【番外】 あるメイドとある天才
旦那やエリナはほぼ出てきません。 メイドのスピンオフです。 雰囲気が本編とは少し異なりますのでご注意下さい。 時系列的には本編開始前です。
フィリップ・ツェーリングは私が知る誰よりも変人だ。
王宮に与えられた薄暗い研究室にトイレと風呂場と増設させ、最近ではキッチンも作ったらしい彼はそこに引きこもり、例え何があっても出てこようとはしない。 以前そのことを私の主人に話したところ、少し考えて込むような素振りをみせて 「日差しに当たれない体質かな」 などと推察していたが、実際のところはただ動き回るのが面倒なだけなのだということを、私はよく知っている。
彼は私が知る誰よりも変人ではあるが、同時に私が知る誰よりも頭が切れる。 俗に言う天才、というやつなのだろう。 越境者を父に持つ彼の発想は常に突拍子も脈絡もなく、けれどそうして生み出した数々の作品は、この国を確実に豊かにしていく。
しかし天才と馬鹿は紙一重の言葉通り、日常生活における彼の無能さ加減と言ったら特筆すべきものがある。 一体それで今までどうやって生きていたのだろうと純粋に疑問を抱く生活能力の低さは、一部の女性から 「可愛い!」 と大評判らしいが、私には到底理解しかねる趣向だ。 野菜を自然発酵させたものを躊躇なく生で喰らう姿にどうして可愛さを見出せよう。 腹は強いらしいのがせめてもの救いだが、それにしたってもう少し色々と考えて欲しいものだ。
さて、普段ブルボン家に仕えている私が何故こんな風に、フィリップ・ツェーリングについて思考を巡らせているのかと言えば、今この眼前にある状況がそのフィリップによってもたらされているものだからに他ならない。
絶妙なバランスで積み上がってはいるが、ドアの開閉一つで雪崩を起こしかねない本の山。 そのうち本に潰されて圧死するのではないかと一抹の不安にかられるような状況を、私はつい一週間前に是正したばかりだというのに――一体何をどうすれば、こんな風に出来るのだろう。
そう言って私が重い溜息をつく度に、彼は必ず次のように言う。
「――君の仕事が無くなったら困るだろう?」
常々思っていることだが、フィリップは私を彼付きのメイドかなにかと勘違いしているのだろうか。 彼の部屋が手の入れようがないほど整然と片付いていたところで、私の仕事になんの影響ももたらさないということを彼は何度説明しても理解してくれない。 そんな状況に陥る度、彼に与えられている "天才" の肩書きについてしばしば疑問を挟みたくなるが、それを訴えたところで彼自身がその肩書きを否定し続けているのだから 「そうだよね」 と一言同意されて終わってしまう。 そんな無駄な労力を使うくらいなら、この部屋にいる間に山が崩れて私の頭上を強打することがないよう、積み上げられた本を横に設置されている棚に戻す作業をした方が余程有益だ。
一応勘違いのないように付け加えておくが、彼が天才の肩書きを否定し続けているのは、彼が謙虚な人間だからというわけではない。 彼のその頭脳は 「"天" から与えられた "才能" ではない」 という彼なりの言語感覚によるものだ。 現に彼は賢いと評されれば臆面もなく首肯して、 「凄くを付け加えて」 とまで言ってのける。 謙虚どころかとんでもない自信家なのだ。
「これが本日、奥様からお預かりしてきた説明書きです」
入り口から聳えるように積み上がっている山を器用に避けながら、私は自分の主であるエリナ・ブルボンから預かってきた書状を彼に手渡す。 我が主は残念な旦那の醜い嫉妬のせいで、ろくに外出することもままならず、よってこの地下室から一歩たりとも出ようとしないフィリップとの交流は私を介して行われているのだ。 ちなみにその旦那は一切この事実を知らないのだが、特別に言う必要性は感じていない――というか言ったら言ったで面倒臭いので、今後もそれを告げるつもりはない。
彼は黙って、書状に目を落とした。
「今回は 『聴診器』、ね」
「はい。 なんでも今後の医学発展に欠かせない道具とのことで、出来る限り早急な開発をお願いしたいと」
我が主は、異世界とやらから来た 『越境者』 と呼ばれる人間である。 多くの越境者がそうであったように、彼女もまたこの国に存在していない様々な知識をその小さな身体に納めているようだった。 しかし残念ながら、医学に関してはかなり遅れているこの国では存分にそれを生かしきることが出来ず、彼女は他の越境者とは違い、そもそもの基盤から全てを作り上げていく必要性があった。
その手助けをしているのが、このハプスベルク国史上でも指折りの天才と謳われるフィリップ・ツェーリングである。 主は自分の世界にあった機具や道具の形状や使用用途を彼にこのような書面で伝えて、彼はその書面を元にこの国の持つあらゆる技術を駆使してそれらを再現する。 細かな差異はあるようだったが、出来上がった物を見る度、感嘆の溜息を漏らす主の姿から推察するに、フィリップが作った物は十分に満足のいく出来映えなのだろう。
ちなみに聴診器、というのは主曰く "胸や腹の音を聴くもの" だそうだ。 胸にしても腹にしても耳を押しつければ聞こえそうなものですのに、と私が言うと主は 「それだけでは事足りないんだよね」 少しだけ困ったように笑った。
そういえば最初に 「ちょうしんき」 という音だけを拾ったときには、『超神器』 だとか 『聴心器』 などと言った風な字面を思い浮かべたのは主には話していない。 仮に 『心が聴こえる器具』 が開発できるのならば私は迷うことなく、まず自分の夫に使うよう主に忠告しただろう。 彼女は一体何時になったらあの男が向けている気持ち悪い愛情に気がつくのか。
「もし僕がそんな道具が作ったら、君に使わせているよ」
フィリップは私が訪れる度に様々な雑談を聞きたがるので、今日はその聴診器のことも併せてブルボン夫婦の現状について話してやると、彼は何故か複雑そうな表情を浮かべながらそう言った。
――比較的、感情の機微に敏感な方だとは自負しているのだが、彼については時折良く分からないところがある。 やはり人とは少し思考回路の配線が違うのかもしれない。
「貴方がそう言う理由は察しかねますが、もし私が使うことが出来るなら、まず貴方の胸に当てるでしょうね」
本心からの言葉を伝えると、彼は一瞬の間を空け 「どうして?」 と不思議そうに尋ねてきたので、私は同じ言葉をそっくりそのまま返してやることにした。 何を疑問に思うことがあるのだろうかと、それ自体が疑問だった。 彼は自覚していないのだろうか。 自分がどんなに不思議でおかしな人間かということを。
彼は暫く考え込むように手を止めたかと思うと、やがて何かしらの結論に達したらしい。 不意にポンと手を打った。
「そうか、君は僕に興味を持っているんだね」
「……大分語弊があります」
「そう?」
フィリップの導き出した結論は決して間違ってはいなかった。 しかしそんな風に言われてしまうと、まるで私が彼に劣情でも抱いているかのように聞こえてしまう。 そういうわけではないと、私はゆっくり首を横に振った。
「私は貴方が何を考えているのか知りたいんです。 ひょっとして本に埋もれて死にたいとでも考えているんじゃないかと思って」
彼が主に返書を書いている間、書物の氷山を切り崩すことに勤しみながら私はそんな風に言った。 でなければ、こんな室内の状況にどうして我慢出来ると言うのだろう。 私ならきっと一時間もいられない。
フィリップはぐるりと室内を見渡すと、「そんなに酷いかな」 と首を捻った。 この現状を見てそんな風に言える時点で、彼の心は十分に聴く価値があるように私は思う。
「もしそんな道具が本当に存在したら、この世界はきっともの凄く醜く見えるんだろうね」
幾許の沈黙を挟んで、二人きりの静かな室内ではフィリップが呟くように漏らした言葉が鬱々と響いた。 彼は時折、"天才" らしく至極シビアで夢のないことを言う。 バラ色に見えてくるかもしれませんよ、と私が言っても彼は小さく笑うだけだ。
彼はもしかして人間が嫌いなのだろうかとも思ったが、こうして私を捕まえて小一時間は会話をさせていることを鑑みてもそれは考えにくい。 思わず手を止めてまじまじと彼を凝視してしまった私に、彼もまた同様にその手を止め、私を見た。
「――でもきっと、君やエリナの心をだけを聴いていたら、そんなこともないだろうね」
彼の表情は、ふっと緩む。 そうするとまるで機械のように無機質な雰囲気が薄れて、朧気に人間らしさが滲み出る。 何時もこんな風な表情を浮かべていれば良いのに。 私はそう思いながら、彼の言葉に疑問を返した。
「奥様は兎も角、私もですか?」
声色で訝しさを存分に表現すると、彼は 「そうだよ」 と頷いた。 手を止めたまま私を見てくる彼の状態から考えて、どうやら主に書く返書よりも現在進行している会話を優先させるつもりらしい。 また戻る時間が遅れると内心で溜息を吐きながら、彼が続けた言葉に仕方なく耳を傾ける。
「エリナも君も率直な人間だからこそ分かる。 君たちは僕のことを嫌ってはいないだろ?」
「は?――ええ、まあ。 どうしようもない人だな、とは思っていますが」
予想していなかった答弁に驚きながらも、特に心情を隠す必要性も感じずそんな風に言うと、フィリップは珍しく声を上げて笑い始めた。 何もおかしな事を言ったつもりがない私としては、一体どの部分が彼のツボをついたのか分からず仕舞いで終わる。 きっと彼に聞いたところで、答えではなく沈黙が返ってくるに違いないから。
やはりこういう時に聴心器があったら便利だろうに、と私は彼の笑いが収まるのを辛抱強く待ちながらそんな夢想に思いを馳せた。
一分ほどが経過しただろうか。 ようやく収まった笑いの残滓を微かに残しながら、目端に浮かんだ涙を拭っている彼に私は言った。
「少し、意外ですね。 貴方が人からの好意云々に左右されているだなんて」
「人間というのは須く、そういうものじゃないかな」
君だってそうだろう? と尋ねたフィリップに、私は即座に頷いた。 誰からだって嫌われるよりも好かれている方が良い(ブルボン卿は別だが)。 そんなのは私にとって当然ではあったが、けれどその当然が彼にまで当てはまるとは思ってもいなかった。
「僕は君が思っている以上に俗っぽい人間だからね」
私の心情をくみ取ってか、彼はそんな風に言葉を付け加えた。 地下室に引きこもり、俗世に晒されることを拒んでいる彼が俗っぽいというなら、主の旦那は低俗と言うべきだろう。 ことある事にブルボン卿の顔が頭に浮かぶのは別段、彼を好いているからではない。 心底嫌いなのに、ほぼ毎日顔を付き合わせなければいけないというこの数年間のストレス故だ。 何時かその鼻っ面に拳を叩き込みたいとは思っているが、私の主が彼の顔だけは気に入っていることもあって、なんとかその衝動を抑えている。
「――もし君が僕の心を聴いたらきっと幻滅してしまうよ」
かなり俗っぽいことを考えていた私の耳にフィリップの声が届く。 どこか自嘲じみた色濃く響いたそれをフォローするのでもなく、私は思っていることをただ率直に彼に伝えた。 なんとなくそうするのが一番良いような気がしたのだ。
「この部屋を作り出している時点で、貴方の評価は地に落ちてますので、これ以上幻滅しようがありません」
「ふぅん? じゃあ僕が何を思っていても、君はもう呆れないのかい?」
彼はそう言って窺い見るような上目遣いをした。 私は僅かに首を傾げて応える。
「どうでしょう。 でも多分、嫌いにはならないと思いますよ」
フィリップがそう言うように私は元々かなりストレートな人間である上、そうと知っている彼に取り繕う必要性も感じない。 彼への感情をそのまま言葉で表現すると、彼は何故か突然机の上に顔を埋めた。
急に気分でも悪くなったのかと 「どうしましたか」 と問うても返答がない。 まあきっとそのうち元に戻るだろうと気にもせず、彼を放置してせっせと山崩しに励んでいると、やがて彼は顔を伏せたままくぐもった声でこう言った。
「――やっぱり聴心器はいらないよ」
何をもってそんな結論に達したのか、私とは違う回線を持つ彼の思考を今更推し量ろうとは思わない。 ただ彼がいらないと言うのならば、きっとこの世界にそんなものは必要ないに違いない。
だから私はそうですか、と頷きながら、念のためある一言を付け加えた。
「でも聴診器は作って下さいね。 奥様のお望みですので」
分かってるよ、答えた彼の声はまたよく分からない色をしていた。