愚か者の問い
この組織が一体なんなのかということは、一生分からないんだろう。
多くあった書類の山を適当に片し、そろそろ腹も減ったから適当に夕食を食べるかと人どうりの少ない廊下を歩いていると、久しぶりに顔を見た少年が男の隣を同じような歩幅で歩いてきた。
エインは他の人間ならば声を上げて驚くだろうそれに頓着することなく、涼しい顔で隣を歩き続けている彼になんのようだ、という意味を込めて睨み付けた。
「お久しぶりですね、エインさん」
「そんなこと聞いてるんじゃねぇよ。どういうつもりだ」
からかうようにロシア語で話しかけられ、英語で返す。
彼はいつも通りの人のよさそうな人懐っこい笑顔を見せる様は、どうしても今のその見た目からして異様だった。
「まあ、何となくですよ。久しぶりに顔を見たので」
「何だ、仕事かと思ったぜ」
「結構ここに来るの、久しぶりなんですよ?さっきまで依頼完遂のために頑張りすぎちゃいました。これ、洗濯して色が落ちますかね」
自分の服の汚れぐあいに、その原因の前に自分の服がまだ使えるかの方に視点が向くというのも変な話だが、エインは特に気にすることも無く自分のペースで廊下を歩く。
「それで、んな物騒なもん服につけて一体どんな依頼だったんだ?」
「あぁ、今回は別に人殺しとかではないですよ?ただここの情報を盗んで逃げた男を海外まで追って捕まえに行ってたんです」
ドイツ語に切り替え話しかけると、ドイツ語で返事が返ってきた。
「それで男は?」
「丁度依頼主に会っていたところだったので両方とも死なない程度にめった刺しにしてきました。そのあとは、まあプロの拷問師の方に引き渡したけど」
「やっぱ物騒だな」
エインは不機嫌になり、眉を顰めた。
彼が身にまとった服全体にところどころ血が凝固して付着している服はもう使い物にならないだろう。
「それでお前が?そんなに重要なファイルだったのか?」
「さあ?僕も詳しくは。それに僕は依頼で偶々近くに言ってたから駆り出されただけですから。ユシオンさんに聞けば分かると思いますよ」
「遠慮する。あいつに貸しなんて作ったらどうなるかわかったもんじゃねぇ」
不気味な笑い声をあげてじりじりと寄ってくる女が頭りよぎり、エインはそれを頭を振って追い出した。
「それで?」
「あ?」
「そちらこそ、僕に何か用があるんじゃないんですか」
ドイツ語から英語で話しかけられた。
さっき話していたロシア語もドイツ語も英語も、すべて自分の母国語のように慣れた発音をしている。それのどれも育ってきた国の言葉ではないことを知っているエインにとっては気持ち悪いことこの上ない。
ニコリと微笑む彼に内心でエインは舌打ちをした。
こういう無駄に聡いところが、あいつにとてもよく似ている。それと同時にかなりイラつく。
「聡いガキは嫌いだ」
「ガキじゃないですよ」
「知ってるよ」
東洋人らしい瞳と髪の色ではないものの、東洋の血が入っているせいかは十代前半に見えるが、真崎音和は19歳だ。別に小さいわけでもないのだがどう考えても実年齢よりは幾分か若く見えてしまう。
「お前、この組織に入って楽しいか?」
「それはどういう意味で受け取ればいいの?」
ドイツ語で尋ねると、音和は無邪気に笑って答える。
「別に。そう深く捉えんな」
「じゃあ、そういうエインさんはどうなんですか?」
「俺は楽しい楽しくないでここにいるんじゃねぇよ。ここの組織に知り合いがいたから入っただけだ」
「へぇ。そうだったんですか」
白々しい。
こいつは初めて会った時から知っていただろうことは分かっていた。
さっきエインは組織といったが、二人が所属している集団にはいわゆる会社名だとかの名前はない。
ただ、以来さえあれば余程犯罪的なことじゃない限り、何でも依頼を受けてそれをどんな形であれ解決させる、というものだ。大抵の人間はエインのように組織と一言で言い表しているが、中には依頼屋だとか、何でも屋だとかいう人、勝手に自分でつけた名前で呼ぶ人など様々だ。
テロ組織でも、犯罪組織でもないのだが、その中でも何人か人殺し等の血に濡れたことをする者はいる。ただ、本当に少数なためほとんどの人間には知られていないだけである。
そのうちの一人なのが、このまだ若い音和だった。
「それじゃあ、質問にお答えするよ。Es ist nicht welcher auch. 」
「あ?なんだよ。どっちでもないって」
「別に、僕は快楽殺人者ではありませんから。でも別に人を殺すことに嫌悪感だとかを感じているかと言われても答えはいいえ、です。エインさんは知っているでしょう?僕は人を殺すことに快楽なんかない代わりに、人を殺すのが悪いとは思えないから罪悪感はありません。だから、この組織にいるのは僕の単なる気まぐれに過ぎません。ただ僕は愉しいことを探してるんです、気まぐれでいつでもいなくなる可能性のある人間なんです」
音和がつらつらと述べるエインには到底理解などできそうにない言葉に特に何を言うでもなく煙草に火をつけ、煙を吸い込んだ。
煙が煙たいだろうにそれを気にしていないのか、未だに隣を歩いている。
――――馬鹿馬鹿しいったらねぇな、ったく
血が付着し、吸収された服を着ている慎司に対して恐れるように距離を開く時々すれ違う男たちに、エインは内心、鼻で笑った。
その中には情欲が混じったようなものを瞳に宿す者もいたが、音和はそれに気付いていながらも面倒だからなのか全てスルーしているように見える。
多くの国籍の人間がいるここで、様々な人が居るように、そういう輩がいるのは事実だ。しかしこいつにそんな真似を行おうとした男共がどんな末路をたどっているのか、同僚から散々愚痴を聞かされているエインは知っていた。
「それで?俺はこれから休憩場にでも行くつもりだが、お前はどうすんだ」
「さあ?どうしようかな」
「ま、今から適当に決めればいいだろ」
タバコを吸いながら歩いている最中にエインが音和へと視線を向けると、音和の血に汚れた服が目に付いた。
「歩いてると目立つから、とりあえず何かはおっとけよ」
「分かりました。……でも、周りの人の反応が愉しいし」
後半部分をドイツ語でもロシア語でもないエインには理解できない日本語で呟かれる。
その言語が日本語っぽいということしかわからないエインは意味深そうな言葉にはそ知らぬふりをで英語に戻した。
「まあいいけどな、適当に頑張れ」
「エインさんの人に深入りしないようなところ、僕は好きですよ」
「おい、そう発言言うから男共に目つけられんだ。お前のこと勘違いして襲った奴等の末路の処理で眠れないとかエヴァがぼやいてたぞ」
「え?僕のせいじゃないですよね」
尤もな意見だが、いろんな意味で過剰防衛だろう。
「過剰防衛だ。あいつはただでさえ仕事がいっぱいいっぱいなのにこれ以上上乗せしてどうする」
「エヴァさん優秀だから。優秀すぎるっていうのも困りものですよね。皆面倒事はエヴァさんに放り投げていっちゃうから」
「お前もな」
その言葉に怒るでもなく音和は首をすくめた。
「まあ、今はそんな話をしていても仕方ないですよ」
そこまで言ったところで、目的として目指していた場所についた。この時間帯、予想していたがやはり人が少ない。しかも、ごく少数だがいた人たちが音和を見た瞬間に逃げて行くので、ものの見事にそこにいるのは必然的にエインと音和だけになってしまう。
テーブルがある椅子に座った音和に、エインは自動販売機の所まで行き、まず自分用のコーヒーを買う。
「お前は何が飲みたいんだ?」
「奢ってくれるんですか」
「バカ、奢らねーよ。ついでだ、ついで」
「緑茶は?」
「ないな、ここは日本じゃない」
「今時それくらいあってもいいじゃないですか。じゃあ紅茶で」
頼まれた紅茶を買い、エインはその場でそれを放り投げた。
「危ないじゃないですか。せっかくのこれが無駄になります」
「重いだろ?」
「そこまで重くないと思いますけど……」
同じテーブルの向かいの椅子に座り、エインは今買ったコーヒーを口に入れた。
「うん、美味しい。コーヒーでもよかったけど、苦すぎるし」
ドイツ語で一言そういうと、音和は二口目を口に含んだ。
「そうか?そこまで苦くないぞ」
「結構甘党なんです。苦いのも少しは平気ですけど。日本になら甘い奴もありますけど、一度飲んでみたらいかがですか」
「遠慮する。大体、仕事でも日本語が話せない奴に仕事が振り分けられるとは思わん」
「そうですか」
そういってあっさりと引く音和に、エイン何も言わずしばらくの間黙ったままその顔を睨むとも思われるような風に視線を向けた。
「お前はなんでここにいる?」
「え?」
「お前は、なんでここにいるんだ?」
二度問いかけると、一瞬訳が分からないというように眉を寄せられたが、すぐに笑顔を見せた。
「あの人が、一先ずはここに居ろって言ったから」
「……」
「でもどうだろ、一先ずってどれぐらいかな?」
「…俺に聞くなよ。そいつに聞け」
「まあ、それもそうですね」
馬鹿馬鹿しい、というよりアホらしい会話だった。
いつものように笑う音和の笑みは、いつものように純粋だ。こんな仕事をしているくせに、そんな汚いことは一切知らないというように、この世の綺麗なことしか知らないというかのように。それが逆に怖い。
「あ、そうだ。さっきボスに会ったんだけど、任せたい仕事があるから来いって言ってましたよ」
「は?……面倒くせぇ」
「三十分くらい前なので、早く言った方がいいですよ」
ニコリと笑う音和にも目もくれず、さっきまで座っていた椅子から早々にエインは立ち上がった。
「お前な、その物騒なもんさっさとひっこめろよ。じゃあな」
眉間に皺を寄せ、エインはそれだけ言うとその場を足早に立ち去った。
足早にとっとと去って行った彼を見つめたまま、彼は腕に仕込んでいたナイフを手に落とし、普段仕込んでいる場所に戻した。
エインに随分前から悟られていたとこは音和にとっても何となく察してはいたし、もし何か変なことを言ったらたとえあの人の生涯の親友であろうとも殺す気でいた。
実際エインの反射神経がどれだけよかったとしても、実戦部隊や、暗殺部隊と影で呼ばれている殺人を主な仕事としている音和には小ぶりなナイフでもいつでも頸動脈を切り裂くことなど造作もない事だ。ただ、彼は音和が何時でも自分を殺すだろうと知っていても全くいつもと態度は変わらなかった。警戒心を解かなかったというだけで。
「本当、そういう妙に察しがよくてお人好しな所はそっくりだよ」
日本語で彼はつぶやき、そっと溜め息を落とした。
別に、殺さなかったのはそういう事じゃない。組織に対して妙なことを言っていなかったから。ただそれだけのことだ。まあ、態度や気分次第で殺すも生かすも変わっていたけれど、エインはすでにここで生き続けるだろう覚悟があることは分かっていたから。
本当に、ただそれだけだった。
「それにしても、これのお金結局要求されなかったし」
半分ほど飲んだ紅茶をグイッと飲み干して、さっきエインが消えた反対の方向へと彼は歩き始めた。
2013.6.17 改訂しました