46 光の裏側で見つめる老媼
チカコの来訪に社内は驚きの声で満たされる。
エブミアンテ社の社員にチカコを知らない者はいない。
今は現役を退いたが、かつてはモデル兼デザイナーとして唯一無二の存在だった。
現在はドーリーと何らかの縁があってエブミアンテ社に資金を援助している。
「チカコさん、今日は一体……?」
「年明けだしみんなの顔を見たくなって来ただけよ。
仕事に追われるのも嫌だけど、仕事がなくて暇なのも嫌ね。
自分から現役を退いたのに、毎日空きの時間が多くて困ってるの。
自由なのもいいけど、時々仕事をしたくなるのよね……ここにいると血が騒ぎ出すわ」
チカコは社内を見渡しながら、昔を懐かしむように言った。
彼女がまだ娘であった頃の時代は、現代と違った意味で暗く殺伐としていた。
戦後間もない頃は物がなく、海外との交流も今ほど盛んではなかった。
厳しい時代の中で入り込んできた異文化がチカコの人生を変えることになる。
そして厳しい時代の中で彼女はモデル兼デザイナーになった。
肌を無駄に露出することをよしとしない傾向にあったにも関わらず、彼女は敢えて服を着ての撮影をしなかった。
服を着ての撮影をしなかったといえば少し御幣がある。
だが裸同然の下着姿だ。大して変わりはないだろう。
クリエイターはペン若しくはアイデアの詰まった頭を武器にするが、チカコは自分自身を武器にしてみせた。
背は決して高くないが、モデルさながらの均整のとれた肢体に人々ははっ、と息をのんだ。
肌を露出することが奇行に見えたのか、売女だの不貞だのと罵られながらもチカコは耐え続けた。
そして時は流れ男尊女卑の風潮は少しずつ変わり始め、社会的にも精神的にも強かな女性が増え始め、世間の風当たりが変わるようになる。
写真加工の技術に劣らない真新しいビジュアルを心がけ、強くも美しい女性像を描き続けた結果多くの女性から支持されることになる。
ファッションやコスメに関する仕事しか請け負わなかったため、粧人と呼ばれていた。
「チカコさんさえよろしければ、働いていただけるならいくらでも仕事を取ってきますよ?」
「冗談言わないでちょうだい。ルハルク、年寄りをからかうもんじゃないわよ?
仕事をしたくなる時はあるけれど、今の私じゃ体力的に無理だわ。若い頃は体力があったからできたのよ。
だからあなたたちを裏から見守ってるんじゃない。
それより少し歩き疲れたわ。どこかに座らせてちょうだい」
「わかりました。それではすぐ嶺猫に飲み物を運ばせましょう」
ルハルクはそう言うと深々と一礼した。
チカコはドーリーに先導され歩きながら、シェリハにウィンクをした。
話したいからついてこい、という無言の命令だ。
チカコはこうしてエブミアンテ社を訪れては、若い社員と仕事について話をしている。
シェリハはエブミアンテ社の看板社員ともいえる存在だ。
つまりは今日はシェリハを自ら指名したというわけだ。
頼まれたら断れない性格もあってか、シェリハは断れずドーリーらの後をついていった。
ドーリーの自室に通され、ソファーに座らせられると嶺猫が飲み物を運んできた。
テーブルの上に人数分の飲み物と白い箱を置いていくと、軽く一礼してその場を去っていった。
白い箱を開けるとパンプキンをたっぷりと使ったタルトが入っていた。
それを見てドーリーとチカコは微笑した。
添えられているメッセージカードに書いてある文字がとても幼かったので、タルトの送り主がすぐわかったのだ。
「チェルニからのお年玉かしら? 文字でばればれね」
「あの年でこんなものを作れるなんて、将来が楽しみで仕方ないですよね。レオニとはジャンルが少し違いますけど」
「そのせいか食費がとてもかかるそうですよ。あの娘何でも大量に作りますからね。
来月もまた大変なことになりますねぇ」
嶺猫がさりげなく置いていってくれた皿にナイフで等分したタルトを乗せていく。
フォークで一口食べてみると南瓜の甘みが口一杯に広がる。
このタルトを作ったのはレオニキールの愛娘・チェルニだ。
義務教育に支障をきたさない程度にモデルの仕事をしているが、彼女が一番関心のあることは料理だ。
まだチェルニの年齢では学校で家庭科の授業がないというのに、彼女は既に包丁や火を扱っている。
料理の中でもお菓子作りには力を入れていて、子供ながらのアイデアと遊び心を取り入れたオリジナルのレシピは近所のカフェやベーカリーショップが取り合いをするほどの人気ぶりだ。
だが彼女の料理には欠点がある。
誰かに提供する時は自分の好みを入れることはないが、趣味の範囲で作る時は自分の好きなものをとにかく詰め込む。
チェルニはリアリティーのあるものが大好きで、特に般若や髑髏には目がないらしい。
本命のチョコレートを同級生の男の子にあげたら、残念ながら振られるという結果になったという。
因みにそのチョコレートは髑髏の形をしており、血糊を表現するために赤系のカラーチョコスプレーを使ったらしい。
その日は冬にしては少し暖かく、カラーチョコスプレーが溶けてしまいよりリアルに見えてしまったのがよくなかったようだ。
「うん、美味しい! お金出しても毎日食べたいくらい」
「チェルニのレシピは大人気ですからね。趣味に走るとかなり独創的になるのが難点ですが」
「せめてコミカルに仕上がっていればグロテスクなものも可愛く見えるんでしょうけど、忠実に表現すると恐怖の対象にしかならないものね。
ハロウィンならウケそうだけど…」
一般的なものは合格ラインに達しているが、色物はNGという酷評になった。
子供相手であろうとビジネスが含まれている限りは大人達は一切容赦しない。デザイナーの悲しき性だ。
「シェリハ、あなたの功績はドーリーやルハルクから聞いているわ。
あなた目当てで依頼してくるクライアントもいるそうじゃない?
春からまた後輩が増えるみたいだし、しっかり指導してあげてちょうだいね」
チカコはシェリハの目をじっと見つめ、くすっ、と笑った。
戦後の荒波ともいえる変化の多い時代を生き抜き、多大な影響を与えたチカコと比べれば、自分は与えられた仕事をこなしているだけで褒められるようなことは何ひとつしていない、とシェリハは心の中でぼそり、と呟いた。
そもそも比べるということが間違っている。
比較したところで意味はないし、自分が如何に小さな存在なのか思い知らされて空しくなる。
だがチカコの言うように自分の知識や技術が誰かの助けとなれるなら、それはそれで嬉しく思う。
「いえ、俺なんて大したことできませんから。
チカコさんみたいな影響力もありませんし、社長のような行動力もありませんし。
……でも右も左もわからない社員になら、少しは教えることができそうです。
でもうかうかしてると教えられる側になるかもしれませんね?
そうならないように腕を磨いておかないと」
「何言ってるの、あんたは地味だけど仕事はド派手なんだから自信持ちなさいよ。
仕事の鬼が認めてるくらいなんだから」
ドーリーがシェリハの背中を勢いよく叩き、シェリハは苦笑いを浮かべた。
紛れもない褒め言葉だが、どうしても鵜呑みにすることができない。
地位や立場なんてものに永遠はない。常に動いたり揺さぶられたりするものだ。
チカコは自然に話を展開させながら、シェリハに嵐ともいえる数々の質問を投げかけた。
現役を引退したとはいえ、毎日エブミアンテ社に顔を出しているわけではない。
新入社員が長続きしないという噂もあるので、エブミアンテ社の未来を案じているのだろう。
だが梨星の入社によってチカコの心配は不要になることになる。
春はもうすぐそこだ。新しい風が今か今かと冬の終わりを待っている。
これで第一章は終わりです。
書きたいことはたくさんあるんですが、ハートナイフを書き始めた頃は章を付ける予定がなかったので、長くしすぎると延々と続いてしまいそうなので、書きたいお話は二章以降に持越しさせて頂きたいと思います。
第一章はシェリハと梨星の出会いを書きました。
仕事で結果を残していても、いつまでも自分に自信がないシェリハ。
二章以降は彼の心に変化が訪れます。
仕事と恋愛、ふたつをもう少し深く書いていきたいと思っています。