16 月寿と星凪
シェリハにとって刺激的な夜の翌日。
彼はハイスペースで仕事をこなし、夕方に会社を出た。
理由はひとつ、梨星の母・星凪に会う為だ。
手が届いた憧憬の的という存在。
積もる話は山ほどある。
体ひとつでは足りないくらいだ。
先輩と後輩として話がしたい―それ以外の他意はない。
というのは星凪は主婦としての仕事を全うしながら、創作活動を行っているからだ。
しかもデビューは主婦になってから、と遅咲きだった。
それまでは絵を描くことを好んだ訳ではなく、何年ぶりかに筆をとったのが処女作だった。
彼女に絵を描かせたのは子供に対する愛情―それだけだった。
夫の月寿は画家だというから、彼の影響力があったのかもしれない。
そうだとしても、彼女の引き出された可能性というのは素晴らしいものだ。
努力だけでは片付けられない、独創性があったに違いない。
だからシェリハは彼女の作品に惹かれた―彼はそう考えている。
シェリハはわくわくしながら、滝見家の戸を叩いた。
すると星凪が快く出迎えてくれた。
「いらっしゃい。
首を長くして待ってたのよ。
…さあ、どうぞ」
頭の天辺にきれいな円を描く団子を作り、パステルピンクのレースとボア素材のシュシュで頭を飾っている。
肩を露出したオレンジのセーターに、ボトムスはデニムの膝丈スカートに黒のスパッツを合わせている。
カジュアルの中に大人を思わせるスタイルだ。
星凪に手招かれて、昨日と同じ部屋に連れられる。
竹で編まれた籠の中に下敷きとしてレース柄のペーパーが敷かれ、ラスクとハニートーストが目一杯顔を出している。
食欲をそそる匂いが部屋中に広がっている。
ラスクを頬張り、ブラックのコーヒーを一口してからはっ、と思い出す。―今日の目的を忘れてはいけない。
コーヒーカップを口から離し、テーブルの上に置いた。
「星凪、貴女は何故絵本を…?」
「月寿に影響を受けたのかしらね。
でも絵に関心はあったけど、それまで自分の手で描くことはなかったのよ」
星凪はコーヒーカップに添える指を空に向けて遊ばせながら話し始めた。
月寿。…良くも悪くも自由な若き画家。
束縛される事を嫌い、一般の若者達と比較するとかなりの変わり者だった。
猫のように自由な生活を送り、好きな事を気のすむまで行う。
絵を描く事に行き詰まればマンネリ打破の為だけに飛行機に乗り込み、海外へも何も考えずにその身一つで行ってしまう。
そして暫くの間音信普通になる。
それが原因で彼は恋愛を長続きさせることができず、安定と安心を求める恋人達は涙を流しながら月寿から逃げるように去っていった。
その時の星凪の職業は絵本作家ではなく、小さな本屋の店員だった。
特にこれといった目的もなく、本を読むのが好きという単純な理由から本屋の社員になった。
自宅もしくはアトリエが近かったからか、月寿は度々星凪の勤める本屋にやってきた。
手に取るのはいつも背景がメインの資料ばかり。
不思議に思った星凪が話し掛けたのが始まりだった。
『いつもこういった本ばかり買われるんですね。もしかして絵を描かれたりするんですか?』
『仕事ですけどね。
これでも画家の端くれなんですよ』
うっすらと日焼けした健康的な素肌に、あまり肉付きが良いとは言えない頼りなげな二の腕を露出したタンクトップと、ブーツカットジーンズを身に着けていた。
顔の造形はまるで石膏で造られた像のように、パーツそれぞれが整っていた。
目・鼻・口・眉、そのどれもが喧嘩せず、調和していた。
月寿の言葉に星凪は驚愕した。
(こんなにきれいな画家もいるの?)
星凪の想像する画家とはかなりイメージが違っていて、彼女は目を丸くしてしまった。
『画家…全然見えませんでした』
『よく言われます。まだ卵みたいなものですから、貫禄を身に着けないと』
決して嫌味ではなく自然に出た言葉だった。
彼の容姿に惹かれたのか、彼の不思議に惹かれたのかはその時はまだわからなかった。
時間は二人の距離をどんどん縮めていった。
店員と客の関係から、食事するような仲にまで発展した。
それが星凪にとって不思議でならなかった。
こんなことは想像できなかったからだ。
『私と貴方は違うわ。だから私は貴方に興味があるのよ、きっと』
『…いや、星凪と俺は似ているんだ。
だから気になる、興味がある…好きや嫌いなんてその後についてくるもんだよ』
理解できなかった。
知らない世界に興味はある。
でも異性としての好きではない。
今まで付き合った男性にはないモノを持っている、初めて見るタイプ。
(…変な人。)
その時星凪は月寿のことを、その程度にしか思っていなかった。