Canzonier du vampire 5
注意、英文はかなりいい加減です。
【5e Chapitre】
シモーネは昨晩姉に血を吸われたことが影響して、体調がすこぶる悪かった。吸血鬼の牙は混血にとって毒以外何もでない。そんな自分の状態を姉に知られるわけにはいかなかった。シモーネは平静を装った。自分の体調が悪いことを姉に知られることを怖れたのだ。姉に余計な不安を与えたくなかった。十分過ぎるほど、姉は吸血鬼への転化に心痛めているのだから……シモーネはこれ以上姉を苦しめることは姉を死の淵に追いやっているように思え、耐え難い苦痛だった。過去に何度か、その苦しみに耐えかねて、「いっそこのまますべて投げ捨ててしまおうか」とそんな誘惑にかられたこともあった。そんな誘惑も、自分が愛した女性を守れなかった自責の念と姉の言葉が抑止させた。愛する女性を失った時の喪失感からくる虚無は、シモーネを呑みこんでしまいそうなくらい大きく重く圧しかかりシモーネを屍のようした。そんな抜け殻のようになったシモーネを抱いた姉の手は、シモーネには全身を包み込むカシミアの毛布のように優しく暖かかった。だけどその手もやがては消えてしまう。
「愛する者を失ったばかりでなく、姉も救うことはできないのか……」シモーネは無力な自分が惨めに見えた。その時、ラウラが、
「ひとりにしないで……」
と指を絡め、寂しそうに呟いた言葉は、シモーネにひとつの道を示した。
「姉を救う道はなくとも、姉と共に生きていくことはできる」それはシモーネにとって、愛した女性を守れなかったことへの贖罪であり、自分が生きていく上での灯となった。
夜明けるまでに、半鐘ほど時間。そろそろ集合時間に近づいていた。せわしく剛力たちが準備や点検に追われている最中、作業の終了を告げるように予備集合の銅鑼が鳴らされた。まだ青味がかった月が輝いている。松明の光がゆれゆらと舞う中、シモーネは姉の姿を捜していた。殆どの剣士たちは集まっていたが、その中に姉の姿はなかった。シモーネは出立の準備が忙しく、姉の様子をまだ確認できないでいた。苛立ちと不安が混じり合い、居てもたっても居られないくらいの気持ちだった。さらに疲れが苛立ちをさらに増幅させる。
今回の妖魔狩りは、今まで闘った中で間違いなく最強の妖魔を相手にするのだ。昨晩のような状態では、まともに闘うことはできないだろう。シモーネは姉の出立を取止めることさえ考えはじめていた。まわりでは、剛力たちが血抜きの騾馬を連れて集合場所に集まりはじめ、親衛隊の剣士たちが緊張した面持ちで小隊ごとに集まっている。
シモーネは姉の姿を捜している自分に向けられた視線を感じた。振り返ると、イレーヌが自分のことをじっと見つめていた。その視線は先日のように鋭く突き刺さるものだったが、敵意みたいものは感じなかった。しかしイレーヌの視線に対して居心地の悪さを感じたシモーネは、イレーヌの視線から逃れるように顔を背けた。イレーヌの顔が曇った。イレーヌは気まずそうに視線を逸らすと、何事もなかったかのように、側にいた剣士と二三言葉を交わした。イレーヌが再び視線をシモーネに戻した時、もうその場所にはシモーネの姿はなかった。
シモーネは姉を捜す為に館へ足を向けた後だった。その後すぐに、シモーネと入れ替わるように、ペトラルカとラウラが一緒に集合場所にあらわれた。
この二人を見たイレーヌは、ペトラルカとラウラが結ばれてしまえばいい、と身勝手な想像をめぐらせた。そうすればシモーネもあの忌まわしい事件から解放され、姉離れするかもしれない。そう考えるとイレーヌは心なしか気分が良くなった。一方姉を捜しに本館に向かったシモーネだが、姉はすで集合場所に出向いた後だと館の者から聞かされた時には、疲労感を越え脱力感を覚えたのだった。シモーネが慌てて集合場所に戻ってくると、姉は剣士たちと話し込んでいた。特に変わった様子もない。
「良かった……」シモーネは姉が昨晩のような状態でないことに安堵した。
再び銅鑼が鳴らされた。続けて二回。整列を意味する銅鑼の音だ。剣士や剛力たちは小隊ごとに素早く整列し、隊の序列順に前から並んだ。最前列には混血の剣士、その後に親衛隊の剣士たち、そして最後尾には剛力と。整列が整った後、長子であるぺトラルカが隊の前に出て、出立前の言葉を口にした。それは何度も繰り返された、ボマルツォの森での行程と注意点だった。
「昨晩の話した通り、我々は夜明けから半鐘後に、アントレからボマルツォの森に入り約三リューほど森の奥にあるシエルに向かう。今回の妖魔狩りはフェンリルという最も手強い相手と闘うばかりでなく、時間とも勝負しなければならない。夜になる前にボマルツォの森を出なければ、我々の負けである。その事を肝に銘じて、迅速な行動を皆に求む」
ペトラルカが隊を見回すと、緊張し強張った顔が並んでいた。おそらく自分も同じような顔をしているのだろう。ペトラルカはここに集まっている者たちとの連帯感、一体感を感じた。心の奥では逃げ出したいほどの恐怖を感じているのに、誰一人そのことを口に出さず、自ら死の淵へ進んでいく。それも高揚感まで感じながら。その高揚感の中に「誰もができることではない」と選ばれた者という一種の選民的な意識があったことは否めない。親衛隊の剣士たちの劣等感、貴族階級の中で経済的な敗者であるという劣等感が、そういう気持ちに駆り立てたのだろう。もちろん神に仕えているという使命感もあった。正義の為に闘うというヒロイズムも。
込み上げてくる様々な思いに圧されながらペトラルカは声高く出立を命じた。
東の空が赤く焼けている。今まで空を覆っていた少量の藍を含んだ黒い空が青味を帯びはじめ、夜を彩っていた星たちのほとんどが姿を消していた。生き残っている星たちも、数刻前の輝きが嘘のように、消えかかった蝋燭の炎みたいに心もとなくゆらゆらしながら輝いていた。
ペトラルカは東の空をじっと見つめていた。予定より早くアントレに着いた為、森に入る予定の時間まで足を止めることになってしまった。夜明け前にボマルツォの森に入るのは自殺行為に等しい。夜の帳が支配している間は妖魔たちが最も活動する時である。そんな中へ、のこのこと入り込んでしまえば、妖魔たちの格好の餌食になってしまうのが目に見えている。妖魔に襲われることない青い血を持つ森の人ならいざ知らず、混血でさえ夜の森を歩き回ることはない。
ペトラルカが立っている、ほんの数トワーズ先(一トワーズは約一.九メートル)にはそんな世界が広がっている。そこはボマルツォの森といわれている妖魔が棲む森。この森には人間の常識は通用しない。ボマルツォの森には独特な特徴があり、その事を知っておかないと簡単に命を落してしまう。ボマルツォの森は森として不思議な構造をしている。一見ひとつの大きな森に見えるものの、実際はいくつもの森が寄せ合ってできており、森は独立を保ように互いに接触することがない。半トワーズくらいから数トワーズの距離を保っているのである。どうして森がそのような構を創るのかは知るよしもないが、網の目のようにできる森の継ぎ目を路として利用しない手はない。森の木々の中を歩くより、はるかに安全なことは言うまでもないことだ。また森の路は多少道幅の変動はあるものの、道筋が変わったことがない。森の路の地図が初めて作成された四百年前から、地図に新たに発見された路を書き足すことはあっても、路が消えたり、大きく路筋を書き換えたことなど一度もないのである。その森の継ぎ目がちょうど外界と交わる場所、そこが森の入口となる。そのひとつ、アントレといわれる場所が、今回ペトラルカたちがボマルツォの森へ入る場所であった。アントレ周辺は草木が何故か生えておらず、乾いた砂地が帯びのように取り巻いていた。空から見ると、まるですべての生き物が森に近づくのを恐れているような状態になる。森の前には四トワーズほどの砂地が広がっており、砂地の中央には一トワーズほどの水幅を持つ小川が流れていた。ポルト村の者によると、水源は地下水からの涌き水らしく、とても冷たく澄んだ水だそうだ。
ポルト村は昔から吸血鬼の被害が全くないことが知られている。吸血鬼が流れる水を恐れるのは、満更ただの噂話ではなさそうだ。
太陽が輝いている間のボマルツォの森は、信じられないくらい静かな森となる。とても妖魔や悪魔たちの使いが棲む森とは思えないほどの静かな、それも落ち着いた感じを漂わせた心地良い静寂を持つのである。もちろん太陽に関係なく活動する妖魔、一つ目兎などはいるにはいるが、そんな例外はほんの数種類だけである。太陽が輝く時間帯のボマルツォの森は思った以上に安全に見えるかもしれない。しかしそれは表面上のことであって、やはり妖魔は存在することには変わりない。夜しか活動しないはずの妖魔であっても、日中、餌を探して森の中を徘徊しているとも限らないのである。例え太陽が顔を出していても、いつどこから妖魔が襲ってくるか全く判らないのが実情である。ただ、その危険性が昼間の方が低いだけなのだ。
赤味を帯びた東の空が薄い青色に染め直されから半鐘が過ぎた。森の人との約束の時間が近い。ペトラルカは隊員たちに休憩の終りを告げた。隊が一列になった。先頭には、シエルまでの行程を預かった混血の剣士、ミラボー伯が立ち、隊の側面を守るように混血の剣士たちが並んだ。隊のしんがり殿には強制解散時別動隊の指揮をとるダンヴェール伯がついた。
ポルト村を出た時以上の緊張が隊全体を覆った。その時、ペトラルカは自分の中で「恐れ」のような感覚に囚われ、奥歯を噛み締めた。ラバン村の惨劇が一瞬フラッシュバックしたようだった。
「情けない。しっかりしろ!!」ペトラルカは心の中で、何度も自分を鼓舞した。ふっと前方に目をやった時、森の入口に森の人が一人立っているのが見えた。森の人の迎えが来たのだった。
「Are you Master?」
森の人がペトラルカを見上げるように言った。
「Yes, I am」
「Forester! Please take us to Ciel」
ペトラルカは片膝を折り、頭を下げた。トゥッリタ公国では、森の人に対して礼を欠くことのないように教えられている。その理由は明らかではないが、今までの森の人が公国にもたらした功績、妖魔の情報や混血たちの交易などが認められてのことだと、公国では一般に信じられていた。
「Master,I want you will kill Fenrir. Monster killed my company, So I want to kill Devil Wolf. I believe you can do」
フェンリルは青い血など関係なく殺戮を愉しむのだろう。森の人は怒りをあらわにした。
「Forester, We promise to do our best for you」
ペトラルカは嘘をついた。
「フェンリルを討つことが可能なのか……」前回の「フェンリル狩り」の隊は全滅している。今回も全滅という最悪の結果になるかもしれないのだ。ペトラルカは一度奥歯を強く噛み締めた後、
「By Heaven, I will avenge Fenrir for persons and Foresters killed by it」
と森の人に誓った。
森の人はその言葉を聞いて、嬉しそうに微笑んだ。
ペトラルカたちが森に入り、一鍾ほどの時間が過ぎた。アントレから入る森の路は、崩れた山道のように大小さまざまな石が剥き出しになった路で、平坦であってもかなり歩き辛い。ここ数日、雨が降らなかったおかげで路がぬかるんでいないのが、せめてもの救いであった。
ペトラルカは森の人と現在地を確かめながら隊を進めていた。半リューごとに通過時刻を事前に設定してある。予定以上に隊の進行が遅れた場合には撤退もありうるのだ。その判断を誤り、森を出る前に太陽が沈んでしまうと、妖魔狩り出た自分たちが妖魔に狩られてしまうことになってしまう。そんな馬鹿げたことになりたくはない。ペトラルカは悪路にもかかわらず予想以上に進む隊に満足し、各隊員たちに感謝せずにはいられなかった。だからと言って、休憩時間を延ばすことなどない。この貯金を緊急の時以外使う気など毛頭もなかった。この先何が起こるのか判らないのだ。余裕のない行動は判断を誤り易い。ペトラルカは少しでもミスを犯し易い状況を避けたかった。
斥候の森の人が二名ほど、シエル周辺に身を隠していた。フェンリルの状況を監視する為である。シエルに着く前に、その森の人と合流する事になっている。落ち合う場所はコリーヌの丘を越えたヴァリといわれている森の路が交差している処で、森の人が言う「身を隠し易い場所」である。理由は森の人の結界が張り易いということらしいが、本当のところは謎の一言に尽きる。
コリーヌの丘の手前で、ペトラルカは予定通り休憩をとった。もうアントレから約二リュー超え、後一リュー足らずでシエルに着く。時間も二鐘もかかかっていない。予定より半鐘近くも早い。ここまでは何の問題もなく順調だ。この調子で歩けば、あと半鐘余りでコリーヌの丘を抜けシエルに着くことができる。
コリーヌの丘。ここが第一の関門だ。この丘は一つ目兎の巣なのだ。
休憩の終りが告げられ、剣士たち全員に抜刀の準備をするようにと指示が出された。いつでも臨戦体制が取れるようにということである。こんな処で貴重な隊員を怪我などで失いたくはない。今回の闘いは一つ目兎の駆除が目的ではない。フェンリルと闘う時には、万全の体制でありたい。その為に色々と準備を整えてきた。その労を水泡に帰したくない気持ちは充分過ぎるほど理解できる。
ペトラルカは下した命令は抜刀の準備であったが、全ての剣士たちは早くも剣を抜いたのだった。
エスクラヴはラウラと従事する剣士たちが視界に入るように、少し距離をとった。ラウラは長い剣を右手に持ち軽々と石と石の間を飛んでいく。まるで重さを感じていないかのようだ。その反対に人の剣士には剣を持ったままこの路を歩くのはさすがに辛そうだ。それでもいつでも闘える姿勢を維持している。緊張していない者は、ここにはいない。
エスクラヴはこの緊張の時が、自分が隊の一部、自分がここにいる人たちと繋がって一体になった気持ちになる。自分の気持ちが満たされるのが解る。言葉にすれば充実感。「死」がそこまで忍び足で近づいているかもしれないが、それ以上に生きている喜びを感じる。自分が剛力として生きていくことに、最も満足する瞬間だった。
コリーヌの丘はそれほど大きな丘ではないが、路が悪路な為、思うように足が進まない。険しい登山道を進んでいるようだ。それでも二刻ほどで、コリーヌの頂上に登ることができた。多くの隊員の息は上がっている。ペトラルカも疲労を感じていたが、一つ目兎の巣であるコリーヌの丘では休憩を入れるわけにはいかない。丘を登りはじめてから、まだやっかいな妖魔の姿を一度も見かけてはいない。このまま何事もなく無事に通り過ぎてくれればと思うのだが、逆に今まで一匹も見かけないことが「この後に何かあるのでは」と勘ぐってしまう。ペトラルカは奥歯を噛んだ。
「この丘を降りたら休憩できる場所、ヴァリがある。そこまで頑張ってくれ」
ペトラルカの大きな叱咤の声がとんだ。剣士たちは無言で力強く頷いた。
コリーヌの丘を半分下った処で、突然先頭を歩いていたミラボー伯から停止の命令が響いた。刹那、緊張が走る。
「妖魔が出た!」誰もが最初に思い浮かべた。その考えが正しいことを追認するように、
「一つ目兎、前方三十トワーズ、数一」
と簡潔な内容の報告がミラボー伯からペトラルカに届いた。
「密集体系」
ペトラルカの指示がいち早くとんだ。剣士たちは素早くフォーメーションを固めた。一番外に混血の剣士、その内側に人の剣士、最も内側には、森の人、剛力と荷物を背負った血抜きの騾馬たちが集められた。長子であるペトラルカは先頭、次子のブルーノ卿は隊の最後尾へ、最悪の事態に堕いった時、隊の後方をダンヴェール伯とブルーノ卿に任せる為である。
ペトラルカはミラボー伯の指差した先に一羽の兎の姿を認めた。こちらを覗うように体を起こしている。本物の兎であれば愛嬌があるのだろうが……こちらをじっと見ている眼は顔の中央にひとつ。怒りに満ちたように血走った眼をしている。
「Gawooo……」
地の底から聞こえてくような低い唸り声に、ペトラルカの肩が反射的に一瞬震えた。
「薄気味悪いな啼き声だ」
「そうですね」
ミラボー伯はペトラルカの意見に同意した。さらにミラボー伯は、
「あれを狩りますか」
と剣を握り直しながらペトラルカに問うた。
「無駄な血を流すことは避けたい。あれは血の臭いには敏感だ。血を流すと、すぐにこの辺りの兎が集まってしまう。弱いと言っても数が揃えば脅威になる。可能な限り追い払いたい」
「解りました」
ミラボー伯は簡潔にそう答えた。行く路の先に、一つ目兎が居座っているからといって迂回路などない。さらに一つ目兎がどこかに行くまで待つ時間などありはしない。ミラボー伯が先頭に立ち、歩を進めていく。いつでも臨戦態勢に入れるように剣は両手で握ったまま瞬時に剣を振れる体勢を保っている。ミラボー伯の真後ろにペトラルカがついたが、すぐにミラボー伯に従事する剣士が割って入ってきた。無言でペトラルカに下がるように言っている。隊の長子をここで危険に晒す訳にはいかないと。
ペトラルカは自分が突出しすぎたことに気付き、すぐに脚を引き一つ目兎を完全にミラボー伯の部隊に任せた。そして後方を振り返り、隊の状況を確認した。すべての剣士たちは完全に剣を構えている。どこから襲われても対応できるように。剛力たちは緊急用の医療品の入ったはいのう背嚢を背負い、ポケットには森の人印の止血薬を入れるだけ入れた。戦闘中に怪我を負った者を世話することも剛力たちの仕事である。一秒でも早く血の臭いを消さなければならない。今は妖魔の巣にいるのだ。血の臭いは妖魔の呼び水になりかなねない。「ここに、手負いの人がいる」と妖魔たちに教えることは可能な限り防がなければならない。前衛隊が一つ目兎に三トワーズまで近づいていた。ぎらぎらと血走った大きな眼が睨みつけているのが、はっきりと判る。
ミラボー伯は小隊の停止命令を出した。どうやら、ミラボー伯は単独で一つ目兎に近づくらしい。剣を正面に構えた途端、小さな妖魔が森の中へ駆け込んだ。
時間が止まった。
「来る!」誰もそう思った。しかしその意に反して、それから何も変化のない時間が半刻ほど続いた。
ペトラルカは何の判断も下せず迷っていた。このまま維持か、この臨戦態勢を解き、隊を進ませるかだ。「よく考えろ!」ペトラルカは奥歯を噛みながら自問自答を繰り返していた。一つ目兎は群れで行動するが、その行動に組織だったものは、過去の文献や森の人からの情報では一度も報告されていない。そうなると路の真ん中でいたヤツは斥侯とは考え難い。無論、はぐれ兎はいくらでも居るのだが「偶然だろうか……、何か見落としはないか……、初の事例に出くわしていないのだろうか……、もし一つ目兎が他の妖魔に操られていたら……」幾つもの「もし」が浮かんできて切りがない。ペトラルカは大きく息を吐き、決断した。
「隊を進めろ」
隊は密集体系を解き、前進する体系になった。ペトラルカはすぐには一つ目兎の襲撃がないと自分の直感を信じ判断した。次子であるブルーノ卿は何か意見しようと素振りをみせたが、すぐにペトラルカの指示に従った。こういう場合、副官に当たる次子であっても意見することは許されていない。意思決定の遅さは命取りになってしまうからだ。
コリーヌの丘を隊は再びゆっくり下りはじめた。誰一人剣を鞘に収める者はいない。一瞬緊張の走ったコリーヌの下りだったが、結局何事もなく一つ目兎の巣を通り過ぎることができた。取り敢えず、最初の関門は突破できたのである。
ペトラルカは隊員の誰一人傷つかなかったことを、表情を変えることなく喜んだ。それがひと時のものであるとしても。この後はフェンリルと闘うことになる。多くの者が負傷することは避けては通れない。「その時一つ目兎が黙って通してくれるのだろうか……」ペトラルカは自分の手の中に多くの生命があることを実感した。
コリーヌの丘を下りると、すぐにプラトーへの路と交差するヴァリに着いた。予定した時間より一刻余り早い到着だった。ここでフェンリルを監視していた森の人と落ち合う約束になっている。まだ待ち人は来ていない。森の人は時間に厳格な性格なので、後一刻ほど経たないとあらわれないのだろう。
ペトラルカはここで休憩を取るように命じた。すぐに森の人が結界を張ると言って、怪しげな拳ほどの大きさの袋を十二個ほど置いた。何か魔術的なことらしいが、これで一応妖魔は人がいる気配を感じることができなくなるらしい。隊の誰も声に出さなかったが、ほっと溜息をついたような空気が流れ、張り詰めた雰囲気が少し緩んだ。ただしミラボー伯とダンヴェール伯の隊、カンボン伯の補給部隊の剣士は剣を持ったまま休憩をとる様子はない。彼らが気を休める時間は、この遠征で存在しない。フェンリルと闘うことを責務としていないが、それ以外のところでは真っ先に剣を振ることになっているのである。即ち「今」がまさにその時なのだ。ここで悠長に休んでいては、何の為にここまで来ているのか解らない。
ペトラルカも彼らには休憩を取るようには言わないが、その他の者が剣を握ろうとすると、休むように言ってまわった。それから約束の時間になり森の人が一人あらわれた。
ペトラルカが「フェンリルを討つ」と宣言した。これでもう後戻りすることはない。最終決定だ。シエルでフェンリルを監視していた森の人の話によると、予想通りフェンリルはシエルにいるということだ。さらに付け加えておくと、フェンリルは森の人が監視していたことに勘付いていたらしい。フェンリルの凶暴な性質を考えると……余裕なのだろうか、それとも単なる気紛れなのだろうか。
答えは見えない。だけどペトラルカには重要なことではなかった。最早そんなことなど論じている時ではないのだ。森の人の話は続いた。フェンリルは昨日から全く移動する気配すらみせず、惰眠を貪る犬のように、だらしなく転がっているそうだ。今朝も同じ状態らしい。今も、もう一人の森の人がシエルに残り監視を続けている。
ペトラルカはこの先に森の人に闘いの準備ができる場所があるか尋ねた。森の人ははっきりと、ここからシエルまでそのような場所はない、と答えた。ここで闘いの準備をしておかないといけない。
ペトラルカはフェンリルと闘う剣士たちの剛力に完全装備の準備をするように命じた。その意味をすぐに理解した剛力たちは、素早く剣の箱を血抜きの騾馬から下ろし、いつでも全ての剣が必要に応じて取り出せる状態にして再び剣の入った箱を血抜きの騾馬にのせた。剣ばかりでなく医療関係の入った箱も開けられた。ここからシエルまで、時間にして一刻ほどの進軍はフェンリルと闘える状態で歩くことになる。
そんな面倒なことをしなくても、シエルに着いてから闘う準備をすればよいと思う人もいるかもしれないが、それでは遅すぎる。フェンリルがこちらの都合など考えることなどあり得ない。闘いの準備が整っていない状態でシエルに着いて、もしいきなりフェンリルが襲ってこられたら……剣を振ることもなく隊は壊滅するだろう。さらに森の人の話では、フェンリルがこちらの行動を勘付いていた言っているのだ。早めに手を打つに越したことはない。
剛力たちは手際よく準備を終えた。それを見計らって、ペトラルカは休憩の終りを告げた。この時、不思議なくらいペトラルカは心が重く、咄嗟に反応できないように感じた。初めて就く長子としての立場、その責任感からくる過度の緊張がペトラルカにそのような状態にさせたのだろう。
ペトラルカは頬を叩いて気を引き締めた。「一呼吸の時間判断が遅れただけで多くの人が死ぬことがあるのだぞ」と自分自身を叱責した。
準備完了の報告がペトラルカになされた。ペトラルカは顔を進行方向に向け、
「出立」
シエルへの前進を指示した。
ヴァリからシエルまでの路は狭くはあったが、コリーヌに比べはるかに歩き易い路が続いた。何の障害もなく、呆気ないくらいシエルの入口に着いたのだった。
ペトラルカはシエルに入る手前で隊を止め、ミラボー伯と次子であるブルーノ卿二名にに先行偵察を命じた。まず先行してシエルの様子を偵察させたのだ。状況確認は闘いの基本中の基本だ。
一刻ほど経ってから、ミラボー伯とブルーノ卿が戻ってきた。彼らの情報ではフェンリルは森の人の情報通り、ゴロゴロと寝そべっているらしい。ただ眠っているのかまでは確認できなかったのが惜しまれる。眠っているところを襲えれば、先手が取れるかもしれないのだ。あと居残った森の人がいないのが気がかりだが、今は捜している時間的な余裕はない。森の人のことだから、問題はないだろう。ペトラルカはすぐにでもフェンリルと闘う為の手順を組み立てなければならない。事前に立案しておいた中から、今の状況に最も合致するものを選んだ。
「まず、混血の剣士を突入させ、その次に人の剣士を配置する。人の剣士の指揮はブルーノ卿。そして最後にミラボー伯が先導して、剛力、森の人、血抜きの騾馬を入れる。殿はダンヴェール伯」
手短にペトラルカはシエルでの初期配置への展開を説明した。混血の剣士と共に、最初にシエルに入る人の剣士が一名いる。長子であるペトラルカだ。初期展開が終わるまで、最も危険な最前戦にいることになる。上位の立場であっても、決して安全な場所にいることを良しとしない。時には、長子自ら危険へと身を投げ出すのだ。それが親衛隊の鉄の結束を生む原動力のひとつでもあった。死線をさまようような闘いをくぐり抜けてこそ、強い信頼関係は生まれる。安全なところで正論を並べても、前線で闘う者の心を決して動かすことはできない。ペトラルカはそんな義務がなくとも、真っ先にシエルも飛び込む気でいた。彼の人となりが人の背中に隠れることを許さなかった。
隊の中での人の移動が慌しくなった。移動を目的とした隊列編成から突撃を目的として編成にするためだ。最初にシエルに入る剣士たちが隊の前方に集まった。先頭にはペトラルカが立ち、その両脇を守るように、シモーネとラウラが立った。この後方はシエルに入る順に隊列が組まれる。
ペトラルカは左側に立ったシモーネを見た。近寄り難い殺気だった雰囲気はなく、さして緊張している様子もない。いつも見せる世捨て人のような感じもなく、丘の上で画を手懸けていたような真剣な目もしていなかった。どちらかといえば、何か悩んでいるように見えた。ペトラルカはダンヴェール伯のことが思い浮かんだ。
「もし生きて帰ることができたなら、マルティニ候の愚痴でも訊いてみるのも良いかも知れないな」と一人で納得した。そして反対側、右手に目をやると、ラウラがじっと剣を見つめていた。剣に映る自分の顔を見て、顔を少し斜めに構えたかと思うと、兜から流れ出た前髪を手櫛で整えはじめた。熱心に髪が流れる方向を気にしている。ペトラルカはこんな時に何をしているだろうと、かなり呆れながらも、ラウラが髪の毛に気を使っているのを見て「剣士だといっても、やっぱり女性なんだ」と感心してしまった。何よりあまりお洒落に気を使っていないと思っていたラウラが、実はちゃんとお洒落に気を使っていることを知って、とても得をした気分になった。
ペトラルカはラウラを見つめた。初めて見た時は冴えない女性だと思っていたが、今はすべて愛しく思えてしまう。人の感情なんていい加減なものだ。
ラウラがペトラルカの視線に気付いた。口許を左手で押さえ、ペトラルカの視線から逃れるように顔を伏せながら、
「すいません」
と謝った。
「本人は不謹慎だと思ったのだろうか……」ペトラルカは優しい気持ちになって思わず微笑んだ。その時隊列が整ったことが、ペトラルカの耳に届いた。
「ラウラを守る、能力的には守られるが正しいかもしれないが……」ペトラルカは個人的な誓いをたてながら、
「抜刀!」
剣を高く振り上げ、走り出した。