンリルに向かって走りだした。
フェンリルは自分の前に立ち、行く手を阻む者を一瞬のうちに引き裂いていた。五名一組で小隊を成しているラウラの隊も、ラウラと彼女を抱かかえ逃げている剣士の二名だけになっていた。ラウラを抱かかえて走っている剣士はシャレット候の許へ向かった。一番近い混血の剣士へ。それが安全を確保する最良の手段なのだ。
ラウラがシャレット候の横を通り過ぎる。シャレット候は横目で一瞬ラウラを見た。
「意識はあるようだ……」ラウラの状態を確認すると、シャレット候は前脚だけで跳ねながら走るフェンリルに向かって剣を振り下ろした。
初撃の剣は空を斬った。フェンリルは振り下ろされた剣を寸前のところでかわし、シャレット候の脇をすり抜け背中に回った。今までのようなスピードはない。辛うじて繋がっている下半身がフェンリルのスピードを殺していた。シャレット候は初撃がかわされることを前提に剣を振っていた。すぐに刀を返してフェンリルを追う。フェンリルはデムーラン卿を襲ったようなスピードはもはやなく、ラウラやシモーネのような剣速のないシャレット候の剣でも対応ができた。それでも人の目から見れば、超人的な剣速であるが……
シャレット候がフェンリルに目掛け剣を振り下ろす。フェンリルが剣をかわす。そしてそれを数回繰り返した後、遂にその剣はフェンリルを捕らえた。鈍い音が響く。フェンリルの体をシャレット候の剣が切り裂いた。
今回の妖魔狩りはフェンリルを狩ることが目的ではあるが、フェンリル以外にも妖魔はいくらでもいる。ボマルツォの森は妖魔の巣である。フェンリルと闘っている間でも、その危険から逃れることはできない。その為イレーヌはフェンリルとの闘っているシモーネたちに背を向け、他の妖魔から襲われないように目を光らせておかなければならなかった。
フェンリルと闘いがはじまってすぐに、森に投げ捨てられるデムーラン卿の亡骸をイレーヌは認めた。その後、フェンリルに倒されていく剣士の名が次々と聞こえてきた。その中に一番聞きたくない名前も含まれていた。イレーヌは思わず振り返ってしまった。集中していた気持ちが一瞬で砕けてしまった。イレーヌの意識を支配したのは、いつ襲ってくるか判らない血の臭いを嗅ぎつけた妖魔ではなく、フェンリルと闘っている幼馴染だった。シモーネは赤い血を脇腹から流しながら倒れ込んで動かなくなった。すぐに人の剣士がシモーネを守るように立ち、フェンリルに剣を向けた。彼らはフェンリルには勝てないと解っていても、剣士としての誇りがその行動を駆り立てている。客観的に見れば無駄死にとも言える行為かも知れないが、その行為は尊くべきものであり、彼らの顔に恐怖の色はない。
イレーヌはそんな彼らの姿を見て、シモーネの許に駆け出したいという気持ちを抑えた。剣を持つ者の誇りが彼女を自制させたのだ。それに自分の責務を放棄してシモーネを助けに行ったとしても、シモーネは決して喜ばないだろう。そして、そんな自分を許さないかもしれない。イレーヌはシモーネの優しい性格を知っていた。その瞬間一つ目兎が一匹襲ってきた。イレーヌが気を抜いた一瞬の隙を突いたのだ。
実に的確なタイミングだった。
ラウラ、シモーネと同様に、イレーヌもモントルイユ候に剣の手解きを受けた一人である。ラウラやシモーネのような超一流な剣術は身につけてはいないものの、混血の中でも十分に腕が立つ剣士である。でなければ、最後の一人になるかもしれない剣士に選ばれなどしない。遅れをとったものの一つ目兎は簡単にイレーヌに仕留められた。イレーヌは気を引き締め直した。
「今、隊を襲われたら、助けられ者も助けられなくなる……」そう思いながらイレーヌが頭に浮かんだのは、照れたように笑ったシモーネの笑顔だった。それが消える恐怖を覚えながらイレーヌは剣を見えない敵に向けた。
「勝った……」ペトラルカには勝利の喜びは感じなかった。何か非現実的な出来事だった。不死ではないかと思わせたフェンリル、意外にも呆気ない終焉であった。案外強靭なものほど最期は脆くみえるのだろう。ペトラルカを含め誰も勝利の声をあげなかった。妖魔と闘い、そして妖魔を倒したとしてもボマルツォの森ですべきことは山のようにある。まず負傷者の処置をしなければならない。
血の臭いはここではご法度だ。剛力たちが一斉に負傷者のもとへ走りはじめようとした時、突然その足が止まった。
シャレット候の右腕が剣を握ったまま胴体からはなれたのだ。フェンリルはまだ闘いを諦めてはいなかった。足手まといになった自分の下半身をシャレット候の剣を利用して斬り落したのだ。上半身と斬り離された体の一部は赤い塊となって転がっていた。
つい先ほど闘ったカリエ伯と同じように、フェンリルはまさしく肉を斬らせ骨を断たせたのである。前回よりも多くの犠牲を払う事になったが、シャレット候の剣を振る利き腕、右腕を噛み切ることに成功したのだ。赤い血は腕を失ったことなど知りもせず、傷口から沸いて出てくる。痛みで顔を歪めながらもシャレット候は左腰にある帯剣を左手で器用に鞘から抜いた。
フェンリルは両前脚を屈め、いつでも飛び掛かれる状態になり、シャレット候の隙を狙っていた。
「Bring it on, Fright!!」
ラウラを抱きかかえていた剣士が血抜きの騾馬のいる処、剛力のいる部隊まで走ってきた。エスクラヴが出迎えるように、その剣士に駆け寄る。エスクラヴはラウラの顔を覗き込んだ。兜は脱がされいた。それもそのはず、出血はないものの、顔の左側がかなり腫上がっている。ほとんど元の形を残してはいない。腫れ上がってしまい兜を脱げなくなるのを防いでいたのだ。エスクラヴは背中の背嚢から水を取り出し、止血に使う布に水を浸した。そしてラウラの顔に濡れた布をそっと当てた。
ラウラの瞳がエスクラヴを捉えた。意識はしっかりしているようだ。ラウラの口許が動いた。しかし顔が腫上がっている所為で口が上手く開けられず、何を言っているのかまでは解らない。
「…………」
エスクラヴはラウラの口許へ耳を近づけた。
「……おろして……」
微かに声が聞こえた。
「解りました。ノヴィスさま」
エスクラヴはラウラを抱かかえている剣士に、ラウラの意思を伝えた。ラウラはゆっくり下ろされた。まだ足許がふらついている。剣士の肩を借りながら立っている状態だ。ラウラはエスクラヴに向かって「剣」と唇を動かした。
エスクラヴはラウラの唇の動きを読み取ると、長剣を手にしてすぐに戻ってきた。フェンリルとの闘いは終盤戦になっているとエスクラヴは考えていたが、まだ止めを刺すに至ってはいない。頸斬りの剣のような図太い剣はまだ無用だ。剛力として、ラウラの欲している剣を用意しなければならない。
ラウラは顔に当てた布をエスクラヴに返しながら剣を受け取った。そしてふらつく頭を無理やり覚醒させる為か、エスクラヴから水筒を二本ほど奪い取り自分の頭に水をかけた。
フェンリルの下半身は切断され、体を動かす度どこからそんなに血があるのかと思わせるほど出血をしている。スピードも人目で判るくらい落ちていた。ペトラルカはこの化け物と闘うことで、多くの命が危険に晒し、命を散らしていくことに心が痛んだ。できるだけ感情は表情に出さないように気をつけているものの、ふとした時に顔に出ているようだ。ペトラルカに従事する剣士の一人が、時よりペトラルカの顔を故意に見ないように視線を泳がすことがある。そんな時ペトラルカは他人に自分の心情を見られているのだろうと感づいていた。
ラウラが彼女に従事する剣士に抱かかえられ、剛力たちの処まで運ばれてきた。シャレット候とフェンリルの闘いの行方も気になるが、心に正直なペトラルカの視線はラウラを追った。剛力たちに支えられながらラウラが立ちあがろうとした時、彼女の顔が見えた。顔の左側を布で押さえている。ペトラルカは傷でも負ったのかと思い、つい身を乗り出した。
「あっ!」ペトラルカは言葉を失った。
ラウラの顔の左半分は腫上がり、あどけなさが残る、愛らしい顔の面影もなくなっていた。変り果てたラウラの顔に、ペトラルカは思わず自分も傷を負ったように顔をしかめた。本当に痛みを感じたような気がしたのだ。無意識のうちにラウラと同じように左の頬を押さえたペトラルカに、隣にいた彼に従事する剣士が声をかけた。
「ノヴィス公は、大丈夫ですよ」
「あぁ」
ペトラルカは短く答えた後、顔を引き締めた。話すということは、人を冷静にさせる効果があるらしい。ペトラルカは落ち着きを取り戻した。ラウラのことで一瞬心を乱したが、今、隊を撤退させるか、まだこのままフェンリルと闘い続けるか、その判断に迫られている状態だ。
シャレット候は腕をもがれても、まだ闘志は失っておらず、フェンリルに剣を向けている。それに彼に従事している剣士もフェンリルを取り囲むように剣を構えている。彼らはまだフェンリルを討つことを諦めてはいない。
体の半分を失い、弱りだしている今のフェンリルになら勝利を掴むことが出来る、と闘っている剣士たちが考えても無理はない。剣を持ち闘いはじめると極端に視野が狭くなってしまうもの。敵の一挙手一投足に集中しなければならないのだから当然の事である。それは現実問題として仕方がない。だからペトラルカのように一歩引いて戦局を見極める者が必要となる。
ペトラルカは隊に撤退の準備を指示し、既に準備完了の連絡を受けている。フェンリルと闘う為の混血の剣士はもう二人しかいない。その二人も、一人は片腕を失い、もう一人は足許もおぼつかない状態だ。
混血の剣士はまだ三人いるにはいる。予備戦力の剣士、撤収専用の剣士と補給部隊専用の剣士である。予備戦力の剣士はまだしも、できれば彼ら二人にはフェンリルと剣を交えて欲しくない。もし、ここで彼らが倒れでもしたら、森を出るまで妖魔に対して隊はまる裸状態になってしまう。
「戦力のあるうちに、撤退すべきではないか……」ペトラルカは思案をめぐらした。その時ラウラが長い剣を持ち走り出す姿が目に入った。ペトラルカはラウラかシャレット候が倒れた時、撤収開始の指示を下そうと決めた。「それでは遅いのではないか」と言う自分の声が聞こえたが、ペトラルカはその声をあえて無視し、フェンリルを睨みつけた。
ラウラは剣をエスクラヴから受け取り頭から水を浴びると、すぐにフェンリルに向かって走りはじめた。しかしまだ足がもつれるのか、十歩ほど走ったところでよろめいてこけた。慌ててエスクラヴがラウラの許に走り出そうとしたが、すぐにラウラは立ち上がり、赤く濁った唾を吐き捨てた。口許を手の甲で拭いながらフェンリルのいる方向を睨みつけ、再びよたよたと走りだした。その背中をラウラに従事する最後の剣士が追った。
シャレット候がフェンリルに剣を振り下ろした。フェンリルが転がりながら剣をかわす。シャレット候の剣が再びフェンリルを襲う。残念ながら左腕だけでは彼の持ち味が出ることもなく、剣がむなしく空を斬る。今度はフェンリルの牙がシャレット候の脇腹に迫る。だが一瞬の切れを失ったフェンリルのスピードは、シャレット候の体まで牙を届かすことができなかった。間一髪のところでシャレット候が体を捻りながらかわした。フェンリルはそのままシャレット候の背後にまわり、前脚で体を支え、蟲が跳ねるようにシャレット候の頭上に跳び上がった。フェンリルを串刺しにでもするように、シャレット候は剣先を頭上に向けた。シャレット候はここが勝負所だと、この一撃にすべてかけていた。
だが剣を突きつけられたフェンリルは、その剣をあざ笑うようにシャレット候を軽々と跳び越した。フェンリルを囲んでいた人の剣士の一人に牙を向けたのだ。反撃の剣は哀しいくらいあさっての方向に振られ、為す術もなく剣士の首がもがれた。フェンリルは生首を咥えた。赤い血が新たにシエルに落される。全身が血で赤黒くなった妖魔は生き物というよりもはや動く塊のようだ。
「Half man, Die all together!!」
シャレット候の頭全体に低い唸り声が響いた。脳天から頸筋にかけて絞めつられたような感触が走り、背骨にそって悪寒が走った。シャレット候はフェンリルに対して底知れぬ恐怖を感じ取った。刹那、生首がシャレット候にめがけて飛んでくる。無念一杯の瞳が自分を見ている。その瞳めがけ、シャレット候は剣を振り下ろした。フェンリルが投げつけた生首を利用して隙をついてくるのは目に見えている。左右のどちらかから牙を振るのだろうとシャレット候は考えたが、迫ってくる剣士の顔を見た時、フェンリルは直進してくると思い直した。
ぐしゃっと骨の砕けた音がした。それもふたつ。ひとつは頭蓋骨が砕ける音。もうひとつは、大腿骨、剣士の脚が甲冑ごと噛み砕かれた音だった。フェンリルはシャレット候の脚に喰らいついた。投げた生首でできた死角とシャレット候が左腕で振る剣の癖を衝いたのだ。さすかがに勢いに任せて牙をたてることはできないが、牙の鋭利さは損なわれてはいなかった。太い腿の肉と骨の一部がもぎ取られた。その為シャレット候の脚はその大きな身体を支えることができず、いくつかの細い神経を繋いだまま折れた。シャレット候は崩れるように倒れた。それでも剣はフェンリルを捕らえようと、間合いの届かないままフェンリルに向かって振られた。
勢い余って数回転がったフェンリルは直ぐに体勢を立て直した。その時を狙って、シャレット候に従事する剣士たちがフェンリルに襲いかかった。人の力ではまだフェンリルに及ばないと、今しがた目の前に見たというのに……、積極的な行動というより自殺志願と言っても過言ではない行動だった。しかし、そんな無謀な行為が勝機を呼び込んだのだ。勝負ごとは蓋を開けるまで判らないというが、この場合もそれに当てはまるのだろう。
人の剣士の剣はフェンリルに見切られ、全員が血祭りにあげられた。再びフェンリルがシャレット候に襲いかかろうと身を低く構えた。その瞬間、フェンリルの頸に剣が刺さった。
フェンリルの背後からラウラは渾身の力をこめ、剣を突き刺したのだ。この時、フェンリルは眼前の敵以外にも自分を狙う者がいることを完全に見落としてしまった。おそらくフェンリルもかなりの深手を負った為に、人間同様にその判断力、注意力が鈍ったのだろう。それ以外考えられない、初歩的なミスであった。
どのような闘いにおいても、ミスを犯さず闘うことは不可能である。そして闘いの重要なポイントでミスを犯し、勝負の流れを手放した方が敗北に近づいてしまう。特に命懸けの闘いでは足し算ではなく引き算で勝負の行方が決まる。意外かも知れないが、それが闘いの流れというものである。英雄譚にあるような便利な必殺技はありはしない。
今ラウラたちに勝利の天秤が傾いた。ラウラの剣は頑丈な剣ではないが、鋭さでは天下一品である。さらにラウラが力を込めた時、剣はフェンリルの頸を貫き地面を突き刺した。フェンリルは完全に串刺し状態になった。ラウラはエスクラヴの方をちらっと目にした。その直後、エスクラヴは鉄の塊のような剣を持って走り出した。
フェンリルは何を思ったのか、激しく頸を振った。その度、頸に刺さった剣が傷を広げていく。がりがりと骨が剣に当たる音。傷口が広がるのも構わず、フェンリルの体が前後に背伸びするように伸ばした時、フェンリルを串刺しにしていた剣が折れた。
「Bloodsucker…I'll never……Never forgive you!!」
フェンリルがラウラを睨みつけた。左目はシモーネにえぐられ、眼孔から眼球の残骸と血が流れでている。そんな状況でも、ラウラはまるでフェンリルに両目で睨まれているように感じた。
「ノヴィス公。長剣です」
ラウラは従事する剣士から予備の長剣を受け取り、そのまま剣をフェンリルに向けた。フェンリルは無理やり剣を折った為、頚椎の骨とその周りの筋肉は砕けてしまい、皮膚についたわずかな筋肉だけで首を支えていた。しかしそのことをラウラは知るよしもない。フェンリルの動きは妙にぎこちなく隙だらけだ。
「今だ!」ラウラはフェンリルに対して攻撃にでようとしたが、すぐにその手を止めてしまった。
フェンリルの見せている隙はあまりにも無防備だ。まるで闘いを知らない素人が剣を握っているのと変わりない。
「罠かもしれない……」あまりに露骨な行動に、ラウラは剣を使うことを押しとどめてしまったのだ。頸がもげかけているフェンリルは、もはやラウラの剣をかわす力など残っていなかったが、ラウラは目の前にある勝利の文字をまだ読むことはできずにいた。
フェンリルが跳ねた。そのスピードは信じられないくらい遅いものだった。人の目で見ても簡単にかわすことができるほどだ。ラウラは体を右に流しながらフェンリルを難なくかわした。剣を振り下ろしてフェンリルを斬ることは可能だったが、剣先はフェンリルに向けられたまま動くことはなかった。
三度、ラウラとフェンリルが対峙する。にじる寄るフェンリルとの距離をとるべくラウラが後ずさった。その一瞬を狙ってフェンリルが跳んだ。
ラウラは前脚に重心を残した状態なので、一瞬体の捌きが後手にまわってしまったのだ。フェンリルが先手を取った。ラウラは心の中で自分の迂闊さを呪った。フェンリルの牙がラウラに襲いかかる。やはり先の攻撃と同じく異様なくらいスピードがない。
ラウラは牙を剥くフェンリル目がけ剣を突き出した。半信半疑のまま。しかしラウラの予想を裏切り、フェンリルはラウラの剣のスピードに反応できずに、そのまま剣を呑みこむことになった。ブルネレスキの剣は今回も斬れ味の素晴らしさをみせつけた。その鋭い刃が時には仇となす。剣にそってフェンリルの牙が迫ってきたのだ。生きている目を剥き、まるで地獄にラウラを引き込むかのような形相のまま。ラウラは構わず剣を持つ手に力を入れる。大きく開いたフェンリルの口に腕を押し込むような状態になった。
「このままでは腕を失うかも……」そう感じたラウラであったが、剣を放さすことはなかった。ここでフェンリルの牙を恐れて剣を持つ手を緩めてしまったなら、二度とフェンリルを倒せないと感じたのだ。気持ちが負けてしまえば、それだけで勝利を手放すことをラウラは知っている。幼さを残した容姿をしていても、彼女は真剣勝負の世界の中に生き、勝ち続けているうちの一人には違いない。詰めを誤るようなことではこの世界では生きてはいけない。
フェンリルの牙がラウラの腕を襲う。ラウラの体が真後ろに腰から崩れるように倒れた。その様子を見ていた誰もが、ラウラがやられたと思った。しかしそれが間違いだと思い直すまで、鼓動ひとつもかからなかった。フェンリルの顔が崩れ血を噴き、上半身から飛び出した剣がゆがんだ。ラウラはフェンリルを再び串刺し、そのまま後方へ投げ捨てた。
フェンリルの体が毬のように跳ねる。素早くラウラは立ち上がり、いつの間にかラウラの傍まできていたエスクラヴから自分の体より厚みがありそうな剣を受け取った。その剣を大きく振りかぶり、フェンリルの頸へと落した。反動で体が飛び上がってしまいそうなくらい勢いをつけて。
耳をつんざくような断末魔の咆哮が頭の奥で響いた。思わず耳を押さえてしまう者もいたが、耳を塞いでも直接頭の中に流れ込んでくる咆哮に、不快感は和らぐことはなかった。フェンリルの頭部が半身の体から離れた。ペトラルカにはその様子をまるでポケットからコインが落ちるような、ありふれた光景のように思えた。それは、不死をイメージさせたフェンリルがその不死性を失い、言わば地上の動物になり下がった為であろう。
再びラウラが体より大きな剣を振りかぶった。
「あの小さな体のどこにそんな力があるのだろう……」ペトラルカはラウラが混血であることを忘れ彼女を眺めた。フェンリルは首を落されても死を知らず、ラウラを睨みつけ牙を剥いている。
「Blood…suck…er…」
ラウラの剣が再び振り下ろし、フェンリルの頭を砕いた。もうそれは形を成していなかった。それでもなおラウラは剣を振ることをやめなかった。何度も、何度も、フェンリルの頭だったものを砕く。フェンリルの復活を恐れているように。
「ノヴィスさま」
エスクラヴが諭すように声をラウラにかけた。「もうフェンリルは死んだ」と。ラウラはエスクラヴの声で落ち着きを取り戻したのか、状況を理解したように剣を下ろした。それからエスクラヴの方を見た。エスクラヴが微笑んだ。喜びを噛み締めた笑顔というより、安堵の表情が色濃く出た笑みだった。
ラウラはエスクラヴの事など目に止まっていないかのように、
「シモーネは」
と心配そうに呟いた。