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寝床と言えば聞こえが良いが、十五人単位で寝る事が想定された毛布が置かれただけの雑魚寝部屋。
現在、俺含むルーキー共のお蔭で人口密度が二百%行ってるその寝床に戻る気にはなれなかった。
「……」
しゃくりあげるタタラをツバキさんが連れて行ってくれた事は覚えてる。
が、自分がどうしてこうしてラウンジのソファーに体重を預ける事になったかは覚えて居ない。
風呂には入ったらしい。着替えもしたらしい。
味噌汁の重みと不快感は消えている。
「……っ」
だが、棘が、ある。
泣きそうな、顔。
泣くまいと、声を殺す顔。
何時も向けてくれていた無邪気な笑顔はそこには無く。捨てられた仔犬の様な眼が、縋る様に、絶望した様に、こちらを見るタタラの顔が浮かんだ。
棘が、ある。
胸の奥に突き刺さった、思い出すだけで胸を掻き毟りたくなる様な泣き顔の形をした棘が有る。
言う気は無かった。が……それは、思っていたと言う事だろう。
片目の見えないタタラ。
片足が不自由なタタラ。
俺が選んだ子神。
俺を信じてくれるタタラ。
俺を『兄』と呼ぶタタラ。
俺が傷つけた子神。
「――ッ!」
違う。アレは神じゃない。アレはただの――
「可愛い弟を泣かした自己嫌悪で眠れない……と言った所か?」
「……ツバキさん」
「ふむ。叱りつけるつもりだったのだが……」
『どうやらその必要は無さそうだな』。言って隣に座るサムライ、暁ツバキさん。
「……タタラは……その、今は……?」
何時ぞやのサムライルックでは無く、恐らく部屋着であろう薄手のシャツ姿の彼女は現在タタラを見てくれている。
「その事だが……ソウジくん、君、寝なくても良いのか?」
「は?」
何を言ってるんだ、このヒト? 寝る? この状況で?
「いやな、真面目な話だ。君は明日も訓練を受けるのだろう? 少なくとも十九――……いや、現時点では十八周はしないといけないんだぞ? 体力はもつのか?」
「……あんまりふざけないで下さいよ。この状況で寝られるわけが――……『現時点』?」
どういうことだ? と、窺うような視線。それを受けて、楽しそうに笑うツバキさん。
「そう。現時点だ。……なぁ、ソウジくん。君は、どうやって君の訓練量が決まっているのかを知りたくないかな?」
「……」
その言葉に背中を押されるように歩き出した。
□■□■□
夜。深夜。丑三つ時の午前二時。
迷宮都市グラスの外壁内側を歩くモノがいた。
小さな身体だ。
左足を引きずる様にして歩く、小さな身体だ。
「――っ、ふ、ふっ」
タタラ。
それが、その小さな身体の名前。
世界に送り込まれた神の一柱。未熟な錬鉄神。
彼はその小さな身体を、引き摺り夜の街を歩く。否、走る。
唯一つまともに動く右足に力を込めて、走る。
一つだけの瞳で夜の闇を見据えて前へ。
タタラは体力がある分けでは無い。
その身体は運動し、鍛える事をタタラに許さなかったから。
故に、未熟。
送り込まれた子神達の中で、タタラの身体能力は間違いなく最下位だ。
でも、走らなければ成らなかった。
夜は怖い。トイレに行く時は前は世話係の、今は新しい兄に手を引いて貰わないと、タタラはトイレに行けない。
それでも、走らなければ成らなかった。
「――っ、に……え……」
だって、覚えている。
候補者に引き合わせて貰って、その候補者がタタラの眼と足を見た後に、同情する様な眼で見た後、他の子を選んで行った事を。
口惜しくて、哀しくて、ローブの裾を強く握った事を覚えている。
「……あ……う……ッ!」
だって、覚えている。
そんな自分に手を伸ばしてくれた人の事を。眼と足を見て、同情するでなく『凄いな、お前』と言って自分を選んでくれた人の事を。
嬉しくて、嬉しくて、その人の服の端を掴んだら、その手を握ってくれた事を覚えている。
「――あにう、え」
まだ一週間しかたっていないけど、その一週間で色々楽しい事を教えてくれた人の事を覚えている。
二人で食べたご飯は美味しかった。
走っている兄を応援するのは楽しかった。
トイレに付いて来て欲しいと言った時のめんどくさそうな顔は止めて欲しい。
にんじんを食べれる様になろう。
しいたけも食べれる様になろう。
一人でトイレに行ける様になろう。
そして、今は――……一周でも多く走ろう。
明日、ソウジが少しでも楽に成る様に。
その為に一周でも多く走ろう。
――自分は走るのは遅いけど、一晩中走り続ければ少しは兄上の負担が減る。
「よろこんで、くれるかな、兄上?」
そうだと良いな。
そうだと嬉しいな。
今日、わがままを言って怒らせてしまったけど、明日は許してくれるかな?
兄上はからあげが好きだから許してくれなかったら分けてあげよう。
いや、その前にキチンと謝ろう。謝って、謝って――
「……そうしたら、兄上、またいっしょにいてくれるかな」
涙が零れそうになる。
いけない。
これはいけない。
泣いてはいけない。
唯でさえ足手まといの自分が泣いていたら更に嫌われてしまう。それは嫌だ。だから泣いてはいけない。
口を『へ』の字に結び、服の裾で目をこする。それで、視線を前に向ければ――
「――、――」
規則正しい呼吸のリズムで風の様にかけて行く黒い服のヒト。
「……?」
早朝マラソン、と言う奴だろうか? 昨日までは居なかった様なきがする。と、タタラは首を傾げる。それにしても――……
「いいなぁ……」
自分も、アレだけ早く走れたらなぁー。
壁に寄り掛かる様にしながら、タタラはその様子を眺める。
と、グラスの正門前、ランニングスタート地点が見えてきた。これで、今日は既に二周できた。もっと頑張ろう。頑張って、兄上を楽にしてあげよう。
「二周目だ。……今晩はここまでにしておくか、坊主?」
「われは、がんばるます! きょうかんどの!」
ソウジの真似をして敬礼をする小さな身体。
それに教官殿と呼ばれた大男は嬉しそうに笑みを浮かべ、何か眩しいものを見る様に目を細め『そうか』と頷き、小さな背中を見送る。
そうして、タタラはまた走り出す。
歩く様な速さで、一歩、一歩。
確かな足取りで、一歩、一歩。
何回も、何回も黒いヒトに追い抜かれて。
三回位転んで。
二回位泣きそうになって。
ゆっくり、白くなっていく空の下をタタラは走り続ける。
そうして――
「三周目だ。今日はこれ位に――」
「まだ、われは、がんばる!」
門に。教官と呼ばれる大男が待つ門の前に辿り着く。
「いや、お終いだ。坊主」
「でも、われはっ――兄上を……兄上に、きらわれたからっ!」
だから頑張らないと行けない。だから走らないと行けない。
「貴様ら兄弟が喧嘩したと言う話はオレも聞いているっ! だが、今日はここまでだ、坊主っ!」
「! い、いやだ! われは、まだ――」
有無を言わせない強い口調。
それに怯みながらもタタラは噛み付き――
「十七周目。あわせて二十。――今日はもう休んでも良いぞ、カタギリ訓練兵?」
「マジですか? マジですよね? さっきみたいに『十六……あ、ごめん十五』みたいな展開無いですよね? と、言うかもう無理。色々と無理。自己ベスト大幅更新しすぎた! 頑張った! 頑張ったよ、俺! もう立てない! ライジングすらしない!」
「――」
信じられない、声を聞いた。
振り向けば、今日、何度もタタラを追い抜いて行った黒いヒト。
フードをとり、倒れるのは、片桐ソウジ。
子神の付添としてこの世界にやって来た異世界人。
未熟な鍛冶神の祝福を受ける少年。そして――
「兄、上?」
タタラの、兄。
「……」
そんな彼が地面に倒れたまま、タタラを手招きする。
ふらふらとタタラが近寄ると、頭を撫でられる。
乱暴に、乱暴に。
何度も、何度も。
そして、
「……タタラ、俺はお前を尊敬する。お前は凄い奴だ」
そして、そして、
「ヒトの為に動けるお前を俺は尊敬する。ヒトの為の優しさを、ヒトの為に発揮される強さを、俺は尊敬する」
とても嬉しい事を――
「俺は、お前を選んで良かった。お前が俺の契約した神で良かった」
言ってくれる。
「――……」
いけない。
これはいけない。
泣いてしまう。哀しくないのに涙が出てしまう。哀しい涙なら耐えれるのに、この涙は堪えれない。
「ごめん、タタラ。俺はお前に八つ当たりをした」
「――」ぼろぼろと、零れる。
「ごめん、タタラ。俺はお前程強くないからお前を泣かせた」
「――」ごつごつの手が、大きな手が、撫でてくれるのが嬉しい。
「だから、誓うよ。俺は何時か、お前に尊敬して貰える様な強い『兄上』になる」
「――」イヤイヤと首を振る。自分はもう既に彼を尊敬している。
「……だから、今はこんな俺を許してくれないか?」
「――ご、はん。またいっしょにたべて、くれる?」
「あぁ。給料が入るからな。美味いもんを食いにいこう」
「よるの、トイレ、われ、まだ、こわい……っ」
「暫くは付いて行ってやる。頑張って怖く無く成れ」
「……あと、……あと、……」
「オウレンジャーショー、今日見に行くか?」
「――うんっ」
引き寄せられる様にしてタタラは倒れ込む。
片桐ソウジ。タタラの大好きな『兄上』の上に。