雨中の髪長姫
――まただ……
夜。
孝久はまたうなされていた。
朝から続く雨音が部屋の中へ忍び寄る。
湿った空気が体にまとわりつく。
孝久が見ていた夢は昨日の白昼夢の続きだ。
首が締まって薄れていく意識を保ち、女を蹴飛ばした。
その時に見えた女の顔。
短く肩にかかる長さで切りそろえられた黒髪は色が抜けている。
あれは、譲の妻だ。
殴られたとき、かすかに聞こえた男の声、あれはその女の兄だ。
殴られて気を失い、次に気が付いたのは座敷牢の中だった。
格子にかこまれ、その中に燕とともに捕えられた。
そばでは燕が泣いていた。
「兄様……どうして……どうして……」
ぽつりぽつりと唇からこぼれる問いかけ。
燕は譲の妹だった。
儀式から逃げる際に当主である兄へ協力を求める手紙を託した。
だが、その手紙の返答がこれだ。
座敷牢の向こうで譲が座していた。
その顔も表情も鬼面で隠されていて分からない。
鬼面越しの視線は宗正と燕に注がれた。
兄妹に挟まれた宗正は鬼面ですべてを隠した兄を見つめた。
視線を下げると、膝の上で握られた拳がかすかに震えている。
何を考え、こちらを見ているのだろうか。
聞いたところで、この男は答えてはくれないだろう。
次によぎったのは宗正ではなく孝久自身の記憶。
消毒液の匂い、すかすかした病院のシーツの感触。病室には自分だけ。
銀行の事件のあと世間から隔絶するために警察病院に入院することになった。
銀行にいた人間の中で生きて戻ってきたのは孝久だけだった。
犯人も、人質も全員死んだ。
折り重なる死体に埋もれて孝久はその様をじっと見ていた。
火薬のにおい、銃声、悲鳴、血、怒声。
警察からの連日の事情聴取。
看護師や医師たちの哀れみの目、付きまとう死霊。
病院の入り口でひしめく報道陣、遺族たち。
静寂が奪われ、雑音だけが耳に入りこむ。
目を閉じてもその雑音は入り込む。
昼間には生きた人間による雑音。夜には死霊たちの呪詛。
眠っていても夢に入り込む。
いっそのこと狂ってしまえばよかった。
だが、孝久は知性があった。
狂ってしまうことに合理性はない。狂ったとしても状況は好転しない。
自ら命を絶つことの馬鹿馬鹿しさも理解していた。
なんど死霊たちがこちらへ引き込もうと囁いても、靡くことはなかった。
退院から数日後。
退院祝いに連れられたレストランにトラックが突っ込んだ。
孝久たち家族は窓側の席に座っており、トラックに直撃。全員死んだ。
妹だけは即死を免れたが、その後病院で亡くなった。いたずらに苦痛を長引かせただけだった。
ちょうど孝久がトイレに行こうと席を立った時だった。
孝久の背で家族が死んだ。
孝久だけが生き残ってしまった。
銀行強盗に巻き込まれ一人だけ無傷。
家族の席にトラックが突っ込みまた一人だけ無傷。
二つの出来事に巻き込まれ、周囲は全員死んで孝久だけが一人で生き残った。
例えそれが不可抗力の出来事に見えたとしても、周囲は孝久を疫病神として扱った。
元々孤立していた孝久は周囲に疎んじられた。
原因は分かっていた。
孝久に付きまとう死霊たちが厄を呼んだ。
霊が見えるから、生きているから嫉妬され、孝久に向けられた悪意はあふれて周囲にまで及んだ。
孝久に関わればみな不幸になる。
当時付き合っていた恋人も通り魔に襲われ、重傷を負った。
誰も孝久に近づかなくなった。
久四郎に引き取られ、久人と出会うまでは。
――君、そうとう恨まれているみたいだね
開口一番に久人はそういった。
否定はしなかった。
死んだ人間からも生きている人間からも孝久は疎まれ恨まれてきていた。
その中でもう大切なものは自分自身でしかなくなってしまった。
大切な人は作らない。どうせ不幸になるのだから。
今度はこの一家が不幸になるのかとぼんやり思っていた。
だが、いつまでたっても葛西の家に不幸は起きなかった。
孝久につきまとう恨みは一つ一つ久人の手によって祓われていた。
久人の手によってふたたび孝久は普通の人生を歩むことができた。
孝久にとって久人は普通の人生を保証してくれる恩人である。
だがそれもいつ崩れてもおかしくない薄氷の上の平穏。
久人がそばにいて祓いつづけてくれることで保たれている仮初。
全部、孝久が一人生き残ったからだ。
銀行強盗の時も、事故の時も、すべてに巻き込まれていながら一人生き残ったからだ。
――好きで生き残ったわけじゃない
そこで目が覚めた。
障子越しにかすかに月の光が差し込む。
まだ夜だ。
外から雨の音が聞こえる。
厭な雨だ。
部屋の空気がこもって息苦しい。
少し外の冷えた空気でも吸いこもうと障子を開ける。
孝久の部屋からは障子を開けるとすぐに中庭が見える。
ここは一番中庭がよく見える部屋だ。
宗正と同じ部屋だ。
庭には、傘があった。
古めかしい番傘。
傘は背後で孝久が障子を開けた気配を感じ、振り返る。
刃のように鋭く相手を射すくめる目。
高くしっかりとした鼻、とがった顎。細面ながらその顔立ちは渋い。
鬼気迫った空気を醸すその姿。
秀元だった。
そして秀元の傍らには女がいた。
癖もうねりもなく、雨の日に広がりもしない美しい黒髪は平安貴族のように長い。
着物の色は暗く、絵柄の彼岸花の紅がよく映えている。
ゆっくりと女は振り返った。
美しい女だ。
凛とした切れ長な瞳。
月の光を取り入れてぼんやりと光を帯びる雪の肌。
すっきりと通った鼻筋、小ぶりの唇はほんのり色づいて花のようだ。
顔立ちは幼く、ぼんやりとこちらを見つめている。着物の上からでもわかる華奢な体つき。
触れると崩れてしまいそうなほど儚く繊細な美しさ。
闇のように黒く艶やかな髪と白い肌、そして暗い着物。
その女の周辺は色を奪われてモノクロの映画のようだった。
質量のない霞がかった燕とは違い、その女の存在は際立っていた。
孝久はその女の美しさに言葉を失い、ただただ見惚れていた。
秀元は女の手を引き、去ってゆく。
黒髪が揺れる。
振り返った女が秀元に手を引かれ去っていく姿は映画のようにコマ送りに見えた。
「燕……ッ!」
唇からこぼれた名前。
すぐに二人の後を追う。
ぼんやりと見惚れていたせいで距離は離れ、奥の扉に消えていく姿がかすかに見えた。
扉の前に立つ。
しかしその扉は直前で固く鍵で閉ざされた。
「燕! 燕ッ!」
返事がない。固く閉ざされた扉が阻む。
扉の鍵はあの鍵束の中にあるはずだ。今は久人が持っている。
行かなくては。彼女に会わなくては。
燕が待っている。




