雲隠れドライビブリオ - 後日談
ヒステリカ・アルトシュタイン:http://charasheet.vampire-blood.net/m547552a50bc9a9efe0f3be45fec269dc
アステル・ベネトナシュ:http://charasheet.vampire-blood.net/m01c786cd621949620a17b2137094b67f
ネーリヤ・アスピドゥーラ:http://charasheet.vampire-blood.net/101874
レイズン・ランペドゥーサ:http://charasheet.vampire-blood.net/m7af0d01a253acef34a0ccc7017843ea4
テレジア・エレンベルグ:http://charasheet.vampire-blood.net/121078
トルタ・ヴィネガー・アスタロッテ:http://charasheet.vampire-blood.net/mbaec1cc43ff4e4d7cf70336096d6c9a0
<ベルベット=ハーゲン>
――――そこは暗く昏い、蝋燭の炎がただ心細げに揺らめく墓場、“だった場所”。
一週間前、アステル・レイズン・トルタ・テレジア・ヒステリカと名告る人間たちが侵入し、襲い来るアンデッドや罠を潜り抜けてついには無血開城を果たしたことで、そこは最早陰鬱なだけの図書館ではなくなった。
「全く。……まだ君のような酔狂な人間がいたとはね。ヴリズニ」
彼ら冒険者たちの手によって取り付けられた電灯にも、もう慣れたものだ。そう、彼は一人ごちる。
かつて、ヴリズニ・ペリドット=ハーゲンという名前の女性がいた。ソーサラーやフェアリーテイマー、コンジャラーからアルケミスト、フェンサーと無節操に数多の技術を極め、信仰を持たぬゆえに扱えなかった神聖魔法以外の全てをその身に宿した稀代の才能。苛烈でありながら慈悲を忘れず、例え相手が差別されるナイトメアであろうと蛮族であろうと、和解と交友の意思があるのならば分け隔てなく接し、誰とでも仲良くなることの出来た女性。そんな彼女は吸血鬼である自分さえもその対象に含め、いつしか自分は、そんな眩いばかりの彼女に心底惹かれていた。……そうしてここで始めた二人だけの生活も、今はもう泡沫の夢とも思えるほどに、遠く遠い久遠の過去。
『私が生涯を賭けた魔術を、ここに。そして守って欲しい……悪用しようと目論む無類の輩の手に渡り、それが他の誰かを傷つけることの無いように。期限は、真にこれらを託せると信じられる者が、ここを訪れた時まで』
彼女は今際の際、彼への愛を遺すでもなく、そう掠れた声で呟いて息を引き取った。何処までも何処までもお人好しで、自分が傷つくことも厭わず他人を守りたがった彼女らしい死に際だった。だから彼も、その言葉を頬を伝う涙と共に受け取り、気の遠くなるような時間を、彼女と過ごした時間以上の永きを独りで生きてきた。
彼ら五人がここにたどり着いたとき、この図書館を託すに値するのかと本気で殺しにかかった。あわよくば――――否、あの時は既に、そちらのほうが目的になっていたかもしれない。彼らは、自分を殺し、彼女もいないこの閉じられた世界から開放してくれると。しかしその願いは、ついに叶うことはなかった。
「とんだ御笑い種だな。それでも私の、人を殺さねば生きられぬ体には変わりがないというのに」
彼ら吸血鬼は、日の下では歩くことの叶わぬ夜の住人。それは時の果てまでも変わることのない不変の事実であり、彼らが私を生かすことを決定したからにはその被害者はなおも増えていくということを、彼らは果たして認識しているのか。
ヴリズニが存命だった頃は、内の衝動を押し殺し彼女が死なないで済むだけの生き血を吸うことで生きてきた。だがその方法も、彼女がいない今となっては実行することは出来ない。まさか自分から血を提供するような人間がいるとも彼は思っていない。
アステル。あの青年は、甘い。いつかそれで、自ら窮地に飛び込まねばならぬ状況になることだってあるだろう。それでも彼は、何かを守るためなら自分の身を危険に晒すことだって厭いはしないのだろうと彼は思う。その姿は、彼がかつて愛し、そして今もなお変わらぬ愛を以って追憶の彼方を思い起こす“彼女”と同じだったから。
「だから私は、彼の手を取ってしまったのかもしれないな。……っと、そろそろ来る頃か」
部屋を出ようと彼が立ち上がった瞬間、リン、と涼やかな呼び鈴の音が階下から鳴り響いた。それは、三日前ここを訪れてきた少女が付けていったものだ。
『最初はこのことを知らなかったとはいえ……私たちは、貴方の守るこの図書館を踏み荒らしてしまった。それは彼ら四人の責任ではありません。全て、ここの探索を彼らに依頼した<ナハト・マグナ=グランツ>の……いえ、それは卑怯ですね。彼らを連れて来た私の責任です。咎は全て、私に』
ヒステリカ・アルトシュタイン。少女は、そう名告った。ナイトメアでありながらそれを決して自らの汚点と考えることなく、むしろ誇りにまで昇華させ自らの理想を追い求める少女。彼女がこの図書館内で凛然とした表情で語ったそれは、ベルベットも配下のブラッドサッカーを通じて聞いていた。だから彼女がここの探索を踏み台とし上に上り詰めようとしていたことは分かっていたし、和解できた今となってはむしろ結果的にソレを助けることができたというのなら良かったとさえ思っていた。
『別に構わないよ。それがきっかけで、私は君たちに会い、生きることを諦めずに済んだ。それを思うなら、今更君を糾弾しようとは考えまい』
『……ですが。貴方が愛した女性の形見なのでしょう、この図書館は』
その時彼は、一瞬黙ったと思う。彼女ならこう言うのだろう、ということを脳裏に思い描き、思わず笑みが零れてしまったのを覚えている。
『確かに形見だ。だが私が愛したのはこの本の数々ではなく、今はもう亡いヴリズニ本人だよ。彼女を想うというのなら、あのネックレスとこの図書館の鍵、そして一枚の絵だけで十分さ。だからこれからは、過去を守るのではなく、未来を――――未来を行く、君たちの助けとなりたいんだ』
不思議なものだった。ついこの間までならばこんなこと、脳裏を掠めることもなかっただろう。ただただ時の流れに身を任せ、いずれ訪れる時の最果てを緩やかに待つのみだったに違いない。しかし今は、彼を怠惰と絶望の海から救い上げた彼ら彼女らの助けとなることを、心の底から望んでいた。
『……っ。ありがとう、ございます』
それでも彼女は、自分がここを踏み荒らす発端となったことを生涯悔いるだろう。その果て無き命の尽きるまで、永劫に。でもそれだけではない、それだけならば彼と面と向かって友人付き合いなどできはしない、ならばもっと上を、上を。己が信奉する角の下、力ずくで変革を。吸血鬼が生を揺蕩ってまで守り通した図書館を、土足で踏みつけたことに見合う、否、それ以上の理想の実現を、と。そう彼女が考えていることが分かるからこそ、彼はまた、人を愛すのだ。
「こんばんは、ベルベット」
彼が軋んだ音を立てて玄関扉を開くと、そこには満月を背にした桃色の少女が僅かな微笑みを浮かべて立っていた。
「ああ、歓迎しよう。ヒステリカ」
彼女がここを訪れるのも二回目だ。他愛ない話をしつつ、自分が生活しているあの部屋へと導き、紅茶を入れてもてなす。既にこの一週間の間にその仕草が染み付いたのは、ひとえに彼ら五人がほぼ日替わりのようにここを訪れてくれるからだった。
「にあー」
ヒステリカの連れている猫が間延びした声を上げて椅子に腰掛けるベルベットの脚に擦り寄る。それを彼が抱きかかえると、心地良さげに目を細めて「にあ」と再び声を上げた。人懐っこいこの猫は、主が気を許していることを見るや吸血鬼だろうと構わず懐いた。……テレジアの連れている猫と見比べると、凄くなんというかこう、猫にも個性というものがあるのだなと感じてしまう彼だった。
「今日はちょっとした報告がありましてね。この度、私にここの探索の命を下した<ナハト・マグナ=グランツ>の上層部を、黙らせることに成功しました」
「と、いうと?」
誇らしげにそう語る彼女に相槌を返すと、彼女はこくっと一つ頷いてある紙を彼に見せた。
「昨日を以って、<ナハト・マグナ=グランツ>は“図書館<ドライ・ヴィッセン>への探索及び殲滅任務を永久に破棄し、ギルドが存続する限りこの地とここに住む者へは不干渉を貫く”ことを決定しました。今後、うちの上層部のような無粋な輩がここに来ることは、金輪際ありません」
「……君が、それを?」
「ええ。アステルさん、トルタ、レイズンさんの三人方が国家規模の冒険者の上、テレジアもそれに比肩するほどの名声をお持ちでしたから。それをチラつかせてついでにご老害方のやってるゲスいこととか色々ここぞとばかりにぶちまかしてきたらあらまびっくり率先して書いてくれましたよ。私の支援をしてくださっている方も大喜びで、昨日はその祝宴をあげていたところ報告に来るのが遅れてしまいました」
ほほほと朗らかに笑う彼女にベルベットは正直顔が引きつりそうになった。なんだこの子。聞くところによるとまだ16歳だというのになんだこの政治的手腕。
その辣腕に似合わぬ楚々とした振る舞いで一口紅茶を口に含むと、ヒステリカは「でも」と再び口を開く。
「私がここに来るときには、<ナハト・マグナ=グランツ>に派遣された魔術師ではなく、ただの冒険者、そして貴方の友人として来ることを、お約束します」
――――だから私は彼らを好いたのだ、と。ベルベットは、感じるのだった。
<ヒステリカ・アルトシュタイン>
あの依頼から六日。彼女は己に命を下したギルドの上層部たちと話をつけるべく、ルキスラ帝国のギルド本部へと赴いていた。
彼女の後見を務めてくれている老魔術師、ツェーザル・ディッテンベルガーは彼女が邸宅を出る間際「言いたいこといって来い。安心しろ、お前が正しいのは俺が保証してやる」と彼女の背を盛大にぶっ叩き咳き込ませたものの、その言葉はヒステリカを大いに元気付けた。
私がやらねば他に誰がやると言うんですか。アステルさんたちは国家規模の冒険者とはいえ、しょせんは外野。カードとして利用しこそすれ、内輪のことは内輪で話をつけるべきです。
「でなければ私は、彼に顔向けが出来ない」
自らを叱咤するように呟き、周囲からの視線も微風と受け流し受付に名を告げれば、事前に話は通じていたらしく彼女はすぐに奥の部屋に通された。お偉方の会議で使われる会議室には、既にこのギルドの長とその部下たちが険しい顔付きで彼女を待ち受けていた。
その視線は、老いたとはいえ長年大陸すらまたがるギルドを取りまとめてきた者たちの気迫のこもったものであり、ともすれば膝すら折れてしまいそうな不可視の力が篭っていた。だがそれでも、彼女は決して屈さない。
「――――ヒステリカ・アルトシュタイン。只今罷り越しました」
「余計な前置きは要らぬだろう。……貴様、何故我々の言う通りにしなかった?」
杖をぐっと握る。じっとりと掌が汗ばむが、ここで少しでも隙を見せればあとは向こうの良いように話を持っていかれるだけだ。
「はて、一体何のことやら。私は確かに、“図書館内の探索及び敵対行動を取る対象の殲滅”を全うしたはずですが」
「とぼけるなッ! それでは何故その件の吸血鬼とやらを殺さなかったッ!」
上層部の一人の激昂が空気を叩き、びりびりと震わせた。だが彼女はそれにさえも怖じることなく、飄々と受け流すのみ。
「殺す必要がない、と判断したからです。彼はただの魔物ではなく、確固たる意思を持っていた。その意思に基づきあの図書館は守られていたのです、ならばそれを侵すことは、他人の家に土足であがりこみ家主を殺害した挙句勝手に私物を拝借していくことと同義。私は魔術師として、そして冒険者として、そのような盗人まがいの行為は出来ません」
「ヴリズニ・ペリドット=ハーゲンの遺した魔術書の宝庫を、その程度の理由で放棄したというのか貴様はッ!?」
その程度の理由。その言葉に、ヒステリカの綺麗に整えられた眉がぴくりと跳ね上がった。
「お言葉ですがビレンコーフェン卿。ならば貴方は、もし私の立場であったら吸血鬼を殺害し無理矢理にでもあの図書館を奪っていた。そう仰るわけですね?」
「当然だろうッ! 魔術の探求こそが我らの使命、その足がかりとなるモノを放棄するなど魔術師としての名折れッ!」
憤慨し唾を飛ばして少女のヒステリカに食って掛かる老人を見つめ、彼女は一つ嘆息した。このギルドは、いつの間にここまで堕ちていたのか。そのことへの失望と落胆、――――そして変革への炎が、少女の中で轟と逆巻く。
「見損ないましたね。ここまで堕落しているとは思っていませんでしたよ」
「……何?」
「何の役にも立たぬ術にどれほどの価値があるというのですか。術とは、技とは。一体何のためにあるのですか。極めるために極める――――そんな矛盾した論理を振りかざす老人を、私は魔術師とは認めません」
「何をたわけたことを」
「たかが小娘の分際で生意気なッ!」
「口を慎めといっているのが――――」
「――――貴方たちのほうこそ黙ってもらえませんか、ご老害」
少女の声音は、僅か齢十六という事実からは考えられぬほどの冷ややかさを帯びていた。聞くもの全てを凍て付かせるような、徹底的に温かみというものを排除した冷徹なる言の葉。それに反比例するように、彼女の中で憤激と理想の炎が熱を帯びる。
「ヴリズニは、あの図書館とは別に、ある言葉を遺しました。『魔術師よ大衆のためたれ、冒険者よ理想のためたれ』。決して己の力のみを求めるのではなく、その力を以って人を救い、理想へと邁進することを旨とせよ。ただ部屋に引きこもって研究に没頭するだけではただの自己満足です。それを実践の中で用い、実際に人々が求めていることとは何か、我ら魔術師がその生涯を賭して求めるべき魔術とは何かを見出そうとする者が、魔術師であるべきだ、と。
だから私は、その言葉を遺したヴリズニの遺志に基づき。あの図書館を強奪するのではなく――――利用させてもらうことにしました」
「……利用、と言ったか」
ヒステリカの真向かいに座すギルドの長が、彼女の静かな気迫に強制的に黙らされた周囲の部下を差し置き、静かにその口を開く。彼女はその言葉に「はい」と頷いた。
「図書館の守護を司っていた吸血鬼、ベルベット=ハーゲン。私――――否、私たち五人は、彼と剣を交えることなく、友好的な関係を築くことに成功しました。友人として、この図書館への来訪を歓迎する、と。よって、このギルドの中では唯一、私だけがあの図書館に入ることが出来ます」
「ならば貴様がその書物を持ってくれば良いではないか。そうでなくとも、他の四人に正式に依頼として、」
「……トルタ・ヴィネガー。レイズン・ランペドゥーサ。アステル・ベネトナシュ。テレジア・エレンベルグ」
少女が羅列した四つの名前。それこそが此度あの図書館を無血開城せしめた功労者たちの名前であり、国家単位で名を轟かせる冒険者の名前であると。気付いたものから順に、彼らは顔を蒼白にさせていく。
「彼らは冒険者です、依頼ならば承りましょう。――――名も知れぬただの冒険者ならば。ですが四人は違う、既に国家との関わりすら持つ名高き冒険者。依頼を選り好み出来る立場であり、そうでなくとも彼らが友人との約定を破るような無法者ではないということは、これまでの彼らの名声と人望が証明しています」
恐らく彼らは、どれだけの大金や名誉を積まれようとも図書館から勝手に本を持ち出すということを是とはしまい。むしろそんな依頼をふっかけてみろ、たった吸血鬼一人と寂れた図書館一つのためだけにこのギルド自体が壊滅に追い込まれることだって十分にありうる。彼らはそれを可能とするだけの名声と人望、そして数多の人々の崇敬と信頼を一身に受けているのだから。
「そういうわけで。私は絶対に彼に見せてもらった魔術の知識をギルドに売るようなことはしませんし、彼らとてそれは同じ。まあ彼らよりも私をアヤしいクスリかなんかでも使って傀儡に仕立て上げ図書館に送るほうが手っ取り早いでしょうが――――そうなると、草木も眠る丑三つ時……この建物が正体不明のアンデッドに襲われる、なんてこともあるかもしれませんねぇ」
くすくすくすくす。その脅し文句は、実情を知る人間からすれば薄っぺらいハッタリだということが丸分かりだが、長を除く保身に精一杯な目の前の小さな老人たちには効果覿面のようだった。
「そこで私は、提案したいと思います」
「……申してみよ」
「図書館<ドライ・ヴィッセン>への探索及び殲滅任務を永久に破棄し、ギルドが存続する限り彼の地と彼の地に住む者へは不干渉を貫くこと。それだけです。簡単でしょう? 貴方がたは、帝国郊外のあの森を今後一切気に留めなければ良いというだけの話なんですから」
「ふ、ざ――――けるなッ!! それでは我々は、どこの馬の骨とも知れぬ冒険者に金をやった挙句、何の見返りも得られないということになるではないかッ!!」
「いいじゃないですか別に。このギルド、別に弱小ってわけじゃないんですし。それに、賄賂とか脱税とか散々あくどいことやって儲けてんですから一人6,000G合計24,000Gくらいはした金でしょう――――ねえ、ベーレンドルフ卿?」
口角を吊り上げ喚き立てる老人へと彼女が視線を滑らすと、彼はいっそ哀れなほど動揺を見せた。分かりやすくて良い、実に簡単にことが進む。
「証拠はアガってるんですよぉ。研究資金にかこつけて遠慮なくバカスカ請求してるものの、実際そのお金がどこに消えているかというとルキスラの花肆、まあ平たく言うと遊郭だっていうことだって、ちゃーんとここに」
にっこりと微笑み彼女が懐から取り出したのは、何事かがびっしりと書き連ねてある紙の束。心当たりがあるのかベーレンドルフ卿と呼ばれた禿頭の老人はぶるぶると震え、それ以上何もしゃべることはなくなった。
「あ、別にベーレンドルフ卿に限ったことではありませんので。ここにいらっしゃる方々のほとんど全員の不正、きっちりここにしたためて――――長、貴方に提出したいと思います。先の提案は、不正摘発の見返り、ということにして頂いて構いません」
ヒステリカはつかつかと長の目の前にまで歩み寄り、そっとその紙の束を卓子の上に置き、それを彼が手に取り眺め始めたのを見てわざとらしく笑みを形作る。
「あーあ、勿体無いことしましたねぇ皆様。さっきの提案を一も二もなくとっとと飲んでくださっていれば、こんなモノわざわざ取り出さなくて済みましたのに……」
心の中で恩師に感謝しつつ、彼女は顔を赤くしたり青くしたり怒号を飛ばしたりと忙しない室内の老人を眺めて「先生にも見たかったですねぇこの光景」と内心ごちた。
「いかがです? 長よ。それとも、それだけの手土産では御不満でしょうか」
暗に『まだありますよ』といわんばかりの彼女の言葉に、室内はいよいよ混沌の体を見せ始めていた。そしてそれを「静まれ」との一言で黙らせたのは、当然の如く長だ。
「……良いだろう。不正摘発の見返りとして、図書館<ドライ・ヴィッセン>への探索・殲滅任務を永久に破棄、あの地への不干渉を全ギルドメンバーに通達させよう。他にまだ摘発文書があるのならば、」
「持ってくるのに苦労しました」
一体どこにしまっていたのか、彼女が長の言葉を遮り紙束――――およそ大百科にも相当するであろう分厚さの紙束を置くと、長はそれを一瞥し一つ頷く。
「他に何か、求めることはあるか」
どうやらもう少し我侭を聞いてもらえるらしい、と彼女は暫しの間黙考する。理想への階がようやっと確固たる形をもって開かれたことを確信しつつ、彼女は誇らしげな笑みでその願いを告げる。
「――――私のこのギルド内での位階の上昇と、我が恩師、ツェーザル・ディッテンベルガーの上層部入りを」
「……承ろう」
苦虫を噛み潰した表情の上層部陣の恨みがましい視線を背に、そして掌にはこの場で正式に署名された文書を握り、彼女はこの日、会心の笑みを浮かべてギルド本部を後にした。
確かにこの身が、このギルドの改革への一歩を踏み出せたのだと。ひいてはあの心優しい吸血鬼の友人を守ることに繋がったのだと。その実感が、彼女のまだあどけない顔に笑みを刻ませたのだった。
―――― “雲隠れドライビブリオ” fin.