灰髪の男と灰色の過去
彼は孤独だった。
『空白の谷』と呼ばれる世界最大の貧民街。
生きる人間も死んだ人間も、等しく『ゴミ』として扱われる場所で彼は育った。
親が彼をそこに捨てたのか、それとも早くに親が他界したのかわからないが、物心ついた頃には彼は一人だった。
彼にとって一番古い記憶はゴミを漁ってカビの生えたパンを見つけた記憶だ。それ以前のことは思い出せないが、きっとそれまでも似たようにして生きてきたのだろう。
親に会いたいとも親の愛情を知りたいとも思わなかった。ただここで一人で生きていかなければならないということだけはわかっていた。
彼は孤独だった。
力なき弱者は強者に搾取されるか媚びへつらうしかない。
そんな世界で彼は独りだった。
路頭で倒れる子供を助ける優しさと余裕を誰も持たない世界。人々は自分が生きるための損得を勘定して行動せざるを得なかった。
少年に救いの手を差し伸べようとする者など一人もいなかった。
そして少年もそれが当たり前だと思い、自身の境遇を嘆くことなどなかった。
彼は孤独だった。
力が全ての世界で彼は育った。
食べるのも、脅すのも、奪うのも、壊すのも、犯すのも、殺すのも、力ある者だけが許された。
弱肉強食が掟の貧民街で、彼が一人で生きていけた理由は至ってシンプルだ。
力があったからだ。
徹底的に身体を鍛えたわけでも、護身の武術を修得したわけでも、特別な魔法を学んだわけでもない。
単純に……そう、ただ単純に、それ故に絶対的な『力』が彼にはあった。
生きるために必要なものは全てその手で掴み取った。
彼は孤独だった。
あまりに巨大な力を持つ彼は、人々から恐怖の対象となり、悪魔や化け物と呼ばれ忌み嫌われた。
彼の力を恐ろしく思い罵声を浴びせる者もいたが、そういう輩は全員二度と口が利けないようにした。
彼の力に目をつけて利用しようとする者もいたが、そういう輩は全員血祭りにあげた。
彼の力を疎ましく思い徒党を組んで殺しに来る者もいたが、そういう輩は全員返り討ちにした。
いつしか彼には誰も近付かなくなった。
彼は孤独だった。
気まぐれから悪漢に絡まれる少女を助けたことがある。
武器を手にした大男を叩きのめし全身を返り血で染めた彼を見て、少女は命乞いの言葉と共に悲鳴を上げて逃げていった。
無論、少女に何かしようとしていたわけでもなければ、感謝の言葉が欲しかったわけでもない。
だが、彼の心には言いようのない侘しさが去来した。
廃墟の割れた窓硝子に映る自らの姿を見た彼自身でさえ、自分が人間ではない別の生き物のように思えた。
いつしか彼は誰にも近付かなくなった。
彼は孤独だった。
誰にも近付かず、誰からも近付かれず、一人の日々を過ごし幾年月が経ったある日、一人の男が彼を訪ねてきた。
曰く、殺し屋として彼をスカウトに来たらしい。
今まで彼に取り入ろうとしてきた者達は、皆己の野心のために彼を利用しようとしてきたが、その男はお互いの利益のために彼に会いに来たのだと話を聞いてわかった。
貧民街での生活に嫌気が差していた彼にその誘いを断る理由はなく、男の誘いに乗り外の世界へと足を踏み出すことにした。
彼は孤独だった。
空白の谷の外に出ても彼は誰とも馴れ合うことはしなかった。
殺し屋として雇った組織も彼に必要以上に干渉することはしなかった。
抹殺の依頼を受ける、そして標的を殺す。彼の仕事はそれだけだった。
人を殺したことなど一回や二回ではなかったので今更心が痛むことはなかった。
だが、人を殺める度に心の深いところから何か大切なものが一滴、また一滴と漏れ出ていくことに彼は気が付かなかった。
彼は孤独だった。
彼の心には決して満たされることのない巨大な空洞が空いていた。
いつの間に空いたのか、どうして空いたのか、彼にはわからない。
そんな彼だが心の空洞が少しだけ満たされる時間があった。
殺し屋として標的となる者と命のやり取りをする殺し合いの時間。その時間だけはたしかに『生きている』ということを彼は感じることができた。
死に怯える相手の瞳には確かに自分が映っていた。確かにそこに自分が存在していると思えた。
しかし、標的を殺めるとすぐにその昂りは消え、心の穴は前より大きくなる。
満たされたい。生きていると感じたい。
その一心で彼は殺し屋を続け、破壊と暴力の奈落へと落ちていった。
彼は孤独だった。
彼の心は遂に何をしても満たされることはなくなった。
闘いの中に生きる道を見出すには、彼はあまりに強すぎた。
満たされない思いはやがて苛立ちとなり彼の心を蝕んだ。
苛立ちをどうすることもできない自身への嫌悪が、さらに激しい苛立ちを呼ぶ。
彼は荒ぶる感情をぶちまけるように力を吐き出し続けた。
彼は孤独だった。
ある日、路地裏で豚のような男が少女を買おうとするところを見かけた。
嫌がる少女を金で服従させようとする男の醜さが気に食わなかった彼は、その場で男を半殺しにした。
彼にそのつもりなどなかったが結果としては少女を助けることになった。
返り血で汚れた彼に怯えながら何か言おうとする少女を見て、彼は過去にも似たようなことがあったと思い出した。
忌まわしい記憶から目を背けるように、少女の言葉も聞かず彼はその場を去った。
彼は孤独だった。
運の悪いことに、彼が半殺しにした豚のような男は、彼を雇っている組織の幹部だった。
豚のような男の怒りを買った彼は、組織から追放されることになった。
世界を裏で操ると言われる巨大な組織の力によって、今まで立場を守られてきた彼だが、組織に手を切られたことにより、世界中のあらゆる組織が彼の命を狙うようになった。
世界が全て敵になった彼だがそれを嘆くことはなかった。
何故ならずっと前から彼は一人だったからだ。
彼は孤独だった。
聖教連が抱える熟練の聖騎士団、聖教連信仰国の騎士団、兵士団、魔導士団。
その連合部隊という超国家規模の戦力が彼の首を取るために手を組んだ。
戦争でもしようかという一団と一人の男との闘いが無人の荒野で繰り広げられた。
初めのうちは迫り来る敵を嬉々として蹴散らしていた彼だったが、三日三晩が経った時、ふと闘うことも馬鹿らしくなって拳を下ろした。
投降した彼は聖教連本部の地下牢へと投獄されることとなった。
彼は孤独だった。
地下牢では彼が所属していた組織について、少しでも情報を聞き出そうと拷問が行われたが、組織の幹部の顔さえ知らない彼から得られる情報は皆無だった。
たいして痛くもない、せいぜいこそばゆい程度の拷問は、彼にとって欠伸を噛み殺すことの方がつらいものだった。
こんな退屈を味わい続けるならさっさと死刑にでもしてくれた方がマシだと思えた。
ほどなくして彼の死刑が決まった。
そして彼は孤独なまま人生を終える……はずだった。
だが、彼は生きている。自分より遥かに弱い女に下僕同然に扱われながら。
そして彼は戸惑っている。彼に恐怖も敵意もなく真っ向からぶつかってくる彼女に。
小さな戸惑いは、それを押し潰す巨大な苛立ちにかき消され、昔の彼を呼び覚ます。
狂った野獣のように血だけを求めていた、あの頃の彼を。




