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忘れじの

作者: 士口 継

 遊園地のお化け屋敷も、お化けの正体が人間だと明らかになっているからこそ、エンターテインメントとして楽しめるのだと、私は思います。もっとも、私は心臓に悪いので苦手ですが。


 御天道様が未だお見えにならぬ薄暗い刻のことにございます。しんと静まり返る山の中腹、麓の村を見下ろすように突き出た山肌に一人の娘が坐って居りました。其れがまた大層な佳人であるからつい、上を行く烏も翼を止めてしまったのでしょう。

生い茂る新緑の中にただ一人坐る娘は雪でも積もられたかのように真っ白な出で立ちをしておりましたから、獣道を抜ける狸や狐もほうと目を留め黒曜石の瞳を其方へ向けるのでございます。はてさて娘が人間なのか物の怪なのか。答えは誰もが知らぬことにございます。

絹糸のような長髪に血の気のない肌、一点の穢れもない振袖を身に纏い顔には僅かな表情もなく、娘はずうと前から其処に居りました。直ぐ傍らには枝を大きく天へと伸ばした樒の木が一本佇んでいる丈の寂しい処にございます。

 娘の名を知る者は居りません。御天道様でさえ木陰の娘をいつも頭上から眺めていることしかできないのでございます。真夏の炎天下、真冬の猛吹雪の中娘は変わらずそこに居りました。近くに人の通る山道もございません。時折小さな栗鼠が一匹興味本位で横を過ぎる程度でございます。

 いつのことにございましたか。或る日娘が突然行方を眩ませ、傍らの樒も枯れ果ててしまったと御天道様が仰いました。山の静けさに飲まれた娘はもう其処には居りません。



 伊織は小さな村のしがない絵描きである。村長の次男坊に生まれたが座学も剣術も兄には遠く及ばず、いつも村の者からは疎い目で見られていた。だが、そんな者にでも神はなにかしら与えてくれるものらしく伊織は幼い頃より絵が得意だった。誰よりも上手く墨と筆を使いこなし細かく細かく描き込む精神力も持ち合わせていた。いくつになっても周囲からの冷めた視線が変わることはなかったが、いつしか伊織は周りのことなど気にしないようになっていた。よく言えば物腰穏やか、悪く言えば威厳のない彼であったが、もしかするとその世に生きる男児の中で最も優しい心をもっていたのかもしれない。

 或る日は道端に咲く竜胆を瞼の裏に思い浮かべ、また或る日は家の裏の鬼百合を思い浮かべ。時には一日中寺子屋にもいかずに描き続けていた幼少期。伊織は決して暗くはないが快活さに欠けていた。女子のような口の利き方だと莫迦にされたことが何度在ろうか。

 その伊織もあっと言う間に元服を向かえ気が付けば齢は二十を越えていた。相変わらず白い肌のままではあったが、しなやかな身体つきになり背丈はあの兄をも越していた。兄は伊織よりも五つ程年上であった為その頃には既に村一番と謳われる美しい娘と祝言を挙げていた。伊織は特に興味もなく宴の席の隅でちびちびと御猪口を口許へ運んでいた。

 或る初夏の日のことである。伊織が珍しく昼間家に籠もらず田んぼの畦道を歩いていた時のこと。小さな男児が数人わいわいと集まり竹蜻蛉を飛ばしていた。

「竹蜻蛉かい、よくできているね」

「あ、伊織様。母様から竹細工の廃材をいただいたので作ったのです」

 自慢げに掲げられる廃材の竹蜻蛉を目を細めて微笑むように見つめる伊織、彼は幼い子等から人気があった。勿論それは伊織自身も、伊織の描く絵もということだ。その為か偶に外へ出掛ける度多くの子供に囲まれていた。

「伊織様、こまが山で不思議なものを見たって言っていたんです」

「不思議なもの、珍しい動物か何かかい」

「それが、真っ白で、凄く綺麗な人がいたって」

「真っ白……」

 聞けばその「不思議なもの」は真っ白な肌に髪、着物の美しい娘だという。しかし、そのような現実とは思えぬ色をした人間がいるのだろうか、と伊織は眉を顰めた。

 その日の丑三つ時、伊織は一人で夜の山道を歩いていた。普段は山登りなど滅多にしない、いくら歩いても歩いても変わらぬ景色に次第にうんざりしてきた頃。不意に真横から眩い月光が差し込んだ。視線をやればなんとその先は木々がなく開けていた。その中で一本だけ、凛と青い葉を茂らせる樒の木とその下に坐る娘の姿だけがくっきりと夜闇に浮かんでいた。娘は聞いた話の通り色がなく、その横顔はなんとも美しいものだった。

 この山道を裸足で登って来たのだろうか、だが着物の裾から覗く素足には傷どころか汚れすらない。袖や他の布で足を拭った跡もない。

「そこの娘さん、こんな夜更けに月見ですか」

 娘は何も返さない、ただ灰色よりも薄く白よりも濃い色合いの虹彩が揺れその黒い瞳が伊織の瞳を一瞬捉えただけだった。感情のない瞳とはまさにこのことを指すのだろう。伊織はふとそんな風に思った。

 朝陽が山裾から淡い光を零し始めるまで、会話も一切無く時間は過ぎた。伊織は「また来ます」と言い残して背を向けた自分を不思議に思った。山の静けさに取り残されているような娘の空気が心地好いと感じていたことも不思議だった。人間とも物の怪とも分からぬ存在の何かに、心の落ち着く処を見つけてしまった自分もまたおかしなものだと思った。

 来る日、来る日。幾ら通いつめても娘から言葉が返ってくることはない。長髪を夜風に揺らし時折横目にちらりと伊織を見遣るだけ。それまで向けられてきた大人たちからの冷たい視線とはまた違う。決して感情などないのに疎まれてはいないと分かる視線が何より心に染み付いていた記憶を掻き消していった。

 いつしか昼間から訪れるようになった。風のそよぐ中で村の景色を描き、子供等が何度も何度も語る夢を描いた。

「私はね、いつか人々の夢を絵に描くことが夢なんですよ。おかしいでしょう。夢を紙に描きたいだなんて」

 誰も言葉を返さない。誰も返事を乞わない。ましてや色恋の感情があるわけでもない。


 伊織が己の異変に気が付いたのは娘に会うようになってから五年の月日が流れた冬のことである。乾いた咳を幾つも夜空に零して雪の夜道を歩いた。その頃には「村長の次男坊は物の怪に取り憑かれている」「狐に化かされている」とあらぬ噂も立っていた。伊織の周りからは遂に幼子も消え、居場所は樒の木の根元、あの娘の隣だけになっていた。


──げほ、ごほ。


 口許に当てた手に赤い染みが幾つもついて、痩せた頬は青白くなり、握り締めた誰かの夢に赤が滲む。よたよたと蛇行した足跡に赤が混じる。

「今晩は、今宵は見事な満月で」

 その夜も娘から言葉は返らない。伊織の目には雲一つない空と霞んだ満月が映っていた。月が明るいからなのか、それとも視界が霞んでいるからか、星は見えない。


 冬の或る日のことである。村の外れ山の入り口に伊織だったものが木に凭れていた。手には樒の花が密やかに握られ、青白い顔は驚く程に安らかだった。嗚呼、愚かな男だと伊織の兄が呟いた。伊織はこの世に多くのものを捨てて浮世から消え失せた。一つは長年握り続けた筆、墨の匂いが染み付いた部屋。一つは大切な村の子供達。もう一つは生涯決して愛することのなかった己の妻と二人の息子。

 伊織の亡骸はそれから数刻後、はらりと無数の花弁を雪の上に散らして溶けるように消えてしまったという。



 或る冬の朝のことにございます。御天道様が満月に変わって顔をお出しになりますと、山に娘は居りません。枯れた樒の木が一本と、無数に散った鮮血が雪の中に残っている丈、御天道様は悲しいお顔をなさいました。




忘れじの行く末まではかたければ

            今日をかぎりの命ともがな




あの白の甘い毒。



 そういえば、河童って水死体を見間違えたことで生まれたとどこかで聞いたような気がします。妖怪って案外日常のすぐそばにいるんじゃないでしょうか。

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