22 現実はすべての甘味を忌む
おとなしい女の子のようで、いまいち掴めない梨星。
当面の間、社内全体が彼女に引っ掻き回されることになります。
このことを予想していたかのように、梨星は落ち着いた表情を見せていた。
エブミアンテ社に来る前に、ドーリーかルハルクから知らせを受けていたのだろうか。
もしそうならここで話すこともない筈だ。
重い沈黙を破ったのは沈黙を始めた当人の梨星だった。
「ドーリーさん、私がやりたいことは知っているんでしょう?」
「もちろんよ」
「じゃあどうして?
私はデザイナーになりたいんじゃありません」
その言葉にドーリーは笑いを漏らした。
エブミアンテ社の社員たちは皆が皆デザイナーではないからだ。
確かにデザイナーも存在するが、画家・イラストレーターなど物作りに携わる様々な職業のプロがいる。
デザイナーしか在籍していないのではないかということを意味する梨星の発言に、ドーリーはつい吹き出してしまったのだ。
「ごめんなさいね、違うのよ。
確かにうちにはデザイナーがいるわ。
けど5割よ。残りは他のクリエイター…何もデザイナーに限定しているわけじゃないの」
そしてドーリーが分かりやすく説明する。
エブミアンテ社に在籍する限り、自分が望んだ仕事だけを全うするのは難しい。
会社の規模の割に舞い込んでくる依頼件数が多いからだ。
例えばデザイナーであったとしても、デザインだけが仕事ではないということだ。
つまり絵本作家志望の梨星が入社するとしたら、絵を描く以外の仕事もこなさなければいけない。
「…だからシェリハは撮影の仕事もしてたんだ」
「そういうこと。すぐにやりたいことができるわけじゃないから、精神的にはとてもしんどいことだと思うわ。
でも未来の肥やしにはなると思う」
理想を描いていたであろう、夢の真実の姿に梨星は即答できず、絶句していた。
必要な技術を学び、身に付け、学校を卒業すればすぐにでも絵本作家になれると信じていたのだろう。
どの職業でもスムーズに歩める道なんてものはない。
茨の道はあれど、平坦な道はない。
悪魔に心を売りさばいたとしても、どんでん返しがあることを考えれば得策とは言えない。
好き勝手なことばかりいう客人に相槌を打たなければならないし、絵を描くために引き籠もる余裕はない。
常に変化する世の中の波を知るために学び、錬磨を怠っては置いていかれる運命にある。
新しいものが全てだとは思わないが、古いものだけで構成できないのは事実だ。
愛と情熱を持っていなければ、続かない仕事であると言える。
逃避したくなるほど辛く苦しいことは多いが、それらは経験となり表現の幅を広げることだろう。
素質があるならば燻らせてはいけない。
力を発揮できる場所を提供してあげたい、ドーリーはそう思ったのだ。
突然梨星が立ち上がり、ぺこりと一礼して見せた。
どういうつもりなのだろうか。
「ドーリーさん、私他の会社は受けません。
でも少し考えさせてください。
必ずお返事はしますから」
曲がらない視線と真剣な眼差し。
その言葉がその場だけの取り繕いでも、嘘でもないこともわかっている。
きっと嘘が吐けない、真摯な態度を鏡に映したような性格なのだろう。
「ご両親と相談すればいいわ。
きっと気になるでしょうし」
「それは大丈夫。
あんまり気に留めてないみたいで。
基本的に放置主義なんです」
梨星は再び腰掛け、掌を合わせた後レモンティーを飲む。
温かい飲み物を飲んだからか、頬が少しだけ上気しているように見えた。
そんなことよりも気になるのは、先程の梨星の発言だ。
愛娘の将来に関心のない親なんて、本当に存在するのだろうか。
クリエイターは変わり者が多いと聞くが、わが子の未来に興味がないとは思いがたい。
「でも少しくらい…きっと内心は心配してると思うけどな」
「自由主義なんだって。父さんは自分で将来を決めたから、自分のやりたいことをしたらいいって言ってた。
母さんもそうだったんだって」
梨星はケーキを食べたくて仕方がないと言っている目をこちらに向けて、二人の表情を窺っている。
「シェリハがあなたのために用意したんだから、食べていいのよ」
ドーリーにそう言われると、梨星はショートケーキを食べ始めた。
ちまちまと小動物のように食べ、頬を膨らませている姿は何とも愛らしい。
シェリハは梨星の顔を見ながら、彼女の両親のことを考えていた。
梨星が自分達と同じ茨の道に足を踏み入れようとしているのに、本当に彼らは気に留めていないのだろうか。
定まった給料はなく、仕事が絶える日だってないことはない。
画家の妻となった星凪なら、その苦労は身に沁みている筈だ。
我侭極まる依頼者に心を痛めることだってあるだろう。
常に時間と心の葛藤との戦いだ。
体も心も限界まで擦り切れることだろう。
それをわかっていて放任するというのだろうか。
自分が子を持つ親の立場ならば、きっと心配で仕方なくなる筈だ、とシェリハは思った。
残念ながら子供を持った経験がないから分からないが。
「ご馳走様でした。
ここのケーキすごく美味しかった」
「ありがとう。喜んでもらえてよかったよ」
にっこりと笑う梨星を見て、シェリハの口元が綻びる。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
そして時間が止まってしまえばいいのに。
そんなシェリハの気持ちも空しく、分針は容赦なく時を刻み続ける。
梨星が学校に寄らなければならないと言うので、まだ早い時刻だったが席を立った。
「ごめんなさい。もうちょっといたいんだけど…」
「またいつでもおいで。
首長くして待ってるよ」
満面の笑顔を残して、梨星は去って言った。
彼女自身が出す答えはまだ分からないが、もし社員になると言うなら、同じ職場であの笑顔を毎日見ることができると思うとシェリハの胸は静かに躍った。