15 不思議な滝見家
靴を脱ぎ、部屋へと通される中でシェリハは見たことのない数々の装飾に圧倒されていた。
玄関に入ってすぐのところにあった、マーブル色に染められた裸婦をモチーフにした傘立て。
虹に跨がった天使が描かれた壁紙。
蔦に絡まれた蛇を象った蛍光灯。
市販されていない、オーダーメイドであろう物ばかりだ。
梨星と女性が何か話していたが装飾品に心奪われ、シェリハは耳を貸さず気にも留めていなかった。
(それにしても彼女は誰なんだろうか…)
足を広げて寛いでいるような格好をした熊を象った椅子に座らされ、シェリハはふと思った。
この家にいるからには身内の者だろうが、母親にして少し若いような気がしていた。
色気を帯びたダークブラウンの垂れ目を味付けする、肌に馴染んだブラウンのアイカラーが更に魅力を引き立てている。
シミひとつ見当たらない、平面的で健康的な肌。
目の色と同じ髪は肩甲骨まで伸び、傷みの少ないストレートが美しい。
やや吊り気味の細い眉は意思を表現しているかのようだ。
体にフィットした赤のタートルセーターと黒のジーンズを見る限り、余分な肉は見えない。
均整がとれており、メンテナンスを意識しているのが窺える。
玄関先で見た天使の壁紙に、奇抜ともいえる個性的な装飾品は梨星の父親の趣味なのだろうか。
シェリハが惚けていると彼女は温かいお茶と茶菓子を用意してくれた。
「ありがとうございます…すぐ帰りますので」
「そう言わないで。娘をわざわざ送ってくれたんだもの、どうぞ」
そう言って彼女は梨星も椅子に座らせ、微笑を浮かべた。
どことなく優しい印象は梨星に似ている。
親子なら当然のことだが、年の離れた姉妹と言っても通用しそうな外見だ。
「シェリハ、はい。
さっきお金払って貰ったから。 ゆっくりしてってね」
シェリハの懐に紙が擦れたような音を残し、茶菓子を口に咥えながら梨星は足早に部屋から姿を消してしまった。
懐に入れられた物を取り出すと、くしゃくしゃになった千円札だった。
気にすることはないのに…と思いながら、千円札を懐に戻してお茶を啜った。
すると女性は微かな笑い声を漏らし、シェリハの隣の椅子に腰かける。
「あなた…日本語がお上手ね?」
もう聞き慣れたその言葉にシェリハは笑みで返した。
何も好きで外国の血を持っているわけではない。
他人にあれこれ吐いたところで何か変わることはないのだから、仕方のないことだがシェリハにとっては最も気にしていることなので、つい敏感に反応してしまう。
父に似た外見のせいで幾度となくからかわれる材料になってきた。
英語が話せないのはおかしいだの、日本で育ったからといっても日本人ではないだの好き勝手言われてきた。
悔しいことにそれは真実であり、ひっくり返すことはできない。
整形しようにも骨格という手の施しようがない難問にぶつかってしまう。
だからもう半分は諦めている。
「…よく言われます。父の血が濃かったみたいで」
「あら、あなたハーフなの?
なるほどね。…私の旦那もあなたと同じなのよ。
今は旅行中でいないんだけどね」
彼女は相槌を打つだけで、深い部分には触れてこなかった。
シェリハは有り難く思い、ここに来てはじめて笑った。
彼女の夫がハーフであることに共感を覚えて、安心してしまったからだ。
「そういえば名乗ってなかったわね。
滝見星凪よ、よろしくね」
「シェリハ・マルフリーフェです」
シェリハがそう言うと、星凪は目を点にした。
その瞬間、シェリハもはっとする。
いつか聞いたことのある名前。
…そう、幼い頃に出会った若く美しい絵本作家。
そして星凪にとって心に残っていたファンであった少年。
出会った場所で交わした言葉が二人の脳裏に浮かぶ。
幼く若かった二人が時を経て、再会したのだ。
世間はなんて狭いのだろうか。
「まさか…あの時の?」
「ええ。あの時俺は小さい子供だった…。
でもあなたは変わりませんね」
シェリハのセリフに星凪は吹き出し、彼の額を小突いた。
少年なのに大人っぽい、お世辞の上手い男の子。
無意識なのかもしれないけれど、大人になっても変わらない。
大人になって覚えたこともあれば、忘れたこともあるだろう。
少しは世間擦れして成長したのだろうか?と星凪は母のような気持ちになっていた。
「あなたもそういうところは変わってないわ」
「そんなことないですよ。
まさかあなたに会えるとは思ってなかったけど…」
そう、会えるはずなどない。
それが作家とファンである一般人の距離。
ファンレターを読んで貰えるだけでもまだましな方だ。
シェリハにとって星凪は憧れの存在だった。
そして今も未来に向かって現在進行形だ。
時は過ぎ、シェリハは少年から青年になった。
デザイナーになるべく、専門学校で知識と技術を学んだ。
遊びや恋にかまけたい休日を返上して、スキルの向上に努めた。
すべてを夢に、星凪に近付くため。
もちろん恋と遊びに命を懸ける当時の恋人達は、誰一人理解してくれることはなかった。
寂しいと嘆き、当然のことながら関係は長続きしなかった。
鳴り止まぬコールに、秒毎に恋人の名を刻むディスプレイ。
そんな女性達に重さを感じ始めたシェリハは以降恋人を作るのを止め、一人の時間を勉強に費やす為に日夜動き続けた。
そしてこうして二人は立場を変えて再会することができた。
絵本作家とファンではなく、絵本作家とデザイナーとして。
職種は違えど同じフィールドに立つことができたのだ。
お互いは仲間であり、好敵手。
培ってきたキャリアとスキルを武器に、どこまで渡り合えるのか楽しみでならない。
「私もよ。でもあなたがこの世界に足を踏み込んできてくれたから、また出会えたのよ。
夢を叶えたあなたの力に期待してるわ、シェリハ」
星凪はどこか含みを持たせる意味合いの言葉とともに、笑みを零した。
ひとしきり無言で視線を絡ませた後、星凪は時計に目をやった。
受話器を取り、一言二言話すとガチャ、と切った。
どうやらタクシーを手配してくれたようだ。
時計を見ると10の針を指している。
そろそろ去った方がいいと思っていたところだ。
シェリハは星凪の気遣いに一礼し、椅子を引いて席を立った。
「大したことじゃないわ。もう夜も遅いしね。
またあなたと話がしたいわ。
夕方以降は家にいるから、暇な日に相手をして頂戴」
「断る理由なんてありませんよ。
是非また寄らせて下さい」
久方振りの再会に震える胸。タクシーに揺られる中、シェリハの脳内は眠る前とは思えないほど活動していた。
初恋を覚えた初々しい少年のように。
あの日と同じ、胸の高まりがあった。