存在しない出席番号
「それでは朝礼を始めます」
教卓に出席簿を置き、教室を見回す。子供達はいつも通り、総じて怠そうな顔をしている。くあり、と欠伸をする者も多い。せめて隠せよこの野郎、とはとても口には出せない。
海堂夏樹は、一年B組の担任教師だ。名前から分かる通り、夏生まれだ。とはいえ、運動とはほぼ無縁の生活を送ってきた。のらりくらりと日々を生きていたつもりだったのに、どういう訳か、高校教師なんてものになってしまった。
本日も異常無し。メモ欄にその旨を記入したところで、不意に違和感を覚えた。
──なんだか、足りない、ような。
「せんせー、早くしてよー。次、俺ら移動なんだけどー」
「あ? あ、あー、悪い悪い」
「もー、夏バテー? 勘弁しろよなー」
やけに間延びした口調の子供に、悪い悪い、ともう一度繰り返し、へらりと愛想笑いをする。教師は気を遣うことが多くて、大変だ。
出席簿に視線を落とす。先程、一瞬のうちに湧き上がった違和感は、既に霧散していた。
気のせい、だったのだろう。
七月に入り、暑さは増している。おそらく気が遠退いていたのだ。水分補給に気を付けなくてはいけない。
「溝内は今日は風邪で休みだそうだ。他の二十五人は、いるな。はい、じゃあ解散」
一声掛けながら、出席簿を閉じた。次いで、担当学科の記録簿を開く。次は一年D組の授業だ。“移動教室”は、教師だってあるのである。
ああ、それにしても暑い。海堂は、シャツの首元を扇ぎながら、荷物を小脇に抱える。
今日も、なんでもない一日が始まった。
授業で解答権を与える時、誰から当てていくかは、意外と重要だ。
例えば、日付と同じ出席番号の生徒から。例えば、角の席の生徒から。例えば、各列の先頭と最後尾でジャンケンして負けた方から。──人によって様々だが、そこには決まった法則があるべきだ。それによって、生徒は「今日当てられるかもしれない」とあらかじめ予測することができる。
これがもし法則性が無いと、「あいつ俺を当てやがった」と何故か恨まれたりする。ぶっちゃけ、そんなことをこちらに言われても、という感じなのだが、しかしわざわざ恨まれる理由は無い。必要な時は恨まれたって良いが、不要な恨みは正直、ストレス以外の何物でもない。
「じゃあ今日は十三日だから、男子の十三番。三十四ページの一行目から、次の句点まで読めー」
開始と同時に教科書を開きながら、いつものように告げれば、「先生何言ってんのー」と生徒に笑われる。
「十三番の男子はいないよ」
何故、という疑問がフッと沸き、そしてすぐに意識の底に沈んでいく。
「ああ、……そうだった、十三番の男子はいないんだったな」
暑さで頭がやられているらしい。がしがしと頭を掻き毟れば、「何してんの先生」「記憶力が退化してんだよ。ほらもう歳だからさ」と揶揄される。うるせーなぁ、歳なんて十くらいしか違わないだろうよ。
「あ、女子の十三番もいませーん」
「二十三番の男子もー」
くすくす、くすくす。
笑い声が頭に響く。少しムッとする。
顔に笑みを張り付けて、海堂は生徒を指名した。
「なら三番の女子からな」
えー、とブーイングが起こった。いつも十ずつ足してくのに、と文句が聞こえるのを、笑顔で封じる。偶にはこれくらいの反撃、許されると思う。
──何かが、足りない。
その違和感に、蓋をする。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「それでは朝礼を始めます」
教卓に出席簿を置き、教室を見回す。子供達はいつも通り、総じて怠そうな顔をしている。机に突っ伏す生徒も数名。チョークを投げていいだろうか。駄目だろうな。昨今では、そんなジョークすらも体罰になってしまう。
本日も異常無し。メモ欄に記入する。
「二十五人、全員いるな。はい、じゃあ解散」
今日は文句を言われる前に、朝礼を終えることができた。次の授業は一年A組だ。B組は今日は移動教室ではないらしく、友達同士で楽しそうに喋っている。
気楽なもんである。しかしまあ、楽しそうなのは良いことだ。高校生活、なんだかんだであの頃は楽しかったなあ。
首の後ろに手を当てながら、教室を出る。
「せんせー」
「ん? 内倉か。どうした?」
「や、あのさー。訊きたいことあんだけどー」
いつも通りの間延びした口調。
こいつ悩みなさそうだなあ、と思う。だが人の心の中というのは、見た目からは分からないことも多い。だから、多分悩みもあるのだろうなあ、と逆のことも考える。全くもって、扱い難いお年頃である。漏れなく自分も、しっかりそうだった訳だが。
しばらく、あー、だか、うー、だか言いながら頭を捻っていた内倉は、覚悟を決めた顔で、口を開いた。
「溝内、今日は休み?」
──ミゾウチ?
海堂は首を捻った。
「何組の生徒だ?」
「何言ってんの、せんせー。頭でも打ったのかよ、B組に決まってんだろー。うちのクラスじゃんか。昨日、風邪で休んでただろー」
「そんな名前の生徒はうちにはいないだろう」
「いるだろ!」
苛立ったような口調に、理不尽な、と顔を顰める。最初からいない生徒に関して知らないことを責められても、どうしろというのだろうか。問題の当て方と同じだ。教師がどうこうできるものではないのに、何故こちらを責めるのか。
極めて遺憾である。しかし、それはどうやら内倉も同じだったようだ。
彼はひどく苛立った顔で、それでいてひどく傷付いた顔で、何より恐怖を押し込めたような顔で、「みんな揃いも揃って頭おかしーんじゃねーの!」と言って走り去っていった。
切羽詰まった顔だった。
追い掛けるべきだろうか。
逡巡する。キーンコーン、と本鈴が鳴り始めた。
既に廊下に、人の気配は無い。
「……──あ、やばい。授業が」
海堂は慌ててA組に向かった。
教室に入る。やけに空席が目立つが、こんなものだろう。なにしろA組は、三番と六番、九番、それから──とにかくいない生徒が多いのだ。十四番の生徒は男女共にいるようで、安心する。また笑われたら堪ったものではない。
くすくす、くすくす。ああ、笑い声が耳につく。振り切るように、頭を左右に揺らす。
「それじゃあ、始めるぞ」
記録簿を開き、前回の授業までの進み具合を確認する。今日は四十一ページからだ。
今日も、なんでもない一日が始まった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「それでは朝礼を始めます」
教卓に立ち、教室を見回す。子供達はいつも通り、総じて怠そうな顔をしている。何かが足りない気がする。すぐに何が足りないか、気付いた。出席簿だ。出席簿を職員室に置き忘れた。しまったなあ、と頭を掻く。
本日も異常無し。心の中で呟く。後でメモ欄に記入しておかねば。
「今日は二十四人か。欠席はいないな。はい、じゃあ解散」
出席簿、いつ取りに行こうか。時計を確認する。一時間目の授業は、B組だ。ああしまった、記録簿まで職員室だ。暑いからか、どうかしている。そうこうしている間に、本鈴が鳴った。全員、素直に席に着く。その素直さが今は憎い。
「先生、なんで何も持ってないの?」
「職員室に全て忘れてきた」
「はっ? 馬鹿なの? マジでぼけた!?」
「馬鹿じゃん。ばーかばーか」
くすくす、くすくす。
殴りたい。自分も殴りたいけど、こいつらも殴りたい。
「じゃあ先生が戻ってくるまで自習な」
「自習!」
生徒の目が輝く。自習は間違っても、自由時間ではないのだが、言ったところで意味が無いだろう。言っても言わなくても、真面目に自習をするのはほんの一握りだ。
ただ、彼らは気付いているのだろうか、授業が遅れるということは、その分後でキツキツ詰め詰めの授業になるということに。場合によっては、ほんの少し休み時間を食うかもしれないということに。
とはいえ、この件に関しては、他でもない海堂本人が悪く、生徒はそれに巻き込まれた形なのだが。都合が悪いので、この事実に関しては隠し通そうと思う。
廊下を走る訳にはいかないので、早歩きで進む。そういえば、彼に注意し忘れた、と今更思う。
──彼?
海堂は足を止めた。彼とは誰だろう。
しかし彼は、確かに昨日、いた。自分と話していた。
──せんせー。
海堂のことを、先生と呼んでいた。とんでもなく生意気な、ごく普通の生徒だった。
彼はどこだ。彼は、誰だ。
くすくす、くすくす。
どこからか、笑い声が聞こえた。
生徒の笑い声だ。教室の中から聞こえる。──なんの変哲も無い。違和感も無い。普通のことだ。当たり前のこと。
なのに、どうしてか。
心臓がドクドクと波打つ。
気のせいだ。蓋をしろ。
海堂は足を動かし始めた。出席簿を、記録簿を取りに行かなければ。そう、職員室に。今から、職員室に行って、それを持ってくる。そしてB組で授業をするのだ。
一心に足を動かし、ようやく自分の席に辿り着く。
出席簿と記録簿、それから教科書。その他必要な、いつものワンセットを手にする。
出席簿。ああ、そうだ。
メモ欄に、異常無し、と書かなくては。忘れないうちに。
ペンを取り出し、出席簿のメモ欄に記入する。これでもう大丈夫だ。密かに安堵する。もう忘れてしまえば良い。
──せんせー。
声がした。頭が痛い。熱中症だろうか。水分補給をしなければ。こめかみを押さえながら、ため息をひとつ。鞄からペットボトルを取り出す。
ごくり、と喉を震わせ、茶を飲む。
──せんせー。
背後から、声が掛けられる。
「内倉か。どうした?」
いつものように、応える。
声にしてから、数秒。息を飲み込む。
「ウチクラ……?」
ウチクラとは誰だ。そんな生徒は、B組には、いない、いや、いる。いる?
いない。違う、いないはずだ。
そんな生徒、海堂は知らない。自分は曲がりなりにも教師だ。自分のクラスの生徒くらい把握している。そんな生徒はいない。──いないだろう?
くすくす。笑い声が聞こえる。
そうだ、笑い話だ。笑いの種だ。こんなことを考えているなんて、また笑われる。いないはずの生徒が、いるかもしれないなんて。
トン、と。
指先が、触れる。
──出席簿。
まるで何かに吸い寄せられるように、それを開いた。メモ欄に踊る、異常無し、の文字。毎日、毎日。繰り返し、繰り返し。
生徒の名前を、上から、指を這わせていく。あ、い、う。う。
──うちくら。
「いた」
七月十四日。丸がついている。
彼は、昨日確かに、いた。
「そう、だ。そう、ミゾウチ……」
七月十四日、空欄。七月十三日、風邪で休み。その前は、ひたすら丸が続いている。
休みマークすらない、空欄。
存在しない、その証。
本日、異常無し。延々に踊る言葉。
「嘘だろ、おい」
紙を捲る。指をなぞる。上から、名前を探す。誰がいる。誰がいない。何人いる。何人いない。
『今日は二十四人か。欠席はいないな。はい、じゃあ解散』
本当は、何人だった?
なんで気付かなかった。何故、全員、気付いていないんだ。こんな異常事態に。欠けた教室に。
くすくす、くすくす。
生徒の笑い声が、欠けていく。
いつからだ。いったい、いつから。
捲る、捲る。捲る。捲────
「せんせー、気付いたー?」
────捲る手が、止まった。
頭が痛い。口が渇いている。これは、体調不良だ。自分の息遣いが、やけに大きく、そして荒く聞こえる。その後ろから、声が響いている。笑い声。
くすくす、くすくす。
くすくす、くすくす、くすくす。
ひとり、ふたり、さんにん、いや、もっとたくさんの密やかな笑い声が、
「ねえ、せんせー」
わらいごえが、
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
キーンコーン、と本鈴が鳴った。
「いよっしゃ、終わったー!」
途端に周りがきゃあきゃあと騒ぎ始める。これでも大きな声でお喋りすることは我慢していたのだ。騒いでいたら、隣のクラスで授業を行っている教師が注意しに来るかもしれない。それは御免だ。口を出されたくない、という無意識下の満場一致によって、なんとなく全員がそうしていた。
「あ、次の授業、体育だ」
「やば、早く行って着替えなきゃ」
次々に立ち上がっていく。
「日直の奴、黒板消してけよー」
「言われなくても分かってるっての」
でかでかと『自習』と書かれた文字を雑に消す。誰だよ、こんな大きく書いたやつ。もっと小さくてもいいだろうに、面倒な。
そもそも、
「先生、どこ行ったんだよ」
教室に笑い声が響いた。




