久人は月に思う
――夜は気持ちいいな
窓の障子をあけ、久人はそこから月を見上げていた。
夜風が入り込み、頬を撫でる。とても心地よい。
ひんやりとした空気、草木の香り。潮の匂い。
夜のこの島の星空はとても美しい。
星の輝きを邪魔する街灯などがないからだろう。
熱もこもらず、とても過ごしやすい。何よりとても静かだ。
――昼はとても気持ち悪いからね
この島の昼間は妄執ともいえる悍ましい執念が渦巻き、息苦しくてたまらなかった。
だがすべての人間が寝静まる夜にはその怨念も薄くなり、とても安らかな気分になれる。
久人には孝久のように怨霊の類は見えない。
その代わり、生きている人間のよくないものは感じられた。
妬み、恨み、苦しみ、悲しみ、そういった感情に敏感に反応して、肌がざわつく。
だから久人は子供が好きだった。
どこまでも単純で純粋無垢だ。
愚かしい、おぞましい感情に染まらず、何も嫌なものを感じない。
その点、孝久はつらいだろう。
四六時中死者につきまとわれている。
死者には昼も夜もない。
夜の方が生きている人間が寝静まっている分、死者たちの存在が際立つ。
それに孝久は久人やほかの霊感が強いと自称する人々と違い、その姿をはっきりと目撃し、その声を聴き、そして触れられる。
人には見えないものが見える。
それはどんな世界なのか想像してみたが、よくわからない。
つらいだろうなと思ってはいるが、それを口に出すと孝久は怒るだろうか。
この島に来たことをまだ納得していないのかもしれない。
仕事を無理やり休ませて連れ込んだのだから当然だろうと思う。
そもそも拝み屋の商売では孝久を最初から連れ出すことはしない。
ほとんどの依頼は久人だけで足りる。
人にとりつくよくないものというのは、たいていは生きている人間が勝手に背負い込むもの、背負い込ませるものだ。
例えば水子の霊なんかも、水子そのものが憑いているわけではない。
本人の罪悪感、それか関係者からの恨みがまずそこにあり、周りの人間や本人が水子という形を与えている。
ほとんどの憑き物はそういう類だ。
本物が憑いていることはめったにない。
そのめったにない状態になったときは孝久に一度見てもらう。
それがどういうものか判断したうえで、経を読むなり語り掛けるなどして落とすのだ。
もたらされた依頼は、祭りが始まるまでに祭りの障害となる悪いものを祓ってくれ、それだけだ。
表向きだけ見れば久人一人で済ませられるようなものだが今回は最初から孝久を連れて行った。
ここが音櫛島だからだ。
音櫛島からきた依頼だからこそ、久人は孝久を無理してでも連れて行った。
隣の部屋からうめき声が聞こえる。
昨晩も同じように孝久はうなされていた。
ここには怨霊がいると言っていた。
そういった死せる者が孝久に夢にまで干渉しているのだろうか。
――それとも……思い出しているのかな
二つの部屋を仕切る襖を少し開ける。
眉間にしわを寄せ、苦しんでいる。もがいている。
すぐに障子を閉めた。
――ごめんね、孝久くん
やはり連れてくるべきではなかったか。
生まれた時から彼は見えないものが見えるために孤立し、家族を失った。
そんな彼をまたさらにこの島に連れてきてしまった。
この島は孝久にとって忌まわしい場所だ。
だが久人はここに孝久を連れてこなければならなかった。
この島に来て、すべてを終わらせることが久人の役目だ。
そのために孝久は必要だ。
『お前にその覚悟があるのか』
祖父は出発前にそう自分を咎めた。
普段の変人ぶりを感じさせぬ目でこちらをまっすぐに見据えていた。
何をいまさら。
その時はそう思った。
こうなることをわかって祖父は彼を引き取ったはずだ。
人には見えないものが見える、そんな彼を引き取ったのはすべてはこの日のため。
これは宿命。
それは孝久にとっても同じはずだ。