夜が明けて(1)
瀕死の重傷から一夜が明け、潤姫は目を覚まし、キャシーが病院に現れ…。
〈痛い痛い痛い痛い…〉
「痛い」というフレーズに脳が完全に支配されているような感覚を覚えながら、潤姫はうっすらと目を開けた。
どこがどう痛いのかもよく分からない。脳天からつま先まで、とにかく全身が「痛い」。あまりの痛みに首を左右に振ることもできず、視線だけ左右に動かしてみる。目に映るのは、白い天井、白い壁、ベージュのカーテン、カーテン越しにうっすらと差し込む陽の光。
〈痛い痛い痛い痛い…〉
周囲で何か音はするがよく聞き取れない。聞こえてくるのは「痛い」という心の声だけ。潤姫は無意識に息を吸い込んだ。全身を駆け巡る痛みに、途端に右の胸を貫くような何とも言えない激痛が上乗せされる。思わず息を止める。どっと汗が噴き出る。いつまでも止めていられず、吸った息を吐く。また同じ激痛が襲ってくる。強烈な痛みに気が遠くなったその時だった。
「あ、起きてる起きてる。」
聞き覚えのある声が心の悲鳴を通り越して潤姫の耳に届いた。そして、声の主がぬっと潤姫の正面に顔を出した。
「おはよー。起きたわね。でも、何かすごい具合悪そう。大丈夫?」
嗅ぎ慣れた香水の香りが、ふわっと漂ってくる。キャシーだった。
「…キャシー?」
と潤姫は呼んだつもりだったが、キャシーにはわずかに潤姫の口が動いたようにしか見えなかった。
「ちょっとぉ、喋れないくらい弱ってるじゃない。かわいそー。ビル捜してくるから、もうちょっと頑張りなよ。」
そう言うと、キャシーは潤姫の視界から姿を消した。
〈痛い痛い痛い痛い…〉
キャシーは潤姫の病室と同じフロアを歩き回った。すると、ビルがナースステーションで医師や看護師と話しているところに出くわした。
「あ、いたいた。ったく、どこほっつき歩いてんのよ?」
「ああ、キャシー。」
背後からのキャシーの声にビルが振り返った。そして、何やら注射やアンプルの入った器を手に、
「じゃ、失礼します。これ、ありがとうございます。」
と医師らに挨拶をし、ナースステーションを出た。キャシーもビルに付いていく。
「当直明け早々に来てもらっちゃって悪いね。」
いつもの人の良さそうな口調でビルが言った。潤姫の看病で夜を明かしたはずだが、その表情に疲労感は全く感じられない。キャシーもいつもの調子で返すが、何となくいつもより早口だ。
「王所長に潤姫の着替え頼まれちゃったし。でもさ、潤姫ってばろくな服持ってないのよ!無地のシャツとジーンズばっか。年頃の女の子なんだから、もっとかわいいの着せなくちゃ。明日買ってくるから。」
一気にまくしたてるキャシーにビルは少々面食らった。
「あ、ああ、頼むよ…。」
〈当直明けのキャシーはテンション高いなぁ…。〉
そうだ。当直明けという時間は、無意味に人をハイテンションにさせる。夜更かしや徹夜の後、眠くて仕方ないはずなのになぜか体が軽く、浮足立ってしまうような妙な感覚に陥った経験は誰しもあろう。あんな感じだ。
ただ、キャシーがここに来た目的は、実は李邦の使いだけではない。どうしてもビルに伝えたいことがあったのだが、それを横に置いてキャシーはハイテンショントークを続ける。
「あっ!そんなこと言いに来たんじゃないのよ!病室行ったら、潤姫目覚ましてたよ。何かすんごい痛そうだったから、早く何とかしてやんなよ。」
同じ寝不足のはずのビルだが、こちらのテンションはどうもそう高くはないようだ。
「うん、そんな頃合いだと思って鎮痛剤もらってきた。潤姫、痛いとか言ってた?」
「ううん、死にそうな顔はしてたけど、何も言ってない。」
「そっか…。」
〈所長の言ってたこと、どうやら本当みたいだ…。〉
李邦の言葉は、やはりビルの中では喉に引っ掛かった魚の小骨のように気になるものだった。
〈でも、顔には出るみたいだし、見ればわかるんなら今そんなに心配する事じゃないかな。〉
潤姫に関することについては、考えなければならないことがビルには山のようにある。まだ1週間程度の付き合いだが、潤姫についての懸案事項に優先順位を付ける術を彼はいつの間にか身に着けていた。
「ねえ、セディから簡単には聞いたけど、重症なの?」
潤姫の病室はすぐそこだった。病室に入る前に、キャシーはビルにそれを確かめておきたかった。ビルは真面目な顔で答える。
「うん…。弾丸はたった1発なんだけど、その1発が動脈破って肋骨破壊してとどめに肺を直撃しちゃっててさ。あと数ミリずれてたら神経もやられて後遺症が残ったかも。」
「マジ…?復帰できるの?」
キャシーの眉間に皺が寄った。ビルは軽く笑みを浮かべながら返す。
「それは大丈夫だよ。鎮痛剤使いながらだったらある程度治癒すれば復帰できる。肺も切除した訳じゃないから、肺活量にもさほど影響ないと思う。」
キャシーは安堵の表情を浮かべた。だが、素直に良かったと口にするような性格ではない。まして、今日はハイテンションだ。
「なら、あんたも失業しないで済みそうね。」
自分で言った冗談にニヤニヤと笑うキャシーに、ビルはため息をついた。
「でも、こんなにヒヤヒヤさせるのはこれっきりにしてもらいたいな…。じゃないと失業する前に心労で倒れるよ。」
ビルは半分冗談のつもりで言ったが、残りの半分は大真面目だった。しかし、キャシーは丸々冗談と捉え、
「ちょっと大げさよ。」
とビルの肩をはたいた。ビルは危うく持っていた器を落としそうになった。
「ああっ!と。…そうでもないんだって。昨夜から動悸はするし、仮眠取ろうとしても眠れないし。」
「動悸?」
キャシーの眉間に再び皺が寄った。しかしそれはさっきのものとは意味合いが違うようだ。彼女の目は明らかに好奇心にらんらんと輝いている。
「病室にいるとどうも胸が苦しくて…。それが気になって全然眠れないんだ。」
「ふぅん。ところで、今はどうなの?」
「何でもない。」
〈むふふふふふふ…〉
キャシーの中の小悪魔が騒ぎ始めた。
〈それは『恋の病』だよ、グレイ君!…って、言うの止めとこ。もうちょっと楽しく見物させてもらおっと。〉
と話しているうちに、病室に着いた。
今回はビルとキャシーのやり取りがメイン。それにしても、この調子だとビルが潤姫に一目惚れしていることに彼本人が気付くのはいつになることやら…。ま、そこはキャシーの今後の活躍に期待ですかね。