影の密会
――あいつは……誰だ?
夜になっても孝久は考えていた。
必死に記憶を探っていた。
譲とは誰なのか。
しかし、どれだけ思い出しても、顔が出てこない。
あの鬼の面がちらつく。
そして思い出そうとするたびに、譲を哀れに思う感情が湧き上がる。
譲の犯した罪を数えても、それ以上に彼が哀れでならない。
そもそも、孝久は人を哀れんだことはない。
それほどまで他人に情を移したことはないからだ。
孝久にとって重要なことは自分自身の存在だけ。
他人はその存在を守るか飾り立てるか害するか、それ以外の価値はない。
すべてが自分本位の感情であり、他人を思いやることも損得勘定が常にある。
久人の仕事に付き合わされるのも売られた恩を返しているだけで、特別なわけでない。
孝久の平穏な人生を保証するための存在以上に感じたことはない。
孝久はそういう人間だ。
それだというのに、宗正はそんな孝久と大きく異なっていた。
宗正は他人にも心を開き、情を交わし、誰かを愛することを可能にしていた。
だからこの譲を哀れに思う感情も、きっと宗正のものだろう。
鬱陶しい。
感情にまで宗正が蝕んでくる。
行動すべてが宗正によって動かされているとまで錯覚する。
主体が分からない。
自分は今、孝久として存在しているのか。
こうして考えている自分は、思い出している自分は、誰だ。
背中の障子越しに、雨の音が聞こえる。
雨。
昨晩も雨だった。
ひんやりとした夜の空気を求めて障子を開けて、そこで小春に出会った。
瞼を閉じるとその裏に焼け付いた光景がよみがえる。
雨に濡れる中庭。その中心に立つ傘の姿。
傘の中の男と女。秀元と小春。美しいモノクロの女。
小春は、虚だ。
生気を全く感じない。
死を恐れず、何物にも執着もせず。すべてを受け入れている。
人形のような女だ。
燕とはまったく違う。
燕はよく笑い、よく泣いて、表情をくるくると猫の目のように変えた。
瞼の裏には、雨の中庭にたたずむ小春の姿が焼きつく。
黒い着物に咲く紅い彼岸花。
真っ白な肌、艶やかな美しい黒髪。
髪と同じく濡れたように艶やかで豊かに瞳を囲う睫毛。
睫毛に囲われた瞳は茫洋として何も映さないガラス球のようだ。
作り物のようにできすぎな美しい姿。
またその姿を目に焼き付けたくて、障子を開けた。
中庭にはいない。
ポケットの中には、まだ返していない鍵がある。
座敷牢にいけばきっといる。
もう孝久の感覚は麻痺しはじめている。
宗正と同化してきていることにまったく気づいていない。
鍵を開けて座敷牢へ向かう。
足音を忍ばせて小春の元へ。
進むうちに、ぼそぼそと声が聞こえた。
小春の声だ。起きている。
そしてもう一人いる。
息をひそめ、陰に隠れながら忍び寄り、耳を澄ます。
座敷牢の前には蝋燭が置かれて、そこだけが柔らかな光で照らされている。
座敷牢に向い座する男の影絵は大きく、そして無骨な空気をにじませる。
「本当に、お前は死ぬ気なのか」
「くどい。望まれているなら、私は死ぬだけ」
格子の前に置かれた武骨な手に髪長姫の細くしなやかな指が重なる。
「秀元。私は別にどうだっていい。島のため死んでもいい。
簡単な、馬鹿でもわかる算数」
「なぜそこまで自分を捨てられる。死が怖くないのか」
「生きることにこだわらなければ別にどうでもいい」
声を飲み込む男の影。
「お前はそれでいいのか。幸せと言えるのか」
「幸せ……それは、秀元にも聞いてみたい」
「俺はいいだろう。お前の問題だ」
「秀元は幸せ、それとも不幸? 答えたら、私も考える」
黙り込む影絵。
髪長姫の手が重ねられた場所から去っていく。
「俺に幸せになる資格はない」
「じゃあ、不幸?」
「不幸でなくてはならない」
静寂。
影絵でしか映らない世界。
男の影は格子の中に手を差し入れる。
「すまない。俺はどこまでも島の人間でしかないようだ」
「秀元には感謝している」
「俺はお前に死ねと言っているのだぞ」
「それが最善ならば。それを望むならば仕方がない」
馬鹿と小さく男はつぶやいた。
吐息がこぼれる。
「そう、私は子供のころから馬鹿だ」
「本当にお前という奴は……子供のころから変わらないな」
「秀元は、昔とは変わった」
「言うな」
がしゃりと男の影は拳を格子に叩きつける。
重い空気がその場にのしかかる。
「俺は……何も変わっていない。これが本来の俺だ。
お前をここに閉じ込め、お前の首を斬り落とす。
俺はそのために剣術を学び、そのために島に戻ってきた。
島のために……お前を殺す」
声が、息がつまって震えている。
カタカタと男の影に握られた格子が音をたてる。
男の影、その手に髪長姫の手がまた重なる。
「私はそれでいい。私の首を斬り落とすのが秀元なら、それで十分」
「小春……っ」
「秀元なら殺されてもかまわない」
ああ、そうだ。
そうだった。
宗正も同じだった。
死の瞬間、血を奪われ失われていく意識の中で最期に見たのは鬼面の譲だった。
そして譲もずっと目をそらすことなく宗正の死を見つめていた。
最期を看取るのが譲だったから。
譲の命令で死ぬのなら、譲によって幕を下ろすなら、それでよかった。
他の誰でもない、譲だから宗正は死を受け入れられた。
島に滞在したのはわずかな間。
その短い間だけでも関係を構築するには十分だった。
譲は宗正にとって最上の友だった。
それが分かった時、孝久の中に記憶が湧き起った。
初めて会ったとき、座卓から振り返る譲。
時間があれば碁に誘われて、窮地に立って長考する真剣な顔。
縁側で語らった日。
傍らで燕がいつも話には入れないのに笑っていた。
二人して燕をからかい、三人で笑っていた。
儀式の日、鬼面で顔を隠してじっと目をそらさず見つめていた。
鬼面に隠された表情が透けて見えた気がした。
ずっと、譲は後悔をしていたのだろう。
だが譲は國守の当主だった。
島のために殺す。
島のために刃を握り、儀式を遂行した。
島のために悲痛な覚悟を背負った男の顔がはっきりと思い出される。
すべて、すべて思い出した。
秀元だった。
死に変わり生まれ変わった譲は、譲の現世は、秀元だった。
秀元こそが國守家当主・國守譲だったのだ。
足が自然と進む。燕と譲が待つ座敷牢へと。
また島で過ごした日々を思い起こすために。
もう一度、今度はこの目で譲の顔を見るために、譲の声を聞くために。
「ゆずる……っ」
その時、背後で扉が開いた。
「ここで何をしていらっしゃる、お客人」
扉の前には、現当主の耀賢が凶悪な顔で立っていた。




