07 スウィートな父
紺色の寝間着に着替えた父が窓を少し開け、ベッドに腰掛けながら煙草を吹かしていた。
明日に備えて早く寝ようかと寝室にやってきたシェリハに気付いたのか、急いで煙草を灰皿に押し当てて火を消した。
「消さなくてもいいだろ?」
「気にするな。…お前とこうして二人で話すのも久し振りだなあ…」
しみじみ言う父の顔を見つめ、シェリハもベッドに腰掛けた。
学校を卒業し、就職してからというもの、あまり家に帰ることがなかった。
大きな環境の変化に対応できなかったシェリハは多忙を理由に一年に一度、多くても二度ほどしか帰らなかった。
シェリハが煩わしさを感じないように電話を控えるといった両親の気遣いさえ、気付いていなかった。
当時は仕事のことや恋愛のことで頭がいっぱいだったからか、その両親の気遣いすら気に留めないほど狭量だった。
けれど都合のいい時だけ親を頼ってしまう我が儘で幼すぎる自分。
悩みに悩むシェリハを両親は何も言わず、静かに支え続けた。
一人で大きくなる人間なんて誰一人いないのに、過去の自分がいたら笑ってしまう話だ。
「何だよ…急に」
「いや、子供が成人しようといつまでも子供なんだなあ…と思ってな。
じいさんもよく言ってたよ」
「じいちゃんが?」
祖父と同じく日本人の女性を伴侶にした父。
シェリハとセルイアが望む業種の知識はさっぱりだったが、自分にできることはなんでもしてやりたいと飴と鞭を使い分けながら二人をサポートしてきた。
それがなければ今の自分は存在しない。
「同じ立場にならないとわからないこともある。じいさんは話の分かる人でな、雪ちゃんと結婚する時も理解してくれたよ」
「ばあちゃん日本人だもんな」
「家族には苦労もかけたし…お前にも辛い思いをさせたと思ってる。
今まで悪かったな」
いつになく素直な父にシェリハは目を点にした。
確かに子供時代は両親に甘えることが少なく、セルイアの世話を強いられていたが、シェリハ自身辛い苦しいと思ったことは一度としてない。
豊かな暮らしではなかったが、愛情に満ちた家庭の中で幸せだった。
「俺は苦労したとは思ってない。…しんどかったのは父さんと母さんだろう?
セルイアも学校出たし、これからはゆっくりできる」
「そうだなあ…もう若くないしゆっくりしたいもんだな」
「クリスマスはどこかに?」
「ああ、ダンスパーティーがあってな。
夜にはセルイアも寄ってくれるらしいしな」
雪香の名が出ると彼は破顔した。
付き合いだした時から未だにテンションは変わらない。
それはまるで若い恋人達のようだ。
近所でも評判のおしどり夫婦で、何かと記念日を月に何度も祝い合う習慣を付けている。
恋人と別れたばかりのシェリハからすれば羨ましい話だ。
雪香は小さな花屋の看板娘だった。
当時は若く、花のように美しい娘だった。
彼女を一目見て恋に落ちた男は少なくなかったという。
シルヴィーはその一人だったというわけだ。
どうすれば彼女に好意を抱いてもらえるか…毎夜毎夜考えた。
その前に彼女に知ってもらう必要があった。
毎日仕事帰りに花屋に寄っては、花を買う。
それを毎日毎日続けた。
それがしばらく続いて数か月した頃、常連と化した彼の顔を覚えていたのか、雪香自ら声をかけた。
もちろん仕事として…だが。
シルヴィーも最初から雪香の尻を追いかけ回すような真似をしているような男だったわけではない。
均整のとれた体に高い身長。
強い意志を秘めた瞳に高い鼻…各々のパーツが魅力を倍増させていた。
加えて面倒見がよく、人当たりがよかったので女が放って置くわけがない。
社内外で浮名を流していたが、雪香との出会いが浮名に終止符を打った。
瞬く間の出来事。
シルヴィーにとっては稲妻に貫かれたような衝撃だった。
手始めに食事に誘い、いかに雪香が聡明かを思い知る。
そしてデートを重ねる度、彼女の新たな一面を知る。
もっともっと知りたい…という欲望が、シルヴィーの雪香への恋心に火をつけた。
そして雪香の隣りにいたいという想いが暴走し、とうとう彼女に胸の内を打ち明けることとなった。
雪香は少しばかり驚きを覚えたが、シルヴィーを密かに思っていたことから静かに愛を受け入れた。
以来、二人は環境がどんなに変わっても夫婦仲が悪くなったことはない。
ひとつは子供のため。 ひとつは家庭のため。
結婚経験のないシェリハにとってはまさに理想の形。
「話変わるんだけど、ベビーカーってまだある?」
「ベビーカー…?
あるが…お前、まだだろう」
「まさか。今恋人はいないし…仕事の資料に」
残念そうにシェリハを見つめていた父は押し入れの中から、いかにも古そうなブルーのベビーカーを取り出した。
ぎしぎしと音を立てており、いかにも壊れそうだ。
それもそのはず、そのベビーカーは雪香も使っていた物だからだ。
最近の物ほどデザインや色使いは洒落ていない。
しかし思い出がぎっしりと詰まっているのだ。
「そろそろ寝るか」
「そうだな…」
シェリハより先に父が床の中に入る。
布越しに感じた父の背中は薄い肉付きで、包容力が溢れていた。
若く見せても所詮は作り物。
シェリハは肌で親が老いることを実感し、一滴の涙でシーツを湿らせた。