当直の晩に(5)
潤姫を搬送した病院は既に急患で医師の手が足りない。ビルはとうとう自分が医師であることを明かし、潤姫を救う。そして、彼の過去も彼本人の口から明かされる…。
セディは一瞬考えたが、すぐに気付き、目を丸くした。
「グレイ、お前…医者なのか?」
ビルは俯いて軽く息を吐いた。
誰にでも触れられたくない古傷はあるものだ。ビルにとって、それが「古傷」なのだろう。そこに、さっきの事務員が走って戻ってきた。
「ICUは満床ですが、処置室の端に診察台がありますから、そこで良ければと…。」
ビルは迷わず即答する。
「十分。案内してもらえます?悪いけどセディも付き合ってくれる?」
「あ、ああ…。」
セディはいささか戸惑っていた。潤姫の怪我を知ってからのビルは、セディの知っている控え目で人の良さそうなビルではなかった。発する言葉、眼差し、態度、すべてに自信と確信を持っているように見えた。
日付が変わった頃、潤姫は一般病棟の個室に静かに運び込まれた。ビルとセディは、ベッドで死んだように眠っている潤姫の横に、病室内の丸椅子を運んできてそれに腰掛けた。
「セディ、いろいろありがとう。リーも待ちくたびれちゃってるだろうから、行ってあげて。」
ビルはセディの知っている「いつものグレイ」に戻っていた。
「リーのことだ、待ってはいるだろうが、くたびれてはいないはずだ。あいつは、見た目とは裏腹にここがしっかりしている。」
と、セディは自分の胸を叩いた。
セディの言葉に、ビルは微笑んだ。
「確かに、彼の集中力と持続力にはいつも感服してるよ。」
「さっきまでのお前にも、感服したよ。それにしても、事務員に一体どんな裏技を使ったんだ?」
ビルの首にはパスケースが戻っていた。彼はそれを手に取り、裏返してセディに渡した。潤姫が一命を取り留めた安心感か、彼女の命を救えた達成感か、それとも月の魔力か…半年以上自分の中で封印していたものをセディに対して解こうという気持ちが、ビルの中に起こっていた。ただ、それは彼にとって重い扉だった。パスケースを手渡してから、話し始めるまで数秒かかった。
「セントローズ・パス…?セントローズって、あのセントローズ医大のことか?」
パスケースには、GROの身分証と、「セントローズ・パス」と書かれた顔写真入りのICカードが入っていた。無論、ビルの顔写真と、彼のフルネームが入っている。そして、カードには複数の言語でこう刻まれている。
この者は当学がその知識と技術を保証する優秀な医師である。パスの提示を受けた医療機関は、この者に対し施設と物資を提供し支援する必要がある。一切の費用と責任は当学が負う。セントローズ医科大学
ビルは重い口を開いた。
「そう、ドイツのセントローズ医大。卒業できた時にそれがもらえる。それがあると、どこの国でも医療機関に急病人を運んで治療できる。このパスの存在は、医療関係者なら誰もが知ってる。」
セントローズ医科大学は、世界各国、とりわけ紛争地域や途上国に優秀な医師を派遣しひとりでも多くの命を救うことを目的に、国連がドイツに創設した医療専門の大学だ。世界最高峰の非常にハイレベルな大学であり、入学はおろか卒業も簡単ではないが、成績優秀であれば学費も免除するなど貧困層にも門戸を開く良心的な面もある。
この大学を卒業した者がもらえる「セントローズ・パス」は、「いついかなる時も求められる医療者であれ」という大学の理念に基づき制度化されたもので、世界中のどこでも急病人を発見した時は、付近の医療機関でこのパスを提示すればその場で治療ができる。治療費はセントローズ医大が負担するので、病院側は患者から治療費を取り損ねるという心配はない。医大側も、国連から莫大な資金提供を受けているほか、保険に加入しているなどの理由で治療費が払える状態にある患者には請求しているので、さほど財布は痛まない。
ここまでして大学がバックアップする程の医師になるには、つまりセントローズ医大を卒業するには、かなりの課程をクリアしなければならない。4カ国以上の言語を習得することや、多数の論文提出、通常の臨床研修のほか紛争地域や途上国にボランティアの医師として数カ月派遣されることなど、他にも様々あるがそれらをすべてクリアして初めてパスを手にすることができるのだ。
「セントローズの医師が、なぜ…?」
セディの疑問は至極当然だ。多くの命を救える知識と技術を持ちながら、なぜ医療とは無縁のGROにいるのか?ビルは俯き加減の頭を持ち上げ、ため息を一つついた。
「勤めてた病院をクビになってね…。」
セディは気まずくなった。こういう場合は大抵、「医療ミスを犯した」だの「患者を助けられず挫折を味わった」だのという方向に話が進むと彼は思ったのだ。だが、セディの予想とは反する答えがビルの口から出た。
「病院内で巨額の横領事件が発覚して、知らぬ間に犯人の濡れ衣を着せられて…。」
「なっ…」
セディは唖然とした。
「色々やってみたけど、無実を立証することはできなかったし、再就職先も見つからなかった。病院内の誰かが、俺を追い出した挙句に他の病院にも圧力をかけていたことは間違いない。」
そこまで話すと、ビルは再び下を向いた。
「失望するだろ?人を救う立場の医師の中に、平気で仲間を陥れて締め出そうとする性根の腐った人間がいることに。でもさ…そういう人間の標的になっていることに気付かずにいた自分が、情けなくて…すっかり自信もなくしたし、人間不信にもなった…」
セディからは俯くビルの顔は見えなかったが、ビルの声が微かに震えていることには気が付いていた。
ビルはすべての経過を「色々やってみた」の一言に集約していたが、その「色々」の間に、彼はどれだけのものを失い、眠れぬ夜を何日過ごしたことだろうか。おそらくは、彼にとって人生で初めて味わった挫折であったのだろう。彼のことだ、当初は自分の無実を証明しようと必死に動いたに違いない。それでも最終的にそれが立証できなかった時の彼の絶望感は、察するに余りある。
セディはビルにパスを返した。
「それでも、これを捨てることはできなかったんだな?」
ビルは受け取ったパスをじっと見つめた。
「…ああ。これだけはどうしても捨てきれなかった…。」
瀕死の潤姫をあっさりと助けたビルの、納得過ぎる過去。ただ、医師を辞めた理由はちょっと意外なものだったのでは?
この後潤姫が目を覚ましてめでたしめでたし…とは確かにいきますが、話はそこでは終わりま…一応終わりますが、まだまだ続くんです!そう、ここまであちこちに張った伏線、ちゃんと処理しなくては!
というわけで、次話以降もどうぞお楽しみに。