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Canzonier du vampire 1

参考資料

ペトラルカとラウラについては Wikipédia Français & Italiano & English を参考にさせて頂きました。

【Prolouge】


「吸血鬼の牙に罹った者は近親の血を求めると言う」それが事実であるか知る者はいない。もしその事を知る者がいるのならば、その者は既に吸血鬼の虜囚である。


  カルンスタイン伯爵夫人についての覚書、ヴォルデンベルグ男爵


【1er Chapitre】


「………」

 まるで言葉が出ない。眼前に広がるのは、思わず顔を背けたくなるような光景だ。ペトラルカは顔を(しか)め眉をひそめた。最早それが人だったとは思えないほどに引き裂かれていた。その遺体は男性だったのか、女性だったのか、もしかして子供だったのだろうか……それすら判別できないほどに。昨日の早朝「ラバン村がフェンリルに襲われた」と聞き、丸一日休むことなく駆けてきたかいあって、夜明け前にはラバン村に着くことができた。山間の静かな村の様子は、ペトラルカが想像していた以上に惨たらしいものだった。

 ラバン村は二十軒足らずの家が身を寄せ合う小さな農村で、ここトゥッリタ公国に於いて、最も優美でかつ男性的な荒々しさを持つモンターニュ山塊を背にしていた。その美しい山塊の背景以外何の特徴のない村でもあった。ラバン村に行くには、モンターニュ山塊に向かう道をすすめば自然と辿り着くことができる。途中スリ村があるくらいで、迷うことなのない一本道だ。ただ丸三日歩かなければならなかったうえに、スリ村からラバン村に至るまでの約二リュー(一リューは約三.九キロメートル)余りは、馬も使えないような険しい山道であった。それが人々の足を遠ざけることになった。山塊の美しい風景を愛でるために汗を流す習慣など、トゥッリタ公国を含め、周辺諸国に至るまで存在しない。ごく稀に風変わりな貴族が夏の避暑地として訪れることがあるくらいで、領主であるポンポナッツィ伯ですらまだ一度も訪れたことのない土地柄だった。

 ペトラルカも美しいモンターニュ山塊の噂は耳にしているのの、山麓の村の事までは知らなかった。そんなペトラルカでも、美しい山々の風景の中で慎ましく生きていた人たちを想像することは容易にできた。この時期、秋の稔りを刈入れることに大忙しだったに違いない。どこの村でも見られる、ありふれた収穫ににぎわう村の風景が見られたはずだ。なのに、今村には人影は見られず、鼻をつく死臭だけが辺りを埋め尽くしていた。

「ラバン村は死んだ」それがペトラルカの第一印象だった。

 ペトラルカはラバン村全体の様子を自分の目で見る為に、村を貫く路を歩いていた。横路に逸れる必要などない。村の家は全てこの路に面している。家々の様子を伺うには、この路を歩くことで充分事足りた。ペトラルカは「フェンリル狩り」の隊長である長子として、フェンリルの情報を少しでも仕入れておきたかった。フェンリルについて、彼が知れ得た情報の多くが、百五十年程昔に書かれた文献と心もとない噂話でしかなかった。どんな些細なことでも構わない。フェンリルの実像を捉えたかった。それは当然な事だった。ペトラルカを含め、誰もフェンリルの実像を正確に捉えている者などいないのだ。

「フェンリル」とは、悪魔の使いである「妖魔」の一種であり、外見は白い大型犬。体の大きさの割に胴体が細いのが特徴だと言えなくもない。吸血鬼以外の妖魔は人の言葉を理解出来ないと言われているが、何事にも例外はある。フェンリルは人の言葉を理解し話すことが出来るらしい。その上、かなりの知能を持つとも伝えられている。また性格はかなり狂暴であり、生きているものであれば何でも喰らってしまうそうだ。特にはらわた腸が好みと噂されており、フェンリルに襲われると内臓がきれいになくなっているそうだ。そして時折思いついたように、人、動物、妖魔を鋭い牙で引きちぎり、肉片にすることがある。まるで情緒不安定な子供が気に入らない人形の手足や首をもぎ取り、人形の詰物を無理やり引き出しているような、そんな殺し方をする。あの凶悪な吸血鬼でさえ餌食になると言われるほどで、その牙の恐ろしさは言うまでもない。フェンリルが行う殺戮を称して「フェンリルの宴」と、殺伐とした内容とはかなり不似合いとも思える名が付けられていた。

 そのフェンリルだが、今から百五十年ほど前に突然姿を消し、そのまま姿を全く見せることはなかった。「吸血鬼に殺された」「ノワールに襲われた」「冥界に帰った」等様々な噂が立ったが、妖魔が棲む「ボマルツォの森」での出来事を正確に知ることは誰も出来なかった。事実、この百五十年フェンリルがどこで何もしていたのか知りえる者はいない。何の前触れもなく突然悪魔の化身は半年ほど前に姿を見せ、百五十年前と同じく、殺戮を愉しむように多くの生命をその牙にかけたのだった。フェンリルはボマルツォの森での殺戮に飽きると、人の社会まで足を踏み入れてきた。フェンリルが宴を愉しむのは妖魔であろうと、人であろうと関係のないのだろう。無論人の社会ではそういったものを排除しようとする。それが今回の「フェンリル狩り」だ。

 妖魔を狩るのはトゥッリタ公国では僧会の領分であり、僧会の親衛隊と公王直属の近衛隊が共同でその任を受けていた。トゥッリタ公国の軍事力は、公国最強部隊の近衛隊、対外を専門とする義勇軍、国内の治安を担当する親衛隊と三分割し統括している。それは国内の勢力図そのものでのあった。近衛隊は公王一族が抑え、義勇とは名ばかりの傭兵で構成された義勇軍は諸侯の代表である貴族院、親衛隊は僧会ときれいに力の分割は隅分けわけされていた。しかし、そう言った力配分が成されているのにも関わらず、戦場では互いに自己の損得勘定と他者との力関係を見ながらイニシアチブを取るため、近衛隊、親衛隊、義勇軍の一部が、それぞれ他の部隊の麾下に入るというような複雑な構図を創り出していた。

 フランチェスコ・ペトラルカは親衛隊に帰属する剣士を生業にしている。ペトラルカの身分は子爵の爵位を持つ貴族であったが、領地を持つことが出来ない、いわゆる貧乏貴族だった。貴族といっても爵位があるだけで、ほとんど農民と変わらない暮らしをしていた。僧会の親衛隊で剣を振るのは貧乏貴族の伝統でもあり、彼らにとって唯一とも言える誇りであった。

 貴族の称号である爵位を持つと、土地を個人所有する権利と領地内で自由に税を課す権利を得、その代価として公国を守る義務を持つ。だが土地を持たぬ貴族ほど惨めなものはない。それは貴族の特権を利用して金銭を稼ぐ手段を持たないこと意味するからだ。そうなると、他身分同様、汗を流して働かなければならなくなる。高い身分の者が低い身分と同じ職に就くことは、まわりから冷ややかな目で見られるものである。そしてどんな職に就こうとも、貴族が公国を守る義務から逃れることはできない。貴族院に名を連ねる諸侯や貴族は傭兵を雇って公国を守ることが一般的で、自らの手を血に染めることは少ない。一方、裕福でない貴族は自分自身の身を捧げ、公国への義務を果たすである。また貧乏貴族が爵位と領地を持つ貴族たちが取り仕切る貴族院配下の義勇軍に入軍しないのは、この貴族院による囲い込みによる略奪の結果だった。トゥッリタ公王は周辺諸国に名を馳せる軍事力を持ってはいたものの実情は砂上の楼閣状態だった。

 通常、戦いがないと貴族は兵役の義務はない。しかしペトラルカのような貧乏貴族の為に、親衛隊の剣士を貴族から雇う制度を設けていた。経済的に恵まれていない貴族の救済が目的であるが、何より親衛隊の剣士は僧会だけでなくトゥッリタ公王一族にとっても非常に利用価値が高いものだった。常備軍であるが故に金喰い虫には違いない。だが妖魔退治させることで兵を遊ばせずに済み、妖魔の被害に苦しむ農村へ救済にもなる。さらに農村へ剣による威圧を救済の名目で行えるのである。また親衛隊の剣士は義勇軍の傭兵のように金銭の契約ではなく、僧会の教えに従い、神への忠義を基本として行動している。その神への信仰への賞賛以外、彼らが手にするものはあまりに少ない。さらに雇い主である僧会の都合の良いことに、神の名を背負い、己の正義を信じ行動する人たちは盲目に戦いに身を投じてしまうようだ。過去の歴史から、苛烈な戦いを行うのは十字軍のような神の名を大義にしたものが多い事から解るだろう。親衛隊が金をいくら積んでも義勇軍が手を出さない妖魔退治をこなし、敵国との戦闘では最も激しい戦場で闘い抜けるのはその為かもしれない。

 ペトラルカは一軒の家の前で足を止めた。玄関の横に立てかけられている二本の(すき)が目に付いたのだ。すぐにでも畑で収穫するものがあるのだろう。鍬の横に背負子もふたつ置かれていた。遠目では判らなかったが、近くに寄って見ると、その鍬の刃は錆び刃先が少し欠けていた。だけどペトラルカには錆びて刃欠けしている鍬が、どんな硬いものであっても簡単に真二つに斬ることができる名刀のような気がした。自分の持っている剣より確実に切れ味は劣るはずなのに、力強さみたいなものがヒシヒシと感じられたのだ。それが自分の思い込みによるものか、それとも本当にその刃は強靭な強さを誇るのか、ペトラルカには判らなかった。ただ言えることは「その鍬は与えられた使命を果たすことができなくなった」ということだ。

「帰らぬ主人の為に、鍬はあのままずっと立ち続けているのだろうか……」ペトラルカにはそれが罪を償う行為のように思えた。ラバン村を貫く路を歩きながら、ペトラルカはセントピエール教会の懺悔部屋に入る扉の横に飾られているアリギエーリ卿の画とラバン村の出来事が重なって見えたのだった。

 アリギエーリ卿は「本物の地獄より残酷な地獄を描く」と言われるほど、地獄画に関しての公国屈指の画廊工房である。こういう画は晩餐を開催するような大広間の壁を彩るには不向きな為、大貴族に一度も仕えたことはないが、筆の実力は国内どころか周辺諸国まで知れ渡る程である。同じ神を奉る国々に招待された回数は両手両足の指を足しても足りないくらいだ。漆黒の闇を基調とした色彩の上に、神の教えに背き、堕落した人の行く末を描いた図柄は、見る者の心の奥底にある、無意識のうちに忘れ去っていた過去の罪を引きずりだし突きつける。そんな力がアリギエーリ卿の画の中には隠されていた。アリギエーリ卿の画は僧会にとって信者を束縛する都合の良い道具のひとつでもあった。アリギエーリ卿の類まれな芸術性がその意図を覆い隠している為、誰も気付くこともなく、多くの信者は僧会の教えに背き地獄に堕ちることへの恐怖を無意識の裡に植え付けられていたのだった。

 ペトラルカは懺悔室の扉の横にあった画を思い出した。ペトラルカは懺悔室で罪の告白は行ったことはなかったが、僧会の枢機卿に会うために懺悔室の前を通ることがあった。その時初めてアリギエーリ卿の画を目にしたのだった。その画には、恐らく地獄であろう暗い闇の中で逃げまとう人間たちを喰い散らかす悪魔が描かれていた。そのおぞましい悪魔の姿は、ペトラルカを不快と嫌悪の中へ容赦なく叩き落とした。暗い闇での出来事を描いた画は、懺悔によって自分の罪に許しを請う者たちに、背徳に心奪われた者の末路を暗示しているのだろうと感じていた。しかし、それ以上にその画から感じる不快感の方がはるかに印象に残っていた。何とも言えない不快感だけが体の中に残り、数日の間、悪魔に下半身をもぎ取られ、断末魔の叫び声をあげている人間の顔がペトラルカの頭から離れなかった。初めてアリギエーリ卿の地獄画を見た時の印象が蘇り、ペトラルカの不快な気分にさらに追い討ちをかけた。それに気を取られた所為か、ペトラルカは自分の足許が水か何かで濡れているのに気付かなかった。何気なく足を動かした時、足の裏に粘りつく感覚を感じて足許に視線を向けるまで、自分が立っている場所の状況に気付かなかった。土に混じり合いよく見ないと分からないが、それは間違いなく人の血だった。ペトラルカはこの村を覆う血の臭いの為、足許の血の臭いに気付かなかった。ペトラルカは血の海の中で立ち尽くす自分を見つけた時、急に自分がアリギエーリ卿の描いた画の中に立っているような錯覚に陥った。しかし現実に起こった悪魔の宴は血生臭いわりには現実感に乏しかった。アリギエーリ卿の画の方が現実味を帯びていた。

 その時、ペトラルカは違和感を覚えた。

「アリギエーリ卿の画と何かが違う……、何かが違う……」

「そうだ。ラバン村の人たちは……」

「なんと愚かな考え違いをしていたのだろう……」ペトラルカは自分が大きく考え違いをしていることに気付いた。自分自身の愚かさに情けなくなり、自虐的な舌打ちをした。「一体、自分は何を見ていたのだろう……、ラバン村の人たちは罪人ではない」ペトラルカはあの画に描かれていた地獄の中で悲鳴をあげ泣き叫ぶ人たちとの違いを忘れていた。さらにラバンの村人はその画に描かれたような一方的な殺戮を受け入れてはいなかった。ラバン村の端まで辿り着いた時、ペトラルカはその事を知った。剣を握った右腕だけが、持ち主を待ちわびている荷物のように所在なげに転がっていた。まだ肉体が朽ちたことを知らないのか、その手は堅く剣を握り締め闘う意思を失っていなかった。

 ペトラルカは主のいない腕を拾いあげた。妖魔であるフェンリルに生身の人間では歯が立つわけがない。例え敵わないと解っていても、その剣に一分の望みを託して闘ったのだろう。やり切れない気持ちがペトラルカの胸に湧き上がった。

「悪魔の使いである妖魔を滅ぼし、世界を神の恵みで満たす」聖典にも書かれていた言葉だ。その言葉を実践するには大きな問題が横たわっている。妖魔、特にフェンリルや吸血鬼のような凶悪な妖魔の力は、人間の肉体的な能力をはるかに凌駕している。弓から放たれた矢を何事もなかったように身をかわし、剣を振り下ろすより速く人の体を引き裂いてしまう。

「悪魔の手先である妖魔の前では、なんと人は無力なのだろうか……」ペトラルカは自分の拳を握り潰してしまうくらい強く拳を握った。


 太陽が高く昇り詰める頃、ラバン村を離れていた村の少年が帰ってきた。この村から約十リューほど離れたブレットの町で、ラバン村の不幸な事件を聞くや否や、スリ村まで馬を休むことなく走らせ、そこからずっと走り続けてきたらしい。その少年はラバン村に着いてからかなり時間が経つと言うのに、まだ息は荒く、幼さを残した顔は今にも卒倒してしまいそうなくらい蒼白く生気が見られなかった。

 ペトラルカは小刻みに身体を震わせている少年に少し休むように言った。その姿があまりにも痛々しかったのだ。しかし、そんなペトラルカの言葉を振り解くように、少年は惨劇の舞台へ入っていった。村ではペトラルカの部下たちが残忍な宴の餌食になった人たちを丁重に葬っている最中だった。少年は「あっ」と言葉を詰まらせた後、立ち尽くした。涙を流すこともなく、悲しみに膝を折ることもなく、怒りを何かにぶつけることもなく……

 その少年は感情を全く表に出さなかった。本当はあまりの悲しみに感情が表に出なかっただけかもしれない。そんな少年の内に向かった悲しみは他人を遠ざけることとなった。誰しもが、その少年に声を掛けることが出来なかった。いや掛けるべき言葉がみつからなかった。少年の耳には何を言っても届かないように思えたのだ。それは少年の意志に関係なく、周りの人に対して自分の無力さを感じさせてしまっていた。誰もが少年の横を足早に顔を伏せがちに少年から目を逸らすように通り過ぎて行くだけだった。ペトラルカも同じように、その少年に何も言葉を掛けられずにいた。それが一番良い選択だと、誰に言い訳するわけでもなく、自分に言い聞かせながら路傍に立つ少年の姿を伏せ目がちに眺めたのだった。

 肉片となった遺体が丁寧に棺桶の中に収められていく。その横に名前の書いた小さな札が置かれていた。残念ながらその名を確定できた幸運な亡骸はほとんどなく、誰の身体ものか明確な判断は出来ないまま、遺体あった場所からその名を推測していた。それ以上手掛かりとなりとなるものがなく仕方のない処置だった。その役は隣村であるスリ村の者が買って出てくれた。

 フェンリルに襲われたラバン村を見た時、スリ村の者はしばらくの間口を利くことが出来ず、ただ呆然とその様子を眺めていた。この時ペトラルカの部下が、

「亡くなった方を、安らかに眠らせてあげましょう」

 とスリ村の者に声を掛けなければ、ずっとそのままの状態でいたのかもしれない。

 その言葉を聞いたペトラルカが黙ったまま首を縦に振った。それを合図に、引きちぎられた人形のような遺体がペトラルカの部下とスリ村の人たちの手によって丁寧に集められていった。家族全員亡くなった家も多く、教会の出生礼拝届けを確認しながらの作業となった。変り果てた知人を確認することとなったスリ村の者は魂を抜かれたように淡々と作業を進めていた。感情を排することで、彼らは平静でいられたのかもしれない。名前を呼ぶ声も、どこか抑揚ない声だった。目を伏たくなるような場面に出くわしても、骨董品を値踏みするような目をしながら人物の特定に繋がるものを探していた。そして遺体の最終確認をするのはペトラルカの仕事だった。最終確認といっても、一度も会ったこともない人たちの亡骸を見ても当人であるかは確認出来ない。教会の出生礼拝届けに今日の日付、死亡、確認者として自分の名を署名するだけの単純な事務作業を行っていた。

「何とも嫌な気分で自分の名を署名しまければならないのか……代わって貰えるなら、代わって欲しいものだ……」ペトラルカは溜息すら出なかった。

 十名ほどの遺体を確認したところで、ペトラルカはかなり気が滅入ってきた。普通の神経をしているなら、気が滅入ってくるのは致し方のないことかもしれない。重くなった気分を少しでも紛らわそうと、ペトラルカは教会の外に出た。特に行きたい処などなかった。脚に任せるまま、あてもなく歩きはじめた。だけど小さな村のこと、小路を含めそれほど多くの路があるわけではない。どの路も村を貫く一本路に繋がっていた。ペトラルカは同じ路を何度も行き来することになった。教会の外に出たからといって、たいして気分転換にはならなかった。朝この村に来た時から血の臭いが村一帯にこびりついている。そして時折ムッとしたものがペトラルカの鼻についた。その度鼻を軽く押さえながら周りを見回し状況を確認するのだった。

 ペトラルカは何度も同じ路を行き来するの中で、路傍で立ち尽くしていた少年がいつの間にかいなくなっていることに気付いた。気になったペトラルカが少年の居場所を部下に尋ねてみても、誰も少年がどこにいるのか知る者はいなかった。その少年は誰にも気付かれることなくどこかに消えていたのだった。

 スリ村の者によると、その少年は姉との姉弟二人で慎ましく暮らしており、両親を早くに亡くした為、姉が少年の親代わりだったそうだ。今年の春、少年が村の幼馴染の娘との婚姻を決め、姉もセルフ村への嫁ぐことが決まっていた。来春には姉弟とも婚姻の儀が執り行われることになっていた。少年は愛する者を同時に二人も失ったのだ。

 ペトラルカは不吉なものを胸に覚えた。あの様子からだと、何をするか想像もつかない。すぐに一人の部下に少年を捜すように命じた。ペトラルカは、間接的にしろ、これ以上忌まわしい殺戮の宴の犠牲者を出したくはなかった。

 少年を捜すように命じてから半(しょう)(一鐘を約九〇分と設定)の砂時計がひっくり返されそうとしていた。ペトラルカはラバンが小さな村なのですぐに少年が見つかると思っていた。しかしペトラルカの予測はあっさり裏切られた。ペトラルカは焦る気持ちを抑えながら報を待つこととなった。無意識のうちに、ペン先でコツコツと机に叩いていた。過ぎていく時間を知らせるようにコツコツとペン先の音がなる度、時間の重みが増していくように感じられ、さらに焦る気持ちを煽っていく。

「早まった事をしていなければいいが……」もう一名ほどあの少年を捜しに行かそうと部下を一人呼んだその時、あの少年がペトラルカの前に現れたのだ。蒼白い顔はさらに血の気を失い、軽く彼の肩に触れただけで、足許から崩れてしまいそうだった。

「長子さま。死んだ人たちのために塚をつくって下さい」

 その少年はペトラルカの前で跪き懇願した。姉と未来の嫁を亡くした少年の眼は、悲しみと言うより大切な願い事を訴えるように力強かったが、その眼は未来を見ているようには思えなかった。ペトラルカは遺体を教会の共同墓地に埋葬しようと思っていた。墓石を持つのは権力のある者の特権であり、それ以外の人たちは教会の共同墓地に葬られるのが一般的な習慣であった。しかし少年の言う通りした方が死者の魂も救われるのではないかと、ペトラルカは思えたのだ。理由は自分自身でも解らなかった。ただそうすべきだと誰かに言われているようだった。村の中ほどに小さな広場があった。この位の規模の村では、村人全員がこういう場所に集まり村の行事や様々なことを決めている。

 ペトラルカは部下に対して、その場所にすべての遺体を埋め、塚をつくるように指示した。指示を受けた部下たちはただ黙って頷いてペトラルカの言葉を受けた。

 昼刻を一鐘ほど過ぎた頃、ペトラルカの許に伝令使が到着した。フェンリルの跡を追った部隊からだった。その内容は「フェンリルは一直線に南へ進み、現在にいる「シエル」とのことだ。何とも皮肉な名前だとペトラルカは忌々しい気分になった。ペトラルカは地図を少し乱暴な手つきで広げた。ラバン村の南二十一リューには「ボマルツォの森」がある。さらに森の奥にはフェンリルが居ると方向があったシエルという場所がある。伝令使いによると、今そのシエルがフェンリルの棲家であるか確認にする為に斥候部隊が向かっているの事だ。上手くいけばその真偽が確かめられるはず。ペトラルカは「Ciel」と書かれた場所を穴があくほど睨みつけた。

 陽が沈む少し前に、ラバン村の広場に掘られていた墓穴は完全に埋め終わり、その場所には大小様々な石が積み上げられ小さいながらも石塚は完成した。ペトラルカたちは惨劇の犠牲となった者たちへ鎮魂の祈りを捧げた。目を閉じた誰の脳裏にも、夜明け前にこの村に着いた時の様子が浮かんできた。そして、その後の埋葬のことも……ペトラルカたちは、何とも言えない悲しさ、くやしさ、やりきれない気持ちになった。黙祷は鼓動が三十にも満たない短いものだった。黙祷の後も、重たい空気がペトラルカたちを覆い、誰もその場を動くことはなく立ち尽くしていた。誰も最初に動く人にはなりたくなかった。死者に対して、最も情が薄い人間ように感じられたのだ。それが誤解だと解っていても罪悪感に苛まれそうな予感があった。お互いの目が合った。どこかお互いの動きを探るような目。その圧迫感の伴った雰囲気を感じ、ペトラルカは周りを見た。ペトラルカも同じ気持ちだった。だが、このままではいけない。長子である自分が皆を引っ張っていくべきだと、そんな生真面目な使命感がペトラルカに石塚から背を向けさせた。誰しも声にはしなかったが、ほっと息を吐き弛緩した空気が一瞬流れた。その流れに乗るように、ペトラルカたちは歩き出した。ラバン村で彼らが行うことはもう何もない。未来を失った少年もペトラルカたちの後に続いた。この少年を悲劇の村に残しておくのは忍びないとスリ村の者が彼を家に招いたのだった。去り難いのか、少年は何度も振り返り、生まれ育った村を見やった。その度ペトラルカたちの何人かは吊られて振り返る。ペトラルカもその内の一人になった。夕刻の陽光が石塚を赤く染めている。一瞬、石塚に落ちる影がフェンリルに惨殺された人の骸のように見えた。

「亡くなった人たちの無念さがそう感じさてたのかもしれない……」ペトラルカは沸々とフェンリルに対して言いようのない怒りを覚えた。そして「フェンリル狩り」を成功させることを神に改めて誓った。


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― 新着の感想 ―
[一言]  とても読みごたえのある話でした。  このラバン村の一件が後にどう展開していくのか、  先が楽しみです。  イタリア皇帝様の文章は、ハイファンタジーですら真実味を確固としてまう力強さがあるの…
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