5 旅人と魔女の衝突
「…まあ大きな口が叩けるようになったものね、シェリハ。
私は親切心で言っているだけよ」
「そうですか。お断わりさせて頂きますので今日のところは帰って頂けますか」
二人は口元に笑みを浮かべているものの、今にも喧嘩してしまいそうな勢いだ。
冷静で温厚なシェリハも少々機嫌が悪そうに見える。
今まで見たことのないシェリハを見て、梨星はきゅっとシェリハの袖を掴んで下から彼の顔を覗き込んだ。
心配そうに見つめる梨星の顔を見るとシェリハは薄く笑みを浮かべた。
それを見てイーライナンはぴくりと眉を動かした。
「…あなたね? 絵本作家と画家の娘が入社したって聞いてはいたけど…」
「はい。でも両親の力を借りるつもりはありません。
七光りだと言われるのは嫌ですし…」
「あら、何も言ってないのに、そういうふうに聞こえてしまったかしら?
悪く思わないでちょうだいね、私はあなたの両親を知っているけどとても頑固だし…それに無欲で浅はかで。
そんなところまで似ていなければいいんだけど、って思っただけよ」
イーライナンの笑顔につられて梨星は微笑を浮かべていたが、眉を歪めていた。
シェリハの袖を掴んでいた梨星が彼の元を離れ、イーライナンにゆっくりと近付いていく。
優しく人を見つめる梨星の目ではなかった。
敵意を持った意志の強さを感じる目だった。
パシィン!
何かが弾けるような音が響き渡り、一瞬だけ時間が止まったような気がした。
梨星が手をゆっくり振り下ろす。
梨星の手の平は真っ赤になり、イーライナンの頬は赤く腫れて見えた。
イーライナンは驚きのあまり動けずにいたが、ゆっくり腕を動かし指先で梨星に叩かれた頬に触れた。
頬が腫れているのを確認すると、急に高らかな笑い声を上げた。
気でも触れたのか、と思いシェリハ達はイーライナンを凝視する。
「アハハ、ああかわいそうにね。そんなところまで似るものなのかしら、親子ってやつは。
…私は一度あなたの父親を誘ったことがあるの。その時は画家の個性的な絵が欲しくてね。
それなりに大きな案件だったし、悪い条件じゃなかったはずよ。
いいえ、寧ろ好条件だった。でもあなたの父親は断ったわ。
自分の頭の中で思い描く絵を描くだけで精一杯、ありあまるくらいの金なんて必要ないって、ね。
能力があるのに自分の作品として発表するだけで自己満足してるだけなんて、馬鹿以外の何者でもないでしょう?」
イーライナンの言っていることは一理ある。梨星の父親である滝見月寿は変わった人物だ。
だがどんな父親であれ梨星にとってはただ一人の父親だ。
罵倒されれば怒るのは娘として当然のことだ。
月寿が人と比べて変わっていることについては間違いはない。梨星も星凪も認めていることだ。
滝見月寿。知る人ぞ知る変り者の画家だ。
画家になったから絵を描くだけで食べていけるようになるまで苦労したものの、浪費家になってしまったという話は聞いたことはない。
思いついた時に海外に行ったりしてよく音信不通になるという話は聞いたことがあるが、彼の放浪癖は青年時代からあったらしい。
ということはその時から貧乏ながらも遣り繰りをして旅行の費用に充てていたのだろう。
大金を手にすると人は変わるというが、噂の上では彼は有名になる前も有名になってからも変わらないようだ。
好きなものを好きなように描き、気のむくまま旅に出かける。
なんて自由な人なんだろう、とシェリハは思った。
対するイーライナンは欲望に執着している女性だ。
世の中のすべては金銭できると信じて疑っていない。
その証拠に金で物をいわせてクリエイターをヘッドハンティングしたり、人を使ってアイデアスケッチや企画書を盗ませたり、買収したりしている。
社長になる前はドーリーやルハルクとともにデザイナーとして働いていた。
学生時代からファッションに強い興味を示し、気が付けばファッションデザイナーになることを夢見ていた。
すべてが変化するきっかけは入社して間もない頃に、『カラーのウェディングドレスが欲しい』とやってきた女性の仕事を引き受けた時だった。
イーライナンはパステルカラーで女性らしいラインが印象的なドレスを提案し、仕事は見事成功した。
クライアントは大手企業の社長令嬢で、イーライナンの元には莫大なギャラが舞い込んできた。
それからは彼女の思い通りに事は進んだ。
仕事は必ず成功を収めてきたし、権力を持つ上司にも恵まれ、引き継ぎという形ではあるけれど社長の座も手にすることができた。
この世の中で金銭で買えないものなどない………そんな考えがイーライナンの中で生まれてしまった。
「画家ってのはそんなものですよ。絵を描くのが好きで、趣味が仕事になったってだけでしょうし。
だから縛り付けようってのが間違ってるでしょう?
…これ以上梨星を刺激するのやめてもらえますか?」
「ふん、まあいいわ。今度ファッションショーを開くことになったんだけど、よかったらどうかしら」
イーライナンは服のポケットからチケットを取り出し、シェリハに手渡した。
パステルブルーの背景に白抜きされた雪の結晶が美しい。
二週間後にダブルフラワーホールで開催されることになっているようだ。
ダブルフラワーホールは名前にある通り空間が花いっぱいに囲まれていて、三万人は収容できる大きな会場だ。
そんな大きな空間で開催されるファッションショーに招待するという行為はシェリハに対する一種の宣戦布告だ。
「ダブルフラワーホール…また大きいとこでするんですね。
でも二週間後とはいえ仕事が詰まってましてね、ちょっと厳しいですね」
「シェリハ、仕事のことはいいから行きなさい。こっちのことはこっちでなんとかするわ」
ドーリーはシェリハの声に重ねるように言った。
年が明けこれからはさらに多忙になっていくのはドーリーが一番知っている。
それなのになぜ行けと言うのだろう、とシェリハは思った。
シェリハは目で彼女に訴えかけたが、ドーリーは頷くだけだ。
「ふふっ、物分かりのいい社長さんでよかったわねぇ。
じゃ私はこの辺で失礼するわ。お嬢さん、懐かしい人に会わせてあげるから必ず来なさい。
じゃあまた二週間後に会いましょう」
イーライナンは満足そうな笑みを浮かべると早々にその場を立ち去った。
全員は無言のまま不安そうに互いの顔を見合った。
あのイーライナンに真っ向から喧嘩を売ったのだ。ただで済むわけがない。
損害の規模は個人ではなく会社全体に及ぶだろう。
だが今更なかったことにはできない。こうなればもう対抗するしかないのだ。
(あの女性に喧嘩を売ってしまった…でも早かれ遅かれこうなるはずだったんだ。
彼女の誘いを拒んだ時から…俺は間違ってないよな?
自分の意志でエブミアンテ社にいることを選んだんだから)
シェリハは独り不安に駆られていた。
でもそれ以上に自分自身に責任を感じていた。
言った以上は悪しき手から会社とデザイナーを守らなければならない、とシェリハは胸の中で誓った。
このお話の中で書いていて一番楽しかったのは、梨星がイーライナンに平手打ちするシーンです。
温厚な彼女もあそこまで親の悪口言われれば、カッとなって手が出るだろうな、と。
エブミアンテ社の社員とイーライナンは仕事に対する考え方が違うので、反発しあうのも仕方ないんですが。
次回はシェリハがなぜエブミアンテ社にこだわるのか、を描いていきたいと思います。
イーライナンはお金と権力でゴリ押ししてしまう女性なので嫌われるとは思うんですが、自分に正直に生きてて私は好きですね。