〔1〕
昨日から、やたらに眠くて生あくびばかり出ていたんだ。
俺の場合、それは風邪の兆候に間違いない。でも英語の授業じゃ不真面目だって決めつけられ、目が覚めるようにと教科書を読まされた。
立って音読しているうちに、頭はふらふら、足はがくがく……。
気が遠くなって、気が付いたら保健室で寝ていた。
保険医に付き添われ、タクシーで向かった病院の診断は案の定、インフルエンザ。
5日間の登校禁止か……ついてないな。
明日は確か、バレンタインだ。まあ、個人的にチョコをもらえる相手はいないけどクラスの女子達が、だれかれ構わず菓子を配ってくれる日だから楽しみにしてたのに。
そう、もしかしたら今年は、誰かが俺だけにチョコをくれたりして……?
「弘武くん、熱計った? 熱が下がっても、薬は飲まないとダメだからね!」
「んあ……」
俺の妄想は、母さんの冷たい一言で破られた。
「かあさぁん……俺、昨日学校で倒れたんだぜ? あんた、風邪で死にそうな可愛い一人息子を置いて、仕事に行っちゃうんだ」
「その程度の風邪じゃ、死にゃしないわよ。それよりオマンマの食い上げが大事なの」
「鬼っ! 悪魔っ! 人でなしっ! 恐怖の大王!」
「あーはいはい、その元気があるなら大丈夫。お昼ご飯はオニギリつくっておいたから、インスタントみそ汁で食べてね。リビングのテーブルの上よ」
母さんは、そのまま振り向きもしないで俺の部屋から出て行った。俺は身体を起こして、さっきまで口に突っ込んでいた体温計を見る。
「三七度八分かぁ」
昨夜は四〇度近い熱が出て意識がもうろうとしてたから、さすがに恐くなったけど人間って案外丈夫なもんだな。母さんの言うようにこのくらいの風邪で死ぬ事はないんだろう。
「そうそう、弘武! 今日はバレンタインだから、母さん帰りにヒャッキンでチョコ買ってきてあげるねー♪」
階段の下から聞こえた声に、思わず中指を立てた。もちろん母親にたいしてするべき事じゃないけどね。
久しぶりに本気で心配してくれたと思ったら、コレだよ。息子をからかうなっつーの!
母親から哀れみのヒャッキンチョコなんか、いらねーよ。
「はあぁぁ……」
俺はガックリ肩を落とし、猫っ毛の頭を掻きむしった。
いつもはワックスで綺麗に起てているけど、今日はその必要もない。
女の子が家に訪ねてくるなんて、間違ってもありえないしね。
運動能力も低いし、顔も十人並み。成績だって中の下。唯一の自慢は吹奏楽部でトランペットをソロで吹く事だけど、背が低いから今ひとつ目立てない。
今までチョコを貰った事なんか無かったよ、ちくしょう……。
「ひでぇ親……高校生になったからって、まだ十六歳だぜ? 小学校の時は、もっと優しかった気がするのになぁ……」
父さんは東北の発電所に単身赴任して長く不在だから、我が家は母子家庭みたいなもんだ。
父親役を兼ねる母さんは、僕の事をよく考えて丁度良い距離で接してくれていた。時に、厳しすぎるんじゃないかと思うくらいね。
今日だって休めない訳じゃないのに、「甘やかしたら図に乗る」って理由で仕事に行ってしまった。
四〇歳を過ぎてるわりに見た目も気持ちも若い母さんが、外で働く事は賛成だ。だけど病気の時くらい、やっぱり側にいて欲しいよな。
ふて腐れてベッドに身体を投げ出すと、背中が冷たかった。
ああ、汗で湿気たパジャマを着替えるように言われていたんだ。
俺は母さんが枕元に用意してくれた着替えを確かめ、パジャマを脱ぎ始めた。
「おいおまえ、レディの前で服を脱ぐのは失礼だぞ!」
どこからか、声が聞こえた。女の声?
部屋を見回す。
この部屋にテレビはないし、ラジオもない。パソコンのスイッチは切ってあるし……窓の外か?
それなら関係ないや。俺はパジャマを脱ぐと、アンダーシャツをたくし上げた。
「きゃあ、きゃあ、きゃあっ! やめろと言ってるんだ!」
「……幻聴かぁ?」
三十七度八分は、幻聴が聞こえるほどの高熱じゃあない。だとしたら、何だ? ずいぶん甲高い女の声だけど。
「ふぅん……」
俺は素早くアンダーシャツを脱いだ。
「こいつ、聞こえなかったのかっ!」
思った通り、また声がした。
「聞こえてるよ! 誰だ? どこから覗いてるんだ、変態女!」
「なんだとおっ!」
一瞬、目の前を白い物が横切った。通り過ぎた方向に目を向けると、学習机の上に……上に……。
「ひえぇっ?」
驚愕のあまり、口を突いて出たのは裏返った叫びだった。
父さんが帰宅した時に、土産で貰った木彫りのペンスタンド。その二〇センチほどの高さに並んで立っていたのは。
「変態女と言うなっ! あたしは使いの者だ」
なんとセロファンのように薄い、四枚の羽のくっついた女の子。
キラキラ虹色に光る羽は理科の実験で見た雲母のように綺麗で、形はトンボか蜻蛉みたいだった。身体には、ほんのりピンク色に輝く白いワンピースを着ている。足は素足で、マッチ棒みたいに細い。薄茶色の長い髪が掛かって顔はよく分からないけど、どこかで見たような。
「熱で脳症おこしたって話を聞いたな……俺も危ないって事か?」
目の前のものは、理解の限度を超えている。
俺は頭を抱えて、溜息を吐いた。どうやら若い命は誰に看取られることなく、脳症の為に終焉を迎える事になりそうだ。
「馬鹿者! 見えているなら、あたしの話を聞け!」
「……なにぃっ、ふざけんなよっ!」
幻覚にしては尊大な物言いに、むっとした俺はペンスタンドに左手を伸ばした。女の子は、ひらりと飛び上がって逃れたが、素早く右手で叩き落とす。
「ぷぎゃっ!」
「ふん、虫取りは得意なんだよ」
父さんの仕事先に遊びに行くたび、昆虫採集で培った手さばきが役に立った。
でも少し可愛そうだったかな? 一応見た目は女の子だし……死んじゃいないと思うけど、くたっとしている。
俺は羽に触らないように気を付けながら、机に張り付いたものをそっと掴む。
意外に柔らかくて温かい、ふわふわとした猫のしっぽのような感触だ。リアルな手応えに、夢や幻じゃないのかと驚く。
「離せ! はなせっ! 馬鹿ぁ!」
「あ、ごめん」
悲鳴のように叫ばれ思わず手を緩めると、ふらふらした足取りの女の子は机の端まで行き、ちょこんと腰を下ろしてマッチ棒のような両足を突きだした。
俺は不思議な気持ちで眺めていたが、はっと気を取り直す。
「えっと……おまえ、何? 使いの者って……あの世からの使いとか?」
「違う。しかし遠藤弘武、おまえはもうすぐ死ぬかもしれないぞ!」
びしっと、その小さな女の子に指さされて、俺は吹き出した。あまりに、非現実的だ。
「あのなぁ……夢でも幻でも良いけど、出来たら消えてくれ。俺はもう寝るよ、また熱が上がりそうだ」
「まてまてまてっ! このままではおまえの命が危ないのだ。助かる方法は一つしかない」
俺は素早い仕草で、再び女の子を鷲掴みにする。
「いい加減にしやがれ! 握り潰すぞっ!」
「ひぃん! 話を聞いてよぉ~!」
女の子は手の中でジタバタと暴れた。
まあいいか、どうせ夢なんだし話を聞いてやっても構わないだろう。
憐れになった俺は、そっと手を離した。
「俺の命が危ないって、どういう事だよ。この風邪の所為で死ぬってのか?」
「おまえ、木ノ原瞳子という女を知ってるか?」
突然、意想外な話を振られて俺は狼狽えた。
木ノ原瞳子は大人しくて、あまり目立たないクラスメイトだ。同じ吹奏楽部でサックスを担当しているが、話した事はない。
女子の中では小柄で、唯一俺より目線が低い。だから、ちょうど目の前に茶色がかった癖毛のポニーテールがクルンと揺れて……ちょっと可愛いんだよな。
「まっ、まぁ……そのっ、木ノ原がどうかしたのか?」
「おまえは、木ノ原瞳子の手作りチョコを食べないと、死んでしまうのだっ! それが唯一の特効薬なのだっ!」
「はぁ?」
大きく深呼吸して、俺はベッド脇の雑誌を丸めた。
このわけの分からないものに、消えて貰おうと思ったからだ。しかしリアルに潰れたら、ちょっと嫌かな?
「まてまてまてっ!」
雑誌を振り上げた俺に、女の子が慌てる。
「正直に言おう。木ノ原瞳子はおまえに食べて貰う為のチョコレートを、ゆうべ徹夜で作っていたのだ。おまえが風邪で倒れたのが心配で、心配で、心配のあまり手元が狂って火傷までしたんだぞ。何度も失敗して、夜中に深夜営業の店に材料を買いに行ったんだぞ。早く良くなりますようにと、涙を流していたんだぞ。その祈りと想いがあたしを、おまえの元に送ったのだ。だからあたしは、何が何でもおまえに木ノ原瞳子のチョコを食べてもらわねばならん」
「……あほくさ」
俺は雑誌を放り出し、ベッドに寝ころんだ。
死ぬだの特効薬だの、何を言い出すかと思ったら……。
はたはたと、飛んできた女の子が俺の鼻に留まって眼を覗き込んだ。
「食べてやってくれ」
「あのなぁ、そういうの嫌いなんだよね。お仕着せがましいって言うか……だから何だよって、思うんだけど? 感動しなきゃならないのかよ? 俺は、木ノ原なんて……」
正直、そんな事言われたら嬉しいさ。しかし俺にだってプライドがある、たとえ夢の中だってホイホイ喜んだら格好悪いじゃないか。
そう言えば、保健室まで鞄を持ってきてくれたのは木ノ原だったような気がするな。
「大丈夫?」とか何とか言ってたっけ? ぼうっとしてたから、よく覚えてないけど。
吹奏楽部では、小柄なくせに大きなアルトサックスを操っている。入部したての頃は顔を真っ赤にして演奏してたけど、そう言えば最近上手くなってきた。
ポジションは俺の斜め前だから、間違ったりするとすぐ解るんだ。
あいつ俺の事、気にしてたのかな? 俺の為にチョコを作るって事はつまり……?
変だな、だんだん息苦しくなってきた。顔も熱くなってきたし……。
「食べて……くれないのか?」
間近で見た女の子の顔は、何となく木ノ原に似ている気がした。
つんとして、可愛い鼻。厚みがあって、綺麗なピンク色の柔らかそうな唇。つついてみたくなる、白い頬。
うっすら涙らしきものを浮かべて俺を見つめる、ちょっと小さくて子犬みたいな眼。
マジ、やばい。心臓がばくばくする。
「ま、まぁ……しょうがねぇな。食ってやるけどさ」
精一杯の虚勢を張って呟いた声が、うわずってかすれた。
「そうか! 良かった!」
女の子は、にっこり笑って俺の鼻の上から舞い上がった。
「きっとだぞ」
そして、すうっと消えてしまった。
夢か?
それにしたって、変な夢だ。俺は部屋中を見回したが、あの女の子の姿は影も形もない。
だんだん頭がぼんやりしてきて、俺はそのまま眠気に吸い込まれていった。