淳一の依頼
――ああ、疲れてるな
國守淳一は鏡で自分の顔を確認した。
童顔のおかげで老けてみることはないが、それでも目の下にぼんやりとくまが見える。
身だしなみを気にするのはいつ振りだろうと考え、髭をさする。
童顔には不似合いな薄い無精ひげ。
人相も日増しに悪くなっていく気がする。
髭を剃ろうと立ち上がるが、部屋を出るころにはその気が失せてしまう。
気にしたところで何かが変わるわけでもない。
そのまままっすぐ客人の部屋に向かった。
障子越しに声をかける。
穏やかな声が返ってきて、障子を開ける。
中には久人が座卓で読書をしていた。
彼は淳一にすでに敷いてある座布団に座るよう促し、隣室の孝久を呼んだ。
少しして孝久が入ってくる。
不安になった。
昨晩孝久に会った時から、淳一の胸はざわついていた。
孝久の持つ鋭さから、大切な物を失ってしまうという恐怖にも似た危機感が押し寄せる。
何を根拠にかはわからない。だがそう思えてしまうのだ。
しかし、現時点では彼らにしか頼めない。
彼らの力にすがるしか方法がない。
「依頼についてですが……実はそれとは別にお願いしたいことがあるんです」
そろったところで淳一は切り出した。
「伺いましょう」
「姉を……姉さんを助けていただきたいのです」
久人は少し目を丸め、そして孝久の様子を伺った。
今更躊躇されても困る。すでに二人は協力しなければいけない立場に立っているのだから。
「祭りのことは父さんから聞いたはずです。……表向きの話ですが」
「裏があると? それにお姉さんがかかわっている、そういう認識でいいのかな」
「……はい」
口にすることは少しためらわれた。話しにくい内容であることもある。
だが、それよりこの会話を聞かれたくない。壁に耳ありという。
この話を他の人間に聞かれたら、姉を救うことは困難になるだろう。それだけは避けたい。
「この島の祭りは一般には地鎮祭と変わりないありきたりな物ですが、その裏では馬鹿馬鹿しい風習があるのです。
國守の家は代々この島を治め、この島の神事を取り仕切る祭主の役割を担っていると聞いています」
「当然それを取り仕切るということは國守家の島での立場は高いのだろうね」
久人は話に相槌を打つ。
その隣で孝久は凶悪な顔で黙り込んでいる。
睨まれているように思えて少し落ち着かない。
「父さんの言葉はこの島では絶対なんです。父さんには誰も逆らえない。
それは息子である俺も例外じゃないです。
だからこれから話すことは……島の人には秘密にしてください」
「大丈夫、安心して話すといい」
安らかに久人は微笑む。
淳一は周囲を警戒し、そして声の調子を落として言葉をつづけた。
「この島には数十年に一度、神を御神体に呼び降ろす神事があります。
その神事は来年行われます。
そして、その前年に國守家は御神体を新調するための準備、儀式を行うのです。
それは――」
だが、言葉がのどに詰まる。
久人と孝久が淳一に注目し、次の言葉を待つ。
淳一の脳裏に言葉がすぎさり、それが一つの像を結ぶ。
忌まわしい、あってはならないことだ。
すぐに頭を振って二人に向き直る。
「生贄を要するものです」
静寂が部屋を支配する。
久人の口元から穏やかな笑みは消えている。
こちらを見据えるが、眼鏡でその表情を伺うことはできない。
孝久の方は、さらに凶悪な顔になっている。人を視線で殺せるかもしれない。
「つまり、あなたのお姉さんがその生贄ということですね?」
「はい」
「…………馬鹿が」
孝久がぼそりと吐き捨てた。
咎めるように久人が肘で小突く。
しかしその言葉は淳一の耳に確かに入った。
孝久はとても冷酷な目で見据えていた。
そのまなざしに淳一は心臓を掴まれる錯覚を覚え、背筋が冷える。
この男の眼は、恐ろしい。
「依頼文には祭りの成功のために悪い物を祓えと書いておきながら、本当の依頼は伏せていたわけだ。
これは裏切りにあたるでしょう。俺たちにその依頼を受ける義理はない。
何より人が死ぬなら霊能者よりも呼ぶべきは警察でしょう。
この国は法治国家だ。いくら島の常識が東京とは異なるとはいえ、この島も日本である以上司法の手を逃れることはできない」
「孝久くん」
「面倒は御免だ。先生、帰りましょう。
この島には確かに怨霊や悪い類のものはありますが、それの一つ一つは害をなすほど強大なものはない。
放っておいても問題ない」
「島の人間は!」
それだけを言って立ち去ろうと孝久は腰を浮かす。
たまらず淳一は強く言葉を吐いた。
「島の人間は……あなた方を帰らせはしないでしょう」
「なんだと」
「生贄は姉さんだけじゃない。もう一人、島の外の人間を生贄にするのです。
大事な生贄を、島の人間が逃がすはずもない」
孝久の目つきがさらに凶悪なものになる。
その横で久人は極めて冷静で、視線をゆっくり淳一に移した。
「つまり、僕たちのうちどちらかが生贄として死ぬということでいいんだね?」
「はい。島の全員があなた方のどちらかの死を望み、この島にとどめようとするでしょう」
「馬鹿馬鹿しい。そんなこと……」
「島の人間全員がグルです。
警察を呼んだところで島の人間全員が口裏を合わせれば、どうとでもなるんです。
この島は、狂っているんですよ」
孝久が鋭く淳一を睨み付ける。目つきは凶悪だが、先ほどよりは態度は落ち着いている。
その場に座り直し、落ち着いたトーンで言葉を紡いだ。
「お前なら俺たちを逃がせる、それを交換条件に協力をしろ、ということか」
「……はい」
國守の息子という立場の淳一ならば孝久たちの脱出に協力することができる。
それを交渉のカードにして依頼を迫っている。二人に拒否権はない。
卑劣だ。
淳一は自分で自分に吐き気を覚えるが、もう構っていられる段階ではない。
姉の命がかかっているのだ。
淳一にとって姉の命は何物にも変えがたい尊い物なのだ。
「ずいぶんといい性格をしているな」
「自覚してます……」
皮肉を込めて孝久が吐き捨てる。この反応は当然のことだろう。
だが久人は冷静で、じっとこちらを見据えていた。
表情を変えない。
「それで、なぜ僕たちに依頼をしたのかな?
お姉さんを助けることと拝み屋というのは結び付かないと思うのだけれど」
「夢を……見ました」
依頼を出すことを思いついたのは淳一ではない。
夢にきっかけを得て、その夢に導かれるように葛西に手紙を出したのだ。
「夢では姉さんが出てきました。夢の中の姉さんは泣いていて、何度も同じことを言っていました」
『本土にいる葛西を呼べ。霊が見える葛西を呼べ』。
姉はそういったのだ。
「『霊が見える葛西』と聞いて、秋人のことを思い出しました。
以前、彼の実家がお祓いをしていると聞いて……
『霊が見える葛西』はそれに違いないと思って……
それで、神流島にわたって秋人に連絡を取りました」
「それで、秋人の兄である僕がその仕事を継いでいるって聞いて手紙をよこしたってわけだね」
久人の言葉に淳一はうなずく。
「なぜ姉さんがそれを知っていらのかはわかりません。
姉さんは俺と違ってずっと島にこもっていましたから。
手紙でのやり取りは大学を卒業するまで続けていましたがそこでも秋人の実家のことは書いていません」
「確かに妙な話だね。どう思う? 孝久くん」
「どうって……そもそも『霊が見える葛西』なんてそれは――」
「でも、そんなことはどうだっていいんです。姉さんが助けを求めているなら、俺はそれに応えたいんです」
強い目で淳一は二人を見据える。
たかが夢と二人は笑わなかった。
真剣に取り合ってくれるようだ。今はこの二人にすがるしかない。
力のない自分に淳一は自己嫌悪を抱える。
だがなりふり構っていられない。
「それで、儀式は」
「一週間後です」
「なんだと……」
また孝久の目つきが鋭くなる。
だから二人は来るのが遅すぎたのだ。
この限られた時間で姉を救えるのか、予想もつかない。
だがもう藁をもすがる思いなのだ。
なぜ、姉ばかりがこんな目にあってしまうのだろう。
そこには誰の意思もない。偶然としか言えないめぐりあわせで姉は生贄になってしまった。
自分の力ではどうもできなかった現実を憎く思い、淳一は言葉を漏らした。
「この島に……この島にさえ来なければ、こんなことにはならなかったのに……」
それを久人は聞き洩らしてはくれなかった。
この島の生まれではないのかと聞く。
別に隠しているわけもなく、淳一は語った。
「俺と姉さんは養子です。元は東京の生まれでした。
その時は母さんがいて三人で暮らしていたんです」
「そこで、何かがあったわけだ」
「はい。……帝都銀行の立てこもり事件を知っていますか?」
事件の名を口にすると、二人の表情が険しくなった。
孝久に至っては眉間の皺が深くヒビのようになっている。
知っているようだ。
無理もない、当時は多くの注目を集めた大事件だった。
「猟銃を持った強盗が銀行に立てこもり、最終的には人質に向けて発砲。
のちに警官隊が突入して犯人は射殺。
生き残ったのは人質のうちの一人だけ。悲惨な事件だよね」
「母は、死んだ人質のうちの一人でした」
孝久の眉がはねた。
淳一はただ顔をうつむける。
「それから俺と姉さんは施設に引き取られて……。
父さんは最初は姉さんだけを引き取る予定だったのですが、俺が姉さんと一緒にいたいとごねて、俺も一緒に引き取られたんです。
今思うと、姉さんを生贄にするつもりで引き取ったんだと思います。
それに気づかずに、俺は……」
悔しさに淳一は奥歯をギリと鳴らす。
膝の上に握った拳に余計に力がこもる。
「島では俺たちは大事に育てられました。
俺に至っては東京へ進学も……それがうれしくて、父さんの力になれるように大学では観光について学んだんです。
俺が大学で学んでいる間、ずっと……ずっと姉さんは屋敷に閉じ込められていたのに、それに気づかずに」
悔しさのあまり淳一は膝の上で強く拳を握る。
「俺は、馬鹿です。姉さんの死を望んでいる人間にずっと恩を感じていたなんて……。
その人間のために、学んでいたなんて……!」
久人は眼鏡の位置をなおし、淳一を見据える。
眼鏡の奥の瞳はまっすぐに淳一を射すくめた。
「話は分かった。僕たちはできる限りのことはしよう。死にたくないから」
「あ、ありがとうございます……」
「それにあたってまずお願いしたいことがある。
過去に生贄にされた人の記録が欲しい。調べてみてくれないかな」
「え、あ、は、はい」
何のためにかはわからない。
だが、引き受けてくれるのはありがたい。協力してくれたのなら何でもする。
久人の頼みを引き受け、部屋を出た。
これで、姉は助かるのだろうか。いや、助けなければならない。
自分一人で姉を逃がすことは困難でも、久人たちと協力すれば全員で島から逃げることはできるかもしれない。
その可能性に、かけるしかなかった。