そして夢から覚める
私は石になっていった。
だけど恐ろしくはなかったの。
とても愛しかっただけ、
愛しい人と離れる事が何よりも―――
「ほら千陽、泣かないの」
優しく私の頭を撫でる感触に、意識がハッキリしてくる。温かいその手のひらにすがりつきたい。だけど身体が重くて手も動かせなかった。
「…ぉか…さ…。…かない…、身体、動けないよぉ…」
「大丈夫よ、もう治っているのよ」
「嘘だ…嫌だよ…。無理だよ。ギィがいないなんて…そんなの嫌だ…怖い…っ」
「大丈夫、目を開けてもずっとあなたのそばにいるわ。そういう人なのでしょう?」
子供が駄々をこねるように泣きじゃくる私にお母さんはずっと傍にいてくれた。
頑張ったね、と言ってくれた。
違う、ギィが頑張ってくれたんだ。私は何もしていない。それが悔しくて、腹が立った。
そしたらまた涙が出て来て益々お母さんを困らせてしまった。
*
「では、今日までありがとうございました」
数年間お世話になった病院の前で、主治医と看護士さん達に頭を下げる。白衣を来た人が沢山並んでいて、なんか気恥ずかしくなる。
「こちらこそ元気になってくださりありがとうございます。これから何かと大変な事があると思いますが、間違ってもトンボ帰りなどしないようにお願いしますね」
先生が冗談交じりにそう言って右手を差し出してきた。どっと周りがわく。両親も友人も、看護士も皆本当にねと言って笑っている。
私は恥ずかしくなってバッとその手を握ってブンブン振って離してやった。
「それでは」
私はお父さんが運転する車に乗り込み、発進すると窓を開けて手を振る。傍にいた麻衣と詩織が手を振りながら叫んだ。
「落ち付いたら遊ぼうねー!合コンとかセッティングしてあげるからさー!」
後部座席のシートで思いっきりスベってしまった。このやろ…お父さんもいるっていうのにあんなおおっ広げに…!行こうとしても行きづらくなるじゃないか!
はぁとため息をつきながら窓を開けて手を振る。まぁもう少し待って欲しいけどね。
窓を閉めると車の中ではお父さんの好きなジャズが心地よく流れる。
「お母さん。ありがとう」
「何?」
「気を使ってくれてたんだよね。本当は腸じゃなくて子宮だったんでしょ?」
息を呑む声が聞こえる。
恐らくはこんな不自由な事になって、更に子宮が活動停止して子供が産めない身体になったという追い討ちをかけまいと配慮してくれたのだろう。
「大丈夫。もう正常らしいから孫産めるよう頑張るよ」
にへっと笑うと、振り向いたお母さんも早めだと助かるわ笑った。お父さんはまだダメだと拗ねた。
町中を走る車から流れる景色をぼんやりと見つめていた。
今まで育ってきた町なのに、新しいものを見ているようで不思議な感覚だった。
古ぼけた商店街も、小さな公園も、雲ひとつない青い空も全然見ていなかったようで、知らない町にいるような感覚に陥る。
この町で、この世界で生きていく為に、それを一つ一つ記憶するようにじっくり眺めた。
家に帰った私は、両親が働く事を許してくれなかったのでニートという職についた。
いくらなんでも妙齢の私に甘やかし過ぎだと言うと、『今まで一緒にいれなかた分一緒にいるの』と言われた。病室で会っていたと思ったけど、そういう意味合いじゃないと気づいて頷いた。
ご飯を一緒に食べ、ソファに座ってテレビを見て、何気ない会話をして。ただそれだけなのに両親は凄く嬉しそうな顔をしていた。
両親が働きに出ている間、大半は部屋でネットをしているか本を読んでいるかで、ふとした瞬間に溢れてくる涙に気づくと外へ出かけた。
青く空が見える場所までひたすら歩く。思考が暇を持て余すと、あの夢のような甘い8日間が、立ち上がって前へ進もうとする私をぐちゃぐちゃに溶かす。
「…私もう恋愛出来ないね。ギィみたいな人絶対いないよ」
最初の恋がこれでは、果たして次が来るのだろうか。
「病院にいた時より酷い顔してるってどういう事なの」
退院して1週間後に家に来た麻衣が、私の顔を見るなり言った。
詩織は『はい、これ』と言って鞄の中から栄養ドリンクをそっと差し出してくれた。…あれは可愛いポーチの中に常備しているものなのか?
苦笑交じりにそんなに酷いのかと顔に手を当てながら言うと至極真面目な顔で2人で頷いてくれた。
夢の中の人に会えなくなったと、笑わず疑わず聞いてくれる2人に話すとまた勝手に涙が出ていく。
ごめんと謝って涙を止めようと思っても感情の制御が出来ず、暫く2人の前でぐだぐだと泣き続けていたら仕方ないよと言われた。
「今までの分のしわ寄せがきたんだ。思う存分垂れ流せばいい。そしてスッキリしてから次へ進みな」
人生も恋も、と。
『その前に、とりあえずまずは友情を育もうか』という麻衣の言葉通り、その日から時間が空くたびに私の家に来たり、外へ連れて行ってくれたりしてくれた。
手持ちが少なく(というか無職だからお小遣いだよこの年で)外出に渋る私に、持ち前の男らしさを発揮して文句言わずついて来い!と肩を抱かれれば後はされるがままだった。
ショッピングセンターや遊園地、カラオケや映画。思いっきり笑って、はしゃいで、くたくたになるまで遊んで家に帰る日々が楽しかった。
心の底から楽しめている。
そう感じて足取り軽く家に帰り、両親と顔を会わせて少し会話をしてから一歩自分の部屋に入ると、高ぶっていたものが一気に醒めてしまう。
部屋の黒い闇が私の目の前を覆う。
その度にまだ燻る想いに泣きたくなり、暫く立ち尽くしてしまう。
「…ギィ…」
退院して1ヶ月近く経った今も、まだ口から零れ出る名。
思っている以上に凹んでいる。そして思っている以上にしつこい自分に失笑する。それをお母さんに言ったら、
「初恋なんてそんなものよ。飽きるまでずっと引きずっていていなさい。お母さん怒らないから」
と言われた。…理解ある母でよかったものだ。
でもね、このポッカリ空いた気持ちはどうすれば埋められるのかな。
今度はその理由もしっかり知っている。
この虚しさにあとどれ位耐えれば乗り越えられるのか。
教えてよ、ギィ。
よく聞こえる耳も、遠くまで見える目も、貴方を捉えられないの。
魔力も、飛ぶ為の翼も、敵を切り裂く爪もないただの人間が、失った貴方を戻せる術などないのに。
平日の散歩は最早日課になっていた。
毎回違う道を歩いて、新しい情報を仕入れて少しでも頭の片隅に寄せようと必死だった。
どれくらい歩いただろうか、気づけば今まで辛くて避けていたルヴォワールの店の前に立っていた。
看板を見るだけでヤバイ。涙腺の元栓はどこか捨ててきたのかというくらい簡単に溢れそうになる。
そしてあの日の風景が断片的に思い出される。
大好きな木苺のプリンを選んで、店員さんにオーダーをとってもらって、足が動かなくなって麻衣に冷たく言われ、成瀬さんに救われる。
そんないつもの風景だというのになんでかひっかかる。まだ何か封印されている記憶でもあるというのだろうか。
ぽろりと一滴落ちてしまい、その記憶は気になるが目を覆って店の前から去ろうと踵を返すと、店の中から声をかけられた。
「千陽ちゃん!千陽ちゃんじゃないか!久しぶり!ってあれ逃げないで!」
聞き知った声に振り返ってみれば、いつの間にか目の前に成瀬さんがいてこちらを覗きこんでいた。その近さにドキッとしたけど、ドキドキはしない。…あれ、おかしいな…?あ、そりゃそうだ、彼はギィじゃないんだしね。
「…成瀬さん、お久しぶりです。退院後初のルヴォワールです。散歩していたらいつの間にかここに着いていました」
へへっと笑うと、驚いたように目を見開いた成瀬さんに肩を掴まれ揺さぶられた。
「え!?じゃああいつとは会ってないの!?」
「え?あいつって誰の事ですか?」
私が聞き返すと成瀬さんはあー、と顎に手をやりはぁあと大きなため息をついて「あの馬鹿が」と舌打ちをした。癒し系が盛大な舌打ちをしたのにビックリしていると、さっきのはなんだったのかという位爽やかな笑みを向けてきた。
「千陽ちゃん、プリン食べるかい?」




