2日目、久しぶりの会話をする
私の身体が異変を起こしたのは今から8年位前。私が18歳の頃だった。
ある日、いつも通り友人と学校帰りに寄っているルヴォワールというケーキ屋で品物を選んでいる時、突然足が動かなくなった。ショーケースに派手にぶつかって転んだ為、友人にふざけてるの?と言われたのを覚えている。
マヒとかそういう動かなさじゃなかったからその場で病院へ運ばれた。だけど無言で回され2件目の病院も、診断結果は「分からない」。なにせ筋肉も神経も細胞も何も異常が見当らないのだ。
ただ、それが動かないだけ。
そんな私の事を両親はそれはそれは手厚く世話をしてくれた。車椅子で学校に通う事ができ、なんとか卒業証書は貰ったものの就職進学は難しかったので、自宅で内職をはじめた。
周りの皆が私を丁寧に扱ってくれるお陰で取り乱さないのかなと思っていたけど、そうでもなかったと気付くのが翌年腸と胃が立て続けに機能しなくなった時だ。両親が泣き崩れていたり、友人が憐れみの目でこちらを見ていたり、他人が奇怪なものを見るような目で見てきたりするのに対し、何も感じなかったからだ。
ご飯も食べずに済み、排せつもなくなった私の身体。うん、人体の構造的に大部おかしくなっているとは思っていた。
でも別に私は悲しくはなかった。
ご飯も食べずに生きていけるとか凄いエコじゃないか。歩けない私が両親に迷惑をかけている分が浮いたとしか考えてなかった。
周りがああだこうだとはやし立てるのを、人事のように遠くから眺めている私だった。
そして手が動かなくなって内職も出来なくなり、私は病院に入った。治して貰えるわけではないけどそうした方がいいと言われたからだ。
幸いにも家は貧乏ではなかったので病院生活も続けられるのだ。日に日に憔悴していく両親を見る事が減る点ではよかったかもしれない。
そして次の年には言葉を発せなくなり、そしてまたあくる年には耳も聞こえなくなった。会話も出来なくなり筆談になる。「イエス」「ノー」だけの会話はなんて味気ないのだろうと、視線の先にある書かれた文字を見て思った。
最後の砦として残っていた視界が徐々に狭まり暗闇に包まれる時、最後に見えたのは両親が涙を流しながらこちらに向って何か喋っている姿だった。
なんでこうなるのかはよく分からないけど、ごめんなさいと心の中で謝った。
だって、やっぱり私は悲しくはなかったから。
そして私は沈黙する。
物言わぬ石となる。
世界の総てを遮断された私は、毎日を生きているのか死んでいるのか分からず、ただただ止まらない思考を流しておくだけだった。
好きな音楽を思い出したり、小説を思い出したり、たまに創作活動もしたりでかなり一人遊びには長けたと思う。でも圧倒的に眠っている時間が多かった気がするけど。比較する術はないから断定は出来ない。
そんな私の身体を周りの人がどう扱っているかは分からない。ドラマとか小説とかだったら解剖して研究されてって…そこは悪いようにしていないと信じるしかなさそうだ。
ピッ。ピッ。ピッ。
久しぶりに聞こえる電子音。
規則正しく鳴る音が私が病院にいる事を教えてくれる。
そしてガラッと扉を開ける音がして私の近くで座る気配がする。私の耳が聞こえているようになっている事など、相手は知らない。会話は持ちかけられなかった。
歩く靴音、服の擦れる音、呼吸する息遣い、外の闇の音、全てが鮮明に聞こえる。
部屋は静まりかえっているが、音の洪水が私に流れ込む。
耳をすませているとその人が近づいて額を撫でる感触があったが、冷蔵庫に何かを詰めてから部屋を出て行ってしまった。時間にして3分位じゃないだろうか。早い。迅速だ。何か喋ってくれよ折角の第一見舞客だったのに。
それからしばらくするとまた扉が開いた。
「入るわね、千陽」
この声はお母さんだ。何年振りだろう、その声に心が震える。先ほどの件があってか、思っていたより寂しく思っていた事に気付いた。
「よかった、今日も元気だな、千陽は」
お父さんが私の頭を撫でる。私は元気らしい。少し荒れたゴツゴツの手が、何度も撫でる。それが温かくて心地よい。
「あら、今日もまたいらしてたのね。千陽の好きなルヴォワールの木苺のプリンだわ」
なんですって!そんなのあるの食べたい超食べたいんだけど!くそう、なまじ耳だけ聞こえるようになると変に辛いぞこの状況。
私は無類のプリン好きだ。コンビニから専門店まで食べ比べをするのが趣味なくらい。毎日プリンでもいいくらいだ。きっと前世から受け継がれたんではないかと思う。いやむしろプリンだったのかもしれない。それくらい大好きだ。
そして私が選んだベストオブプリンが『ルヴォワール』の『木苺プリン』。あそこのプリンすっごく美味しいんだよマジで!何気なく一度ふらりと立ち寄った時に食べたんだけど、それからは虜になって通いつめ、常連の域に達した。学校帰りに買いに行く時にはもうだいたい残り僅かで、運が悪ければ目の前で売り切れる。
そんな大好物の木苺のプリンを買ってきてくれた先の見舞客様。私が元に戻ってもその習慣は続けていただきたい。
「早く戻っていらっしゃい、千陽。いつまでも待っているわ、私達の可愛い子。じゃないとプリンはお母さんがずーっと戴いちゃうわよ?」
そんな殺生な!!私は叫んだ。それはもう切実に。心の中で。くすくす笑うお母さんの笑顔が浮かんでくる。俺も食ってやるとお父さんがのっかってくる。成る程どうやら娘を怒らせたいらしい。
それから2人は一日の出来事を私に話して、私の身体を拭いてから部屋を出て行った。
聞こえているよ、と教えてあげられるのは次の機会になるみたいだ。
あの声の主が嘘を言わなければだけどね。
*
「返事を聞かせてもらいたい」
ふわりと凪ぐ風と共に知ってる声が降ってくる。
そして耳に感じたあの温もりが口に当てられた時、そこから甘い感覚がいっぱいに広がり、涎が口を潤した。
「っ、はっ、ぁっ」
数年ぶりに開いた口は水分が足りず、声にならず掠れた息のようなものしか出なかった。お礼を言いたい。この素敵なお方に。
澄んだ空気をいっぱいに入れても暫く呻いていた。久しぶりの口呼吸に慣れて落ち着いた時に、顎を押され開いた口が何かに覆われ、冷たいものが流れ込んできた。
「少し果汁を含むがいい」
至れり尽くせりで本当申し訳ない。まだいるかと聞かれたので舌を少し動かして気持ちはカモンと返事をした。伝わるのかどうかは知らない。
だけど再び覆われた口から流れ込んでくる果汁が甘くて口の中に広がっていくので伝わったようだ。それを堪能しているとちゅっとした音がして覆われていたものがなくなった。
ちゅ?
ちゅって…まさか…。え。アレ?アレの事?え、で、でも…そんなんうそでしょ!?でもアレしか考えられないんですけど!?
「ふ、まだ足りないのか。まだ物欲しげにひくついている」
「ひょ、ひょんにゃひょとにゃひーっ!」
第一声がなんとも情けない否定の声になってしまったのは、誰にも言うまいて。むせてゲホゲホと呻く私の耳にくつくつと低く笑う声が聞こえてくる。すいませんねキスなんて幼稚園以来のものなんで耐性ないんですぅ。あれはキスにカウントはしなくていいだろうけど。
ああでも凄い。私の声が戻っている。本当に、この人は神様なんだ。
「あり…がと、ござます。声、出る。貴方、お陰。感謝、してます」
久しぶりに使う喉は案外痛くて、単語を並べるだけになってしまう。
ちゃんと声が出せているのを確認しているのか、神様の手は私の唇をなぞっている。
「気にするな。我が自分の為にしている事。主は受けとってくれればよい」
「私、千陽。名前。貴方、教えて?」
主、と呼ばれるのはもぞもぞするので、そう言えば名前を教えて欲しいと言われていたのを思い出した。
「千陽、か。良い名だ。」
生まれてから今までずっと呼ばれ続けていた自分の名前なのに、この人の声で呼ばれると違うものに聞こえる。心が身体が、全身で喜んで湧き立つ感じがする。
「我の名はギィと」
「ギィ」
「そうだ」
耳元でふっと笑う息が当たる。子供によく出来ましたと褒める親のように優しい声。
「ギィ」
「どうした」
「ありがと、声」
「それは先刻聞いた」
「耳も」
「ああ」
「一緒、いる、約束。はい」
「…こちらから問うておいてなんだが、信用しすぎではないか?我が何者かなど質問してはどうだ、その為に口を聞けるようにしたのだぞ」
呆れた声色になる。
そうだろうか?質問するまでもなく私の中でイイ人認定なんだから、別に構わないと思うんだけど。
「ギィ、だいじょぶ、一緒、安心」
「そうか」
段々喉が渇いてきて、それに久しぶりに顔の筋肉を使ったから疲れてきて話すのも億劫になって、口が閉じていく。聞きたい事はあるけど、叶わない。それなら優先的に感謝の言葉と約束の是を。
そんな私を汲み取ってくれたのかギィは私の頭を撫でてくる。
「もうお休み、疲れただろう。また明日にしようか」
頭を撫でる温もりがなくなったと思ったら、私は眠りに落ちた。