7日目、はじめて手にしたぬくもり
子供の頃、よく夢を見ていた。
それはまるでおとぎ話のように竜が空を舞い、
鮮やかに彩られた花畑に、
見た事もない果実の群れが竜と共に踊り出す。
私はそれを、とてもよく知っていた。
「あの夢…なんなんだろ…」
今ではすっかり忘れてしまっていた夢を思い出し、懐かしく感じ涙が溢れた。
そして段々と頭痛がやってきて思考を進める事は阻まれた。
だけどこれだけは放っておく気にはなれない。
あの竜は、
あの黒い竜は―――
瞬間、いつもの頭痛とは比にならないくらいの痛みが襲ってくる。
鈍器で頭を殴られたような、ネジを捩じ込まれたような、むしろもう割れてしまっているような味わった事のない痛み。
「きゃあああああっ!!いやぁぁああ痛いよおお!助けて…!!痛ぃい…っ!!」
頭が暴かれ記憶の回路を毟り取られるかのような一方的な痛みに悲鳴が止まらない。
自分の悲鳴が頭に木霊する中、地を這うような低くどす黒い声が聞こえてきた。
『思い出すな。知る事は許さん。決して貴様を許さんぞ』
どうして私を阻むのか。
どうして私を痛めつけるのか。
誰が、何の為に。
「痛いよぉ!ゃ…、だよギィ!たす…助けてぇギィ……っ!!!」
痛む頭を押えられず、のたうちまわる事も出来ず、ただただ白い天井に向かって助けを求めた。
ここにいる筈のない、ただ一人の愛しい人に向かって。
早く夜になって。会いたいよ。抱きしめて。
大丈夫だって笑ってよ、
「…ギィ…っ」
私の悲鳴を聞いて、バタバタと走る足音が近付いてくる。
その後の事は知らない。
ただ、薄れゆく意識の中で声が聞こえた気がした。
―――大丈夫だ、千陽。
もうすぐ終わる。
ふわり、とあの人の声が。
私は今屋上に来ている。
あの騒ぎにかけつけたお母さんに無理を言って連れて来て貰った。車椅子に乗ろうとした時に支えて貰いながら歩いた私を見てビックリしていた。
「言うの忘れてたとか…相変わらず変な所ぬけているわね」
ごめんと笑うと、全くだわと返された。
痛みに気を失った私が目を覚ました時には傍に両親がいて、無事でよかったと泣きすがられた。
2人は、その異常な光景にもう駄目だと思ったらしい。また心配をかけてしまった。
落ち付いた2人にもう大丈夫だよと、仕事へ行きなよと説得するのに1時間かかった。身体に異常はなく、ただの頭痛なのだからと。
しぶしぶお父さんは仕事へ行き、お母さんは休みもらったからいいの!などと頬を膨らませて立ちあがらなかったので、こちらが降参した。
「風が気持ちいいねぇ」
「そうね。少しひんやりしていて丁度いいわ」
空を見上げると、青く澄み渡っていた。
ぽつりぽつりと浮かぶ雲や、自由に飛ぶ鳥。私はこの空を見て何を思っていたのだろう。
空は青いだけで、私に応えてはくれなかった。
「千陽は、大切な人がいるのね?」
「え」
お母さんが空を見ながら私に問いかけてきた。というか、断定系な言い方だが。
「なんか口に出してた?」
「ふふ。何度も何度もね。私達が手を握っていても呼ぶのはその方の名前だけ」
「…そう…なんだ。ごめんね、お母さん」
なんかいたたまれなくなって視線を足の上に重ねた手に落とす。
あらどうして?とお母さんは笑っていた。
「千陽が好きになる人がいたんだもの、それだけで嬉しいわ。そしてその方を信頼して頼っているっていう事は凄い事じゃない!」
キャピキャピとはしゃぐお母さんは、どう見ても26歳の娘を持っているようには見えないくらい少女のように可愛かった。
「そして、その方に助けていただいたのね?」
…どうして私の周りの人達は、不思議な事にこうも寛容なのだろう。少しくらい誰かツッコんでくれてもいい気がするんだけれど!
ああ、もう既に私のこのおかしな身体に耐性がついてしまったという事でいいのね?
「おかしいとは思わないの?私の妄想が作りだしたエア彼氏かもしれないじゃん?」
「千陽の嘘なんて、お母さん楽勝で見抜けるわ?千陽が本気な事くらい、目を見ればわかる。とてもいい目をしているもの」
くすくすと笑って私の頬を指でツンツンしてくる。
はぁ、とため息が漏れる。
「…助けて貰ってるけど、それも明日で終わるんだよね。そんで終ったら自分の事は忘れて幸せになれ、だってさ」
「あら…初めての恋にしてはなかなかハードな展開ね…」
「だから私、治っていくのを素直に喜べないんだよね…。こんな事お母さんに言うのは失礼だけど」
「仕方ないわ。恋とはそういうものよ。幸せになりたいと頑張るんだから、他が疎かになってしまうのも、皆経験して知ってるから」
お母さんもそういう経験があるんだなぁなんて思いながら、前に比べて少しふっくらした顔を見つめる。
「でも、終る事が怖いからといって努力をやめるのは駄目。諦めてわざわざ希望を捨てるなんておバカさんがする事よ。それだけ運命的な出会いをしたんだから、ずっとしつこく願っていればいい方向には行くはずなの。そう簡単に人のつながりは消えないわ。だって」
「「“運命の歯車は、常に周り続けている。この世に生を受けている限り、外れる事は出来ない。巡り合う運命しかあり得ないんだ”」」
お母さんが言わんとする事に気づき、知っているセリフを漏らすとハモってしまい、お互いの顔を見合わせる。そしてどちらからかプッと笑ってしまった。
「でしょ?雪夜が言ってたよね」
「あら千陽も分かっているじゃない。さては惚れたわね~?」
そんな事はないと顔を逸らすと、お母さんの手は私の手の上に重ねられた。
両手で私の手を撫でて、ぎゅっと握った。
「千陽が頑張って、もがいて、それでもどうしようもなくなって辛くなったらお母さんに相談しなさいね?私の娘が不満なのかこのやろー!って怒ってあげるんだから」
「あははっ。お母さんがこのやろーって…!そ、だね…っ。その時はお願いするね」
あまり聞かないお母さんの乱暴な言葉に思わず笑った。え?変?とキョトとする様がまた笑いを誘う。
「それにしても千陽ったらなかなかときめく恋をしているわね!呪いを受けたお姫様は王子様のキスで目覚めた!こういう展開お母さん大歓迎よ…!」
「げ!?なんで知ってるの!?」
しまった!と口をつぐんだ時には遅かった。お母さんの目がキラリと光る。
どうも私は口が滑る運命にあるらしい。
「いやあん千陽~!それはもうラストは『そして2人は末永く幸せに暮らしました』しかあり得ないんだから!お母さんそれ以外許さないわ!ああ、なんて素敵なの~!」
根掘り葉掘り聞かれ、(いや流石にぼかしましたけど!?)その度にツヤツヤしていくお母さんと、げっそりしていく私。
夜にやってきたお父さんは、そんな私達を見て首をかしげたのだった。
*
「ねぇ。ギィって何か好きなものってある?」
今日も飽きずに優しく頬を撫でるギィは小首を傾げる。その姿も可愛いとキュンとしてしまうのはもう末期ですな。
「服とか、アクセサリーとか!あ、食べ物でもいいよ」
「何故知りたい。必要か?」
「うん!すごく!」
明日ギィに会うときにプレゼントをしたいと思ったはいいが、男の人の趣味なんて分からないし、ましてや異世界の、その上竜ときたら日本の全女子もお手上げなんじゃないだろうか。それにお母さんが味方についたから、堂々と用意してもらえるから是非教えて欲しい。
明日で終わるならいい女としてその記憶に残りたい。ていうか喜ぶ顔が見たい。本音を言えばそれで揺らいで延長されないかなと思っている。物で釣ろう作戦なのだ。形振りかまってられないのだよ!
「…特にはないな」
やっぱそうきたか!予想はしていたけども!
まぁ…ギィってあんまり物欲ありそうには見えないしね。おっとりしているというか、ローテンションというか、だからギィらしいとは思うけど。
「我に何かくれるつもりならよいぞ」
「う」
「千陽のその気持ちだけでよい。気を使うな」
「…気は使ってないよ。私はギィに感謝しているの。だから形あるものでギィに伝えたいのよ」
気持ちではずっと感謝している。それはもう生まれて初めて、しきれないくらいに溢れて止まらない。私にドキドキを与えてくれたという事だけでも嬉しいのに。
絶対譲らない!という意気込みをかけた顔をしていると、それが伝わったのか少し唸ったかと思うと頬を伸ばされた。
「いひゃい」
「では千陽が好いているあのプリンがよい」
「え!そりゃ食べ物でもって言ったけどそんな210円のプリンで済まされないよ!?」
「済む事だ。それ以外は受け付けん」
さっきとはうって変わってのギィの横暴。というか唇をつんと尖らすな!し、死ねる!思わず視線を逸らした。
そうして速攻で陥落した私はプリンを持って行く事にした。納得いかないが、こうなったら量で勝負するしかない。お母さん、出世払いでお願いします。
「そう言えばギィはずっとこんな崖?にいるの?他に仲間は?」
ようやくこの状況に慣れ気持ちに余裕を持って周りを見回せた私は、自分達がいる場所に少し肝を冷やす。
今までギィの顔と、その寄りかかっている木とその葉しか見えていなかったが、反対側にちらりと見えるのは開けた空間にぽっかりと浮かぶ空。そりゃあ風を感じるわけだ。
「ここはよく空が見える。そして千陽の気配をよく感じられるから我はこの地に決めたのだ」
「決めた?」
「ああ、休む時にはこれ以上の地はない。我は長い事ずっとここにいたら、昔の仲間が今どうなっているかは知らぬよ。我の事よりも千陽の話を聞かせてくれ。ずっと知りたかった」
目を細めうっそりと微笑んで話を切り返してくるから、思わず心臓がはねた。
私の話を聞きたいって、言う事は、多少なりとも私を知ろうとしてくれているわけで、今日の治療が少し延びたというわけで。
私は過去の記憶を必死で引っ張り出し、ブランクがあるせいで話術スキルがおぼつかないのに泣きそうになりながら余計な事は省いて面白おかしく話した。
幸いギィの笑いの沸点は低かったので、スベって美貌の彼にドン引きされるような事がなくてホッとした。でもギィさん。転んで鼻を打って鼻血が出たくらいで笑えるのね?箸が転げても笑える年頃なのかしら。
そうこうしているうちに、青かった空は赤く染まり、森がざわざわと鳴り出した。
「こっちの世界で夕日って初めてかも」
「ああ、そういえば千陽がこの時までいるのは初めてだな。見るか?」
「うん!見たい!」
分かった、とギィは私を抱えたまま少し身体をずらし、私の顎を持って夕日の方に向けてくれた。
視界いっぱいに入る夕日に、言葉が出なかった。
日本のものとは違い、凄く大きい。その距離の近さに少し怖くなったくらいだ。
視界に入る限り真っ赤な光を注ぐ夕日の周りは何もなく、動物もいない。森が少しざわついているだけ。
それはまるで、今この世界にいるのは私とギィだけのようで。
そんな乙女ちっくな思考に持っていけるくらい、私は感動していた。
「よく見えるだろう?」
「うん。凄い。感動。ああ、どうしよう涙が出てきた。ごめんギィ」
ぽとぽととギィの腕に涙が落ちてしまう。
「…千陽?どうした、泣いているのか?」
くい、と顎を戻され視線を合わせられた。流れる涙は止まらず、唇を寄せるギィに吸い込まれていった。なんか照れくさくて笑ってしまった。
「なんか止まんない。こんな凄い景色あっちにないよ。これを見たのはあの世界で私だけだよ。綺麗で、感動した」
「ふ。気に入って貰えてよかった。しかと目に焼き付けていってくれ」
「うん、焼きついてるよ。だってこんなに真っ赤だもの。きっと私の目も真っ赤になってギィと同じになってるよ」
くすくす笑うと、唇が合わされた。ちゅっと音をたてて離れると真紅の瞳に覗き込まれる。
「千陽が我と同じ、か。可愛い事を言うと帰してやりたくなくなる」
「別に帰さなくていいのに」
口からするっと出た言葉にしまったと思った。ギィの眉が苦しげにひそめられていた。出来るものならしている、と小さく聞こえたかと思うと右手をとられた。親指で手のひらを撫でられたかと思うとそこに口付けを落とされた。
手のひらのキスは、懇願の意。
だけど私の応えは待っていない、と思う。きっと覆るような事はないんだろう。そのまま私の右手をゆるく持ち上げたのを感じながら、ギィの目を見つめて思った。
「今まで幾千の陽の満ち欠けを見てきたが、千陽と居る今日のは違って感じるな」
ギィの視線を逸らされる事なく右手に口付けていく。指先に触れるギィの熱に、泣きたくなった。離さないで、そのまま時間が止まってくれればいいのに。傍にいられないならせめてもう少しだけ。
それでも無情にも口付けは左手にうつり、指先の感覚が戻る。
重かった上半身は軽くなり、離れていくギィを追いかけるように私は手を伸ばした。
ようやく触れる事ができるのだ。
「ギィ…!ありがとう…っ」
嬉しい。
けれど、やっぱり純粋に喜べないふしもある。
治療は終わりを意味しているし、目の前のギィの顔色が悪い。大丈夫?と両手で頬を覆うとその上から手を重ねられた。
「…触れてくれるのか、千陽」
「当たり前じゃない!何を今更…ギィは私の何を見ていたのよ…!」
好き好きオーラ出まくりだったと思うんだけど!?気づいてなかったとはかなりの天然だったって事!?
なんか悔しかったからギィの上に跨いで座り直し、がしっと顔をつかんでその形のいい唇にかぶりついてやった。
人間追い詰められると何でも出来るものだよ。
驚いたのか、身体をビクリと強張らせるギィ。それがなんだか可愛くて嬉しくてにやにやしてしまう。
唇を放しこつんと額を合わせると、息を吹き返したギィが私の頭をつかみ、お返しとばかりに口付けてきた。
「…すまぬ、千陽…。今宵だけ、我の事を…、証を刻ませてくれ―――」
荒々しく、唇を蹂躙するかのようなキスに、私は歓喜した。
首に手を回し、もっともっととねだった。
回した手に絡みつくギィの長い髪はサラサラで気持ちがいい。
広い背中は程よく筋肉がついていて滑らかだ。
私をいつも包んでくれる腕は太く、鱗の隙間に爪を立てるとギィが低く呻いた。
着物から覗く胸板は、トクントクンと心臓の音が響いて温かい。
ギィの事を忘れないように、
ギィの事を覚えるように、
口付けが続く間彼を求め続けた。
息が苦しい。
言葉が飲み込まれる。
沈黙が永遠に続くかのように。
それでよかった。
今はさよならの言葉は聞きたくない。