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ハートナイフ  作者: 蒼野 媽流
第一章 一逢一別
23/63

23 冬に舞い込んだ春風

忙殺されていた社員達の久方振りの休息。

そして梨星が下す答えとは?

そして月の半ばが過ぎ、慌ただしかった社内も落ち着きを取り戻していた。

あれからというもの、梨星からの連絡はなかった。

専門学校生が忙しいのは、実際に体験しているから知っている。

だがシェリハをはじめとする社員はみな梨星からの電話を待ち望んでいた。

社員自らヘッドハンティングを試みることは少ない。

母校のOBとしてセミナーに呼ばれたり、後輩の作品を見に行ったりする中で、お眼鏡にかなう人材がいれば試みるが、なかなかお互いの条件は一致しないものだ。

そんな中で久し振りに獲得したいと思ったのが、梨星である。

エブミアンテには年若い新米社員は少ない。

社長であるドーリー、片腕のルハルク、エアリは30代。

シェリハはぎりぎり20代だが、ほぼ30代だ。

ある程度の経験を積むと、柔軟な考え方ができなくなってくる。

だからこそ卒業したての新米社員が必要なのだ。

自由で新しい発想と新風で掻き回すしてくれるような、そんな社員が必要なのだ。

あれだけ忙しかったというのに、今では閑散としている。

普段ならば書類や資料で散らかし放題のデスクはきれいに整理整頓され、食事中に目にするものばかりがあるではないか。

社員たちはお菓子や紅茶・コーヒーを並べ、暇そうにティータイムを楽しんでいる。

「はあ…あれだけ忙しかったのが嘘みたい。

暇過ぎて味の余韻を楽しめるわ」

そう言いながら田舎饅頭を頬張るのはエアリだ。

水色の布地に菖蒲とグラジオラスが描かれた着物。

クリアな素材に赤いラメをあしらった簪。

オフィスに着物姿はかなり浮いている。

だがこれは彼女にとって制服のようなものだ。

「そう言ってられるのも今の内だけだ。

年が明ければ忙しくなる」

隣にいたシェリハがぼそりと呟いた。

彼は年中変わり映えしないスーツ姿だ。

だがこれが一般的に正装である。

惚けた状態で田舎饅頭を小さく千切り、口に放り込む。

食事を楽しむ時間がないシェリハにとっては至福の時間だ。

シェリハが餡が奏でるハーモニーを楽しんでいた時、電話が鳴った。

トゥルルル。

電話が鳴っているのに誰も出ようとはしない。

電話の呼び出し音は切れることなく、鳴り続けた。

トゥルルル。

誰からかかってきているのかはわかっていた。

十中八九梨星だろう。

誰もがシェリハの顔を見て、早く電話に出るよう促している。

だがシェリハは無言で拒否していた。

梨星の返事がイエスだとは限らないと思ったからだ。

断られた挙句、謝られでもしたら受け入れるしかない。

「シェリハ、きっと彼女からの電話だ。

シェリハが出た方が喜ぶだろう」

「あなたも待ってたんでしょう?

梨星がここに社員として来てくれることを。

たぶん断りの電話じゃないわ。

さあ、早く出て」

いつの間にやって来たのか、ドーリーとルハルクがコーヒーを手にしながら言う。

今日ばかりは二人とものんびりしている。

ガチャ。

シェリハが受話器を取る。

「…梨星なんだな?」

「遅くなってごめんなさい。

ずっと悩んでて…どうしたらいいかな…って」

機械を伝った彼女の声はワントーン低かった。

静まり返った皆が固唾を飲んでシェリハを見守っている。

期待してもいいのだろうか。

言葉を選べば選ぶほど、何を言えば言いのか分からず沈黙を選択してしまう。

相手の出方を待ってしまう悪い癖が出る。

「でも今決めなかったから、絶対後悔すると思ったの。

後悔するならした後にする方がずっといいに決まってる。

だってあの頃はこうだったなんて、言い訳するのは格好悪いもんね」

梨星のまっすぐでひたむきな意思を乗せた声が、蜂に刺されたかのようにシェリハの胸を突き刺す。

事を成し遂げることよりも、嘘で塗り固めることは実に容易い。

自分自身を洗脳すればいいだけだからだ。

けれど時間の経過とともに麻痺から解き放たれた思考が、導き出す答えは後悔だけだ。

大人に近付く度に自分に都合のいい言い訳をして、逃げるように目を背けていた。

自分がいかに小さい存在であるか、思い知らされるのが嫌だったからだ。

夢とは天使のような甘い声で囁いてきて、目を背けたくなるような、試練とは名ばかりの悪夢をつきつけてくる。

打たれ弱い人間ほど、一度奈落の底に突き落とされたらなかなか上がってはこられない。

夢と現実は身近なようで、まったく違うのだ。

奈落の底を前にしても怖じ気付かない梨星に感心する。

「強いんだな、梨星は。

思っているほど優しい世界じゃあないけど、梃子でも動かない意思があるなら歓迎するよ」

シェリハの口許が緩み、口調にまで影響が及んでいる。

正直なところ、彼女にはエブミアンテには来て欲しくはなかった。

何も知らない彼女が違う色に染められてしまうのではないか。

そう思っていたからだ。

梨星が自らの意思で選んだ道ならば、第三者にそれを阻む権利はない。

もしそんな人間が現れたとしたら、全力で阻止をする覚悟だ。

それに一度決めたことなら、貫き通す手伝いをしたい。

そして一度決めたからには、自分を信じて貫いて欲しい。

日々の努力がすべての結果を作っていくのだから。

「ありがとう。社長さんが都合のいい日に、見学にきたいって伝えてもらえる?」

「ああ、伝えておくよ」

受話器の向こうに笑顔が見えてしまいそうな明るい声。

まだ少し聞いていたかったが、梨星が電話を切るのを確認してから受話器を置いた。

若き社員の入社決定に、社員達は歓声を上げた。


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