前編
書いてみたかった一人称小説。
人並みの人生を望んでた。
極々平凡で、偶にあとから思えばなんてことはない、けれどそのときは大事程度の壁にぶつかって、当たり前に恋をして失恋をして、それでいつかこの人だと思える人と結婚して、子供を産んで――そんな人生で良かった。
類い希なる才能なんてものはなかったし、武器に出来るほどの美貌もなかった。
人よりやや優れている点を言えば、正義感ぐらいだったと思う。 それも元々小心者の私は、振りかざす勇気もなくて、時折目にとまる理不尽や横暴に声を上げられたのは数えるほどしかなかった。
そんな私がなんでこんな目にあっているのか。
問い掛けるべきは神か仏か、なんなのか――兎に角予想も想定もしていなかった現状に、正直身の振り方に至極困っている。
「伯爵夫人におかれましては……。」
長々としたご機嫌伺いの挨拶は、大変申し訳ないながらも聞き流させて貰おう。
そもそもなんで貴族っていう輩はいちいち言うことが婉曲なんだ。
お元気ですか?一言ですみそうなものに、何故分単位の時間をかける。
暇なのか、暇なんだな。 暇つぶしに私を使ってるんだな。 そういうことなんだな。
と、こういうことを開けっぴろげに言えれば苦労はしない。
貴族というのはこんな"ご挨拶"もニコニコ、笑顔で聞かなければいけないのだ。
そして私がこの貴族というものに名を連ねることになったのは、それこそ半日かけても語りきれない様々な紆余曲折があったからなのだが、今ここでそれを語ることはやめておこう。
ただ理解して欲しいことは、私が現代日本に生きていた人間で、それが何の因果か目が覚めたら全く見知らぬ屋敷の寝室にいたこと。 そして、その屋敷が数年間私がお世話になることになったブックマン子爵家のものであったこと。 即ち俗に言う異世界トリップとやらをした上に、この国ではそういう『越境者』が神からの贈り物として至極大事に取り扱われることの三点に尽きる。
――ちなみに私はこれを聞いたとき、贈り物が私とか、とんだ不良品押しつけられたものだなと思った。
異世界チートなどほとんどなくて、容姿も知能もそのままに、特殊能力も一切なし。
ただ唯一助かったのは、言葉の壁が無かったこと。
それと多少医療に通じていたことで、この国の医学的発展に少なからず貢献することが出来たことだが――おかげで時々とんでもない重病患者が私の元に送り込まれるようになったので、これはあまり助かったとは言い難い。
そしてそんな風になんとかこの世界で、慎ましくしぶとく生き抜いてきた私であったが、ついに年貢の納め時というのがやってきた。
そう。それは、先人達が人生の墓場と称して止まなかった――結婚である。
貴族の養女として養って貰っていた以上ある程度の覚悟はしていたし、右も左も分からない、毒にも薬にもならない人間の私を優しく温かく迎えてくれた子爵家に恩返し出来るのならば、例え人買いに売られることになってもそれはそれと受け入れようと思っていた。
だから子爵家に、それより格上のブルボン伯爵家から縁談の申し込みがあったとき、遠慮がちに私の意向を尋ねる養父母に「謹んでお受けします」と即答することが出来たし、結婚した今となってもその選択に後悔はしていない。
例え相手が、社交界でも有名なプレイボーイであっても。 そしてその相手と夫婦とは名ばかりの結婚生活しか営めていなくても。 自分は沢山の愛人がいるくせに、私には一人の愛人も許してはくれなくても――だ。
政略結婚の末、お互いがお互いを愛せないまま、けれど離婚することも出来ずに、双方上手い落とし所として、夫・妻双方が互いに愛人を持っているということは結構よくある話。
個人的に浮気・不倫の類はあまり好きではなかったが、夫婦間に愛がないならまあ仕方ないんじゃないかなぁと最近は考えが変わってきてもいる。
それくらい愛のない結婚生活というものは辛い。
好きでもない相手と、四六時中とは言わないまでも、一日に最低一回は顔を合わせなければならないし、世継ぎ云々の問題で夜の営みとやらもこなさなければならなかったりする。
――まあ、私の場合は逆にこの夜の営みが全くなかったことが問題だったのだが。
結婚したときは20代後半だったが、まあ健康的な女なので、それなりに性欲もある。
さりとて旦那とは最初から寝室が別だし、初夜だってダブルベッドの端っこに背を向けて眠られた。
……いや、いいんだけどね?
世継ぎには興味がないのか、或いは別の女に産ませるつもりなのか。 別にそこら辺はどうでも良かったのだが、旦那が外で手当たり次第女を抱いているなら、私だって一人ぐらい愛人がいてもいいじゃないだろうか? それなら屋敷に出入りしている絵師が細マッチョで好みなんだけど。
結婚して半年目ぐらいだっただろうか。その旨を私専属のメイドに漏らした翌晩ぐらいに、旦那が凄い勢いで私の私室に怒鳴り込んできた。
「許さん」
と、そのフレーズ聞いただけでは一体何が何だか分からないような駄目出しを喰らった。
それだけならまだしも、更に外出禁止になった上に、その絵師は出入り禁止となり(今でも彼には大変申し訳ないことをしたと思っている)、外との手紙の遣り取りもいちいち旦那の検閲がはいり、屋敷であうことが出来る人間も旦那の許可がいるようになった。
どうやらうちの旦那は、興味がない玩具でも、自分のものに手を出されることはどうにも許せない質らしい。
えらく子供じみていたが、まあそれが旦那ならば仕方ないと諦めて今に至り――かれこれ結婚して一年。
一年ってこんなに長かったっけ?と思うぐらい退屈な日常に未だ救いの手は差し伸べられていない。
「エリナ様?」
本名、宮岡絵里奈。
幸い洋風な名前が主流のこの国でも覚えて貰いやすい名前だったので、特に省略も改変もされることなくスムーズに呼ばれている。
ああ、そういえば旦那だけは私のことを「エリー」と呼ぶな。 そちらのほうが呼びやすいのかしらないが、あと一文字頑張れよ、という思いがないわけでもない。 とはいえ、旦那はそうそう私の名前を呼ばないので、あまり気にならないのも事実だが。
いつの間にか長ったらしい口上が終えたらしい使者が訝しげに此方を見上てくるのに慌てて、口元を扇で隠す。 やばいやばい、と小声で呟きながら、隠し切れていない目元だけはおっとりと微笑んでみせる。
このくらいの腹芸、呼吸のするが如くやってのけなければ貴族などやってられない。
一生懸命語っていたご機嫌伺いを右から左に聞き流してしまったことへの多少の罪悪感もあり、彼に対して私は何時も以上に丁寧な口調で応じた。
「お話は良く分かりました。 ヘッセン卿からのお誘いは大変光栄に思います。 しかし、こと舞踏会となるとわたくし一人では返答を決めかねますことをどうかご理解頂きたいのです」
わたくし、だなんて自分で自分が笑えてしまうが仕方ない。 繰り返すようだがそれが貴族なのだ。
儀式だの形式だのという格式ばったものは肩が凝って仕方がないが、だからといって長年続いてきたものを真っ向から否定するつもりも、気力もない。
伝統とはそれなりに理由があって続いているもののはずなのだ――というのは、言われるがまま流され続ける私自身への言い訳なのかもしれないが。
伝統といえば、貴族がこうして舞踏会を開くのも伝統の一つらしい。
此方に来た当初は、まさか本当に舞踏会という代物に直面することになるとは思わなかったが、いい加減慣れた。 慣れざる得なかった。
子爵家に居たときなんかは、だいたい二月に一度ぐらいのペースで男爵家主催のパーティーがあったし、社交シーズン(春の終わりから初夏ぐらいまでらしいが)にはもう毎日のようにあちこちの舞踏会やらなにやらに連れ回された。
あれは実に悪……否、良い経け――いや、やっぱり悪夢だった。
幸い伯爵家に嫁いでからは、うちの旦那が舞踏会嫌いだったということもあり、その手の付き合いはうんと減った。 伯爵家主催のパーティーなんて、私の知る限りこの一年一度も開かれたことがなかったし、稀にきているらしい(これはメイド情報)舞踏会のお誘いも、私ではない別のパートナーを連れて旦那一人で出席しているらしい。
そういう面では実に良く出来た夫だ。
ちなみに、私付きのメイドは「奥様は悔しくないんですか!?」ともの凄く憤慨していたが、どこを悔しがればいいのか正直よく分からない。
お酒や美味しい物は好きだけれど、それならばわざわざ社交の場に出なくても十分この屋敷で堪能出来るし、別にダンスは好きじゃない。 旦那が他の女性と連れ歩いていることについては、元々そういう人だと分かっていてことだ。
――と、大いに話が逸れた上に本質が見事に埋もれたが、つまり私が言いたいことは何かというと、舞踏会に出席するにはパートナーがいるということだ。
そして幾つかの例外(うちの旦那とか)を除き、結婚している人間ならばその夫や妻をパートナーとして連れて行くわけである。
この使者の話を聞く限り――聞き流してはいたが、一応要点は押さえておいた――ヘッセン卿が招いているのはブルボン伯爵家の人間ではなく、エリナ・ブルボン個人。
つまり私にとれる選択肢は二つ。 この誘いを断るか、うちの旦那に一緒に出席して貰うか。
ちなみにヘッセン卿というのは同じ伯爵位にある人間なので、断ってもあまり角は立たない。
――よし断ろう。
それがこの話を聞いた瞬間に、私が下した決断だ。
しかし、仮にも旦那に何の相談もなく断ってしまうのも些か気が咎める。 こういうとき顔を出す小心者っぷりは、何事も和を尊ぶ日本人らしさと言って欲しい。
なのでこの使者には、「旦那に聞いてみるわー」という内容を貴族らしく婉曲な物言いで伝えたのだが……、
「ブルボン伯爵からは、エリナ様のご都合さえ宜しければご出席いただけるとの旨を承っておりますが」
マ ジ か。
羽でふさふさの扇の下で、私は口をあんぐり開ける。
もう一度言おう。 マジか。
何の策略だ? 何の罠だ?
舞踏会に出して、私のマナーやダンス云々を仲間と笑おうという嗜好か?
言っておくが私は社交というの名の無意味な腹の探り合いが嫌いなだけで、マナーは子爵夫人に叩き込まれたし、白鳥のようにとまではいかないが人の足を踏まない程度にはダンスも踊れるぞ。
――否そもそもあの旦那、女癖は悪いが性格も頭もそこまで悪くないはずだ。
人を嘲笑うことに喜悦を見出すタイプにも見えないし、そもそも私が笑い者になればその夫である自分も恥をかくという単純図式を忘れ去れるほど、おめでたい脳みそはしていないはずだ。
「そ、うですか――それならば、喜んで出席させて頂きますわ」
あまりの衝撃に少し言葉を詰まらせてしまった。
私の旦那は一体何を考えているんだろう。 というか、私をどうしたいんだろう。
考えて、考えて、考え抜いても答えは出ないまま、退出した使者と入れ替わるようにやってきた専属メイドに私が漏らした一言。
「……マジって、真の事って書くのかな」
――――その時、メイドが私に向けた視線を私は多分一生忘れない。
この人頭大丈夫かなって本気で心配してた、あれは。
***
私が旦那と会うのは一日に二度。
まずは朝。
旦那が遠征で家に居ない時以外、私達は毎朝、食堂の長いテーブルの端っこ同士に座って朝食をいただく。 ちなみに私はちゃんと「おはよう」って挨拶をするが、旦那は「ああ」とか「うん」とかしか言わなず、その後も書類片手にご飯を食べる。 伯爵家の癖に教育がなってない。 お前はどこの亭主関白だ。
次は夜。
旦那が屋敷に戻ってくる時間は、日によってまちまちで、夕方頃に帰宅することもあるが、真夜中過ぎて帰ってくることもある。
まあ大体そういう日は何処かの女性宅にお邪魔しているのだと思われる。 香水の匂いがプンプンしてるもん。
恐らく夕飯もその女性達と食べいるのだろうが、そのときはちゃんとご飯と女性に集中しているだろうか。 よもや朝食の時のように、書類を見ながら食べていたりしないだろうな? もの凄く心配だ。 今度確認しよう。
夫婦という契約を交わしているとはいえ、旦那に衣食住を面倒見て貰っている立場なので、どんなに帰りが遅くなってもしっかりお帰りは出迎えるようにしている。 「おかえりなさい」もちゃんという。 例の如く旦那の返答はおざなりだし、一度もの凄く帰りが遅かったときに出迎えた時には「先に休んでいて構わん」と言われたが、やはり最低限の礼節は守らないとね。
帰りが早いときは一緒に夕飯を食べることもあるが、その時もほとんど会話はない。
一年目の結婚生活ってこんなんだっけ? と思うくらい本当にさっぱりしている生活だ。
寝室も別だし、夕食のあとに時間を共有することもない。
まあ、その分好き勝手やらせて貰っているので、楽といえば楽なのだけれど。
「ああそういえば、食卓に花を生けることにしたから」
舞踏会のお誘いがきた夜、旦那が2週間ぶりぐらいに早く帰ってきたので、だだっ広い食堂で一緒に夕飯を食べることになった。
メインディッシュのラム肉を切りながら、テーブルの上に置いた生け花のことを思い出して私は旦那に事後報告をする。
恐らく旦那が無骨なせいかもしれないけど、このテーブルクロスが敷かれている以外、偉く殺風景なんだもん、このテーブル。 それに距離があるとはいえ、真っ直ぐ視線を伸ばした先に旦那の仏頂面があるなんて正直料理が不味くなる。 花ぐらい置いても緩衝しないとね。
ちなみに旦那に対しては、貴族らしい丁寧な言葉遣いはしていない。
何故かというと、初夜 (ヤッてはないが)のときに、そういう話し方をしていたら「気持ち悪い」と言われたからだ。 殴ってやろうかと思ったが、逆に自分の手が痛みそうだったから止めた。
――言い忘れたが、うちの旦那は騎士団長だ。 むきむきだ。 というか全体的に刃物みたいだと私は思っている。
長く伸ばして前髪ごと後ろで結っている髪は灰色でまるで鋼のようだし、 鋭い一重まぶたの下にあるトパーズ色の瞳なんてもう、まさにナイフ。 鍛えているせいか体はごっついし、上背があるせいでもの凄く威圧感がある――まあ顔は良いので、所謂ワイルド系イケメンってやつだ。
「……そうか」
旦那は一瞬手を止めて私の方を見てきたが、特に何の文句も言われなかった。
彼は大方、私がすることに無関心だ。 その上喋るときもほとんど感情を表に出さないし、もの凄く無愛想。 多分これは私に対してだけじゃない。 使用人に対しては勿論、結婚式で他の人と喋っているときもそんな感じだったからね。 正直あれには焦った。 それで、隣に立っていた私が旦那の分までニコニコ馬鹿みたいに笑う羽目になってしまった。
だからふと疑問に思う――この旦那、どうやって巷の女性を口説いているんだろう。
彼自身には全く興味ないが、その辺の好奇心は疼く。
私に実践してはくれないだろうから、何時か機会があったらこっそり覗こう。
とはいえ、二人で出掛けることなんて全く無いし、流石にこの旦那も私を連れていれば大っぴらに他の女性を口説こうとはしないだろうからそんな機会、そう訪れるはずが――いや、
「……舞踏会!」
傍に控えている使用人も旦那も私も誰も喋らないでいるものだから、食堂には食器がぶつかる音しか聞こえない。
そんな中でもの凄い名案を思いついてしまった私が、つい己の天才っぷりに感心して大声をあげたら当然響く。 響けば、旦那の耳にも当然届く。
旦那はいきなり叫んだ私に一瞬驚いたように、ぴたりと動きを止めた。
それからゆっくりとナイフとフォークを皿の上に置くと、口元をナフキンで拭って、伏せていた瞳を真っ直ぐ私に向けた。
「――ヘッセン卿からの舞踏会の誘いを受けたと聞いたが」
「え? あ、うん」
私は上の空で頷いた。
だってとんでもない名案だ。 ヘッセン卿の舞踏会なら盛大だろうし、旦那の愛人達の中にも招かれている人はいるはずだ。 彼女達と出逢ったら、さすがにこの鉄面皮も多少は表情を緩めて話すはずだ。 なにせ愛人。 愛している人。 まあ多少博愛すぎる感は否めないが、私に対する態度よりはマシなはず。 運が良ければ私の目を盗んで甘い言葉を囁く旦那の姿を、この目で拝めるかもしれない。
「……舞踏会に着ていくドレスを仕立てる必要は?」
私はテーブルの下で小さく拳を握った。 なんて賢いんだ、私の頭は。
すっかり舞踏会のことで頭が一杯になっていた私は完全に旦那の言葉を聞き流した。
いくら経ってもなんの返答も返さない私に、コホンと控えていた執事が咳払いをしながら、そそと私の方へやってきて、「奥様、旦那様が」と耳打ちした。
そこでやっと、想像の中であんなことやこんなことをしている旦那ではなく、現実目の前で食事を共にしている旦那の方に意識が向く。
ん? 私に何か用かな?
「舞踏会に着ていくドレスを仕立てなくていいのかと、聞いている」
着ていくドレス。
あーそういえば、それは考えていなかったな。
私は子爵家に持たせて貰った嫁入り道具を思い出す。 確かあの中には、まだ着てないドレスも沢山あった。 あの布の山をひっくり返せば、多分舞踏会に着ていくドレスの一着や二着や三着、余裕であるだろう。
「いらない。 多分、あるし。」
私の返答に旦那が一瞬鼻白んだように見えた。
「――装飾具は?」
「それも多分あると思う。 色々持たせて貰ったし」
「靴は?」
「履ききれないくらいある」
「……そうか。」
私がそう言うと、旦那は一瞬の間をおいて頷き、私に聞こえないぐらいの小さな声で何かを呟いた。
大方可愛げの無いとかそんな感じかな。
まあこういうときにね、可愛くお強請りしたほうがいいのかなとは思うけど、ほら養って貰っている身だしね? 伯爵家の財政状況なんて一切心配してないんだけど、だからって不必要なものをわざわざ買う必要はないだろう。
ただそういう気遣いはとても素晴らしいと思うので、一応フォローは入れておこう。
「そういうものは、他の女性に差し上げたらきっと凄く喜ばれると思うよ!」
私がそう言った瞬間、室内がピキッと凍り付いたように思えた。
あれ、私なんか変なこと言った?