45 納品(未)完了
シェリハは翌朝両親と妹に見送られて、いつもより少し早く家を出た。
会社に着くと誰もおらず、自分が一番早かったようだ。
ジャケットと椅子にかけ、鞄からひとつのファイルを取り出す。
阿柴との企画のためのものだ。
阿柴の希望に添えるよう、大量のアイデアをまとめた企画書をファイリングしているのでかなり分厚いものになっている。
阿柴と約束している時間がくるまでに、いいアイデアがあれば新たにファイリングしようという考えだ。
コト。
突然目の前にコーヒーカップを置かれた。
後ろを振り返ると嶺猫が立っていた。
ホワイトのタートルネックセーター。
ピンクベージュのプリーツスカート。
パール感のあるベージュをベースにし、ブラウンで自然かつ印象的な目元に見えるよう仕上げている。
ピンク系のチークと肌にリップが彼女を更に幼く見せている。
「おはよう。…嶺猫か。今日は早いんだな」
「おはようございます。私、いっつもですよ。
早めに来てゆっくり紅茶飲む時間が幸せなんで。
あ、でも今はシアワセな噂話聞くのが大好きなんですよ~」
へぇ、とシェリハは興味がなさそうに聞き流す。
シェリハは誰と誰がくっついたとか、そんな話に興味はない。
なぜ女性は自分とは関係のない人間の相関図に興味を抱くのだろうか。
知ったところでどうなるのだろう、と思ってしまう。きっとどうにもならないだろう。
ただ好奇心を満たしたいだけだ。
「ふぅん。女子は噂話が好きだもんな」
「噂の当人はシェリハさんですよ~。今シェリハさんの噂で持ちきりですよ?
今専門学生で春に入社してくる女の子にお熱だとか……」
どこからそんな情報が洩れてしまったのだろうか。
梨星を知る人物は少ない筈だし、またシェリハの恋心を知る者も限定されている。
エアリやドーリーの口は木の葉のように軽くはない。
ということを考えるとやはり風の噂だろうか。
特に女性が伝える風の噂が一番恐ろしい。
これでは社内の付近では下手に行動できない。なんて恐ろしいことなのだろう。
「俺が誰と別れようが付き合おうが俺の自由だろ?」
「だって前付き合ってた絵舞さんとはさらっと別れて、あんまり経ってないでしょ?
それなのにスイッチの切り替えが早いっていうか、相手が十歳も年下、しかもまだ学生!
そんな女の子にシェリハさんが熱烈片想いなんて、エブミアンテ社の大スクープになるに決まってるじゃないですか~!
……でもね、不思議なことじゃありませんよ。
最近は年の差カップルって結構いますからね~。
私の従姉妹なんてね、二十歳で五十歳の男性とゴールインしたんですから!」
声を大にして強調されても、どう反応すればいいのかわからず困ってしまう。
熱烈片想いという言葉がシェリハの胸を抉るように深々と突き刺す。
相手の気持ちは知らないから確かにそうなのだが、第三者に直接言われると痛いものがある。
嶺猫のフォローの台詞など頭に入っていなかった。
(俺はもう三十になろうとしてるのに、梨星はまだ十代だもんな。
考えてみればセルイアより年下なんだ。
冷静に考えたらちょっとショックだな……)
二人の年齢を比較していたら、シェリハの顔はみるみるうちに蒼白になっていく。
色んな人から背中を押され、前向きになっていた気持ちが後ろに向こうとしていた。
彼女は若いと胸を張れる年齢だが、シェリハはお世辞にも若いとは言い難い年齢だ。
駅前で登校前の学生と擦れ違うと年齢の差を感じてしまう。
地面についてしまいそうな長いズボンの丈。
ショーツが見えてしまいそうなくらい短いスカート。
眉に届きそうな太く黒い人形のような睫毛。
年齢が判断できないほどの派手なメイク。
自分が学生だった頃とは百八十度、いや三百六十五度違っている。
あれこれ考えている間に社員たちが入ってきて、社員の声がBGMになる。
蒼白になっているシェリハの顔を見て、ルハルクは彼の肩に手を置いた。
「お前大丈夫か? 顔青いけど」
「……あ、はい」
「嶺猫~。陰でいつもそんなことやってんの?
ま、シェリハが憎いのはわかるけどさ? むかつくくらい仕事できるしね。
でも、先輩いじめは陰でやりな?」
「ひどーい。私はシェリハさんに恋のアドバイスをしてるだけですよ~」
嶺猫の言葉にシェリハの頬がほんのりと赤くなった。
青くなったり赤くなったり忙しい男だ。
野次馬と化した女性社員の黄色い声が反響する。
シェリハは適当な言い訳さえ言えずにいたが、ドーリーとルハルクの助け舟により社内は仕事モードの雰囲気になった。
清楚な雰囲気を醸し出すテレビに映るニュースキャスターが時刻を告げた頃、誰かが会議室の扉を叩いた。
時刻は十四時。阿柴と約束していた時間だった。
「おめでとう。また今年もよろしく頼むな」
「おめでとうございます。これは俺の台詞ですよ」
「早速本題に入るとしようか。
改めてサンプルを持ってきたんだが、シェリハのものも見せてもらおうか」
阿柴はニヤッと笑い、口角を上げる。
シェリハはサンプルの入った黄色の紙袋を受け取り、阿柴に分厚いファイルを手渡した。
阿柴はファイルを開き、ざっと目を通していく。
どうやら満足してもらえたのか、彼は微笑を浮かべている。
彼が渡してくれた紙袋の中に入っているサンプルは、サンプルとは思えないクオリティーだった。
ベビー服は縫製がしっかりしていて、タグまでしっかりついている。
タグが洋服の形をしていて、洋服と同じ色というのが珍しくて興味深い。
生活に必要とされる雑貨は丸みがあり、カラーバリエーションに富んでいて家族がいなくても欲しくなってしまうような商品ばかりだ。
「うわー……服もいいですけど特に雑貨がいいですね。
結婚してない俺でも欲しくなりますよ」
「食卓が明るくなりそうだろう? あ、そういえばお前の案のキットのやつあっただろう?
あれかなり赤字になりそうだ。設定してる値段よりコストのがかなり高いんだ。
それ以外はまあ今のところ大丈夫とは思うが。売上目的じゃないからいいけどな」
「それはそうといつ販売するんですか? あ、俺達の都合だけじゃ決められませんよね」
「勿論だ。向こうにも都合があるしな。客は俺たちだけじゃない。
調整をしてできるだけ早く販売しよう。その時はまた知らせるよ。
そんなわけで今回はとりあえず終了だ。じゃ、俺はこれで失礼するよ」
「あ、待って下さい! 送ります」
足早に歩く彼を追う形で阿柴の後ろをついて歩く。
背を向けながら手を振る阿柴にシェリハは小さく手を振った。
会社に戻ろうとしたその時、ホワイトのトレンチコートとダークブラウンのロングスカートを身に着けた老婦が立っていた。
髪は烏のように黒々としていて、現代には珍しい黒髪だ。
その髪を様々な色のラメとビーズが鏤められたバレッタで纏め、白い首筋を露わにしている。
顔や首に深い皺を刻んではいるが、背筋はピンと伸びているし完全に年老いているわけではなさそうだ。
老婦はシェリハを見つめ、少しずつ距離を縮めてくる。
「チカコさん、歩きで来られたんですか?」
「わかってるなら反応してちょうだい。長いこと会ってないから忘れられたのかと思ったわ。
さ、寒いから中に入れてちょうだい。婆は凍えて死んでしまうわ」
チカコと呼ばれた女性は急かすようにシェリハの尻を叩いた。
シェリハは心の中でまるで子供のようだ、と笑った。
チカコさんがやっと登場です。
この方はかなり前から考えてたキャラクターです。
若い人ばかりだと面白くないし、真の助言者になるような人物が欲しかったので。
長々と書きたいのですがネタバレに繋がってしまうので、このへんで止めておきます。
タイトルについてですが、(未)としているのは阿柴との仕事はとりあえず終了しましたが、くるであろう未来の事件があるので(未)としています。
事件とは梨星の入社をはじめとするトラブルのことです。