20 甘辛く味付けされた石心
副社長のルハルクが登場です。
お気付きかもしれませんが、彼の名前を変更しました。
自分のデスクには、きれいに山積みされた書類で作られた塔がある。
自分のデスクだけではない。
左も右も同じ状態だ。
「有り得ない…」
シェリハは目を丸くして、吐き捨てるように呟いた。
今日中に帰宅できるのだろうか。
どう考えても不可能に等しい。
気落ちしていた所に突然肩をぽんと叩かれ、シェリハは振り返る。
緑に近い青い海辺に、鶯が立ち尽くしている柄の着物。
海の色は上にいくにつれ、白とのグラデーションになっているのでやや地味な印象を与えている。
帯は黒色で下半分のみ、白でレースが描かれている。
髪は不自然なまでに艶がある、純粋な黒。
前髪は横に流し、そのまま垂らしている。
前髪の隙間から覗く眉色が黒ではなかったことから、髪はウィッグかエクステンションであると思われる。
「エアリ、他人事じゃないだろう」
「本当困るわよね。嶺猫がいないだけで、こんなになっちゃうんだから」
はあ、と溜め息を付け加えて、エアリは言った。
嶺猫とはエブミアンテにただ一人の事務員だ。
彼女が入社するまでは副社長であるルハルクが行っていたが、嶺猫が入社するにあたり一切の事務作業を委任した。
ルハルクの指導の甲斐あって、今ではいなくてはならない存在だ。
年はシェリハより少し下だが、童顔らしく中高生にしか見えない。
そして甘すぎるソプラノボイスが更に年齢を低く見せる。
清楚で愛らしいガーリーなカジュアルを好み、ドーリーの魅力とは対照的だと言える。
タイピングに関してだけいえば右に出る者は、ルハルクを除けば存在しない。
仕事中の嶺猫は欠伸をしたり、眠そうな素振りを見せたりと印象はよくない。
だが常にスピードを落とさず、正確な仕事を熟しているから文句ひとつ言う者はいない。
個性よりも協調を大切にする会社なら、首切りは確実だろう。
マイペースで頑固な彼女は仕事で結果を残すことが、協調より個性を買ってくれた会社に対する酬いだと思い、毎日働いている。
会社に事務員が一人しかいないことも問題なのだろうが、彼女が一日休むだけで会社は大変なことになってしまうのだ。
「事務増やして貰わないとなあ。
一人じゃきついだろ」
「そうでもないみたいよ?
ほら、あそこ」
カチャカチャカチャ。
エアリが指差した先に、キーボードを叩くルハルクの姿があった。
然もスピードが並ではない。
視線はディスプレイに向けられていて、指先などまるで見ていない。
そんな状態でも消去のキーを押すことはない。
シェリハとエアリの目には、それが神業にしか見えなかった。
「シェリハにエアリ」
ルハルクが二人に背を向け、ぼそりと呟くように言った。
相変わらず指の動きは止まっていない。
二人は視線を絡ませながら、妙な緊張感を感じていた。
ルハルクは決して気難しく、頭の固い人間ではない。
どちらかと言うなら親切で、面倒見がよい。
それなのに緊張感を感じさせるのは、彼が社長の右腕であり、肩書きに似合いの実力を備えているからなのだろう。
「つまらん仕事だろうが、これも仕事のうちだ。
嶺猫がいない分カバーに回されるのは、仕方のない話だ。
わかるな?」
「つまらないなんて思っちゃいませんよ」
シェリハが言い返すと、ルハルクは口許を緩めた。
ブラックホールのように、底が見えない黒い瞳が二人を映し出す。
椅子を回転させ、二人の前に向き直る。
「…顔が言っていたんだよ。
しっかりな」
そしてまた体の向きを変え、ディスプレイを見つめながら口を閉じた。
再開するキーボードが作り出す音が、二人にプレッシャーを与える。
この無言が一番恐ろしいのだ。
二人は仕方なく持ち場に戻った。
ディスプレイに向かい合って十分、シェリハは溜め息を吐き、コーヒーを一口飲む。
時計の針を気にしても、一向に時間は過ぎてはくれない。
常人ではない者の真似事をしても、どうにかなるわけではない。
捌くスピードそのものが違うのだから。
そもそもシェリハはタイピングが得意ではない。
普段は絵を描く事が多く、タイピングする時は企画書を作る時くらいだ。
こんなふうに時間に追われて、大量の活字を打ち込む機会自体が少ないので、彼に合わせていたら腱鞘炎になってしまいそうだ。
シェリハは紙の塔を少しでも切り崩す為、感覚がおかしくなってしまった指先でタイピングを再開した。
それからしばらくして、時計の針が十二時を指した時。
やっと解放されたと思い、シェリハが立ち上がる。
彼が動くよりも早く、ルハルクは何処かに素早く電話を掛ける。
「エブミアンテのルハルク・マリエイドですが。
日替わり弁当三つ。
あとは…ああ、マンゴープリン三つ追加で」
相手が電話を切るのを待ってから、自分も電話を切る。
この作業が終わらない限りは外には出れない…シェリハはそう悟った。
シェリハを見ると、彼はニヤリと笑った。
「…残念だったな。
終わるまでは外に出すつもりはないからな。
ちなみにデザートは奢りだが、弁当は自腹でよろしく」
そう言い残し、ルハルクは何処かに去っていった。
やがて弁当とデザートが到着する。
できたての味は美味である筈なのに、やる気とともに削がれて味気無く感じてしまった。
短い夢を味わった後、持ち場へと戻る。
マンゴープリンの甘い口どけを、コーヒーで調和を取る。
昼食後の眠気覚ましには丁度良い。
気は重いが、ディスプレイと向かい合う。
チラチラとキーボードを見ながら、文字を打ち込んでいく。
(…これが毎日なんて耐えられないな…)
活字だけが視界に飛び込んできて、ふと思う。
事務処理に追われる日々なんて、きっと耐えられない。
それはなぜだろうか。
企画の段階ではコンセプトやテーマなど、文字で説明することも少なくない。
だが最終的に用いるツールは、絵を選んでいる。
絵本を好きになってからは、文字よりも絵の方が愛の比重が大きいからかもしれない。
情報収集や教養を深める為に本を読む事はあるが、強く惹かれるとまではいかない。
もしそうであれば、事務の仕事にも精を出せることだろう。
書類を捌き始め、もう数時間が経過した。
太陽は布団の中深く潜りはじめ、月が目覚めの準備をしている。
時計の針が4の数字を指したところだ。
紙の塔の高さはというと、軽く見積もって半分くらいといったところか。
吐き出して幾度目かになる溜め息を飲み込んで、再び文字の打ち込みを始めたシェリハの視界に指先が飛び込んできた。
手の甲を中心に浮き出た血管。
骨張った指先は男性らしさを感じさせる。
現在この場所にいる男性はルハルクとシェリハだけだ。
腕の持ち主はルハルクだろう。
自らに課されたノルマだけでは飽きたらずに、シェリハの仕事を手伝うとでもいうのか。
ルハルクは無言のまま、書類を半分ほど掴み取った。
「だめですよ、それは俺の分ですから」
「そうかもしれないが、俺が暇になるだろう?
どうせやるなら誰がやろうが、構わないだろう」
口調は淡々としているが、これは彼なりの優しさの照れ隠しなのだろう。
ルハルクの絶妙な飴と鞭の使い方がとても好きだ。
上司の肩書きを武器に偉そうな態度を取ることもなく、どうでもいい話にさえ耳を傾けてくれ、冷たくあしらわれた社員はいないと聞く。
誰にも分け隔てないこの態度。
仕事に対する情熱と徹底ぶり。
だから彼は社員に慕われ、愛されているのだ。
男女問わず彼に憧れを抱くのも、わからないでもない。
トゥルルル。
電話音が静寂を切り裂いた。
ルハルクが電話を取り、何か話をしている。
だが相手は得意先ではないようだ。
敬語を使うこともなく、笑い声が零れる。
口調がどことなく優しく感じるから身内か年下の人間だろう。
ルハルクは電話を切ると、シェリハの元に再びやってきた。
「シェリハ、手を止めろ。
大切な客人がくるらしい。
例のモデルの子だ」
そう言い放たれた瞬間、シェリハは時が止まったのかと思った。
驚きで大きな瞳と口が開かれた。