12 憂いは素知らぬ顔で
時計の針が進む毎に社内の人数は減っていき、とうとうベテラン社員と梨星だけになってしまった。
チェックの作業が追い付かれてきたためシェリハがルハルクとともにチェックに回り、その他の社員は打ち込みの作業に入った。
せめて日の出までに終わらせなければ明日の業務に差し支えるため、社員達は作業のスピードを上げた。
数時間毎に交代で休憩をしながら、確実に捌いていく。
「よし、終了! みんなお疲れ!
明日は緊急の案件はないから安心して帰ってくれ。
面倒なら泊ってってもいいぞ。それじゃ帰りは気を付けてな、解散!」
ラストのデータ送信を終了し、まるで遠足後の教師のようなルハルクの一声を聞いて社員達は一斉に帰っていく。
ルハルクは帰ろうとしていたシェリハと梨星を掴まえ、シェリハに一枚のお札を握らせた。見てみるとそのお札は五千円札だった。
交通費と食事代に使え、ということなのだろうがシェリハは受け取れず、突き返してしまった。
ルハルクの厚意は有り難いがその気持ちだけで十分だ。
「お前の悪い癖だ、シェリハ。今の時間じゃもうタクシーしかないだろう?
腹も減っただろうし何か買ってこい。
これだけ働かせて明日も出勤させるんだからな。これぐらい当然だ。
帰ってゆっくり休め。な?」
ルハルクのクールで厳しい表情に優しさが加わり、いつもの近付き難い雰囲気が少しずつ変わってゆく。
兄のような父のような全てを包み込まんとする包容力は女性だけでなく、男性も惹き付けている。
一見冷たく見えるが面倒見がよく優しい大人の男なのだ。
そこまで言われては断れず、シェリハは有り難く五千円札一枚を受け取り懐にしまった。
「…はい、ありがとうごいざいます」
「副社長太っ腹ですね! これで明日も頑張れそうです。ありがとうございます! だけど…たかが社員にどうしてそこまで?」
仕事が終わったというのに疲れを知らないような明るく元気な声で梨星がルハルクに尋ねる。
社長の右腕と社員の関係からいえば、このような気遣いは少しおかしいのかもしれない。
会社のために尽くしているとはいえ、梨星は入社したばかりの社員でありエブミアンテ社の右腕ともあろう者が社員の名を覚えていること自体が奇跡的なことだ。
だがエブミアンテ社の規模自体は決して大きくはない。どちらかというと小さい方だ。
だから社員の数も少なく、ドーリーやルハルクは社員の名前だけではなく顔や性格なども把握している。
新入社員は入社しては退社し、入れ替わりが激しい中梨星はわからないながらも真面目に取り組んでいる。
だからこそルハルクはそういった社員を大事にしているのだ。
「社員に気を遣うのがおかしいか? 入社してもすぐに辞める奴が多くてな、まぁ俺たちがちょっと厳しいのかもしれないが、社員の為にやってることだからな。別にストレス発散の為に怒鳴ってるわけじゃない。
厳しくしてるのにそれでも頑張ってしがみついてる奴が好きなんだ。俺からしたら妹と弟みたいなもんだしな。
だから別におかしいことじゃない」
「そっかあ、だから副社長は独り身なんですね?」
「こら、一言多いぞ。ほら、さっさと帰れ! 特に梨星は他の社員より扱き使ってやるからな」
ルハルクはシェリハと梨星を見送ると再び社内へと戻っていった。
二人の背中が小さくなり見えなくなったことを確認すると彼らに見せていた笑みを消し、厳しい表情へと変化させた。
「よりによって目を付けていたのがシェリハだなんてな…あいつの性格じゃ会社の為とはいえエブミアンテを去れないだろうし、ここを守ろうと躍起になるだろう。
それに利用されるのは目に見えてる。
…イーライ、いつからお前はそんなふうになってしまったんだ…。元々は仲間だったのに…」
ルハルクはエブミアンテ社の未来を憂い、溜息を吐いた。
共に学び、喜びや悲しみを共有してきた友が後輩に危害を加えようとしているのだ。ルハルクといえど動揺せずにはいられない。
彼女は今まで欲しいと思ったものは全て手に入れてきた。
美貌を武器に恋人のいる男性を標的にしては奪い、飽きてしまえば消耗品のように捨てる。
意思のないお気に入りの商品はどんな手段を使おうと必ず手に入れる。それがイーライナンのやり方だ。
そんな彼女が今一番欲しているのはエブミアンテ社の看板社員であるシェリハだ。
本人自体に強烈な個性があるわけではないが、普段はおとなしいのに仕事のことになると人が変ったように熱くなり、クリエイターならではの性質を持っている。
真面目で常識人なのに自由な発想を持っていて、パターン性がないアイデアは社外でも高く評価されている。
クライアントのリピート率は社内ではナンバーワンを誇り、真面目で礼儀正しい人柄が更に好印象を与え、成績を伸ばしている。
シェリハはエブミアンテ社にとって会社の生死を握る存在といってもいいだろう。
重役ではないものの大きな存在になっているのは確かだ。
誰もが欲しがる人材をイーライナンが欲しがらないわけがない。
幾度となく彼女はヘッドハンティングを試みたが、彼の返事は「NO」の一点張りだったらしい。
入社当時の彼は消極的でクリエイターには相応しくない、と誰もが思っていた。
でもドーリーとルハルクは初心者同然のシェリハを優しく時に厳しく指導し、彼を社員として立派に育て上げた。
その恩があるからかシェリハは会社に尽くし、どんな条件であったとしても他社の誘いを受け入れない。
流石のイーライナンもシェリハの頑固さに根負けしてもいい頃だが、どんな手段を使ってでも手に入れようとしてくるだろう。
シェリハの弱点はエブミアンテ社やその社員だ。対象に危害が加えられようとしていたら、進んでその身を投げ出すことだろう。
それを狙って社員や梨星に手を出してくることも考えられる。
「梨星は普段はにこにこしてるが何を考えてるかわからない子だ。
これからお前は苦しめられることになるだろう。俺達を苦しめる以上にな……」
ルハルクが外が明るくなってきたと気が付いた頃、時計の針は五を指していた。
考え事で帰宅するチャンスを逃してしまったルハルクは口の端を上げて微笑んだ。