Canzonier du vampire 2
【2e Chapitre】
ポルト村に戻った翌日、ペトラルカは「ポルトの村全体を見渡すことの出来る見晴らしの良い丘を歩いてみてはどうか」とポルト村の領主代理であるローラン・ヴァッラ男爵から勧められた。ラバン村から帰ってきたペトラルカは顔色が悪く、悪夢にうなされ目覚めたばかりのような憂鬱な表情をしていた。そんなペトラルカをヴァッラ卿が気を使ったのだ。その丘は、最近めっきり行くことが少なくなったヴァッラ卿のお気に入りの場所であった。朝の礼拝を終えた後、一息ついたペトラルカはヴァッラ卿の勧めに従って丘に登ってみることにした。路の入口は人家の影になっていて、村人以外の人間はまず気付くことはない。
「おそらく、この路は村の者しか知らないだろう」ペトラルカはそんなことを考えながら丘に登る路を歩きはじめた。見晴らしの良い丘へ行くと教えられた路は、背丈と同じ高さがある笹薮の歓迎からはじまった。視界が遮られ、このまま永遠に笹薮が続くのではないかと思わせるほどの熱烈な歓迎ぶりだった。歩きはじめて一刻(一刻は約十五分)ほどで笹藪の歓迎は終り、突然視界が開けた。圧迫されていた空が束縛から開放され弾けたように広がっていく。開けた視野に村全体と一面の稲穂が飛び込んできた。麦穂でないことに違和感を感じたペトラルカではあったが、碧色の絨毯に金色の稲穂が彩色を施し、それが風が通る度、風向きを知らせるように、その彼らの振る舞いは一糸乱れぬ軍隊のようにゆらゆら揺れている。
「まるで、湖に黄金を浮かべているようだ……」ペトラルカは飽きることなく、生まれては消える金色の稲穂の波を眺めていた。牧歌的な風景は時間の流れを感じさせない。さらに肌に優しく撫でていく緩やかな風が体を包む。それらが心を和ませてくれる。特に一昨日のような地獄を目の当たりにした後には、その効果は絶大だ。ゆっくり息を吐く。あの惨劇で重たくなった憂鬱が吐く息と共に体の中から抜けていくのが実感できる。気持ちも体も軽くなっていく。ペトラルカはヴァッラ卿に対して心の中で感謝した。気持ち良さを運んでくる風を追って、ペトラルカが視線を金色の絨毯から丘の頂上へと向けた時、人影らしきものが目に入った。よく目を凝らすと……誰かが、丘の頂上にいるようだ。
ペトラルカは自分以外の人間がこの場所にいることが意外だった。しかし、よく考えてみれば、村人がいてもおかしくない。また親衛隊や近衛隊の者がヴァッラ卿や村人に教えられて、この丘を歩いていても不思議ではない。眼下に広がる景色を眺めているうちに、ペトラルカは何故だか自分以外の人間が消えてしまったように思っていた。まるで大海に浮かんでいる孤島で一人、海を見ているような気分に浸っていたのだった。それは昨日の惨劇からの逃避であったのは確かだった。ペトラルカがさらに目を凝らすと、その人影は板切れを持って、そこに何か書き込んでいるようだ。
「画でも描いているのか……まさかな」ペトラルカは思い浮かんだ考えを、少し間を置いて否定した。画は鑑賞するのは大貴族や公王一族の特権である。ましてや画を描くなど趣味として、この国では認識されていない。画を描くということは、刀に火を入れること同じ、職人の領域なのだ。どこかの画廊工房に入り、初めてそこで本格的に画を描くことを覚える。そして工房を辞める時、大貴族や公王一族のお抱え画師になる以外は筆を置いてしまう。それが一般的な慣習であり、金銭価値のない画を描くことなど、そんな発想など誰も持ちえていなかった。しかしそんなペトラルカの習慣化された考えはあっさり否定された。頂上で座りこんでいる人影は遠目に見ても明らかにカンバスに筆を走らせていた。
「変わった趣味をしているな……」ペトラルカは珍しいものを見る目でその人物を見た。しかし顔までは判らない。その人物を確認しようとゆっくりとした足取りで歩き出し、人の顔が確認できる処まできた時、動揺にも似た驚きを感じた。
「……シモーネ・マルティニ侯」栗色の髪を持つ横顔は、今回の「フェンリル狩り」に参加している、この公国で最強の剣士の称号を持つ「混血」の少年の横顔だった。
「混血」……吸血鬼と人の交わりによって生まれた吸血鬼と人の両方の血を受け継ぐ者。トゥッリタ公国が信仰する教えでは「人」として認識されているが、異国では少しでも妖魔の血を受け継ぐ者は妖魔の一族として扱われている。
「妖魔の血を継ぐ者には死を!」ある意味それは必然である。種としての生命体は少しでも強い生命体を子孫に残そうとするが、個々の生命体は自分の子孫を残すためにあらゆる手を尽くす。この場合、自分たちの子孫を残すには自分より強いものを排除する以外方法はない。そして、それを正当化する大儀名文も存在する。「妖魔は悪魔の手先である。その血を引き継ぐ者は悪魔の一族でもある」混血と判った者は弁明する余地すら与えられず、首を刎ねられた。混血は生まれてきたこと自体が罪悪でしかない。ペトラルカには異国異教の人々が真実を見ようとしない態度を嘆かずにはいられなかった。
「なんと心の狭い人たちなのだろう」と。「混血は人」なのだ。彼らは人を愛するということを知っている。これは妖魔や悪魔にはない感情だ。「人を愛する」という心を持つ者を、その存在ゆえに殺める。その心がペトラルカには理解できなかった。
「妖魔の血に苦しむ混血は救うべき魂の持ち主である」と考える方が理にかなっている。僧会の教えに従って、ペトラルカは公国の皆と同じように考えていた。
シモーネは、ペトラルカの姿に気付くと、手にしていたカンバスをそっと置いて立ち上がった。
「長子さま、何か御用ですか」
シモーネはぺトラルカに問い掛けた。ペトラルカは苦笑いをしながら右手を振って、
「失礼しました……画の邪魔をしたようようですね」
両手を使ってシモーネに腰を下ろすように示めした。
「失礼します」
シモーネは腰を下ろした。
「自分のことは気にしないで、画は続けてくれませんか」
ペトラルカの言葉に、シモーネは何も言わず黙って頷き足許に置いたカンパスを抱きかかえ筆を取った。その時にはもうペトラルカのことは視界から消えていた。目の前に広がる世界に惹きつけられ、シモーネの目には他のものが見えなくなっていた。
「剣を持っている時より眼が鋭いな……」ペトラルカはそんな表情を見せるシモーネを初めて見た。シモーネはどこか冷めたところがあると、ペトラルカはいつも感じていた。最初の頃は剣を極めた猛者の独特の雰囲気かと思っていたが、最近はその考えは間違っていると思えるようになっていた。時折見せるシモーネの冷めた表情。その瞳には「生きている」という言葉が見当たらなかったのだ。
「世捨て人」ペトラルカはシモーネをそんな風に見ていたのだった。そんなシモーネが「画を描く」いう珍しい趣味に対して真剣な目をしている。ペトラルカには驚きでしかなかった。
ペトラルカはシモーネが描き出す画を肩越しに眺めた。画心のないペトラルカには画の良し悪しは判断が付かないものの、目の前にある風景を切り取りカンバスに貼り付けたような細密な画の繊細さを感じることはできた。柔らかい線がいくつも重なっている。ペトラルカはこの繊細で柔らかい線がシモーネ本来の性格のように思えた。
「上手いものですね……」
率直にペトラルカは感想を述べ、その後に続けようとした自分の言葉を口の中で遮った。シモーネには画師としての腕を発揮する機会は永遠にありえない。混血は公王直属の近衛隊として剣を握るか、もしくはボマルツォの森で「森の人」との交易で生計を立てるのが、公国が建国されてからの慣わしだった。それ以外の職に就くことは決してない。
ペトラルカはシモーネの腕が画廊工房で発揮できないことを残念だと思い、そして至極当然の事だと思った。そのことについて何の疑問を持つことはない。慣習というものはそういうものなのだ。
シモーネはペトラルカの考えていることを、その表情の動きで読み取った。シモーネにとって画を描くことは何時間続けても飽きるこのない魔法の泉のようなもの。もちろん、どこか画廊工房に入り大きな画を手掛けたいという夢もある。このトゥッリタ公国では、僧侶など権力に直接結びつく職業以外は基本的に自由である。それでも混血たちは自分たちが人の社会に受け入れられてから続いている慣習に従っていた。「社会習慣に逆らうわけにはいかない」と混血たちは考えていた。混血がいくらこの社会で「人」として扱われていても、妖魔の血が流れている事実に変わりはない。社会習慣を破り、社会の列からはみ出すことを恐れたのだ。混血であるが故に、そういったことに敏感になっていた。忌まわしい呪いに縛られた「血」を受け入れる以外「人」として生きていく術はない。それが混血が妖魔としてではなく「人」として人の社会に受け入れて貰うために選んだ答えだった。
シモーネは、自分の血に関係なく、自分の運命に画師になることはないと信じ込んでいた。逆に言えば、そう考えないと、自分がアリギエーリ卿の描く地獄画のように光の届かない地獄の中でもがき苦しんでいる罪人のように思えてならなかった。「光を求めることなど許されない者たちとの同じ、闇に囚われた咎人だと……」
「ありがとうございます」
シモーネは自分の画が褒められたことに素直に礼を言った。ペトラルカもシモーネが座り込んでいる横に腰を下ろし、目の前に広がる世界を眺めた。隣にいる画描きは相変わらず熱心に筆を動かしている。明日にでも、命懸けでフェンリルと闘うというに、何の緊張感も感じない。ふいに、ペトラルカの脳裏に、ひとりの女性の顔が浮かんだ。「何を考えているんだ!」首を軽く振って、幼さの残るその女性の顔をかき消した。「今はフェンリルとの闘いに集中すべきだ!」彼の生真面目な性格が許さず、無理にでもそのことに集中しようとした。金色の波打つ海を縁どる黒い影が見える。そこはボマルツォの森といわれる悪魔や妖魔たちが棲む人智の通用しない世界。
ぺトラルカはラバンの少年のことを思い出した。フェンリルに、奴に殺された人たちの無念さはもちろんのこと、残された人の悲しさを思うと是が非でもフェンリルを討ち、彼らの無念さを晴らしたいものだ。無論、自分に課せられた使命を全うし、親衛隊や僧会、強いては神へ貢献したいという気持ちや純粋に正義を守りたい気持ちもある。その影に隠れて、枢機卿の言葉が自分のプライドをくすぐるように耳の奥で響いている。さらにその奥底には名誉を欲する心も見え隠れしていた。いくつもの思いが自分の背中を押しているようだ。少し身体が震えた。ぺトラルカは奥歯を噛み締めながら、それを武者震いだと信じたかった。
僧会の最高機関である枢機院の事務局から今回の妖魔狩りの部隊編成が発令された時、ペトラルカはその内容を見て驚きを隠せなかった。伝説となった剣の達人であるモントルイユ候の子女、救国の英雄ノヴィス公とその弟マルティニ候の名があり、剣豪で知られるシャレット候の名があったのだ。公国でも最強と誉れ高い三剣士だ。そんな剣士たちのいる隊の長子に自分の名が記されていたのだ。最初は同姓同名の他人だと思ったくらい信じられなかった。大抜擢だともいってよい人事である。通常親衛隊では、剣士として十年、副隊長である次子として十年の経験を経て、はじめて長子として隊を預かるものなのだ。ペトラルカはまだ二十二歳になったばかりの青年であった。親衛隊の剣士を目指すべく、僧会の門を叩いたのは十二歳時だった。元々、ペトラルカは異例の速さで次子に任命されていた。今回はさらに特例ともいえる若さで長子として任命されたのだった。ペトラルカはこの任命には正直戸惑った。ここ数年、次子として親衛隊の長子を支えてきた。完璧の言葉には程遠いが、自分なりに務めあげてきたつもりでいた。それが高く評価されていたとは全く思ってもみなかったのだ。次子としての任を命じられた時、自分には過ぎるほど評価を受けていると感じていた。その次子を務めた経験から、自分は人の上に立つ器などないと感じていたし、他者もそう思っていると考えていた。
そんなペトラルカに、僧会の首席枢機卿であり、長老会の長でもあるボナパルト猊下に自分がどのような理由で長子に任じられたのか、直接尋ねる機会を得ることがあった。ボナパルト猊下の部屋は僧会の総本山であるサンピエール教会の一室にある。礼拝堂から懺悔室の前を通り、中庭を抜けるとすぐにボナパルト猊下の部屋になる。ペトラルカは緊張しながら、そのドアを四回叩いた。
「入りたまえ」
「フランチェスコ・ペトラルカ、入ります」
初めて入ったボナパルト猊下の部屋は、権力者が好むような華美な装飾品はなく質素なたたずみをしていた。初老といわれる年齢に達していた部屋の主は、ルーぺの位置を微妙に調整しながら読書をしていた。部屋に入ってきたペトラルカの姿を見て「おっ」と小さく声をあげた後、読んでいたページに栞を挟んで本を閉じた。ペトラルカは僧会の頂きに立つボナパルト猊下とは今までに何度も会っているのだが、何度会っても緊張するものらしい。汗ばんだ手を何度も握り直した。
「ボナパルト猊下、突然の訪問をお許し下さい」
ペトラルカは腰から直角に体を曲げた。
「いや構わんよ。それで、今日はどうしたのかね」
猊下は突然の訪問者を快く迎えた。
「はい。このたび新規に編成された部隊について、お伺いしたいことがございます」
「ペトラルカ卿、そなたが何を聞きたいのかは大体解っているつもりでおるが、やはり長子の任を命じられたことか」
「ご察しの通りでございます、猊下。長子の任を命じられた事、この身には過分な名誉と存じております。しかしながら、下名にはあまりにも重過ぎる任であると愚考いたします。つきましては長子の任について、ご再考をお願いにあがった次第です」
ペトラルカの具申をボナパルト猊下は目を閉じて聞いていた。
「そうか……」
溜息混じりに呟くと、ボナパルト猊下は目を開けペトラルカを見据えた。
「卿には重いのか……、ペトラルカ卿。そなたは自分を過小評価しておる。今回狩る妖魔の名を知っておるか」
「いいえ、存じておりません」
「フェンリルという名を訊いたことがあるか」
ペトラルカは黙って頷いた。悪名高い凶悪な妖魔の名であった。
「きゃつを狩るには、そなたの力が必要だと上席枢機卿たち、何より長老たちが認めておる。それにペトラルカ卿。そなたを長子にと望む同士も多い。その期待に応えてはどうかね」
ボナパルト猊下の言葉はペトラルカにとって嬉しくなかったわけがない。が、まだ心の中で何かが引っかかていた。そう自信という言葉が足りなかった。親衛隊の長子になるということは、人の命を預かることである。自分の判断で何人もの仲間を死地に追いやってしまうことがあるということを意味している。それが純粋に恐いのだ。妖魔狩りには死がつきまとう。そのようなことは親衛隊に入隊した時から解っている。長子からのどのような命令であっても、たとえ死を意味するような命令であっても、神への忠義を貫く為に従うことはできる。だがその逆の立場となると、自分には死を意味するような命令を出す勇気がない。命令を受ける側に死を覚悟する意思があっても、自分には命令を下すことはできそうにはなかった。そう思う一方で、ペトラルカは自分が弱く卑怯な気がした。「嫌なことはすべて他人に押付けているのではないか……」と。誰だって自分の仲間を死に直面するような命令を出したくはない。だが誰かがそれをしなければ、妖魔と闘えないのも現実だ。そのペトラルカの迷いを見透かしたようにボナパルト猊下が語気を強め言い放った。
「ペトラルカ卿。今回の妖魔狩りはそなたにしかできぬと長老たちは考え、長子に任じるのじゃ。しかも満場一致でな。きゃつを狩れるのはそなたしかおらぬ。他には任せられぬことじゃ。それでまだそなたは何を迷う」
「自分にしかできぬこと……」ペトラルカはガンと頭を殴られたような顔をした後、足許を見るように頭を下げた。
「猊下にそのような言葉を頂き、感に堪えません。長子の任は我が命ある限り尽くさせて頂きます」
ボナパルト猊下の言葉がペトラルカの迷いを吹き払った。自分を特別だとそう思わせるボナパルト猊下の言葉の誘惑に、ペトラルカは自尊心をくすぐられたのだ。ボナパルト猊下は親衛隊として剣を振ることの誇りを利用し、ペトラルカをのせたのだ。長子としての才能がペトラルカにあるかどうかまでは、猊下自身は判らなかったが……
ペトラルカはボナパルト猊下の部屋を出ると、ぐっと握り拳をつくった。「全力で駈けるだけだ。結果はついてくる」そう思いながらペトラルカはボナパルト猊下の言葉が自分を奮い立てているのを自覚した。ペトラルカは剣を抜いて自分の顔を映した。今、自分がどんな顔をしているのか知りたかった。つい先程の決意とは裏腹に、不安な顔をした自分が写しだされる。
「何とも情けない顔だな……」こんな顔は自分に命を預けてくれる剣士たちには見せられない。ぐっと奥歯を噛み締めた。すると、さっきまで自分が見ていた情けない顔が少し引き締まった。
「さっきよりましか……」ペトラルカは何度も奥歯を噛み締めた。何度も奥歯を噛み締めているうち、少し血の味がした。鉄を舐めたような血の味が口の中で広がった時、自分の弱さを克服した気になった。それからペトラルカは弱気になると奥歯を噛む癖がついたのだった。
「長子さま。まだ、ここにおられますか」
シモーネは画の道具を片付けはじめた手を止め、ペトラルカに尋ねた。色々なことを思い耽っていたペトラルカは、シモーネの言葉で我に返った。シモーネの方に何気なく振り返る。筆やパレットの画具をふき取った布巾についた黄色の画具の多さが、ペトラルカの目に止まった。あの金色出すのに苦労しただろうな……と思いながら、ペトラルカは首を二度ほど振り答えた。
「お手伝いします」
ペトラルカはシモーネの後ろに置いてあった画の具箱を手に取った。
「あっ。長子さま、申し訳ありません」
シモーネが慌てながらペトラルカから画の具箱を受け取ろうとしたが、既にペトラルカは画の具箱の差し木を外していた。そしてシモーネに向かって手を伸ばし、筆やパレットを手渡すように手と目で催促した。シモーネは驚いたような顔をして、
「はい。少しお持ちください」
慌てて筆とパレットを布巾できれいに拭き、ペトラルカに手渡した。画の具箱は、筆、パレット、画具の置く場所がひと目で判るように創られている為、ペトラルカは迷うことなく画の具をしまうことができた。パチンと差し木をはめ画の具箱を閉めると、それが当然のように、ペトラルカは画の具箱を持って立ち上がった。
「ありがとうございます」
シモーネはもう一度深々と頭を下げて、ペトラルカから画の具箱を受け取ろうとした。しかし手を差し伸ばされたペトラルカにはシモーネが何をしようとしているのか解らなかった。シモーネが申し訳なさそうな顔をしながら、再びペトラルカの手元に腕を伸ばした時、ペトラルカはその意味を知った。ペトラルカからしてみれば気にするようなことでもないのだが、当人にはそういう訳にはいかないようだ。シモーネの目には明らかに困惑の色があった。「あまり他人に気を使わせるのは気が引けるな……」ペトラルカは黙ってシモーネに画の具箱を渡した。シモーネは画の具箱とカンバスを抱え、ペトラルカの横に並ぶように歩きながらポルトの丘を下りはじめた。ペトラルカが登ってきた路とは違う路だった。その路もペトラルカが丘を登ってきた路と同じように、訪問者を背の高い笹薮で熱烈な歓迎をしていた。ペトラルカはシモーネを見た。シモーネが何の躊躇もなくこの路を歩いているところを見ると、この路から丘に登ったようだ。
「この路は、村の人に訊いたのですか」
ペトラルカは足を止めず、顔を少しシモーネに向けた。
「いいえ、違います。村を散策している時にみつけました」
それからは特に会話することもなく、二人には黙々と歩いた。一刻ほど歩いたところで笹薮の熱烈な歓迎が終り、家畜小屋の裏手に出た。鵞鳥や豚の鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。その時急に、ペトラルカの心に少年のような好奇心が芽生えた。ペトラルカはシモーネがどうやって丘へ続くこの路を知ったのか知りたくなった。シモーネが家畜小屋のまわりを散策する姿は、妙に不釣合いで滑稽に思えたのだ。
「ここで、この路を見つけたのですか」
家畜小屋の裏手に見える路を指しながらペトラルカはシモーネに尋ねた。
「はい」
何の気兼ねもなくシモーネが答えた。それが思いもかけず、それがペトラルカの笑いの琴線に触れた。お腹の底から笑いが込み上げてきたのだ。笑うのはさすがに失礼だと思い、笑いを堪えたが……頬引きつってしまう。そんなペトラルカの顔を、シモーネは不思議そうな目で見たのだった。ペトラルカが笑いを堪え、悶え苦しんでいると、それを非難するような人の視線を感じた。人を射る鋭いものだった。ペトラルカが周りを見回すと、一人の女性が家畜小屋へ向かう路と村を貫く路の交差から自分たちを見ていたのだ。立ち姿の良さは剣士であることを思わせたが、腰まである柔らかくウェーブした長い髪はとても剣士とは思えなかった。長く赤味を帯びた髪が肌にわずかに感じる風の動きに合わせてゆらゆら揺れている。遠目ではっきりと判らないが、その女性は「フェンリル狩り」に参加している混血の女性剣士、イレーヌ・ダンヴェール伯ようだ。
「ダンヴェール伯じゃないですか」
ふだんは束ねている髪を解いていた所為か、すぐにイレーヌとは見分けがつかなかった。
「そのようですね」
ペトラルカの言葉に、シモーネは興味なさそうに答えた。
「候と伯とは確か……」
ペトラルカは二人が同じ村の出であることを言いかけて、慌てて言葉を遮った。シモーネの顔があからさまにイレーヌの話題を避けたがっていたのだ。その時、ペトラルカは自分の失態に気付いた。シモーネと今回の「フェンリル狩り」に参加しているシモーネの姉ラウラとイレーヌは同じスーヴニール村出身で、三人はいわゆる幼馴染という関係だった。その幼い関係は、三人がシモーネとラウラの母親、モントルイユ候から剣の手解きを受けはじめた頃に変わった。イレーヌがシモーネを男だと意識しはじめたのだ。自然とイレーヌはシモーネの傍らにいるようになった。混血であることを除けば、どこにでもあるありふれた恋の話であった。しかし、そのありふれた恋の物語はある事件をきっかけに終わってしまう。シモーネとラウラの母、モントルイユ候が吸血鬼の牙に掛ったのだ。吸血鬼は捕り逃がした為、どの吸血鬼の牙にやられたかは判らずじまいだったが、当時最強の冠を手にしていたモントルイユ候を牙に掛けるほどの大物だ。当時はかなり吸血鬼の事件には過敏になったそうだ。そしてラウラが吸血鬼の毒に犯され吸血鬼へ転化する前に、母親の首を刎ねたのだった。それからまるでラウラとシモーネの姉弟は他人の目を逃れるように人との接触を避けだした。誰の例外もなく……二人の幼馴染であるイレーヌさえ、彼らは避けたのだ。三人の関係は崩れた。モントルイユ候亡き後、イレーヌがラウラとシモーネの姉弟とまともに口を聞いているのを見た者などいない。
今回の妖魔狩りでも、そのことを考慮に入れて、ペトラルカは二人を別々の任に命じていた。彼らに別々の任を与えた張本人がそのことを失念していたのだから、あまりに情けない話である。ペトラルカは自分の無神経な言葉を恨んだものの、それを取り繕う言い訳はしなかった。そんな事をしてもシモーネの不快感を煽ることしかならない。その位の事はわきまえていた。
イレーヌは二人と視線と目が合うと、ペトラルカだけに向かって会釈をしただけで、すぐに踵を返して走り出した。ペトラルカは顔を動かさず横目でシモーネの顔を盗み見た。シモーネは顔を伏せぎみにして、イレーヌの姿を意図的に見ないようにしていた。「今でも関係は良くないのか……」そう思いながらペトラルカは、何も気付かない振りをして歩き出した。
夕刻、フェンリルが棲むといわれているボマルツォの森、その奥にあるシエルに、フェンリルの存在の真偽を確かめに出ていた斥侯部隊が引き上げてきた。斥侯した部隊はボマルツォの森に棲む 「森の人」と言われている大人でも三ピエ(一ピエは約三十センチメートル)にも満たない小人の一族、ルタンと混血の剣士で構成されていた。
森の人は青い血を持ち、吸血鬼や今回のフェンリルのような例外はあるものの妖魔に襲われることがない不思議な力を持つ。森の人が妖魔であるか人であるか実際のところ判ってはいない。森の人自身も「ある日気付いたら自分がいた」と言って自分の出生や過去のことを語らないからだ。もしかして彼らが言うように、本当に語れないのかもしれない。森の人は公国の建国以前から、森の近くに住む人たちに吸血鬼やフェンリルのような凶悪な妖魔の出現した時や森の変化、異常などを事前に知らせ、人の社会に大きく貢献をしていた。また混血たちの交易の相手でもあり、同時にボマルツォの森での混血たちの安全確保の情報提供者でもあった。公国が宗主国を打ち倒し、一国として繁栄できたのはボマルツォの森の恩恵があっての事。それを支えたのは混血たちの能力もさることながら森の人の存在があってもことだ。今回のフェンリルの発見しても、森の人の力が大きかった。もし事前に森の人からフェンリルが現れたと聞かされていなければ、フェンリルの存在を知るまでに多大な被害を被っていただろう。
今斥侯部隊が帰還したということは、フェンリルの居場所を突き止めたことを意味している。ポルト村に緊張が走る。のどかな農村には似合わない殺気だった空気が覆った。
今回の「フェンリル狩り」に編成された部隊は、長子にペトラルカ子爵、次子にはブルーノ子爵、近衛隊所属の剣士、即ち混血の剣士が十一名、五十二名の親衛隊の剣士、「剛力」いわれる奴隷が十三名、あと森の人が三名。計八十一名という稀に見る大部隊で編成されていた。親衛隊の剣士たちはみな爵位を持つ貴族ではあるものの、例外なく、土地を持つことができない名ばかりの貧乏貴族の出身者ばかりだった。もし剣士として名を上げることができたなら、ヴァッラ男爵のように領主であるポンポナッツィ伯から信頼を得て領主代行として安定した生活を保障されることもある。ヴァッラ卿は今でこそ老齢と言われる年齢になり足も萎え、剣士としての面影は感じることはないが、若い頃は親衛隊の剣士、特にモントルイユ候付きの剣士として腕を鳴らした。現在の地位は、その時の功績が認められたものであった。
領主には妖魔狩りの部隊が領内にいる時、その補給や宿を提供する義務がある。しかし領地を持つような貴族が自ら手を動かすことはなく、領主代行に任せているのが通例であり、その領主代行でさえ、事務的な仕事ゆえに仕事のすべてを執事に押付けてしまうのが常であった。今回も例外に漏れず、領主より妖魔狩りの補給の任を領主代行に委譲された。代行を任されたヴァッラ卿は、他の領主代行と違い自ら先頭に立ち補給や連絡業務を執り行っていた。ペトラルカたちがポルト村に入った時も、ヴァッラ卿自身かれらを出迎えたのだった。領主代行がわざわざ足を運ぶことはほとんどなく、出迎えられたペトラルカたちを珍しがらせた。ペトラルカはヴァッラ卿と言葉を交わすうちに、男爵が剣士や剛力を見る目には、懐かしさ、哀しさ、喜び、誇りなど様々な感情を帯びていることに気付いた。彼は今でも剣士なのだ。ペトラルカはヴァッラ卿の珍しい行動が理解できた。そして自分も老いた時、ヴァッラ卿のように親衛隊であったことを誇りに思える日がくることを胸に思いながら老いた男爵を見ていたのだった。
陽が暮れるとともに、ポルトの領主であるポンポナッツィ伯爵の本邸大広間に「フェンリル狩り」に参加する全ての剣士と奴隷の剛力、斥侯を専門にしている部隊が集まり、会席用のテーブルを囲んだ。上座に、隊の長子であるペトラルカと次子であるブルーノ卿が座り、上座から順に隊の序列に従って座っていた。椅子がない者や奴隷の剛力は立ったままになる。ペトラルカに一番近い席に座っているのは、公国を代表する三剣士と名高い、ラウラ、シモーネの姉弟とシャレット候だった。
斥侯部隊の長子がペトラルカたちの事前に知っている情報を含め、あらゆる情報を確認しながらシエルまでのルートを報告した。些細な事まで互いに納得するまで確認しあう為、まどろっこしいくらい話がすすまなかった。しかし誰一人として、その会話を聞き逃すまいと耳を傾けていた。また誰かから質問があると、斥侯部隊からの報告は中断され、その事について各自納得するまで検討した。ボマルツォの森に入ることは、人の世界とは全く異なる世界に入ることを意味する。ましてや悪魔の巣窟に入るのだ。彼らが敏感になるのはごく自然なこと、誰も不注意なミスで死にたくはない。ルート周辺の知りうる限りの情報が絞りだされた。その要点を確認するように、ペトラルカが地図を指さしながら再び説明をはじめた。
「<Forêt de Bomarzo>(ボマルツォの森)へは、日の出後半鐘のち <Entrée>(アントレ)から入り、そのまま <Côte de la Colline> (コリーヌの丘)を抜け <Ciel>(シエル)に入る。最終確認地点は < Vallée> (ヴァリ)。シエルまでの距離は約三リュー、三鐘で乗り切って貰う。森の人に道先案内をしてもらえるが、この周辺に棲む森の人はフェンリルに殺され一人もいない。よって荷をすべて持っていく。また撤収ルートは……我々が無事であれば、来た路、コリーヌを通って森を出る。途中、強制解散した場合、他の撤収ルートは <Côte de Plateau> (プラトーの丘)を通る路のみ。森を抜けるまでの距離は約三リュー半。このルートにも森の人はいない。尚、コリーヌとプラトーの丘は <一つ目兎> の巣である。各自、出血には気をつけること。また出血があった場合、速やかに止血を行うこと。フェンリル以外にも牙を剥くものがいることは忘れるな」
各自小さく頷いた。ただ「止血」とペトラルカが言った時、何人かは皮肉な笑みをこぼした。
一つ目兎という妖魔は外見が兎に似ていることからこの名がついた小型の妖魔で、その名の通り目はひとつしかなく、本物の兎と違い肉食である。血の臭いに敏感であり、少しでも出血していると、あっという間に百匹以上集まってくる。そして奴らに少しでも隙や弱みを見せると一斉に襲いかかってくるのである。一つ目兎は一匹では決して強くはないが、百単位の数で襲われると、さすがに太刀打ちできない。生きたまま一つ目兎の餌食となってしまうのだ。今までに弱そうな外見に騙され餌食になった者はかなりの数にのぼっている。
また止血には森の人から手に入れた薬を使う。止血剤としては抜群の効果を誇る塗薬である。しかし良薬口に苦しの如く、激しい痛みを伴う薬でもある。それも生半可な痛みではない。怪我人の何割かはこの薬の所為でショック死したと真実めいた噂があるほどだ。血の臭いは一つ目兎だけでなく、他の妖魔を呼び込んでしまう可能性がある。吸血鬼などを呼び込んでしまうと、フェンリルと闘う前に隊が壊滅状態になっていることもありえるのだ。できることなら森の人印の止血剤は使用したくないのが本音だが、他に代用品がない以上、この劇薬を使わざる負えないのである。
ペトラルカが会議に出席している隊員を見まわしながらゆっくり息を吐き、
「隊の移動について、シエルまでの往復路の警備をミラボー伯、副にアンヴェール伯。強制解散の独立部隊の指揮をアンヴェール伯に全権委任する。副はミラボー伯が就く。何か質問は?」
何人からか質問があった。一度説明したことを繰り返すような質問もあったが、ペトラルカは嫌な顔ひとつせず質問に答えた。彼らは不安なのだ。ペトラルカは少しでも隊員の不安を取り除きたかった。そして自分に対しても。
休む間もなく、ペトラルカたちの話がシエルまでの行程の事からフェンリルとの闘いに移った。
混血と小隊を組む近衛隊の剣士は、混血の剣に合わせた動きを身体に覚え込ませるべく、三ヶ月以上激しい訓練をつんでいる。またフェンリルに対してどのように闘うかは、混血の意見が優先されながら既に検討されていた。この事項もシエルまでの行程についての説明と同様に、ペトラルカが最終確認の意味を込めて再度説明を行った。隊の構成は、長子を頂点に次子は副官の役割を負い、実戦部隊には混血を中心とした一小隊五名の隊を八編成し、各小隊に一名剛力がつく。また十一名の混血のうち二名はフェンリル以外の妖魔に対する警戒とシエルまでの行程の警護および強制解散時の為に、可能な限りフェンリルとの闘いには参戦しない。補給専門部隊の一名も極力戦闘には参加しない。ちなみに何度も話されているされている「強制解散」という言葉は、妖魔狩りで使われる独特の言葉で、「隊の任務を放棄して、速やかに戦場から撤収し森を出ろ」という意味で、剣士以外の者、今回はでは森の人と剛力、そして負傷した剣士に対して使われる言葉である。妖魔狩りには森の人や非戦闘員である剛力を連れていく。森の人は当然のこととして、剛力の身分は奴隷ではあるものの、彼らを妖魔との闘いで死を強要することや負傷者を守れぬことは、親衛隊にとって最も恥ずべきことであり、剣士として名折れ以外何ものでもない。
息をつく暇もなく、全体のフォーメーションの説明がなされた。先行は、ラウラ、シモーネの姉弟が割り当てられた。彼らの剣は受け止めることより受け流すことに秀でている為、剛力たち非戦闘員の近くに配置することはできない。非戦闘員への危険は少しでも回避されるべきである。そして何よりこの姉弟の剣に適う者はトゥッリタ公国にはいない。公国最強の剣士として、それに見合った危険を負うのは当然であろう。また両サイドに配置される小隊にはルー伯やブリッソー伯をじめとする剣が立つ者ばかり選ばれている。親衛隊最精鋭部隊といっても過言ではない人選である。先行する二部隊と両サイドに展開する二部隊の後方に、四小隊が横一列に並び、先行隊のサポートにまわる。右側面にはデムーラン子爵。左側面にはバルナーヴ男爵。特に中央には、剣豪として名のあるシャレット候と力で押す剣を得意とするカリエ伯が配置されている。非戦闘員を力ずくで守ろうという意図が見て取れる。特にシャレット候は多くの戦場や妖魔狩りで功を立てた剣の使い手として知られている。相手の剣ごと叩き斬る鉄の塊のような剣はあまりに有名だ。
そのシャレット候を模擬戦で破ったのは二人しかない。一人はシモーネ。この時、シャレット候は先を制して攻撃にでたが、自慢の分厚い剣を紙のように薄い刃の剣であっさり受け流され、振り返った時にはシモーネの剣が頸筋にあった。シモーネにその気があれば頸の動脈血を斬られていた。格の違いを見せつけられた敗北だった。
そして、もう一人、敗北を帰したのがラウラだった。初撃必殺の剣。互いの剣が重なった瞬間、剣の実力では僅かにラウラより勝っていると感じ取ったシャレット候だが、間じかに迫るラウラの顔が過去に自分の愛した女性にあまりに似ていた為、蘇った過去の思いに一瞬剣が鈍った。剣を交えた瞬間、ラウラは自分の敗北を悟った。やはり彼女も一流の剣士である。相手の技量を見極めるのも長けている。相手の剣を引き寄せて流すことはできないと認めた。シャレット候が後少し剣に力を込めていたなら、ラウラは剣を下ろしていただろう。突然シャレット候の剣の力が緩んだ。ラウラは相手の一瞬の隙を見逃すことはなかった。この一瞬の躊躇がシャレット候の命取りとなってしまった。目の前に突きつけられた剣の前に、思わず苦笑いをしながら兜を脱ぎ剣を下ろした。思わぬ過去の恋心に負けてしまったのだった。
ラウラ、シモーネの姉弟は、公国最強の剣豪と言われたシャレット候を破り、事実上最強の冠を不動のものにしたのだった。
ペトラルカは自分の隣にいる混血の女性剣士を誰にも悟られないように盗み見た。見た目にはどこにでもいそうな小柄な少女だ。実年齢はもうこの世にいない曾祖父とたいして変わらない年齢のはずだが、混血の血は老いを知らない。その為、自分より若く、十六、七歳位にしか見えない。彼女の名は「ラウラ・ド・ノヴィス」爵位は公王家と同じ公爵である。ポルトの丘で画を描いていた、シモーネ・マルティニ侯の実姉でもある。姉と弟で家名が異なるは、爵位を得た時に旧家名である母親の家名「モントルイユ」の名を継げなかったからだ。トゥッリタ公国の往年の慣習として、貴族の名は、ファーストネームに個人名、ミドルネームに氏族名もしくは旧家名、最後に家名となる。今やその形式すら残っておらず、家名の接頭に貴族の称号である「de」につける習慣さえ廃れている状態である。だが家名を引き継ぐことについては、家系を重要視する貴族社会の風潮までは錆びてはいなかった。その最後の慣習も人間であることが前提であり、混血には無縁な慣習であり、そればかりではなく混血は親の家名を継ぐことを禁じられていたのだ。完全な社会的差別構造となっている。トゥッリタ公国では「混血」を「人」として認めているものの、こういった例にみられるように、混血と人の間に一線を引いていたのだった。もちろん多くの人はそんな事には頓着しないが、そういった事は無意識のうちに心の奥底に混血に対しての差別意識を根ずかしてしまうものである。そして差別を受ける側は敏感にそのことを感じとってしまうもの。混血たちも、自分たちが完全に人として社会に受け入れられていないことに気付いていた。それでも自暴自棄に陥ることなく、人が本当に自分たちに世界を開いてくれるのを我慢強く待ち望み、今も待ち続けているのである。一見倫理的に素晴らしい公国の混血への対応だが、一皮剥けばそこの奥底にあるものは心の闇が音を立てず横たわっているものである。
次子のブルーノ卿がフェンリルへの攻撃ポイントを押さえながら各部隊の行動方針を確認している。その一瞬の隙をついて、ペトラルカはもう一度ラウラの顔を盗み見た。幼さを残した容姿は剣の使い手よりどこか垢抜けない田舎娘といった方が良く似合っている。その印象はクレール要塞で初めてペトラルカがラウラを見た時から変わることはない。ペトラルカは思わず破顔してしまうのを引き締めながら、クレール要塞でラウラを初めて会った時のことを思い浮かべた。
四ヶ月前、突然クレール要塞への移動命令がペトラルカに下った。古びた要塞に彼が就く役職などない。新たに編成される隊へ編入する為だと、その意図を理解した。ペトラカの予想通りに、翌日には新規に編成される隊への編入であると告げられ、予想外に隊の長子を任じられたのだった。長子に任じられたことへの不安とそれを上回る使命感に燃え、クレール要塞に着いたその日にペトラルカはラウラと出会ったのだった。
時代の流れに置き忘れられた要塞の礼拝堂には、厳かに行われる儀礼にそぐわない不思議な色を感じる肖像画が掛けられていた。「Portrait de Madam Marie de Montreuil」と題がある。それはモントルイユ候の肖像画だった。クレール要塞はモントルイユ侯が親衛隊の剣士との訓練をするのに好んで使用した要塞として有名であり、礼拝堂にあるモントルイユ候の肖像画は、彼女の死後、彼女を偲んだアリギエーリ卿の画廊工房から贈られたものだった。アリギエーリ卿の筆から考えるとかなり異色の作品であった。
礼拝を済ました後、ペトラルカは親衛隊の剣士であり友人のブルーノ子爵からラウラを紹介されたのだった。その時肖像画に描かれた人物とラウラがあまりに似ていた為、ついラウラの顔をまじまじと見つめてしまった。その視線に気付いたラウラは、少し緊張しながらつくり笑いをして、
「は、は、初めまして、ペトラルカ子爵。ラウラ・ド・ノヴィス、です」
と何とも言えない、ぎこちない挨拶をした。とても公爵と思えるものではなかった。ラウラはほっとしたように溜息をついた後、緊張が解けたようにペトラルカに微笑んだ。その笑顔は、屈託のない、全く邪心を持たない子供のようだった。ペトラルカも頭を垂れ、
「ノヴィス公。お目にかかれて光栄です。下名は、フランチェスコ・ペトラルカと申す者です。今回の隊編成では長子を務めさせて頂きます。まだまだ弱輩者ではありますが、公の剣の名を恥かしめぬよう全力を尽くす所存であります」
と答えた。ノヴィス公はまだ近衛隊の所属であり、ペトラルカの麾下ではない。また爵位は雲上の公爵であり、さらに救国の英雄でもある剣士に礼を失することはあってはいけないと、ペトラルカは深々と頭を下げた。すると、ラウラも慌てて、
「あっ、はい。わ、私のほうこそ、よろしくお願いします」
とペトラルカより深く頭を下げたのだ。こういう時は爵位が上位の者は軽く会釈程度で済ますのが通例であるが、ラウラは宮廷の礼儀には無頓着だった。ペトラルカが顔を上げると、ノヴィス公が自分に向かって爵位の上位者に礼をするように頭を下げていた。ペトラルカもこれにはさすがに驚いた。妖魔狩りでの部隊編成は、宮廷序列でなく剣の実力で順位が決定される事が慣例化している。それは特例中の特例であり、また部隊が編成されている時の限定であった。通常は宮廷序列に従うのだ。「こういう時はどうしたものか……」とペトラルカが困惑しているうちに、ラウラが顔を上げた。ラウラはペトラルカが満面に困惑の色を醸し出しているのを見て、自分が何か失態をしでかしたと気付いた。けれども、何をしたのか解らなかったラウラは俯きがちになり、探るように上目使いにペトラルカを見た。
ペトラルカはラウラが恥ずかしそうに俯き、上目がちにペトラルカを覗う姿を見た時、ラウラが頼りなく儚げなものに見えた。この時ペトラルカはラウラに恋したのかもしれない。ペトラルカは胸を押さえつけられるような痛みを感じた。そして何故か口許がほころんだ。ラウラもペトラルカにつられて微笑んだ。ペトラルカはラウラの笑顔を見て、その笑顔をずっと見ていたいと心から思ったのだった。
形式に通りの挨拶が終わった後、ペトラルカの視線がラウラから外れ、ラウラの後ろにある肖像画に流れた。肖像画の女性もラウラと同じように微笑んでいる。ラウラはペトラルカの視線が何を見ているか確認もせず、
「あれは、母です」
とさっきまで微笑んでいた表情を消して告げた。
「そうだろうな」とペトラルカは心の中で答えた。本当に瓜ふたつだ。双子だと言っても差支えはない。だのに、画の人物と目の前にいる人物の雰囲気が全く異なっている。画の中の女性はどこか妖しく挑発的な気がしてならない。ペトラルカは少し時間をおいて、その理由を突然知った。「瞳」が違うことに。同じ鳶色の瞳なのに、全く違う瞳をしている。もっと正確に描写するのなら、「瞳の輝き」が違うのだ。肖像画の女性の瞳には妖しく艶めかしい輝きがあり、その瞳に見つめられると、すべてを吸い込まれ虜にされそうになる。キャンパスの瞳ですらそう感じるのだ。「もしあの女性を正面にして見詰められたなら、あの瞳の虜になっていたに違いない」とペトラルカは確信できた。同時に自分の不甲斐なさを感じることもなった。
ラウラはペトラルカがあまりにも熱心に母親の肖像画を見るので、
「あのう、母をご存知なのですか」
とペトラルカに尋ねた。
「モントルイユ候は有名ですので」
「いえ、その、生前の母をご存知なのかと……」
ペトラルカはまだ二十二歳になったばかりの若者だ。三十年近く前に故人となった人と面識があるはずがない。ペトラルカは思わず、
「へっ」とも「えっ」とも聞こえる素っ頓狂な声をあげた後、気を取り直して、
「モントルイユ候がお亡くなられた時、下名はまだ生まれておりませんので……」
やや答え難そうにラウラへ言葉を返した。
「あっ。ごめんなさい」
ラウラは自分の時間の感覚で話していた。彼女は永遠ともいえる若さの中で生きている。十年や二十年の年月は、人よりはるかに短いものなのかもしれない。
混血は個人差もあるが、二十歳前後で成長が止まり、人が羨むような最も魅力的に輝く躍動的な時代が続く。そしてその後は……その先を知るものは混血たちを含め誰も知らない。混血で天寿をまっとうした者はいない。言い換えると、天寿をまっとうできた者はいない。つまり混血の運命とはそういうものであった。
失礼なことを言ったと思ったのか、すまなさそうに頭を下げるラウラ。この時それを見たペトラルカは、目の前にいる幼さを残した女性が自分より長く生きていることを実感した。
招集の期日。
招集を受けた近衛隊と親衛隊の剣士、奴隷の剛力が顔を合わした。見知った者も多いらしく、ちょっとした同窓会的な雰囲気があった。その和やかな雰囲気も、長子であるペトラルカが顔を出した時、緊張したピンと張り詰めたものにかわった。ペトラルカは招集された一同の顔を見回した。見知った顔もあれば見知らぬ顔をある。どの顔も緊張した表情は隠せない。ペトラルカは深呼吸をした後、今回の編成について説明をはじめた。今回の倒すべき妖魔の名を告げた時、ざわめきが沸き起こった。特に混血たちはお互いの顔を何度も見合っている。引き続いて発せられたペトラルカの叱咤の言葉がざわめいた空気を引き締めた。隊の編成が告げられると、早速混血の剣士と親衛隊の剣士が剣を交え、パートナーを組む剣士たちの動きや剣の特徴を確認しはじめた。いつ出立が言い渡されるかは誰にも判らない。フェンリルの行動しだいだ。時間は金のように貴重であった。
剣を持った時のラウラは、第一印象で感じた頼りなさなど微塵も感じなかった。頼りなげに話すことは相変わらずだが、パートナーたちに的確な指示を与えている。ペトラルカはラウラの剣を見て不思議なことに気付いた。ラウラは右利きであるはずなのに、剣を持つ時はいつも左半身になっている。剣を振り下ろすなら利き腕が後ろにくる右半身に構える方が、力が入り易すくスピードものる。そんなペトラルカの疑問も、彼女が親衛隊の剣士たちと模擬戦をした時合点がいった。ラウラはほとんど踏ん張らず剣を扱っていた。それは自分を中心に勢いをつけて剣を振るのではなく、相手に合わせて自分の剣をすべるように斬り込ませることを重点に置く剣術だった。また相手の剣を受ける時も剣を振る時と同様に全く踏ん張らず、相手の剣を自分の手許に引き込むようにして、さらりと受け流している。そんな技術的なことを知ってか知らでか、自分の背丈よりはるかに長い剣を操るラウラは、神楽で舞を奉納する娘のように可憐さを追い求めているようだった。ペトラルカはどうしても血生臭い剣とラウラが結びつかなかった。それはラウラの弟でもあるシモーネにも同じことが言えた。彼もまた「モントルイユの剣」を引き継ぐ者。舞を舞うように剣を扱っていた。ラウラのような幼さはなく、芸術的に美しかった。しかし彼の舞はどこか抑圧された重い雰囲気があり、その陰鬱とした影が美しい舞を曇らせていた。何かにもがき苦しんでいる印象を見る者に与えていたのだ。見た目の印象の良さではラウラの方が人目を引いた。
ボマルツォの森の事で意見が飛び交う中、ラウラは人の視線に気付き振り返った。ペトラルカは視線を避ける間もなくラウラと目が合った。
「あのう、長子さま、な、何か」
「明日は夜明け後、ボマルツォに入ります。準備に何か問題はありませんか」
自分の心を読み取られないように、努めて長子として振舞った。
「えっ、は、はい。問題なく、ポルトを出ることができます」
ペトラルカはこの席につく前にそのことを知っていたのだが、咄嗟にそのことが言葉になった。すぐにその質問は自分自身への確認のためでもあると自覚した。その後、二三質問があり、この集まりは解散となった。
ペトラルカとブルーノ卿は最後に大広間を出た。長子と次子ではなく友人として会話をしているうちに、今回の遠征が終わったあと、高級ワインで有名なバルバレスコのワインを飲もうと約束を交わした。何がきっかけにそんな約束をすることになったのかは、部屋に戻る頃には二人とも覚えていなかった。そんなことはどうでもよかった。約束をすることに意味があったのだ。フェンリルを打ち倒すというより、生きて帰るという意味が強かった。一時的なものであったにせよ、ペトラルカは生きて帰還するという強い動機付けを感じながらベッドに横たわった。彼の枕元には、一冊の公文書が無造作に置かれていた。今から百五十年ほど前に行われた「フェンリル狩り」に赴いたルドヴィーコ・アリオスト伯の隊のことを記した公文書である。当時、最速の展開力と最強の破壊力を誇っていたアリオスト隊がフェンリルに挑んだ。
その結果は……全滅。混血十名を含む七十名余りが命を落したのである。ペトラルカはその書を「フェンリル狩り」を命じられた時、真っ先に目を通していたのだった。