11 鬼が宿る夜
社内にはキーボードの音がミュージックのように響いていた。
作業に慣れない新米社員はルハルクやエアリが熟す作業量に驚きながら、遅いながらも必死でキーボードを叩いている。
「先輩みんな早すぎだよ…正確なのに何であんなに早いの!? 絶対無理…」
「あそこ見てみろよ、新米の滝見さん。先輩とマンツーマンだよ、怖ぁ…」
あくまでも先輩社員には聞かれないように小さな声で新米社員が囁くように言う。
彼らの視線の先にはキーボードを叩く梨星とその隣にエアリの姿があった。
いつもならばこの組み合わせはフランクで姉妹のように仲が良いが、この時は違った。
エアリが仕事の鬼と化して梨星を怒鳴りつけ、何者も寄せ付けない嫌な空気が漂っていた。
「このデータで依頼先に送るってことはあなたの仕事が最終チェックになるの。
つまり梨星がミスしたらそこでアウト。クレームがくるってわけ。
だからちょっとくらいいいだろう、って妥協しちゃダメよ」
「で、でもたかが企画書だよ…? それに企画書をデザインしたって…」
「たかがですって? 企画書も商品のうちなの。誤字脱字はもちろん、見やすく美しく! 文字も揃えてね。
…ほら、手を止めないで」
エアリはいつになく冷たくそして強く言い放った。
この多忙な時期にわざわざマンツーマンにするには十分な理由があった。
新米社員の多くはデザイナー志望でデジタルの作業に慣れている者が多かった。
だが梨星はデジタルの作業を苦手としていて、エアリに教えられても中々マスターできずにいた。
それでドーリーとルハルクが仕方なくマンツーマンにしたというわけだ。
クライアントに承諾を貰ったラフスケッチや企画書などがあり、それを元に打ち込んでいくのだが最終的なチェックはルハルクが行っている。
だがかなりの量のデータを相手にしているので細部まで目を通しているわけではない。
それを考えると梨星を単独で作業させるのは危険だという判断を下され、今に至っている。
梨星は企画書とキーボードを見ながら打ち込んでいく。
その隣では瞬きひとつもせずエアリが食い入るように見つめていた。
「ちょっと、梨星。この企画書では壁紙の画像は雪の結晶のやつだったでしょ? 色が違ってるわよ」
「黒に近い紺だったから文字と重なると見辛いと思う。
だから壁紙の画像の色をパステルブルーにして文字はそのままにしたの。
コンセプトやテーマを見る限りでは色に関する指定がなかったから、特に差し支えはないと思うんだけどまずかったかな…?」
梨星は比較しやすいように指定通りにした企画書と自分の感覚で作った企画書のデータを画面上に並べ、エアリに見せた。
クライアントからは特に変更依頼がなかったため、そのままで作成すると確かに一部の文字が読み辛くなっていた。
でも梨星が独断の判断で作成した企画書は画像に文字が重なっても、画像の色がパステルブルーなので読み辛く感じることはなかった。
因みに先輩社員はまるっきり同じように作成しろとしか指示を下していない。
梨星は紙にイラストを描くことが多く、その中に文字を加え絵と文字の両方を配置することに慣れている。
常に絵本の読み手として考えているからできることだ。教えもしていないことをさらりとやってのけるとは、彼女の一年後がとても楽しみだ、とエアリは思った。
「ううん、こっちの方がいいわ。…でもね、こういう忙しい時はあまりこういう事を考えずに、指示通りに仕事をして頂戴ね。
やってしまったことは仕方ないし、良くなってるのは間違いないんだけど」
「はい」
「あら、妙に素直じゃない? ま、これだけやったら体が覚えてくれただろうし、次からは一人でやれそうね。梨星、ちょっと休憩してきたら? ラストまでいるのはいいけど、休憩とって何か口に入れないと倒れるわよ」
「じゃあちょっとだけ休憩してくる。行ってくるね」
梨星はエアリに席を譲り、足早に食堂へと向かった。
エブミアンテ社の中にある食堂は有人ではなく無人だ。
家庭にあるキッチンやら冷蔵庫はもちろんのこと、皿・箸・調味料なども揃っている。
レオニキールの娘であるチェルニが父を待つ暇潰しにと大量の材料を使って料理を作るのだが、 あまりに量が多いため社員達は体のいい処理係になっている。
今日は社員が残業することを知っていたのだろうか、食堂のテーブルに数多くの料理が並んでいた。犯人は恐らくチェルニだろう。
梨星が食堂に着くとシェリハとルハルクが料理をつまみつつ歓談していた。
「…お、梨星、くしゃみが止まらなかっただろう?」
「え?」
「副社長と梨星の噂をしてたんだ。エアリに随分絞られてたんだろ? エアリの声が移動してる時に聞こえてきたからさ。
ほら、こっちおいで」
梨星はシェリハに手招きされシェリハの隣の椅子に座った。
あれから何も食べておらず空腹だった梨星は色どり華やかなシーフードピラフに手を伸ばし、小皿に分けるとぱくぱくと食べはじめた。
「美味しい! これ誰が?」
「全部チェルニの差し入れだよ。遅くなるだろうからスタミナ付けてもらわなきゃ、だってさ」
梨星は一気に小皿を空にしてあちらこちらの皿から厳選し、山積みにしていく。
梨星の食べっぷりはまるで野生動物のようだった。
間食というよりも数日ぶりに食事にありついたというような感じに見える。余程空腹だったのだろうか。
「しかしよく食うなあ…もしかして夜食べてないのか? でもあくまでも休憩であって昼休憩じゃないからな、ほどほどにな」
梨星はルハルクの目を見ながらこくり、と頷いた。
彼女にとっては初めての長時間の残業で疲れているだろうに、疲れているふうには見えない。
目に見える変化があるとすればうっすらと隈があるくらいだ。もしかしたら疲れていないように見えるよう化粧を施しているのかもしれない。
時計の針は12を指し、
深夜になったというのにエブミアンテ社の明かりはまだ点いたままだった。