42 太陽色の未来
生徒と教師の声で賑やかになっている教室。
絵の具やパステルなどの画材の独特の匂いが広がっている。
梨星は鉛筆を片手にスケッチブックとにらめっこしていた。
早く制作にかからなければいけないのに、まだ形にすらなっていない。
他のクラスメイトは既に着色の段階に進んでいるというのに。
それに企画書も作らなければならない。
「はぁ………」
溜め息を吐いても状況は変わらない。
提出期限は迫るばかりで、梨星の作業はまったく進んでいない。
梨星の歯車はシェリハとの出会いによって狂ってしまった。
社会人という立場は学生の自分にとってとても魅力的だ。
言動も行動も同級生と比較すると、落ち着きがあり大人だと感じる。
梨星が目指している職業と同じものではないが、絵を描くという共通点がある。
でもきっと妹くらいにしか思われていないだろう。
妹ではなく異性として見られたい。
あの宝石のように鮮やかな色の双眸に映りたい。
そう思い始めてからはどこか上の空だ。
キーンコーンカーンコーン。
キーンコーンカーンコーン。
授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
それと同時に数人の女性が梨星の元に寄ってくる。
「梨星、卒業制作進んでる?」
「ううん、全然ダメ。まだ構想の段階なんて有り得ないよね。
…みんな彩色してるのに。…ああもうどうしよう」
「こりゃあ当分寝れないね。
そういえば貴宮と付き合ってる時も結構スランプだったよね…てことは彼氏でもできた?」
途端に梨星の頬が赤くなる。
シェリハは恋人ではないが、意中の人であることは確かだ。
貴宮空澄は梨星が以前付き合っていた彼氏の事だ。
真面目で明るく成績も優秀で、常に仲間たちに囲まれている人気者だった。
学年ではひとつだけ先輩で梨星は後輩だった。
梨星より年上なので既に卒業し、就職している。
専門学校で知り合い、グループ展をきっかけに距離を縮め彼氏と彼女の関係になった。
優しくて思いやりがあり、休日は色んな所に連れ出してくれた。
梨星は初めての恋に没頭し、成績は著しく低下しスランプに陥ることになった。
それでも梨星は彼を慕い続けた。
だが幸福の日々は長くは続かなかった。
空澄は就職活動を始めてから、人が変わったように金に執着するようになる。
ブランド物の服で飾り、食事も住居も付き合い始めた頃と比べて別次元のものになっていた。
就職先も目的ではなく収入と待遇で決めたという。
空澄は貧乏でも金持ちでもなかったのに、何が彼を変えてしまったのだろう、と梨星は困惑していた。
次第にデートの回数は減っていき、電話をした時はいつも女と思われる甲高い声が聞こえてきて、梨星は不快な気分にさせられた。
きっと彼の新しい遊び相手か恋人候補だったのだろう。
そう考えると彼への気持ちはどんどん冷めていき、梨星は絵を描くために休日は家に籠るようになった。
『あら、最近は彼とあんまり会わないのね。
まあそろそろ熱が落ち着いてくる頃なのかしら』
『ううん、もう会うつもりないよ。
遊ぶ相手なら困ってないみたいだし』
『そう…それは残念ね。二人の気持ちの問題だから私は何も言えないけどね。
今の感情で話してはだめよ。
冷静になって話し合いなさい。
後悔だけはしないようにね。
別れなければよかった、なんて思うこともあるんだから』
母から忠告を受けたが梨星は空澄との別れを選んだ。
愛情を持てない相手と付き合っていくのは無理だと思ったからだ。
これで彼も自由に遊ぶことができるし、自分も絵に集中することができる。
そして梨星は空澄に別れを告げた、
初めての恋は甘く苦いものになった。
今空澄がどうしているかは知らない。
風の噂で仕事の関係でホストクラブに出入りしていると聞いたことはあるが、今の梨星にはどうでもいい話だ。
「彼氏なんかじゃないよ。二人で会ったこともないのに」
「じゃあ彼氏候補なんだ? いくつぐらいの人なの?」
「29だって言ってたけど、見た目は二十代前半かなあ?
来年の春に就職することになった会社の人。デザイナーさんなんだって」
「もう三十じゃない! 悪いこと言わないからもっと若いのにしたら?
せめて同年代とか」
梨星にとってシェリハが何歳であろうとどうでもよかった。
外見や職業は彼に興味を持つきっかけにすぎなかった。
確かに年は少し離れていると思うが、世の中には親子ほど年の離れている恋人や夫婦がいるし、それに比べればまだ可愛いほうだ。
「一緒にいると落ち着くし安心するの。
それだけで十分じゃない」
「私は同い年がいいと思うけどなあ。
とりあえずアピールしてだめだったら乗り換えなよ?
梨星なら彼氏候補はいっぱいいるんだから」
シェリハ以外の男性では意味がない。
唯一無二の存在でなければ意味がないのだ。
来年の春からは彼と同じ職場で働くことになる。
四六時中彼といれるわけではないけれど、顔を合わせることくらいはできるだろう。
今はどんな些細なことだっていい。
彼のことを知りたくてたまらないのだ。
そのためには一刻も早く課題を終わらせ、卒業しなければいけない。
すべてはそれからだ。
「誰でもいいわけじゃないんだから、そんなのやだ」
「その人じゃないとだめな理由があるんだ? なら諦めがつくまで頑張りなよ。
今月になるまでに付き合えたらよかったのにね。
クリスマスに大晦日、お正月。イベントがいっぱい待ってたのに」
友人の一言で梨星の思考は一旦停止した。
雪が街を彩り、サンタクロースからのプレゼントに、子供達が笑顔になるクリスマス。
艶やか鮮やかな着物に豪華な料理が並ぶお正月。
一般の絵本に豪華という印象など考えられないが、一風変わったものを提示するならそれもいいかもしれない。
くすんだような渋い色や模様はまさに十人十色で個性がある。
和と洋のコラボレーション。
画像編集ソフトで作業を行えば効率よく進められるだろうが、梨星は決してそんなことはしない。
手描きのように見せることもできないことではない。
だが梨星はデジタルの作業を嫌っており、アナログにこだわりを持っているので睡眠時間を削ってでも手描きで全ての作業を行う。
すべて画像編集ソフトに任せれば時間の短縮やコストを削減することができる。
しかし梨星はアナログならではの味を殺したくないと考えている。
筆の跡が残っていたり、直線的ではないラインなどデジタルでは少し難しい。
それに梨星はあまりパソコンの扱いが得意ではない。
寧ろ苦手の部類に入るといっても過言ではない。
これで企画の材料集めは終わりだ。
あとはまとめて形にしたものを教師に見せ、許可を得るだけだ。
そうと決まれば今学校にいる必要はない。
一刻も早く形にして教師に見せなければいけない。
梨星はスケッチブックを閉じ、小脇に抱えると立ち上がった。
「…私もう帰るね」
「は? まさか私、気に障るようなこと言った?」
「そうじゃないの。今閃いたから早く描きたいな、と思って。
早く先生に許可貰って完成させなきゃ。
じゃあばいばい!」
「あ、梨星!…人の話なんて全然聞かないんだから。
今度はその人に頼ってね。
あんたは何でも自分で解決しようとしてしまうから…」
友は走り去ってゆく梨星の背中を見ながら呟く。
彼女は男に縋ることを知らない。
そうでなければ空澄に懇願していたはずだ。
二番目でも十番目でもいいから傍に置いて欲しい、と。
過去は水に流され、土の肥やしになって消えた。
そして橙色の未来へとバトンタッチされる。
友は願った。
小さな背中で何もかもを背負い込もうとする梨星の幸福を。
今回は友人との語らいと梨星の過去の話でした。
梨星の元彼は本当は三十前くらいの設定でしたが、付き合いたてはフレッシュな印象が欲しかったので二十代前半になりました。
ちなみに梨星のデジタル嫌いは作者の実話です。
パソコンをうまく使えていないのもあるのですが、体温のない塗りが苦手なんです。
なので昔のアニメや漫画は大好物です(笑)
使いようによってはアナログに見せることもできるんでしょうけどね。
つまりは私のスキル不足です(爆)
ようやくなんとか恋愛物っぽくなってきましたが、やはりデザインとの両立だとなかなか進みませんね。
次回はお正月のお話になります。