中編
少し性について直接的な表現があります。 苦手な方はご注意下さい。
私の日常は、基本的に変わり映えがない。
以前にも述べたようにうちの旦那は、基本私の外出を許さないので、屋敷に閉じこもって本を読んだり、こっそり専属メイドから護身術を教わったりしている。 なんでも彼女は元騎士で、旦那の部下だったそうだ。 ひょっとして旦那の愛人?と思わなかったわけでもなかったが、どうやら違うらしい。 彼女はうちの旦那が嫌いだ。 それはもう、某虫の如く。 そんな彼女が何故この伯爵家でメイドをやることになったのか詳しい経緯は聞いてない。 なんとなく聞いたら長くなる気がしたからだ。
そんな私であるが、月に一度だけ外出をする機会がある。 とはいえ出掛ける先は何時も決まって王宮なのだが、私は其処で何故か講演会をする。 基本衛生とかそういう感じのやつ。
この国の医療水準は高くない。 X線、CT、MRIなどといった機械も当然ないし、もっと言えば聴診器もない。 外科手術は行われてはいるが衛生管理が酷いので、死亡率が高い。 銃創を焼きごてで止血するなんて聞いたときは目眩がした。 何時の時代だ。 ひょっとして瀉血がもて囃されているじゃないかと思ったら本当にそうだった。 ほんと倒れるかと思った。 あ、ちなみに瀉血が治療法として決して悪いというつもりはない。 限定的ではあるけれど効果が出る疾患があるのも事実だ。 ただやる相手は選ぶべきだ。 間違っても高熱出して寝込んでいる感染症患者にやるものじゃない。 ジョージ・ワシントンの悲劇を繰り返すつもりか――いや、知らないとは思うけどね。
そんな現状を知った当時の私は居ても立ってもいられず――今思えば若かった――この国のトップに直談判した。
私のような越境者は神からの贈り物ということで、王宮の出入りも容易だし、一定の手続きを踏めば結構簡単に王様に謁見できる。 私の訴えを聞いた王様は、直ぐに私を王宮の医師団に招き入れてくれた。 そこで私はとんでもなく働いた。 やることはそれこそ山のようにあった。 感染症対策には特に尽力した。 人類の歴史は感染症との闘いであったと言われるぐらいに、感染症というのは怖ろしいからね! 日本じゃそこら中に溢れかえっていた抗生物質も当然なかったので、私は取り敢えず感染症を予防することに重点を置いたのだが――まあ、この辺の具体的対策は語り出すと長いのでひとまず置いておく。
兎に角、私はその対策の一つとして、平民・貴族問わず様々な人に感染症対策を知って貰おうと講演会を開くことにしたのだ。 月に一度、王宮の一角を特別に開放してもらって。 これについてはうちの旦那も何も言わない。 何せ国のための事業だし、旦那が仕えている王様からの命でもある。 言わないというか、言い様がない。
この講演会の後に設けている質問・相談タイムが、唯一引きこもりの私を外界と繋いでくれている。 だいたい平民の方々が多いのだが、時折貴族も来る。 以前、講演会なんてものに興味がなさそうなド派手な貴婦人がわざわざ私の所に質問に来たので驚いたが、どうも旦那の愛人さんだったらしい。 本人がこれまた婉曲な物言いで言ってきたから間違いない。その時は偶々性病予防の講演だったので、うちの旦那みたいに不特定多数と関係を持っている相手とヤるときは十分注意するように改めてご注進しておいた。 きちんとお互いに体を洗ってからやることと、あと最近王宮で開発させた某ゴムを使うことをお勧めした。 なんか顔を真っ赤にして帰って行ったが、やはり恥ずかしかったんだろうか。 そういう感覚に鈍くて申し訳ない限りだ。
「エリナ、今回の講演も実に興味深かった」
講演会を終え、講演に使った紙や小道具の後片付けをしていた私の元に一人の男性がやってきた。
一見して分かる上等な衣服に包まれた体はすらりと高く、キラキラと光り輝く金髪とアクアブルーの瞳はまるで宝石のようだ。 白磁のような滑らかな肌には傷や染みなど一つもなく、西洋人形のように整った顔立ち。
――その姿を見て、私はもの凄く慌てた。 元日本人の小心者に唐突過ぎる訪問はやめてほしい。 こっちにも心の準備があるんだよ。 というか、あんたはなんで此処にいる。
ひとしきり心の中でそんなことを呟きながら、私はにっこりと笑って膝を折る。 よく漫画やアニメで見たあの挨拶だ。 まさか自分がそれを日常的にやる羽目になるとは思っていなかったけど。
「勿体ないお言葉をありがとうございます――陛下」
そう。 この歩く西洋人形こそハプスベルク国王陛下。 この国で一番偉い人だ。
間違っても気軽にその辺を歩き回っていい人ではない。 何度も言っているがせめて供をつけろ。 共を。 あんたに何かあったら国の一大事なんだよ。 自覚しろ、弁えろ。
――と、上記のように思っても私は決してそれを口に出さない。 それが貴族だ。
それにどうせ幾許もしないうちに、この人が回収されることを私は知っている。 なにせこういう唐突なご訪問は初めてじゃないからね! この人常習犯だからね!
「そういえば、ヘッセン卿の舞踏会に出席すると聞いたが?」
「お耳が早いことで」
私が知る限り王族というのは気位が高いものだし、普通はこうして直接会言葉を交わすことが許されるはずもないのだが。 越境者という立場もあるのか、元々大らかなこの国ではこんな風に気軽に王様と雑談が出来る――いや、別にしたくないけど。
慇懃な口調で、是を唱える私に陛下は少し不満そうな顔をした。
「私が主催した舞踏会には出なかったのに、ヘッセン卿のものには出るとは――嫉妬するな」
「……陛下が主催されたという舞踏会の知らせは、私の元に届きませんでしたので」
というか今の今まで、そんなものがあったことすら知らなかった。
恐らく旦那が適当に処理したんだろう。 仮にも国王陛下の舞踏会に、正妻ではなく愛人を連れて行く度胸には恐れ入るが、その件について咎められるとすれば私ではなく旦那なのでどうでもいい。
それにこの王様はちゃらんぽらんしているが決して馬鹿じゃない。 舞踏会を欠席したぐらいで機嫌を損ねて、有益な人材を邪険に扱うタイプではないのだ。 この場合、有益な人材とは私のことだ。 旦那のことじゃない。 だってあの人が優秀かどうか知らないからね。 まあ騎士団長だしそれなりに剣の腕は立ちそうだけど。
「ブルボン卿はエリナにとって良い夫か?」
なんだ?いきなり。 ほんとこの王様は時々唐突だ。 頭の回路が人とは少し違うのかもしれない。
私はけれど貴族らしく、そんな感想はあくまでも微笑みの下に押し込めて彼の問いに答える。
「彼が夫であることに特に不都合は感じていませんが」
一般的に考えられている夫婦としては色々問題があるのだろうが、あくまでも一般は一般だ。 お互いが仮面夫婦と割り切ってしまえば、特に妻らしいこともせずにいる私をきちんと養ってくれている旦那に不満を感じようもない。 外出や人との交流をもう少し大目に見てくれれば殊更良いけど、そのあたりはまあギリ許容範囲だ。
そうか、と少し思案げな表情を浮かべている王様。 そのことに若干の疑問を感じながら私は周囲を窺った。 そろそろお時間だ。
「……陛下」
ほらね!
歩く西洋人形の後ろに現れたのは、歩く剥き出しナイフ――つまりうちの旦那。
騎士団長って、王様お守り役の別名なのか?と思うほど旦那は良く王様を回収しにくる。 少し疲れたような表情を浮かべているのにはちょっと同情はするが、まあそれも(たぶん)仕事なんだから仕方ない。 頑張れ。
「またこのようなところで何をされているんですか」
王様相手でも旦那の声色は変わらない。 至って平坦だ。 本当この人、どうやって愛人口説いてるの。 まじ疑問。 その様子を見れば見るほど、私は迫り来る舞踏会への期待感をアップしていくのだが今はそういう場合じゃない。
というか仮にも主催者目の前に "このようなところ" 呼ばわりとは、正直喧嘩を売っていると思われても可笑しくないと思う。 とはいえ私はそんな旦那の態度にいちいち突っかかることはしない。 だって面倒くさいし? それに私の方をちらりとも見ようとしない素振りを考えると、あまり深く考えての発言ではないと思われる。 そんなものにいちいち目くじらを立てていては、貴族なんてやってられない。
それよりも引きつった笑みを浮かべる王様に、取り敢えずお別れのご挨拶をしないとね。
私は出来るだけ優雅な仕草で膝を折る。
「陛下。 民のために王宮の一部を開放して講演会を開くことをお許し頂いたばかりではなく、陛下自らご出席いただけることで、身をもってこの講演会の重要性を皆にお示し下さっておりますこと、何時もながら光栄に思います。 しかしながら陛下はお忙しい立場。 わたくし共のことなどあまりお気遣いなさらず、どうか十二分にご自愛下さいませ」
ちなみにこれを翻訳すると 「そうちょくちょく来ないで下さいね」 となる。
それを最後に深々と頭を下げる私を置いて、王様は旦那を引き連れて――否、旦那が王様を引き摺って、去っていく。
遠ざかる気配に顔を上げた私は、大分小さくなったその後ろ姿を見ながら、ふぅと一つ溜息を吐いた。
疲れた。 いくら気軽な雰囲気漂う人とはいえ、王様は王様だ。 それなりに緊張する。
それにしてもあの人、あんな調子でちゃんと仕事してるのかな……まあ内政は比較的安定しているようだし、それを考えればああ見えてきちんと公務はこなしているんだろうけれど――取り敢えず、頭一つ分でかい旦那に襟首をとっつかまえられた王様は、まるで威厳がなかった。
ほんとこの国、大丈夫だよな?
***
その日、旦那の帰りは何時も通り遅かったので、私は先に夕飯を食べて、舞踏会に着ていくドレスを選んだ。
講演会の準備に忙しくて忘れてたけど、よく考えれば舞踏会、明後日だしね! 楽しみにしていた割に、日取りをきちんと把握していない自分にちょっと吃驚した。 いい加減に決めて下さいと専属メイドがしびれを切らして言ってくれなかったら、下手したら当日まで気がつかなかったかもしれない。メイド、グッジョブ。
尤もドレス選びとは言っても、今までの人生ほぼ大半をドレスとは無縁に過ごしていた私にはどのドレスが舞踏会に適しているのかはなんていまいち分からない。 いや胸元がざっくり開いている派手めなやつっていうのぐらいは分かるんだけどね。 流行の色とか形とか、一口にドレスと言っても社交界も結構面倒くさいのだ。 なので、チョイスは全てメイドに任せた。 もの凄く厭そうな顔していた割に、最終的には結構ノリノリで選んでくれている彼女の性質を私はきちんと弁えている。 暫くの間、等身大着せ替え人形になって、ついでに付けていく装飾具や靴も選んで貰った。 持つべきものは有能なメイドだよ、ほんと。
それが終わると私は今度、医師団からの報告書に目を通す。 全くもって忙しいが仕方がない。
職業婦人という単語が適切なのかは知らないが、結婚をした今でも私は特別顧問として医師団に所属している。 お給金も出るけど、別に伯爵家の財政が危ないから私も働きに出ているわけではない。 これは私の意志であり、結婚をする際に提示した唯一の条件だ。
使命感とか正義感とかいうものではなくて、ただやり始めた仕事をそのまま放置するのが気持ち悪かった。 それに私だって早死にしたくないし、周囲の人間に早死にして欲しくない。 この国の医療水準をあげるということは私自身の利益に繋がるのだ。
今読んでいるの報告書は、研究を進めて貰っている抗生物質に関するものだ。 残念なことに私は、最初の抗生物質が青カビの成分から出来たらしいことは知っていたが、その成分が具体的にどんなもので、どうやって抽出すればいいのかまでは知らない。 なのでそれについては、他の賢い人達に研究を任せている。 この国は医療水準は低いが、科学水準は低くない。 現代日本には到底及ばないが、驚くべき事に光学顕微鏡なんかはある。 なぜ顕微鏡があって聴診器がない。 つくづく疑問だ。
そうこうして幾つかの報告書を読んだ上で新たなる指示書を書いていると、旦那が帰ってくるという知らせが来た。 ばっちり玄関でお出迎えをすると、なんかもの凄く酒臭かった。 香水臭い上に酒臭い。 どこのエロ親父だ。
「――まだ、起きていたのか」
外見的にもそんなにアルコールに弱いタイプには見えないが、よほど深酒が過ぎたのか、それとも飲んだ後に激しく運動したせいか、もの凄く気分が悪そうだ。 とはいえ表情は特に何時もと変わりない無表情なので、普段より若干青白い顔色から察するしかないんだけど。
「講演会のアンケート集計とか報告書を読んだりとか、色々とやってたから。 それよりも随分と飲んだみたいだね」
「……ああ」
そう応答する旦那の声は低く、心なしか弱々しく掠れていた。 どうやら相当来てるらしい。
全くもって自業自得だが、目の前であからさまに弱っている人間にそんな言葉を投げるほど私は悪魔ではない。
「水、沢山飲んで、早く寝なさい。」
この世界にはキャ○ジンもウ○ンの力もないのだから、それぐらいしか酔いを緩和する方法はないんだよ。 残念ながら。
若干気の毒そうな声色で私はそれだけ言い残すと、旦那を置いてさっさと自分の部屋に引っ込もうと踵を返す。
――悪魔ではないが、わざわざ酔っぱらいを看病してやるほど天使でもない。
基本的に不干渉が、私達夫婦のモットーなのだ。
「……エリー」
入り口の広間正面から真っ直ぐに伸びる(無駄に)幅広い階段を上っている途中で、旦那が私を呼び止めた。 珍しい。 まあ酔っぱらいのすることだしさしたる意味はなさそうだけが、いくらなんでも無視するわけにもいかない。
私は「なに?」と足を止めて、振り返った。
旦那は自分で呼び止めたにも関わらず、そんな私に少し驚いた素振りを見せた後、何か言おうと試みるかのように、口を開いては閉じてという奇妙な行動を繰り返した。 なんだ、鯉の真似か? 言っておくが、いくら顔が良いとはいえ、そんな阿呆みたいな仕草ちっとも可愛くないからね。
「――すまなかった」
「は?」
ようやっと旦那が何かを言ったと思ったら、それはなんの前置きもない唐突な謝罪だった。
私は旦那の意図が掴めず、不覚にも至極間抜けな声をあげてしまう。
なんだ突然。 何を謝っているんだろう? 酒を飲み過ぎたことや、愛人のところに寄って帰りが遅くなったことを詫びているのではないのは確かだ。 だったらこの人、年がら年中謝ってないといけないもん。
「……今日のことだ。 こんなところ呼ばわりは、大人気なかった」
訝しげな私の様子に、旦那は自分の言葉足らずに気がついたらしい。 ご丁寧に説明を加えてくれた。
あーそう言えば、昼間にそんなこと言われたっけ。 すっかり忘れてた。 なんだこの人そんなこと気にしてたんだ。
気分が悪いせいもあるんだろうけど、眉を寄せ、少し気まずそうに私から視線を逸らして謝罪する殊勝な様子はまあ悪くない。
普段は向こうが無表情なせいでヘラヘラ笑うことを控えている私は(だって一人だけ馬鹿みたいでしょ?)、珍しく旦那にニッコリと笑いかけた。 素直な酔っぱらいには優しくてやろう。
「気にしてないよ」
「俺は、講演会含めお前の試みを素晴らしいと、思っている」
そう言う旦那の声は至極小さなものだったけど、真夜中の屋敷内ならそれでも十分耳に届く。
酔った故の戯言なのか、失言を詫びる意味でのリップサービスなのか、或いはひょっとして本心なのかは、私には到底判断出来ないし、判断しようと思わない。 言葉の裏の裏まで探る会話なんて、お貴族様相手だけで十分だ。 まあそういう私も旦那も、貴族なんだけどね。
だから私は旦那の言葉を額面通りに受け取ることにする。
「ありがと」
私の返答にコクリと頷いた旦那はそれっきり口を噤んだので、恐らくもう用はないのだろう。 そう思って再び旦那に背を向けて階段を登っていくと案の定、今度はもう呼び止められることもなく、私は無事に報告書の山へと舞い戻ることが出来た。
ちなみにその夜、私は少しだけ機嫌が良かった。 やはり仮面夫婦でも、お互いを尊重する礼節は大切らしい。