しろいあしあと
目に痛いほど澄んだ濃い紫色の空は、
一つ二つ星が浮かび始めると、
一気に闇へと色を落としていった。
僕とシロはキュッキュとかすかな足音を立てながら、
雪の積もった原っぱを通りに向かって歩いていた。
向こうから紺色のコートを着た女の子が一人、
うつむきながら速足でこっちに向かってきた。
「どうしよう、どうしよう」
女の子の声がここまで響いてくる。
「どうしよう、どうやって言おう」
女の子はすっかり青ざめて、
もう少しで涙がこぼれそうになりながら、
雪道を大股で歩いてくる。
茶色いローファーは雪がしみて、
黒いハイソックスはたぶん冷たく濡れているのだろう。
「ごめん、なくしちゃったの。
・・・じゃ、信じてもらえないかなあ。
先生、忘れちゃってるみたい。
・・・そしたら、きっとお母さん、学校に電話するだろうし。
ああ、どうしよう、どうしたらいいだろう」
女の子はそのまま僕とすれ違って、
坂の上の住宅街の方へ行ってしまった。
僕とシロはいっしゅん顔を見合わせた。
シロが困ったようにきゅううん、と鼻を鳴らす。
僕だって知らないよ。
あの子が何をそんなに困っているのかなんてさ。
また、向こうから誰かが歩いてくる。
今度は重そうなスーパーの袋を両手に抱えた太ったおばさんだ。
「あーあ、今日は忙しかった、くたびれた。
家に帰ったら帰ったで、台所は朝のまんまだし、
洗濯物は冷たくなっちゃって、何のために干したんだか。
いたたた・・・、腰も膝が痛いのもちっともなおりゃしない。
病院なんて、時間とお金のムダだわね」
おばさんは眉間にちょっとしわを寄せて、黙々と歩いてくる。
僕はふとお母さんのことを思い出した。
僕が小学一年生の時に、いなくなってしまったお母さん。
長いこと病院にいたのに死んじゃったから、
やっぱり病院は時間とお金のムダなのかな。
それから、シロと初めて会った頃のことを思い出した。
お父さんと二人になって、
そのあとすぐシロが来たんだ。
ころころ太って、あったかくて柔らかい子犬だったシロ。
シロは一人っ子だった僕の、
お母さんときょうだいの代わりになった。
シロは半分開いた口の端を
笑っているみたいにちょっと上げて、
僕を見ながら静かにしっぽを振っていた。
太ったおばさんが行ってしまうと、
しばらくは僕とシロのふたりきりで歩いた。
広い公園のなだらかな芝生は、一面雪に覆われている。
まるで、映画で見た遠い国の、
どこまでも続く広い大草原みたいだ。
僕たちずっと歩いているのに、
いつまでたってもうちに帰れない。
シロはただまっすぐ前を見て、元気に歩いている。
そうだね。
歩いていけば、いつかは帰れるはずだ。
振り返ると、真っ白な雪の原っぱに、
僕とシロの足跡がずっと遠くから並んで続いている。
僕は、一人じゃない。
足跡を見て、僕はそう思って、
少しだけ心細さがまぎれた。
シロがいてくれて、良かった。
ぼんやり明るい街灯の先に、男の子が一人、現れた。
何だかすごく悲しい顔をしている。
それとも、さびしい顔?
マフラーを首に巻いて、
ズボンのポケットに手を突っ込んで、
寒そうに歩いてくる。
近づくと、男の子の顔立ちがはっきりと見えた。
そばかすのある鼻のてっぺんは、
寒さで赤くなっている。
少し下を向いている目じりと、
はっとするぐらい長いまつげ。
女の子みたいにかわいい子だなと僕は思った。
背の高さは僕と同じぐらい。年も同じぐらいかな。
その子の声は、聞こえてこなかった。
心の中が空っぽみたいだ。
たくさんたくさん考えすぎて、
もう何も考えられなくなったみたい。
「ねえ、疲れてるんなら・・・」
僕の声は聞こえないとわかっていたけれど、
すれ違いざま、声をかけてみた。
「少し休むといいよ」
男の子は黙々と歩いていたが、
少し離れたところでちょっとだけ立ち止った。
シロがワンワン、と吠えた。
それもやっぱり聞こえないみたいだ。
「どうしてそんなに疲れちゃったの?」
男の子は答えない。
だけど、何かの気配にじっと耳を澄ませている。
「こんな雪の日にやみくもに歩いていたら、遭難しちゃうよ」
僕はちょっと大げさに言ってみた。
男の子は、うなだれて、長いため息をついた。
それから少し速度を落として、歩いて行ってしまった。
シロと僕は、雪をきしきし踏みしめながら、
通りに向かって歩き続ける。
イチョウ並木にさえぎられているけれど、
その向こうに、通りは確かにあそこにあるんだ。
そしてその先に、僕の家があるはずなんだ。
なのにいつまでたっても、
僕たちはたどり着けないでいる。
葉のすっかり落ちたイチョウの枝の先の方まで、
あんなにはっきりと見える。
もう、すぐにでもたどり着けそうなのに。
さっき、男の子に偉そうに言ったけど、
遭難しているのは僕たちの方かもしれない。
雲の切れ目から、細くとがった月が現れた。
つかんだらぱりんと折れてしまいそうだ。
じっと見ていたら月の光が目にしみて、
涙が出そうになった。
シロがわおおん、と月に向かって一声吠えた。
ごめんなさい。
ふいにそんな言葉が浮かんだ。
なかなか、うちに帰れなくて、ごめんなさい。
僕は、誰にあやまりたいんだろう。
あんまり長いこと歩いていたので、忘れてしまった。
しんと静まり返った原っぱの向こうで、
車のライトが時折通り過ぎる。
僕は時々思い出す。
ガガッとタイヤのきしむ音、急ブレーキ。
思い出しては、ごめんね、とつぶやく。
ごめんね、シロ。
ごめんね、お父さん。
真っ暗な夜、外は雪が降っていた。
朝からずっと、音もなくひたすら降り続け、
どんどん積もり、強い風も吹いていた。
シロが玄関の外でキャンキャン騒いでいた。
僕はストーブの前で寝転んで、漫画を読んでいた。
ピー、とシロが甘えて鼻を鳴らす声がして、
がらっと玄関の戸が開き、お父さんが帰ってきた。
「なんだ、まだ散歩連れて行っていないのか」
僕は返事をしなかった。
だって、言い訳したってどうせ怒られるんだ。
「さっさと連れて行けよ、うるさいだろう」
シロは外でしかトイレをしないから、
朝と晩に散歩をしないといつまでもうるさく鳴く。
「おい、真治!」
お父さんの声が怒りを含んで大きくなる。
中学生になってから、シロの散歩はいつもおっくうだった。
朝は学校へ行く前にわざわざ早起きをして、
夕方なんて腹ペコで眠いのに、
毎日僕がつれていかないといけない。
僕には、散歩を代わってくれる、
きょうだいもお母さんもいないんだから。
「近所迷惑だから、早く行ってこい!」
「うるせえな、わかってるよ!」
僕はつい怒鳴り返した。
「なんだ、親に向かってその口の利き方は!」
お父さんは僕が一番嫌いなフレーズを口にした。
げんこつが飛んでくる前に僕は素早く起き上がり、
お父さんのわきをすり抜けて家を飛び出した。
コートも着ていなかったから、外はひどく寒かった。
シロは待っていましたとばかりに、
首まで雪に埋もれそうになりながら、
張り切ってぐいぐい鎖を引っ張っていく。
雪は風を含んで、頬に当たると痛い。
さっさとトイレだけしてくれればいいのに、
シロはあちこちで立ち止り、においかぎに夢中だ。
その姿がその時の僕をいらいらさせた。
なんでシロの言いなりにならなきゃいけないんだよ。
僕はムカついてやけくそになって、
乱暴に鎖を引っ張って、ずんずん歩いた。
ぐいぐい鎖を引っ張る僕、
引きずられるようにいやいやついてくるシロ。
住宅街の細い路地を抜けると広い国道があり、
その向こうがなだらかな広い丘の公園になっている。
普段は車が多いが、この大雪で通る車はほとんどなかった。
それに、雪がすっかり覆い隠していて、
どこが歩道でどこが車道かわからなくなっていた。
嫌そうにのろのろ歩くシロをぐいぐい引っ張って、
僕は車道を突っ切り、公園へ向かって歩き続けた。
向こうから大きなトラックがカーブを切って、
ヘッドライトが巨大な目のように光った。
シロの体が鎖ごと飛んで、
血に染まったシロのからだが雪の中に落ちた。
ああ、シロが死んじゃう・・・。
そう思ったことを覚えている。
あれから僕とシロは、
ずっと雪の中の散歩を続けている。
シロはすっかり元気で、
嬉しそうに僕の隣を歩いている。
鎖はつけていないけど、
シロは僕のそばを離れない。
僕は早く家に帰りたいのに、
いつまでたっても家には帰れていない。
イチョウ並木の向こうから、誰かが現れた。
こっちに向かって歩いてくる。
今度はどんな人かな。
僕がこの原っぱですれ違うのは、
みんな困っていたり、疲れていたり、
悲しかったり、つらい人たちばかりだ。
みんな自分のことに一生懸命で、
僕たちに気づく人は誰もいない。
人影は、雪の中をふらつきながら、
よろよろと進んでいる。
そして、時々立ち止って、
何かを探しているみたいにあたりを見回している。
顔はよく見えないけれど、
かなり年を取ったおじいさんのようだ。
見ているうちに、僕は何だか落ち着かなくなった。
あの人に見つかったらどうしよう、と不安になった。
シロの体がぴくん、と緊張した。
そして、大きな声でワンワン吠え始めた。
「どうした、シロ?」
戸惑う僕に構わず、シロは人影に向かって走り出した。
宙を飛ぶ勢いで、ぴょんぴょんはねながら、
嬉しそうにしっぽをぶんぶん振り回して、
弾丸のようにすっ飛んでゆく。
人影はシロに気づき、身をかがめて腕を広げた。
その腕の中にシロはまっすぐ飛びこんでいった。
僕はショックだった。
シロが勝手に僕のそばを離れて、
誰かのところへ行ってしまうなんて。
だけど、シロが飛びついていくなんて、
いったい誰だろう。
シロが知っている人?
僕はシロとその人影の方へ近づいていった。
だけど、急に足が雪に取られて重くなって、
なかなかたどり着けない。
シロはあっという間に行ってしまったのに。
雪がまた降り始めた。
どんどん強く、風も吹いて、
ちょうどあの日のように。
シロたちの姿が白く煙って、
見えなくなりそうだ。
「シロ!」
僕は叫んだ。
シロは僕に気づいて、
こっちを向いて元気に吠えた。
早くおいでよ、と言っているみたいだ。
人影はまっすぐ立ってこっちを見ている。
顔の表情は、雪にかすんでよく見えない。
それが何だか、僕はとても怖かった。
怒っているのか、悲しんでいるのか、
困っているのか、疲れているのか。
それが見えないと、何だか落ち着かない。
不安な気持ちはどんどん大きくなって、
僕は立ちすくんで一歩も動けなくなってしまった。
こんなことは今まで一度もなかった。
シロが僕からこんなに離れていくことも、
僕がすれ違う誰かを怖いと思うことも。
雪が僕たちを引き離すように、
激しく渦巻いて吹き荒れていた。
「ワンワンワン!」
シロがしびれを切らしたように僕に向かって走ってきた。
「駄目だろ、勝手に走って行っちゃあ」
シロを抱きしめて、僕はうずくまった。
シロが戻ってきてくれて、ほっとしていた。
でも、シロはじっと僕を見つめて、
不満そうにウウッと低くうなり声をあげた。
早く行こう、と僕の袖をかんで引っ張った。
でも、雪が僕を重く包んで、
僕は立ち上がることも出来なかった。
その時、耳元で懐かしい声がした。
「真治」
名前を呼ばれてこわごわ顔を上げると、
一人のおじいさんがいつの間にかそばに立って、
僕を見下ろしていた。
その顔には見覚えがある。
「・・・お父さん?」
お父さんは、すっかり年を取っていた。
髪の毛はすっかりなくなって、
がりがりにやせて、しわだらけで。
僕のことを怒りながら、
ずっと一人ぼっちで生きてきたんだろう。
僕は今にも怒鳴られそうで、
首をすくめて目をつぶった。
わっと叫ぶ声がした。
びっくりして目を開けると、
シロがお父さんに飛びついて、
顔をぺろぺろなめまわしていた。
「おいこら、シロ、やめろ!」
お父さんは顔をくしゃくしゃにして、
大声で叫んでいた。
でも、本気で怒ってるんじゃない。
シロはめちゃくちゃ尻尾を振っているし、
お父さんはのけぞりながら、
シロをしっかり抱きとめている。
そして、のどの奥で、
くっくっと愉快そうに笑っている。
僕ははっとして目をこすった。
お父さんが少しずつ、
おじいさんでなくなっていく。
背の高い、肩幅の広い、日に焼けた肌の、
けんかしたら絶対に負けてしまうたくましいお父さん。
それからシロは振り返って、
いきなり僕に飛びついてきた。
シロにのしかかられて、僕は雪の上に倒れた。
シロは僕に馬乗りになって、
べたべたする生ぬるい舌で、
僕の顔と首をめちゃくちゃになめまわした。
「わあっ、やめろやめろってば!」
思わず目をつぶった僕の耳に、
ハッハッハッと、お父さんの笑い声が響いた。
シロが不意に動きを止めた。
僕から離れて、どこか遠くを見つめている。
そして、何かに誘われるようにとことこと歩き始めた。
どこへ行くんだろう。
僕はゆっくり立ち上がって、
シロの歩き出した先に目を凝らした。
吹雪はいつかやんでいた。
夜が明け始めていた。
薄明るい真っ白な原っぱの向こうから、
また一つ人影が近づいてきた。
シロはその人影に向かって、まっすぐ歩いていく。
「お母さん!」
レモン色のセーター、灰色のスカート。
お母さんが、写真の中の若い元気な姿で、
ニコニコ笑って僕たちに手を振っていた。
「ごめんごめん、早く来ちゃって」
そう言って、照れくさそうに笑うお母さん。
お父さんはおう、と片手をあげて、
やっぱり照れくさそうに笑っていた。
ああ、やっと会えたね。
また、みんなで一緒に歩けるね。
空はすっかり明るくなっていた。
青空の下を、すぐそこにあるイチョウ並木に向かって、
僕たちは並んで歩き始めた。
振り返ってみたら、きらきら光る白い雪の上に、
三人と一匹の足跡がにぎやかに並んでいて、
僕はとてもとても、嬉しくなった。