唄う。踊る。狂う。
――――紅魔の森・深部
「着いたわよ」
ハインスにそう声をかけた魔女はそっと彼の横に降り立った。
魔女に連れられてきた場所は、木々を切り取ったように開けた草原にある遺跡だった。
遺跡と言っても、古めかしい文字が刻まれた碑石が所々に点在するだけで、大きな建造物はない。
「ここは……紅魔の遺跡ですね。紅魔の森に用があると貴女に聞いたときから目的地はここではないかと半分予想はしていましたが、こんなところに何の用ですか?」
自身の記憶にあった遺跡の資料と、眼前に広がる遺跡を照らし合わせて、自分のいる場所を判断する王子。
「たしかこの遺跡は火の神を信奉する人々の遺跡だったと思います。もっとも今はもう教徒すらいないと聞いていますが」
「さすがは博識の王子様ね。じゃあその火の神様のモチーフになった存在がいることも知っているかしら?」
「……いえ、さすがにそこまでは」
「うふふっ、教えてあげる。ここで崇められていた火の神は、昔この一帯で暴れ回っていたという灼熱の業火を吐く龍―――『血染まりの赤龍』よ」
「……血染まりの赤龍?」
ハインスはその単語に聞き覚えがあるようで、すぐにその逸話を記憶の山から探し当てる。
「レイムロットの伝承に出てくる怪物じゃないですか。灼熱の炎を吐き、幾つもの国を滅ぼしたという凶暴な魔獣。多くの人々を食らった返り血でその鱗が深紅に染まったという、あの赤龍ですよね? いくらなんでもあんなお伽話の生き物が実在したわけ……」
そこで王子は言葉を止める。自分の脳内で歯車がガチリと噛み合った音が聞こえたからだ。魔女の屋敷を発つ前の会話が思い起こされ、今の魔女の言葉と結びつく。
「……『血染まりの焔』……」
メイヘン・コットンが純白の画匠となる前の最後の作品、荒ぶる炎の美しさと恐怖を題材にした絵画の名を思わず口にする。
魔女はハインスのその反応を見て満足げに頷くと言葉を続けた。
「メイヘンが『雪原を往く姉妹』を描き始めたと予想される時期……言い換えると『血染まりの焔』を描き終えた時期と、この遺跡が建てられた時期がほとんど一致するの。この遺跡に奉られる存在が血染まりの赤龍なのだとしたら、なかなかの偶然だと思わない?」
「では、彼のあの絵は血染まりの赤龍を描いたものだったと貴女は考えているのですね?」
そう問うてみたものの魔女の言動を顧みると、もはや彼女がそう考えているとしか思えない。
そしてこの場所へ魔女が自分を連れてきた目的を思い出す。
「まさかとは思いますが……赤龍を復活させるだなんて言いませんよね?」
ハインス自身その推論を馬鹿げていると思った。
なにせ、いたかどうかも定かではない数百年前の魔獣を、現代に蘇らせようというのだ。可能不可能の問題以前に、正気の沙汰とは思えない。
だが、魔女は小首をかしげて不思議そうに尋ね返す。
「あら、他に何があるの?」
呆れ果てて言葉も出ないハインスのしかめ面を見て、魔女は可笑しそうに笑い声を上げる。
遺跡の中心部へ向かって歩きながら悦に浸った声で語り出す。
「……『戯神の戯曲』は私の意思で他者の生と死を操る魔法。生ける者には死を。死せる者には生を。全ては私の描いた戯曲で踊る操り人形。これから開幕する演題は……そうね、『血染まりの悪夢の再演』といったところかしら?」
魔女の概念魔法を先ほど目の当たりにしていなかったら、ハインスも馬鹿げた話だと笑っていたかもしれない。
しかし、今まで感じたこともない禍々しい魔力の存在を知る彼は、魔女の言葉に偽りはないと思えてしまっていた。
彼女は本当に死者を蘇らせることが可能であり、彼女は本気で古の龍の復活を望んでいるのだと。
狂った魔女の狂った思想を前に、ハインスの理性が最大級の警告を発している。
このままここにいてはいけない。今からでも間に合う、すぐ魔女を止めるべきだ。赤龍が復活したらどれだけの被害が出るのだ。……そんな声が頭の中で何度も何度もこだましている。
王子の惑う心情を見透かしたのか、魔女はゆっくり振り返って王子を見つめる。
ハインスの顔にそっと手を差し伸べると、息のかかる距離で甘い声を吐息に乗せる。
「私は見たいものを見て、聞きたいものを聞いて、嗅ぎたいものを嗅いで、味わいたいものを味わい、触れたいものに触れる……それだけよ」
その言葉は何故かハインスの心を締め付けた。まるで心をがんじがらめにする鎖を強く引かれたような痛みを感じる。
「貴方もそうでしょう?」
「僕は……」
「あら?」
ハインスが何か言おうとしたところで、魔女は自分に向けられた敵意に気付いた。
魔女が指を軽く鳴らし防壁魔法を周囲に展開した直後に、数多の火炎の矢が彼女目がけて飛来してきた。
全方位をカバーする光の障壁に阻まれた火炎の矢は、爆音を立てて消失する。
もし反応が遅れていたならば、彼女は今頃紅蓮の炎にその身を焼かれていただろう。
「⁉」
「危ないわねぇ……」
火矢の放たれた方をじろりとねめつける魔女。
彼女の視線の先、遺跡の端には若い男女が一組立っていた。
「ダメです! 防がれました!」
緊張した声で少女が叫ぶ。
両手に魔法陣を展開しているところを見ると、どうやら今の炎撃魔法は彼女が発動させたものなのだろう。
「いきなり奇襲って……お前結構過激なんだな」
隣に立つ少年は少女とは違い微塵も動揺している様子はない。
魔女と王子を交互に見比べると軽い調子で挨拶してきた。
「初めまして、アンタがハインス王子だな? するとそっちが魔女さんか。魔女って言うもんだからてっきり婆さんだと思ってたよ」
「失礼な人達ね……貴方達は?」
魔女の問いにやけにかしこまった様子で少年が返す。
「俺はローゼルク王国騎士団白勇騎アルハ・クローバー」
「同じく、星天従士ムース・フリージアです。レイテムリア公国第二王子ハインス氏の救出に馳せ参じました!」
「ふぅん……白薔薇の国の勇者様ねぇ」
大陸一の騎士がこの場に現れたことにさすがの魔女も少しばかり驚いた。
先刻出会った王子暗殺部隊とは明らかに違う空気を纏う彼らを見て、魔女も王子もアルハ達が本物の救助隊なのだと理解した。
恐らくこれがハインスが踏み外しかけた道を引き返すことのできる最後の機会だ。そう思った魔女は王子に問いかける。
「だそうよ、王子様。このまま勇者様にエスコートされて帰る?」
「…………貴女も人が悪いですね」
魔女にそう聞かれて苦笑を返す。
救援としてはこれ以上なく心強い存在だが、ハインスはこのまま自国に帰るつもりはないようだ。
踏み外した一歩を、さらに深い泥沼へと踏み出す。
「いいでしょう、僕も吹っ切れましたよ。最後までお付き合いしましょう」
「うふふ、ありがとう」
◆
魔女に無理矢理誘拐された王子様の姿を想像していたアルハ達は、親しげな彼らのやり取りを見て不思議そうな顔をしている。
会話の内容までは聞こえなかったが、とても誘拐犯と被害者のやりとりには見えない。
「なんだ? あいつら結構仲良さそうだな」
「みたいですね。わたし達よりも仲が良さそうです」
「ハハッ、冗談きついなぁ……冗談だよな?」
「少なくともあの二人よりは仲が良さそうですね」
ムースが冗談とも皮肉ともとれない感想を述べるのと、一つの影が魔女に向かって躍りかかるのとは同時であった。
背後の殺気に気付いた魔女は、予備動作もなく気配の方へと巨大な防壁魔法陣を展開した。
魔女へと襲いかかった灰髪の男の拳と魔女の防壁魔法がぶつかり合い、不快な音が激しく鳴り響く。
(チッ、固ぇ。押し切れねぇな)
心の中で舌打ちし、男は魔女の展開した障壁を足場代わりに使って跳躍する。そのままアルハ達のところへ戻ってくると、フランベルの叱責が彼を待っていた。
「あぁもう、何やってるのよ!」
「うるせぇな、だから不意打ちなんてしても無駄だって言ったんだ」
男は苛つきながらも指をゴキゴキと鳴らして臨戦態勢をとっている。
「こんなに殺気立った不意打ち受けたのは初めてよ」
灰髪の男の剥き出しの殺気を受けても、魔女は動ずることもなくくすくすと笑っていた。
「貴方達もローゼルクの人達かしら?」
「あたしは聖教連特務監察執行官代行、フランベル・ロータスよ! ついでにこっちはあたしの下僕!」
「お前いい加減しばくぞ⁉」
自分のあまりにずさんな紹介に男が抗議の声を上げるが、フランベルは男の訴えなど気にもせず言葉を続ける。
「黄昏の魔女! アンタがウチの教会から盗んだお宝返してもらうわよ!」
教会の人間が何の用かと思っていた魔女だが、フランベルの言葉を聞いてようやく合点がいった。
手をポンと叩くと、懐から握り拳大の赤い宝石のようなものを取り出した。
「これのことね」
「それは?」
「古の龍の血の結晶よ。赤龍復活の依り代にしようと思って拝借してきたのよね」
魔女の手にする宝石は鮮やかさよりも不気味な魅力を漂わせている。
その色は静脈を切った時に出る血をそのまま凝固させたような黒ずんだ赤だ。赤黒く濁った球体は、見る者の心を深く飲み込んでいく。
「それよ! 『緋炎の宝玉』! 大人しくこっちに渡してお縄につきなさい!」
「そうねぇ……返せないって言ったら?」
「そりゃ勿論、武力行使よ! あたしの下僕が相手するわ!」
威勢の良いフランベルの警告に続いて、アルハも一歩前に出て魔女に言う。
「それはこっちも同じだ、王子様を返してくれれば痛い思いはしなくて済むぜ。できれば俺も女に手はあげたくない」
◆
相対する男女をハインスは冷静に分析していた。
白勇騎の少年と灰髪の男は一見しただけでは実力の底が測れない、ただならぬ雰囲気の持ち主だ。白勇騎の少年は、少年とは思えない強者の風格を纏っており、灰色の男はまるで獣のような暴力的な殺気を絶えず放ち続けている。先ほどの炎撃魔法の威力を見るに、星天従士を名乗る少女もかなりの魔法の使い手であろうし、聖教連の女も何か特殊な力を持っているのかもしれない。
「とんだ人気者ですね」
そう言って隣に立つ魔女の顔色を窺ってみたが、魔女は別段焦った様子もなくいつもの微笑を浮かべているだけだった。
「うふふ、困っちゃうわね」
「さて……どうするおつもりですか? 彼らもお得意の概念魔法で骸に変えますか?」
「ん~、それも良かったけど彼らの瞳はどれも綺麗だし、戯神の戯曲の対象にはなりそうにないわね」
魔女の声色には冗談めいたものは感じられない。お眼鏡に適わなかったならば、彼女は何の躊躇いもなく彼らの命を奪ったことだろう。
「でもちょうどよかったわ……せっかくの舞台には役者が足りないと思っていたのよね」
◆
魔女はアルハ達に微笑むと、手にしていた宝玉を彼らへ向けて放り投げた。
勢いの足りなかった宝玉は草原に落下し、力なくころころと転がる。
「ちょっ! 割れたらどうするのよ!」
慌てて駆け出そうとするフランベルだったが、その肩をアルハが掴んで止めた。
「待った」
「え?」
「……なにかする気だな」
魔女を見ると、絶えず顔に張り付いていた薄い笑いはいつの間にか消え去っていた。
「ごめんなさいね、この宝玉を素直に返してあげることはできないそうにないわ。でも、そのお詫びに貴方達を素敵な劇に招待してあげる。観客として、役者として、これから始まる最高の劇を終幕まで楽しんでいってね」
身に纏うローブのスカートを軽く指でつまみ、魔女は仰々しくアルハ達に頭を下げた。
息を整えると、聞き入ってしまいそうな美しい声で言の葉を奏でる。そう大きな声ではなかったが、澄んだ声は風に乗って静かに運ばれ、アルハ達の耳にもよく届いた。
『我は戯神の代筆者なり。今宵は冥府の舞踏会。幾星霜の常闇に、瞬く星の囀りに。戯神の奏でる旋律に歌え。戯神の奏でる戯曲に踊れ。汝は戯神の傀儡なり』
魔女が詠唱を終えると遺跡全体を覆う巨大な魔法陣が現れ、不気味に赤黒く輝き出した。
緋炎の宝玉が魔法陣の輝きに呼応するように光り出し、その輝きを増していく。
「これは……⁉」
異変に気付き最初に声を上げたのは、魔力知覚に長けたムースだった。
自分達の足下、いや、もっと深い地中で巨大な魔力が膨れ上がっていくのがわかる。人の持つ魔力とは似ても似つかぬ強大さと邪悪さを感じる。
「こんなおぞましい魔力、今まで感じたことがありません!」
「……でかいのが来るな」
鳴動する大地を見て魔女は狂ったように笑い出す。
まるで一流シェフの用意した最高のディナーを前にしたかのように、眼には悦楽の光がありありと浮かんでいる。
「ふふ、うふふふふっ。いいわ……すごくいいわ……」
興奮と狂気が混ざり合ったおぞましい笑顔。
ハインスはその狂った笑みに一瞬たじろぐ。
黄昏の魔女という怪人の計り知れない狂気を垣間見たような気がした。
「脚本は私、役者は古の龍と哀れな人々。そして……観客は貴方よ、王子様」
魔女がそう声を上げると緋炎の宝玉が音を立てて砕け散った。
地鳴りがさらに大きくなったかと思うと、大地が急激に盛り上がる。
「な、ななな何よこれ⁉ 何がどうなっちゃうわけ⁉」
「へぇ、面白そうじゃねぇか」
それは遺跡を跡形もなく破壊し、地中から巨体を現した。
城塞にも匹敵する大きさの体躯は、どんな赤よりも鮮烈で暴力的な鱗に覆われている。爛々と光る二つの眼はその存在の凶暴さを、鋭利に尖った爪と牙は残忍さを、悠然と広がる一対の翼は偉大さを、瞬時に見た者の脳へと刻み付けた。
「グルルルルルゥァァァアアアアアア‼」
地平の彼方まで届く咆哮は、聞いた者の鼓膜をこれでもかと刺激し、音が痛みとなって伝わるようだ。
彼にしてみれば深呼吸して息を吐いただけなのだが、その息吹は突風となり、木々を幹から激しく揺さぶる。
森の動物達はその圧倒的な存在感に絶望し、瞬時に死を覚悟した。
咆哮と共に吐き出された紅蓮の炎が、紅魔の森を焼き尽くさんと荒ぶっている。
目の前に現れた古の生物―――深紅の鱗を持つ巨龍を見て、フランベルは大きな眼を白黒させて男にしがみついた。
「ぎゃーー! ドド、ドラゴンよ、ドラゴン‼ ちょっとアンタ聞いてる⁉」
「いてぇ! うるせぇ! 聞いてるから離れろ!」
赤龍の存在に圧倒されるムースは、目の前に広がる白昼夢のような現実に身体を震わせている。
「わたし……夢でも見てるんですかね? こんなのまるでレイムロットの物語みたい……」
「……怖いか?」
小さくそう尋ねたアルハにムースは激しく取り乱しながら答える。処理しきれない現実を前に、感情を吐き出すことで脳が平静を取り戻そうとしている。自分でもわかるほどに声が震えていた。
「あ、当たり前じゃないですか! 大昔に滅んだという龍も、こんな存在を召喚する魔女も、わたしには怖くて怖くてたまらないですよ! 星天従士になって最初の任務でこんな目に遭うなんて……クローバーさんは怖くないんですか⁉」
「まぁ、少しも怖くないと言ったら嘘になるけど……」
アルハに問いかけたムースは眼を疑った。
そして同時に何故か安心した。
この危機的な未曾有の状況で、彼の眼が力強く光り輝いていたからだ。
「楽しくなってきた!」




