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Canzonier du vampire 4

【主な登場人物】

<人間>

フランチェスコ・ペトラルカ/フェンリル討伐隊 長子   

エスクラヴ/ラウラ付きの剛力

<混血の剣士>

ラウラ・ド・ノヴィス/救国の英雄

シモーネ・マルティニ/ラウラの弟    

イレーヌ・ダンヴェール/ラウラ、シモーネの幼馴染

フランソワ・ド・シャレット/公国一の剣豪

【4e Chapitre】


 まだ深夜といってもよい時間。「フェンリル狩り」に必要な荷物が箱詰めされ 「血抜きの騾馬(らば)」に載せられていく。「血抜きの騾馬」とは森の人の薬でつくられた青い血を持つ騾馬であり、幾日も不眠不休で歩き続けることが出来る無限の持久力を誇るボマルツォの森では欠かせない輸送手段である。箱詰めされる荷は、血の臭いを消す薬を塗った布と大小様々な袋、血の臭いを誤魔化す香、医療用具、食糧、水、そして最後に荷の一番上に載せるのは剣と決まっている。剛力たちは剣の本数を数えた後、壊れ物を扱うように丁寧に剣の一本一本を鞘から抜き、その刃の状態を確認し再び鞘に収めていった。剣は既に剣士たちが確認しているのだから問題のある剣はないはずである。にも関わらず、事前の剣の確認を行うのは剛力たちのあいだでちょっとした験担ぎになっていた。差し戻しの剣がないとその剣の持ち主と従者はボマルツォの森から五体満足で帰れるという噂が広がっていた。客観的にみると、根拠があるとはとても思えない。とは言え、験担ぎというものはそういうものなのだろう。誰もその事を指摘することはなかった。ボマルツォの森に入ると、身を守ってくれるのはこの剣以外ないのだ。誰とも言わず、剛力たちが剣士たちの剣を確認するようになったのがこの験担ぎのはじまりだった。しかし決して剛力たちが剣に手を入れることはない。剣は剣士たちの誇りだ。おいそれと他人に委ねることなどない。それを汚す愚行など彼ら剛力には考えられないことだった。


 ラウラ付きの剛力に、エスクラヴという二十五歳前後になる若者の奴隷がいる。出生が定かでないので、自分自身でも正確な年齢は判らなかった。周りの人から二十五歳位の歳だということのなので、その年齢を自分の年齢としていた。エスクラヴは剛力暦十年になる中堅の担い手であった。エスクラヴは剛力になるまでは炭鉱で働いていた。鉱夫ではなく、鉱内での雑用を担当していた。水や弁当を届けたり、工具の換えを持っていくのが主な仕事だった。仕事は嫌いではなかった。しかし取分け好きでもなかった。というのも、その他の世界を知らなかったからだ。奴隷階級では自分のいる世界以外を見る機会など皆無であり必要でもなかった。与えられた仕事を言われた通り確実にこなすことが求められる。それだけである。ある日僧会の使いと名乗る人が来て、エスクラヴは連れていかれた。神に仕えるように言われ、理由がわからないまま神への忠誠を誓った翌日から剛力の仕事を覚えるべく、厳しい訓練の日々が続いた。

 剛力として訓練を受けはじめた頃は、先輩たちに怒られ、時には殴られ蹴られながらひとつひとつ作業を覚えたものだった。ミスが許されない仕事だけにいつも緊張感が伴っていた。失念、勘違い、作業の遅れが自分ばかりでなく、仲間や剣士さまの生命を奪いかねない。エスクラヴはそのピリピリした感触がいつしか気に入っていた。「生き甲斐」そんな言葉が一番近いかもしれない。剛力の仕事は炭鉱で働いていた時にはない充実感があった。炭鉱での仕事は鉱夫たちの雑用係だった。もちろん欠かせない仕事ではあったが、どこか脇役を演じているように感じていた。本当に必要とされているのは鉱夫たちなのだ。雑用係りなど、おまけにしか過ぎない。実際そういう扱いを受けてきた。食事、着る物、寝床、生きていくことさえ、すべてがおまけ扱いだった。だけど剛力は違う。雑用係りという点では炭鉱で働いていた時とは変わりないものの、剣士たちは完全に自分を信用して剣や命を預けてくれる。化け物である妖魔の闘いの中さえであってもだ。もし剛力がミスを犯したなら、それは死を意味している。炭鉱で働いていた時とは違い、剛力の仕事には「責任」という文字がずしっと重く響いてくる。エスクラヴは信頼されながら仕事を任せてもらえることに対して代えがたい喜びを感じていた。また剛力仲間同士、死と向かい合わせにすることからの連帯感から固い信頼で絆が結ばれている。馴れ合いの無く厳しいものだが、エスクラヴにはとても頼もしく感じられた。

「本当に剛力という仕事に就けて良かった」とエスクラヴは心から思わずにはいられなかった。奴隷の身分では自分の意思など全く考慮されない。主人の心ひとつで生きていくことさえできないのだ。エスクラヴは自分にはとても幸運な星があるのだと信じていた。

 エスクラヴがラウラの剣を鞘から抜いた。信じられないくらい薄く細い刃の剣だ。今まで三人もの剣士さまに仕えてきたが、これほどまでに薄い刃の剣を使う者は見たことがない。さらにこの剣はラウラの身長に比べれば異常に長いのである。今までの経験からいうと、これほどまでに使い難い剣はない、とエスクラヴには思えた。剣身が長く極薄の刃では剣筋が少しでも歪むと、その勢いに負けて簡単に刃が折れてしまう。それだけではない。相手の剣、妖魔ならその牙や爪を受けるのも、あまりに不向きなのだ。細い刃の強度が劣ることは素人目にも十分に理解できる。またラウラのように自分の身長以上に長い剣では、スピードのある相手なら簡単に懐に飛び込まれてしまう可能性が高く、一度懐に飛び込まれてしまうと剣を握り直さない限り相手に刃を宛がうことは難しくなるのだ。フェンリルが犬のようにすばしっこい相手なら、腰に付ける帯剣くらいの長さが丁度良いはずだ。事実、他の剣士たちはフェンリルと対峙した時には帯剣を選んでいる。やはりスピードのある相手には長い剣は有利な点より不利な点が多いと考えているようだ。ラウラと同じ剣術を使うシモーネを除いて。エスクラヴは剣を鞘に収めた。ラウラに指示された通り、箱詰にする剣、長剣五本、帯剣三本、短剣三本、頸斬りの剣と名のついている剣一本、計十二本あることを確かめた。どの剣にも、デフォルメされた薔薇の紋章が柄頭に刻印されている。マリア・ローザと称されている紋章だ。

 トゥッリタ公国には、各国にその名を轟かず有名な工房がふたつある。ひとつは画廊工房のアリギエーリ工房。もうひとつは刀鍛冶工房のブルネレスキ工房である。ブルネレスキ工房は貧乏貴族が開いた刀鍛治工房のひとつで、偏屈な刀匠としてもその名を馳せていた。剣の扱いが気に入らなかったり、剣に見合った腕がないと、依頼主の身分や報酬に関係なく仕事を請けないのだ。踏反りかえった貴族の依頼を軽く足蹴にして殺されかけたことがあったが、それでも刀に火を入れることはなかった。つまりブルネレスキという刀匠はそういう人なのだ。逆の言い方をすれば、ブルネレスキの剣を持つということは剣の腕を一流の刀匠に認められたことにもなる。

「一流には一流なものが似合う」エスクラヴはラウラの剣を眺めながらそう感じた。 

 剛力たちには自分が仕える剣士たちの剣捌きをじっくり見るという仕事がある。それは剣士たちをサポートする上で重要なことだった。剣士の癖や呼吸を見抜くことで、素早い対応ができるようになるからだ。特に混血の剣士が剣を持ち替える時である。サポートに付く剣士たちが混血の予備の剣を持っているが、もし欲している剣を持ち合わせていなければ、その剣をすぐに届ければならない。妖魔相手に剣を振るのだ。一瞬でも対応が遅れたりしたら、剣士たち全員が命を落しかねない。剛力たちは剣士たちの癖や間合いなどをつぶさに観察していた。エスクラヴはラウラの剣の練習や模擬戦を見る度、とても剣の練習をしているようには見えなかった。「踊っている」それ以外の言葉は合致しない。右に、左に、体を回転させながらラウラの小さい体が舞う。「モントルイユの剣は美しく舞う」という噂を耳にしていたが、その言葉にエスクラヴは物足りないものを感じていた。ラウラは信じられないくらい強かった。「普段のラウラ様を見ていると、とても同一人物だと思えない」とエスクラヴはかなり失礼なことを思い浮かべたのだった。それもそのはず。エスクラヴはラウラを初めて見た時、自分の仕える剣士だとは思わなかったのだ。


 四ヶ月程前、新たに編成される妖魔狩りの隊の発令がなされ、剛力たちもその内容が知らされた。今まで仕えていた剣士の名がなければ、その部隊に付くことはまずない。例外として、剣士たちから剛力を指名した場合と剛力としての力が認められた時は招集される。今回のフェンリル狩りの部隊編成では、エスクラヴが仕えていた剣士の名はなかった。エスクラヴは今回の遠征では出番がないと思い、それが少し残念だった。次に期待するかと思った時、意外にもエスクラヴの手元に招集の令が届いたのだ。指名されての参加ではなかったが、剛力としての力量を認められての参加であった。剛力の仕事に生き甲斐を感じているエスクラヴにとって、その働きぶりが評価されたのだから喜びは倍以上だった。さらに自分が仕える剣士は、何と、公国最強の剣士として名を連ねるノヴィス公である。

「公国最強の剣士に仕えるなんて、剛力冥利に尽きる」その夜、エスクラヴは興奮してあまり眠ることができなかった。

「フェンリル狩り」の部隊の招集場所になったのはクレール要塞だった。公国の建国当初からある古い要塞で、場当たり的な継ぎ接ぎの修復をする所為か、あまり頑丈なそうな要塞には見えなかった。そんな弱々しい外見とは異なり、一流の剣士たちが訓練場として好んで使用していたという由緒正しい要塞として知られていた。エスクラヴは一流の剣士たちが好んだという要塞を見あげた時「もし敵が攻撃してきたら一日も持ちそうにないな」と、とても正直な印象を持った。剛力たちは「invincibilis」と古い言葉で落書きされた要塞の門をくぐったその日から仕事が待ち構えていた。剣士たちの荷物が続々と送られてきたのだ。エスクラヴたち剛力は、その荷物の整理に追われることになった。

 剛力たちは奴隷の中では恵まれた環境にいる。剛力は命懸けの危険な仕事ではあるが、それは特別剛力に限ったことではない。他の仕事でも命懸けの仕事はいくつもある。例えばエスクラヴの前の仕事場だった炭鉱の仕事だ。坑内で働くということは、常に、落盤、ガスの噴出、水没などの危険と隣り合わせにしている。そして一旦事故が発生すると、まず助かることはない。幸運が味方し命拾いしたとしても救助は来ないのだ。事故が発生した直後の現場は再び事故発生の危険が極めて高く、助けに行きたくても助けに行けないのが冷たい現実となる。それは剛力でも同じこと。剛力も妖魔の前ではあまりに無力な存在でしかない。だが剛力と鉱夫とでは大きな違いがある。剛力には様々な教育が施されるのだ。まず神に仕えることを徹底的に叩き込まれ、文字の読み書きから算術、医術に至るまで、親衛隊の剣士並に、農民より遥かに高い水準の教育を受ける。

「どうして奴隷にそこまでするのか 」そんな疑問が湧くに違いない。無論、僧会の権力者たちが心優しく奴隷に手を差伸べるわけがない。彼らにしてみれば、奴隷を教育することは単なる投資の一環にしか過ぎない。剛力に教育するのは、奴隷であろうと、親衛隊の剣士並に基本的な能力を身につけておかなければ、非常事態に陥った時、ボマルツォの森では何の役に立たないからだ。人の世界ではない、悪魔の世界で妖魔と闘うのだ。伝令、地図が読めないというだけで、隊全体の命取りになりかねない。その役目を剛力が担うとも限らない。誰が五体満足で生き残れるかなど、誰も判りはしない。事前に予測され回避できる問題は排除しておきたいもの。それが当然の処置であることは考えるに易しい。剛力たちはそんなこととも露とも知らず、熱心に学を教える僧会に感謝の気持ちを忘れることはなく忠義を誓うのであった。

 エスクラヴが他の剛力たちと荷物の整理をしている時「Laure de Noves」(ラウラ・ド・ノヴィス)と美しいイタリック体で書かれた文字と、向かい合う鷲に五本の剣の紋章が書かれた荷物を見つけた。意匠の向かい合う鷲は混血であること示し、剣の本数は爵位を表す混血特有の紋章である。「ラウラ・ド・ノヴィス」その名を聞きつけた他の剛力たちもその荷の周りに集まってきた。やはり公国最強と称される女性剣士には、みんな興味があるようだ。何せ公国一の剣豪で名を馳せたシャレット候を模擬戦とはいえ倒しているのだ。それに、この剣士はこの三十年ほどほとんど人前に出ることがなく、ここにいる剛力たち誰ひとり顔を見た者がいない。唯一、剛力頭のスキャーヴォがノヴィス公の顔を知っているくらいだ。噂ではかなりの美人らしい。それを皮切りに、罪のない噂話で盛り上がった。三十年前のヘルヴェティア王国との戦役で、壊滅寸前の公国軍の先頭に立ちトゥッリタ公国を救ったことは、伝説にもなっているほどの有名な話である。なんでも彼女の姿を見ただけでヘルヴェティア王国の兵が逃げ出したという噂がある。他の混血の剣士たちも同じようなことを言っていることから、まんざら大袈裟な話ではないらしい。事実ノヴィス公はこの時の活躍が認められ、トゥッリタ公王家と同格の公爵の爵位を得ている。またアルカドという史上最悪の吸血鬼を狩ったのも、ノヴィス公の功績が大きかったということだ。剛力たちが持ち寄った話を総合すると、ノヴィス公という剣士はとんでもない位、凄腕の剣士のようである。

「どんな剣士なのだろう……」剛力たちの興味を煽りに煽った。

 エスクラヴは自分の仕える剣士の功績の凄さにただ驚くだけだった。もちろん色々な噂は耳してはいたが、エスクラヴはその噂話は尾びれ背びれのついたものだとしか思わなかった。箱に「Épée」と書かれている。この箱には多くの伝説の礎となった剣が詰められている。

「これが、ノヴィスさまの剣か……」エスクラヴは箱の荷札に書かれた自分の仕える剣士の名の大きさに改めて身震いした。

 各隊別に荷物の仕分けも終り、後は不要になった物を捨てるだけになった。これでエスクラヴたち剛力の今日の仕事は終りだ。明日になれば、剣士たちがこの要塞に集まりはじめ、色々な仕事が待ち構えている。

「忙しくなるな」

 エスクラヴがそう呟くと、隣にいた剛力が、

「そうだな。今日の仕事を早く終わらせて、明日に備え、さっさと寝ようや」

 笑いながらゴミとなった物を肩に載せ歩き出した。

「もっともだ」

 エスクラヴは彼と同じように載せられるだけゴミを肩に荷を載せ、その後を追った。エスクラヴがゴミ捨て場から荷物置場に戻ってくると、給仕の娘が荷物置場の前に立っていた。何か探し物でもあるかのように、ひとつひとつ荷物を覗きこんでいる。「何か、用なのだろうか……」そう思い、声をかけようとしたエスクラヴの目の前で、その給仕の娘はあろうことか剣士の荷物をひとつ開けたのだった。「何てことをするんだ!」エスクラヴは自分が汚された気がして、カッとなって怒鳴った。

「何をしておられる」

 まるで土足で顔を踏まれているみたいな気分だ。給仕の娘も驚いて、エスクラヴの方を見た。

「給仕殿、御自分が何をなさったか、お解りか」

 エスクラヴは給仕の娘を睨んだ。いつもの給仕の服装とはちょっと違うようだが、怒りに感情が高ぶっていてあまり気にならなかった。

「あの、ちょっと箱の中に……」

 と給仕の娘が言いかけた言葉をエスクラヴは遮った。

「どういう理由があれ、剣士さまの荷物を勝手に触れることは許されないことですぞ」

「えっ、あの、その、これは……それに、私……」

 エスクラヴは要領得ないしゃべり方をする給仕の娘をみているうちに、なんだか怒る気が急激に失せてきた。まるで、いたいけな小動物をいじめていうるような気がしたのだ。おそらくこの娘は剣士に憧れて、つい荷物の中を知りたくなったのだろう。そう思うと、エスクラヴはこの娘がやった無礼な行為も許しても構わなくなってきた。剣士に対しての無礼を許すわけにはいかないが……

「給仕殿、今回のことは自分の胸に留め置かせ頂く。もう行かれよ」

 けれども自分の言葉に反して給仕の娘は立ち去る気配もなく、何か言い難そうにしている。エスクラヴは早く立ち去って欲しかった。もし剣士たちの荷物をこの娘が勝手に開けたことがばれると、間違いなくこの娘は縛り首になる。彼女はそんな重い罪を犯してはいないと、エスクラヴはそう感じたからこそ彼女を見逃したのだ。もう一度、給仕の娘にこの場を早く去るように言おうとした、その瞬間を狙いすましたように背中から剛力頭の声が響いた。

「おい、エスクラヴ。こんな処で逢引かい」

 エスクラヴは背筋に冷たい汗が滝のように流れるのを感じた。いい意味でも悪い意味でも、頭は曲がったことが大嫌いな人である。自分のように、この娘のやったことを黙って許すとも思えない。

「給仕殿」

 エスクラヴの諭すような声に、給仕の娘はモジモジとしていた態度を止め、小さくお辞儀をした。

「どうやら、やっと行ってくるのか……」エスクラヴはほっと胸を撫で下ろした。その一方で勝手に荷を開けたことを、剣士さまだけなく頭までに言い訳しなければならないのかと、そう思っただけで軽い眩暈がした。おそるおそる頭の顔を横目で見ると、頭は口をポカンと開け、何とも間の抜けた顔をしていた。エスクラヴは思わず笑ってしまいそうになった。頭はいつも苦虫を潰したような顔をしている所為か、その落差が堪らなく可笑しかった。しかしここで笑うと、後で頭に何をされるか判ったものじゃない。エスクラヴは込み上げてくる笑いを必死で呑み込んだ。

「……ノ、ノ、ノ、ノヴィスさま」

 頭が喘ぐようにそう呟いた後、突然エスクラヴは頭に髪を掴まれ、地面に額を叩きつけられた。

「ノヴィス?」エスクラヴがその言葉を理解する前に、頭はエスクラヴの髪を掴みながら額を地面に擦るように土下座をして、

「こ、こ、この者の無礼をお許しください。ノヴィスさま。どうか、どうか、お許し下さい」

 何度も「お許し下さい」と声をひっくり返しながら懇願し続ける。

「ノヴィスさま……?」エスクラヴは頭が何を言っているのか理解できなかった。

「給仕の娘に何を言っているんだ? ノヴィス………、……、…、えっ」エスクラヴは血の気が引いた。

 ラウラは給仕と間違えられて戸惑ったが、それ以上に、大きな体躯の剛力ふたりに土下座されながら謝られることに困惑の色を隠せなかった。

「……あ、あのう、私、別に怒っていませんよ。それより箱から荷物を取りたいの、いい?」

「有難いお言葉を頂き、いくら感謝しても、感謝し足りません」

 奴隷の身分の者が、貴族、それも貴族中でも爵位の最も高い公爵さまに、あろうことか給仕などとのたまったのだ。許されざる行為である。知らなかったという過失などの減免の余地など全くない。しかし当のラウラには、そんなことはどうでもいいようだ。

「あ、あのう、荷物を取ってもいいかな?」

「はい。どうぞお取り下さいまし」

 剛力頭は地面に伏したまま返事をした。

「ノヴィスさま。マルティニさまもご到着なさっておられるのですか」

 ラウラは自分の箱の中を覗き込みながら、

「えっ、シモーネ。着いていますよ」

「はい。それでは後ほどお伺いさせて頂きます」

 探し物はすぐに見つかったらしく、ラウラはずっと額を地面に擦り付けながら平伏したままの二人の前まで来て、

「あのう、スキャーヴォさん。私、はっきり言わなかったの。だからその人を怒らないでね」

 それだけ言うと、踵を返して二人の前から走り去った。

 今日の大失態の罰として、エスクラヴは血抜きの騾馬に餌やっていた。この仕事は剛力の中でもやりたくない仕事の三本の指に入る仕事である。血抜きの騾馬は、騾馬のくせに死肉、それもかなり腐乱した死肉を食べる。しかもガリガリと骨ごとゆっくりすり潰すように食べるのだ。この音がなんとも気持ち悪い。さらに追い討ちかけるのが悪臭で、冗談抜きに吐きそうになるのである。肉をすりつぶし骨の砕ける不快な音と死体からの悪臭のダブルパンチは世話をする者には堪ったものではない。

 エスクラヴは鼻がもげてしまうような悪臭に耐えながら血抜きの騾馬の前に腐乱のすすんだ兎の死骸をおいてまわった。十六頭いる血抜きの騾馬に餌をおいてまわった頃には、もうこの場所から逃げ出したくなっていた。エスクラヴは最後の一頭に餌を置くや否や血抜きの騾馬の厩舎から飛び出した。

「堪らないな……」エスクラヴはそう呟き、顔をしかめた。草むらにペタンと座り込み、ゆっくり背伸びをして体を倒した。濃紺の夕闇の空に薄い筋のような鼠色の雲がいくつも流れている。夜の闇が手を伸ばし始めた中、エスクラヴは目を閉じた。

「ノヴィスさまに対しての一連の言動に、ノヴィスさまのご不興を買ったのは間違いない……」エスクラヴはそう思うと薄ら寒い心境になった。公爵と奴隷、これだけ身分が違う人にあれだけ礼を欠く行動をとったのだ。手討ちにされてもおかしくはなかった。頭があれだけ熱心に謝り続けていなければ、命はなかったのかもしれない。だけどエスクラヴはそんなことより恐れていることがあった。剛力の職を解れることだった。エスクラヴは天職ともいえる職に就くことができた。剛力であることは、自分のすべてだといっても過言ではない。それを失う喪失感に耐えられるとはとても思えなかった。奴隷が選べる選択は僅かしかない。その中に職の自由などありはしない。

「剛力でなくなる………」言い知れぬ不安が体中を支配しようとしている。その恐怖にと獲りつかれてしまいそうだ。「いっそのこと死んでしまおうかな………」

「!」エスクラヴは人の気配を感じて目を開けた。

「あっ」

 突然視界に入ってきたものに驚き声をあげた。誰かが自分の顔を覗き込んでいる。

「ご、ごめんなさい」

 女の人の声。エスクラヴはその女性を見た途端、慌てて飛び起き土下座をしながら、

「ノヴィスさま。先程は許し難き無礼を働き、何と申し開きをしてよいのか………」

 エスクラヴは勢いよくしゃべりだしたものの、最後の方には口篭りがちになった。言い訳の言葉が続かなかったのだ。言葉通り「何と申し開きをしてよいのか」だった。「これで自分は終わった」とエスクラヴは思った。もうこれで何もかも失ってしまうのだろう。死刑宣告を待つ囚人の気分だった。だけどノヴィス公から出た言葉意外なものだった。

「そんなことは別に……」

 ラウラは気にしていないと言わんばかりに首を振り、

「それより、やっぱりスキャーヴォさんに殴られたのね。頬がかなり腫れているわ……ごめんなさい」

 ペコリとラウラが頭を下げた。どうして自分がノヴィスさまから謝られるのか、エスクラヴは理解に苦しんだが、剛力でいられるかもしれない、という希望の光が少し見えたような気がした。そしてラウラは顔を上げると、

「さっき、長子さまが言っていたの。エスクラヴ、私の剛力だって、よろしくね」

 と微笑んだ。つい数秒前までは、死刑宣告されるものだと思っていたエスクラヴは、ラウラの言葉を聞いてすぐに言葉が出なかった。いくら妖魔狩りの部隊では宮廷序列がないと言っても、それは貴族間ことであって奴隷には全く無縁なことだ。あれだけ失礼なことをすれば、貴族でなくても腹立たしく思うのは無理もない。だけどノヴィス公は「私の剛力」と自分のことをそう言ってくれている。自分を剛力として認めてくれているのだ。ほっとして気が緩んだのか、涙がでてきた。エスクラヴは剛力として生きていけることが、ただ嬉しかった。

「ありがとうございます。ノヴィスさまに仕えさせて頂くことを、心より誇りに思います」

 エスクラヴの声は少し涙声になっていた。顔は伏しているので表情までは判らない。その声に驚いたラウラは、

「エスクラヴ。まだ痛むの」

 と心配そうにエスクラヴの顔を覗き込もうとした。

「いえ」

 エスクラヴは顔を上げた。心配そうにノヴィス公が自分を見ている。エスクラヴの顔に自分の道で生きて行ける喜びが自然と溢れ出た。それに吊られるようにラウラも微笑んだ。信頼はほんの小さなきっかけで生まれる。その相手への信頼感が醸し出す柔らかな空気が二人の間に流れた。突然、それを破るようにラウラが慌てて、

「また、明日ね」

 とエスクラヴに手を振り、踵を返し走りだした。大きな板切れを持った少年の方に。「恋人かな……」エスクラヴはその少年の傍らについて、嬉しそうに微笑んでいるラウラを見てそう思ったのだった。エスクラヴは空を見上げた。濃紺の夕闇の空に薄い筋のような鼠色の雲がいくつも流れている。美しい夕闇の中、目を閉じ思いを空一杯に広げた。。

「私の剛力」この言葉はエスクラヴの宝物になった。


 エスクラヴはラウラが「私の剛力」と言ってくれたことを思い出しながら剣を丁寧に箱の中に入れた。ラウラは基本的に長剣しか使わない。それ以外の剣は、練習の時、一度だけ帯剣を使ったくらいだ。「もし長剣以外の剣を使うとすれば……」エスクラヴは一番底に置いた頸斬りの剣を長剣の下に置きなおした。それからラウラの剣が入った箱を血抜きの騾馬の背中に荷を載せバランスを確認した。エスクラヴはラウラがどんなことがあっても最後にはフェンリルを討つと信じて疑っていなかった。


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