ディレイルメント
何一つうまくいかない。
もう草臥れた、何かしらいいことがあるんじゃないかな、
そういう時期もすっかり過ぎた、そういう淡い何かも期待できないでいる。
底なしの何かにはまっていくというよりは、
静かに、なだらかな坂道を歩いて降りたというのか、
気付きつつあったのに、気付くのを恐れたとか、
そういう、ありていな言葉で繕う、
「俺の人生ももう」
「はいはい、早く働いてこいよバカ野郎」
「いや、お前ねぇ、馬鹿野郎とか、ちょっと酷いんじゃないか?」
「うだうだうじうじ、能書きばっかでなんもしてねぇんだからそうじゃん、なんでもいいから働いてこいよ、このポンコツ野郎」
「お前、女なんだからもっと言葉遣いに気を使えよ」
「うっるさいわねぇ、あんた如きには、こんな女がお似合いなのよぅ」
「やめろよ、その語尾をおはるさんみたいにするの」
「誰よ?」
「いや、気にするな」
「誰が後添いか」
「知ってんじゃねぇか」
秋山の大先生のようには絶対なれないと思いつつ、
腐れ縁の彼女と、いつもの会話から日常が始まる。
いや、大分前から今日は始まっていたはずだが、
ふとした瞬間に去来する、この絶望感というか、白昼夢というか、夢遊病というか。
ともあれ、フラッシュバックするろくでもない記憶と、予測と、少しばかりの夢が、
つまるところ、仕事が嫌で仕方ない、それに心を支配されてうろの如く、心に穴があく。
「今日も結局レールに乗ってしまった」
ちなみに、人生と通勤電車をかけている。
別段うまくない。
サラリーマン常套句の一つとしても差し支えがない。
「ヒッピー生活でハッピーか…」
どこの広告担当がひねり出したのかわからないが、
ろくでもない文言にしばし目を奪われる。
電車の吊り広告は面白い、主に週刊誌のそれだけども、
法律相談と金貸し広告には出せない魅力がそこに詰まっている。
なんと、クリエイティブな仕事なんだろう、駄洒落でお金が貰えるなんて。
そんな話しを会社について、同僚にふりまいてみる。
「そういえば、スティーブジョブズもヒッピーだったらしいな」
「まじで?あのジョブズが?マッキントッシュ作ったのに?」
「どっかの怪しげな宗教系の学校かなんかで、ハッパだったか、LSDだったか、色々キメながら人生を謳歌してたらしいぜ」
「京都で寿司喰ってるおノボりガイジンじゃないのかよ」
「お前、ジョブズの情報偏りすぎだろう、だいたいマック作ったのは…」
「うるせぇ、そんなこたぁどうでもいいんだ、ヒッピーってそんなにクリエイティブなのか」
「そうじゃねぇだろ」
最後の同僚の台詞はもう耳に入らない。
シャッフルされても、天気以外に違いがない毎日から、
いよいよ脱却できるパーツを見つけた、そんな気分だ。
社会からドロップアウトする、そうだ、既に死んだような毎日だ。
捨てることに何をためらうことが、
その姿勢が、その反体制的なそれが、俺をクリエイティブかつ、エグゼクティブな感じに!
「盛り上がってるところ悪いけど、お前彼女いなかったか?」
「いるよ、それもまたヒッピーっぽいだろう、今時同棲してんだからな」
「お前の場合、ヒッピーというか、内縁のなんとかとかそういう感じがするけど」
「なんか事件性を高めるような言いがかりはよしてもらえるか」
「お前偏見酷いな、いや、そのヒッピーっぽいってのはわからんでもないが、それついてくるのか?」
「…」
「いや、お前のこと別段友達だとか思ったこともないけど、お前みたいな、ちょっと疲れてるヤツいっぱいみてるから心配なんだ、アウトして、本当にもう、どうしようもねぇとかな、お前が一人でくたばるのは構わんが、その人巻き込むのはどうかとな」
「ぬぅ」
「ま、短絡起こすな」
同僚が去っていく。
あいつ、確か独身だったはずだ、彼女もいない、そんなヤツに言われても…。
ぐっと、言葉を飲み込みつつそれでも、そのサジェスチョンには、
ぐさり、胸を刺されたような衝撃を覚える。
確かにそうだ、だが解放とはそういうものではないか、アレを捨てるというのも、
一つ、いや、そもそも、アレと一緒に毎日だらだらしてるから、
それが何もかもの根っこではないのか、毎日を刺激的に変化させる。
それは、つまり、そういうことじゃないか。
「別れ話…」
できるのだろうか、唐突に脈絡もなく、思い果てぬまま、
レールから飛び降りるために、
毎日同じ生活を送る愚かな習慣からの脱却を目指し、
ぶつぶつ言いながら仕事に励む。
☆
さて、私である。
アレの彼女のほうである。
今日も今日とて、仕方ないので近所でレジ打ちのパートをこなしている。
退屈だ、帰ってまた、あの男の相手をすると思うと憂鬱だ。
退屈と陰鬱では、韻を踏めてない。
「はい、2,000円になりまーす」
きっかり金額の買い物とは、客人狙いましたか?ツいてますね、
自分の打ったレジをじっと見つめつつ、さくさくと会計済みカゴに移し替える。
買い物客は主婦のようだ、自分よりも幾分か年上なんだろう。
家庭の匂いがするな…。
そんな家族というそれを影に見てしまう、仕草に見てしまう、
薬指のリングを見てしまう。
「こうたいでーす」
「あ、はーい、お願いしまーす」
茶髪というよりも、金髪に近い女子高生のパートの子がレジにやってきた。
くるりと申し合わせたように交代する、彼女とは何度か話しをしたが、
他愛のないそればかり、壁ではなく隔たりのようなものを感じる。
彼女くらいの頃に、自分くらいの人に感じたそれなんだろう。
その逆の景色はこうなのか、そんな風に考える。
「ダメだ、思考がアレ臭い、それなりの年齢の女のこれじゃない」
アレとかコレとか、そんな単語しか最近思い浮かばない。
バカと付き合っているせいだろうか、
このままではダメになる、ダメ男は好きだが、
このダメはダメだ、こうじゃない、もっと、違うああいうダメがいいんだ、
安野モヨ子とかが好きなような、ああいうの、ああいうのはどこに落ちてるんだ。
今捕まえてるのは、詐欺だ、バッタモンも甚だしい。
「しかし、コレしかないのも確かだ、現実はこれだ」
おっさんみたいな物言いながら、その悲しい現実を受け入れる儀式を行う。
今日も祈る、そうだと自分に言い聞かせるために、
もぎもぎ、休憩所に入っておにぎりを食べながら落ち着きを取り戻す。
パートの数少ないよいところは、オニギリがちょっとだけ安く買えることだ。
ああ、たまにはランチっぽいものを食べてみたい…。
「あらやだ、何、またオニギリ?もー、自分で作ったらいーのにー」
「えー、面倒くさいじゃないですかぁ」
「あらやだ、またそんなこと言って、そのうちずっと作ることになるんだから、練習しとかなきゃ」
「えー、それはやだなー」
「あらやだよぉ、いやでもそうなんのよぉ」
やんわり笑顔で、割と抜けた感じ、
それを頭におきつつ、おばちゃんとの会話を楽しむ。
なぜ毎回、あらやだ、なんて節を付けるのかわからないが、
留まることのない会話を聞いていて、不思議と飽きがない。
ラジオみたいだと思ったりする。
「あらやだ、そういえば、ほら、彼氏?見たわよ、まー、本当に」
「え、ちょ、ちょっとどういうことですか?」
「いや、その、ねぇ、あんまり悪くいうからどうかと思ったけど、案外ねぇ」
「ちょっと、掴みにくいんですけど、え、なんかしたんですか?あいつ」
「いや、ほら、この前、あなた誕生日だったじゃない、その時に」
「に?」
「アパートの下だったかで、一人で練習してたのよ」
「え、演劇とか別にしてないやつなんですが…」
「でしょー、最初そうかなと思ったけど、どうも、あなたになんか言おうとしてる練習を…そうそう、その時に言われなかった?なんか、ほら、ねぇ」
「なんか、あったかな…誕生日の時って…」
思い当たらない、いつも通りだった気がする…。
だいたい、もういい年齢だからって、誕生日とかでとやかく言うなと、
しっかり言いつけていたせいかもしれない、挙動が不審だったようにも思うけど、
それはいつものことだったし…なんだと、どんな恥ずかしいことを口走るつもりだったんだ、
気になるじゃないか、まったく、もう、なんだよ、あのバカ。
「わかりました、ちょっと問いつめておきます」
「あらやだ、今夜は焼き肉ね」
「特売の日じゃないですよ」
「大丈夫、特売シール貰ってきたから」
ぎゅっと、それを渡されて半笑いで受け取る私。
どこから、どうしたらいいかわからないけど、
とりあえずこれは貰っておこう。
もの凄い笑顔のおばちゃんに見送られて、夕方まで働きパートが明けた。
気なしか足取りが早くなってしまう。
急いだって、アレが早く帰っているとは限らな…、
「いた」
しかも、なんかぶつぶつ言ってる。
ちょっと、マジで外から丸見えのところでやってんじゃないか、
やだ恥ずかしい、ちょっとどうなってんの、やめてよもぉ。
最後は牛の鳴き声みたいになりながら、
いつもの調子で、脳内だけで文句を垂れる。
まだアレは気付いていない、何を言っているんだ。
というか、あたしの誕生日は何ヶ月前だと思ってんだ。
「…」
「き、聞こえねぇ…あいつ本当、どうしてこう、カツゼツも悪いかな」
☆
別れ話の切りだし方がわからない。
色々な台詞を一通りなぞってみたが、一つもしっくりこなかった。
そりゃそうだ、男が夢のために女を捨てるといや、聞こえもいいが、
実際はヒッピーでハッピーになりたいだけだ。
三文コピーライターにかないっこない。
「何してんの、さっきからぶつぶつ、聞こえないんだけど」
「う、うわっ!お、い、何時の間に」
「…リアクションが芸人みたい、気持ち悪い」
「今朝と変わらず、容赦ねぇなおい」
「そんなことより、何してんの?近所で評判になってんだけど」
「嘘だろ、ちょっと待て、つい15分くらい前からしかしてねぇぞ」
「15分もアパート階下でぶつぶつ言ってたら通報されるわバカもの」
ぷんすかという体で、こちらを睨み付けてくる。
怖いからつい目をそらしてしまう。
というか、最近、目をあわせた覚えもない。
やはりダメだ、これはもう、そうだ、いっそチャンスだ、イノベーションだよ。
「…その、言うぜ、あの、アレだ…俺達…」
レールから飛び降りる、自由のため、
「だから、その、…」
言葉を探して目が泳いでいた、
ふと、その泳いでいる目が、目の前をとらえた、
いや、ようやく現実を見つめたといっていいんだろう。
連れ合いの顔をまじまじと見た、はっきりと見たのは、本当に何時が最後だか思い出せない。
その目は、いつもどんよりしているように見えていたのに、
今は、別段何という感情が乗っているわけでもないが、
俺が言おうとしているそれを受け止めるそれじゃない。
受け止めたあとどうなるか、なぜかそれが見えるような気がしてしまう。
「わか…」
「わか?」
「わかんない」
「?」
「わ、わからない、わからないんだよ、そう、わかんねーんだこれがま…」
ばっつーん。
打音が大きく夕暮れに響いた、特売シールの貼られた肉が買い物袋から覗いて見えた。
そうだ、レールから飛び降りたらダメだ、飛び降りたら死ぬ、
何を当たり前のことを今更、レールに乗ったまま、でも行き先を変えることはできる。
早まってはダメだ、同僚も言ってたじゃないか、ありがとう大して仲の良くない同僚よ。
どうして、すき焼きなどと立派な夕飯だったのか皆目見当もつかないが、
俺の口に入った肉の枚数を考えると、ただ、あいつが食べたかっただけなのかもしれない。
そうだ、ヒッピーじゃ、すき焼き食べられないし、いいんだよ。
少しだけ機嫌がよさそうな横顔が、
やっぱり、いつ以来だろうかわからない、まんざらでもない。
☆
すき焼きを終えて気付いた。
この男はバカだったのだ。
何を言おうとか、そういう次元でもないのだ。
なにやらキモチワルげに、こちらをチラ見している。
薄気味悪いと思いつつも、特売シールがとても恥ずかしく感じてしまう。
なんだかとても恥ずかしいけど、
いつ以来かわからない、これがなんだか、悪くない。